社畜の末路
パソコンに向かうこと12時間。俺こと黒江透は今月も残業三昧だった。
今日はみんな大好き金曜日。家に帰ったら、観たいアニメや消化したいゲームが山ほどある。なので、終電までには仕事を終わらせて帰りたいところだ。
「――ふぅ。この調子なら久しぶりに間に合うかな」
事務所から最寄りの駅まで歩きで約10分程だ。
22時までに仕事を終わらせることが出来れば、社内の戸締りをしてからでも終電には余裕で間に合うだろう。
現在、事務所には俺以外誰もいない。ということは、仕事を押し付けてくる者もいないということだ。
久しぶりに、今日中に家に帰れるかもしれない。
そんな淡い期待を膨らませながら作業に集中していると――。
「――今日も精が出るねぇ、黒江君。はいこれ、コーヒー」
とん、と俺の机の上に缶コーヒーが置かれた。
上司の長谷川課長だ。外回りに出ていて、今帰って来たらしい。
「……長谷川課長。ありがとうございます。今帰りですか?」
上司が部下に缶コーヒーを差入れる。傍から見れば部下を労った行いに見えるだろうが、実際のところそうじゃない。そしてこれが、いつもの合図だということを俺は知っている。
「ああ。少し遠くまで出ていてな。長旅で疲れているんだ。というわけで――」
長谷川課長のいつものやり口だ。先にコーヒーを奢っておいて、断りづらくする。仕事を他人に押し付けるためのくだらない手段だ。
「――すまないが、来週の月曜日の朝までにこの分を済ませておいてくれないか。大事な取引先で使う資料なんだが如何せん数字の整理が終わっていなくてね。なに、ここに書いてあるモノを並べ替えるだけでいいんだ。優秀な黒江君なら楽勝だろう?」
そう言いながら、長谷川課長はファイルを俺の机に置く。
とても分厚い。1時間やそこらで終わる量ではなかった。
さらに、期限が来週の月曜日の朝ということは、今日か休日である土日にやるしかない。
長谷川課長はそれを判って言っている。この上司は、そういう男なのだ。
「またですか……」
こういうことは一度や二度じゃない。というか日常茶飯事だ。
しかし、長谷川課長だけではない。仕事を俺に任せて帰宅している奴なんて、この事務所には大勢いる。それが当たり前になっているのだ。
「仕方ないだろ? 俺は明日、妻と娘と用事があってな。何たって土曜日だ。家族サービスをせにゃならん。その点お前は独身だから、休日に家に帰らなくとも問題はないだろう?」
したり顔でそんなことを言い始める長谷川課長。
なんでそんなに高慢な態度がとれるのだろうか。
上司だからか? だとしたら、本当にくだらない話だ。
「…………」
しかしだ。そんなことはもう、どうでもいいのだ。
俺は既に諦めている。なんというか、人に頼まれたら断れない性格なのだ。昔からそうだった。学校の掃除当番も日直も、頼まれたら断ることなんてしなかった。そういう性だから仕方がないのだ。周りから面倒事を押し付けられる損な役回りが、俺という存在の運命なのだから。
「……わかりました。私がやっておきます」
ため息一つ。
俺はほんとにダメなヤツだ。いつもながらそう思う。
本当なら断るべきなんだろう。勇気を出して文句の一つでも言ってやるのが普通の人間のすることなんだと理解はしているのだ。
でも、それが出来ない。
いつかは、いつかはと思いつつ、もうこんな歳になってしまった。
変われるのなら変わりたい。そうは思うものの、きっかけがないのだ。
兄弟も友達もいない。両親は交通事故で死んだ。天涯孤独の身で、俺はこの先何のために生きていくのか。こんな俺のことを本当に慕ってくれる人なんて、この先もきっとできないというのに。
――でも、もし。
そんな人ができたのなら。
俺はきっと、その人のためになら本気で頑張れると思う。
「じゃ、任せたぞ」
――バタン。
長谷川課長は何の躊躇いもなく帰宅した。
薄暗い事務所の中に1人だけ取り残された。
パソコンと空調機器の騒音だけが空しく鳴り響いている。
「……がんばれ、俺」
自分に言い聞かせ、作業に再度没頭する。
それから何時間が経ったのか。
俺は無我夢中で仕事を片していった。
――そして、それからしばらくして。
黒江透は誰からも気づかれず、事務所の中で一人寂しく。
過労による急性心不全でこの世から去るのだった。