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Case4.怒りと驚きと嘆き②

 いつしか竹房の背中は雑踏に紛れて見えなくなってしまっていたが、自分自身の視線を元に戻すことは出来なかった。


 道のど真ん中で立ち尽くしている俺を何人もの人々が訝しむような顔をして通り過ぎていく。答えを探しに少し遠くに足を運んだつもりが、変わり果てた知り合いの姿を見て思考が停止してしまっていた。


 まるで自分だけ時間が凍り付いてしまったかのようだ。一体、竹房に何があったのか。春の太陽の下で揺れる色鮮やかな花々のような印象を感じた彼の柔らかな笑顔が、花弁を焼き尽くし燃え盛る焔のような激しい怒りで塗りつぶされていた。


 まだ長くない人生経験のなかでも、あれほど感情を露わにするようなことは見ることは無かった。俗に言われている『キレている』姿は学生という身分である為にそれなりに見てきたと思う。だが、あれは学生が抱くものとは根本的に違うものだ。


 視線で射殺し、握り締めた拳で粉々にし、踏みしめる足で踏み潰し、食いしばる歯で喰らい尽くす。視界に入るありとあらゆるものが許せない何かに見えるような、喜怒哀楽の『怒』を純粋に突き詰めたような感情を初めて目にした俺は、獣の牙に貫かれる直前の小動物のように立ち止まっていた。


 今日の日付は8月5日。見ることの無い左腕に付けられた銀色のデジタル表示式の腕時計は午前11時22分を示していた。天気予報では今日の最高気温は36度。ここ数日と同じ酷暑の一日になる予定だ。真夏の太陽から放たれる突き刺すような高熱と紫外線が俺を含めたこの地表の上にいる無機物有機物関係なく、全ての存在に照りつけていく。都会のビルとビルの隙間に流れるぬるりとした湿度の高い風と相まって、まるで低温サウナの中にいるような気だるい暑さに全身の汗腺が開き、全身から汗が止まることなく流れ続けていく。それでも、汗腺から流れ出る汗のうち殆どが冷や汗に近いものであった。


「もーし」


 背後でビル風と喧騒に紛れて小さく声が聞こえたような気がしたが、周りのノイズにほとんど掻き消されてしまった細い声を空耳と思ってしまった俺の視線が動くことはなかった。


「もーしもーし、聞いているのかね。そこな少年!」


 先程より大きな声。これは空耳ではないことに気づいて慌てて振り向くと、俺のすぐ後ろに女性の姿があった。年齢は少し年上だろうか。鮮やかな紅に染められた少し短い髪の毛はパンクロックの熱心なファンのような――俺の住む田舎ではまず見ることのない派手なもので、奇抜な印象を感じてしまう。


 その肉体を包むのは腰から下のラインがはっきりわかるような黒いレギンスのパンツと鮮やかな色をしたキャミソールといい、山石さんが夜の空に静かに煌めくような蠍の心臓だとするならば、燦々と激しく輝く真夏の太陽のような、まさしく正反対ともとれる目の前の女性の若干ハスキーな声に、先程まで竹房の怒りに圧倒されていた身体が軽くなり、止まっていた時間が流れ出したような感覚を覚える。

 

「こんな暑苦しいところでヌボォーっと突っ立って。そのうち脳みそ茹だってしまうぜ? 熱中症にでもなったらどうすんのさ。 どうせ立つんだったら、日陰とか夜とかにしなヨ。今よりは、ずっとマシさ」


 そんな俺のことなど露知らず、女性は怪訝そうな顔をしながら俺をゆっくりと覗き込む。よく見ると、目の前の女性は非常に整った容姿をしていた。何もかも吸い込んでしまいそうな大きな瞳に、唇に薄く光るルージュは肉感的で。そして薄手の服装からわかるグラマラスさもあり――そういえばこんな距離で知らない女性に凝視された経験があまりない為に、俺は少しだけ目を逸らしてしまう。


「は、はぁ。すいません。少し考え事をしてました」


 流石に『知り合いの激しい怒りを見てしまって硬直してしまいました』なんて会ったばかりのよく知らない人に言えるはずもなく、変にはぐらかした答えをしてしまう。それを聞いた瞬間、女性の右の眉が少し吊り上がった。まるで弟の嘘を見つけた姉のような表情に、思わず心臓が跳ね上がる。


「はぁ、じゃないよ全く! この辺でひっくり返られると、縁起が悪くなるじゃあないか」


 ぷくりと頬を膨らませ、わざとらしく怒っている。だが、その表情はやはり弟を叱る姉のようなもので、どこか優しさのようなものを感じる。先程まで見ていた竹房の純然たる怒りとはベクトルが全く違う怒りの表情だ。思わず口角が上がりそうになるが、それを見られるとなんだか面倒なことになりそうなので意志の力でなんとか押さえ込み、話を変えることにした。


「縁起? この辺で何かされてるんですか?」


 恐らく女性の頭頂部に動物の耳があったら、きっと激しく動いただろう。彼女の身に纏っていた雰囲気が微かにではあるが、はっきりと変わった気がした。


「んにゃんにゃ、夕方頃にね。暗ーく涼しくなったらこの先でお仕事なんだよ、『最後の最後』まで、ね」


 先程まで眉を上げていた女性の表情がくるりと変わり、夏の向日葵に向かって陽射しを伸ばす太陽のような明るく眩い笑みを俺に向ける。両端が上がったやや厚い唇から覗く白い歯がとても健康的に見えた。



「最後の最後……ですか。そうか、そうですよね、残りの時間は少ないけれど、やることは沢山ある」


「そう! 世界に愛を振りまく大事な大事なお仕事さァ。あたしとあたしの周りを大きな愛で満たすンだ! 世界が愛に満ちてることを、最後の最後まで立証して解明して証明し続ける、それがあたしのお仕事!」


 俺の言葉の何処に琴線に触れたのか、スポットライトが照り付けるステージの上で踊る役者のように、軽快で楽しげなステップをしながらくるりと回る。俺達の周りを歩き続けていく多数の人達のことなどまるで認識していないかのように、くるくると。


 その姿は滑稽であるがどこか優雅で、荘厳であるが何処か軽薄で。しかし、それでもただただ美しかった。


 まるで今この瞬間、この場所こそが自分が主役のステージだと主張するかのように。このステージには自分しかいない、自分を見てくれと叫ぶかのように。


「愛?」


 意味がよく理解出来ず、思わず口にしてしまう。愛を振りまく仕事というと、若干如何わしいように気がするが、目の前でステップを刻んでいた女性がそんなことをしているとはとても思えなかった。恐らく、言葉の綾のようなものだろう。偏見でモノを見てはいけないのではあるが、とりあえずそう思うことにした。


「来ればわかるさ。来れば。強制はしないけれど、ね!」


 そう言って不思議な女性はわざとらしくウィンクをし、ひらりと俺の横を通り過ぎていく。彼女が身に纏っていた香水の香りだろうか。仄かに熟れた果実のような甘い匂いが少し遅れて通り過ぎていく。女性はまるで夜空を駆け抜けて消えていく流れ星のように、一瞬で言いたいことをまくし立てた後に雑踏に消えていった。


「……で、あの人は一体誰で何時に何処で何をするんだよ?」


 独りで呟くが、街を歩く人達がそれを聞いたとして、意味を理解することは恐らくないだろう。誰にも届かぬ独り言は、ビルの壁にぶつかって太陽の熱に溶けて消えた。

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