父の発言
夜、部活終わりに剣が俺の家にやってきた。部屋にあげ、ウーロン茶を出すとごくごくと喉を鳴らして飲み込む。
剣の話した作戦はこうだった。
俺が青柳元プロ野球選手の息子だと公表する。そこで実力を確かめるためにセカンドで出してもらう。試合に出してもらうと、俺は剣にサインをしてリードを指示する。剣は俺が指示したリードの通り、東條さんにサインを出す。上手く相手の点を抑えて完璧にする。
完璧な作戦だと剣は鼻息を荒くしていたが、俺は剣の前に手の平を見せ言った。
「だから却下だ」
「なんで!」
「今の子は青柳元プロ野球選手なんて知らない。知っているのは現役選手の柳田だ」
「親父はずっと青柳選手は凄かったって言ってるぞ」
「第一父さんが居た球団は東京の球団で、ここは応援している球団が違うだろ」
地元民は所属している球団を応援することが多い。某県民の百パーセント近くは地元の球団を応援しているそうだ。
俺たちがすむ街も例外ではない。父の所属していた球団より、地元の球団を応援している人が多いと感じる。
中谷の親父さんも父のことを凄かったと言ってはくれるが、当時は応援なんてしてなかっただろう。偶々父が引っ越してきたからそう言っているに過ぎない。
つまり青柳文彦が後世に語り継がれるほど野球で活躍したかと言えば、そうとは言えないのである。
「選手生命も短かったし、俺だって父さんが野球してるのあんまり見たことないよ」
「いいんだよ。グーグルで調べたら出てくるだろ。それだけで十分だ」
「分かった。はっきり断ろう。父さんは元プロ野球選手だと知られたくない。平穏な一日を送りたいと思っている。そんなことで注目を集めたくない」
「なら違う計画を立ててくれよ。俺どうしても東條さんの球を受けたいんだ」
腕を組み、キャスター付きの椅子に腰かけぐるぐる回った。
違う作戦はあることにはある。だが、俺にとっても剣にとってもいいと思えない。
「ならさ」
「朋彦ー、買ってきたよ」
扉の前で父の声がした。そういえば、高校近くのスーパーで卵安売りしていたので頼んだのだった。はいはいと返事をすると、「誰か来てるのか?」と聞いてきた。
「剣だよ」
剣は立ち上がると扉を開けて父に挨拶した。人の良さそうな笑顔を浮かべ、剣に頭を下げる。
「こんばんは。晩御飯はもう食べたかい?」
「まだですけど。もう母ちゃんが作って待ってると思うので」
「そうか。まあ今日はゆっくりしていって」
「あー、いや、今日はこれで」
そう剣はいそいそと荷物を片付けだした。剣が動く度、汗と泥の匂いが漂う。
「剣くんはキャッチャーだったね」
「ああ、はい」
エナメルバックを肩に掛け剣は部屋の入口で立ち止まる。
「兄が中学校に入るとキャッチャーになってね」
「お兄さんがいるんですか?」
「まあ。頭のいい兄はキャッチャーが性に合ってたんだ。喜々としてリードを楽しんでたよ」
「…僕はそういうの苦手で。僕がサインを出して、球種もどこに投げるかも決めるのは投手。作戦をたてるのも監督に任せて、俺は点がとられないように守るだけで」
「そんなのキャッチャーじゃないよ」
きっぱりと言い切った父を見た。悪びれる様子も嫌味をいう様子もなく、純粋な意見を述べている。「父さん」ときつく呼ぶと俺を見て顔をハッとさせた。元気のない剣の顔にやっと気づき、否定するように手を左右に振っている。
「ごめん、剣くんを否定したとかじゃなくて、キャッチャーって剣くんが思っているよりずっと楽しいからもったいないと思って」
「向いてないのかな…」
ぽつりと呟くと剣は軽く頭を下げて父の脇を通り過ぎていく。
慌てて追いかける。剣は慌てる様子もなく歩いて階段を降り、玄関で靴を履く。
なんて声をかけようか。なんて言おうか。正直、剣はキャッチャーに向いていないと思う。ただでさえキャッチャーは頭を使うのに、頭の悪い剣がその役をこなせると思わない。
それは本人が一番わかっている。だから俺にリードをしてほしいと頼んだのだ。
「剣くんはなんでキャッチャーを選んだんだ?」
後ろから声がした。父だった。
「別に理由なんて」
「じゃあなんで中学校になってもキャッチャーを希望しているんだい」
剣は自分の左手を見た。俺には見えない何かが剣には見えている。
「あの時の…。文彦さんの投げたボールの感触が忘れられないから」
意外な返事に俺も父も目を丸くさせた。あの時とは、と答えを求めるように父を見たが父はただ微笑む。
「もし野球を続けたいのならそれは忘れてはならない感覚だ。大切にしなさい」
剣は唇を噛みしめ頷くと、深く頭を下げた。
ありがとうございますと剣は扉を閉める。
「父さんが叔父さんのこと話すなんて珍しいね」
「剣くんを見てると不思議と思い出すんだよな。同じキャッチャーだからかな」
「どんな人だったの?」
「一言でいえば頭がいい人だな。一流大学にも行ったし」
「父さんみたいに野球の道には進まなかったの?」
「兄さんは野球の才能はないって言ってたな」
ふーんと相槌を打つ俺の横で、父のお腹がグーっと鳴った。