第十三話 教会の異端者
ご覧いただきありがとうございます!
コルドバは、ムアッヒド朝の重要な軍事拠点としての顔と、爛熟したアラビア文化の発信地としての顔を持っていた。
豪奢な宮殿があり、二千人が一度に礼拝できそうな大きな寺院があり、街並みは、といえば白い漆喰を塗った美しい家並みが鐘楼から望めた。
フロラン・ド・ベッソンはトレド大司教特使として、コルドバ総督の宮殿に伺候していた。
正直に言えばこんなところへなど来たくはなかった。トレド大司教の命がなくば誰がこんなところまで来るか、と
フロラン・ド・ベッソンがトレド大司教特使に任命されたのは、単にアラビア語がいちばんうまいから、と言う理由に他ならない。アラビアの学術書を読むためにアラビア語の研鑽を続けていたのだが、こんな事になるとは思わなかった。
こう言う仕事は、何というか、苦手だ。フロランは学術書を研究しているのが楽しいという、学究肌の人間だった。交渉ごと、特に異教徒ととの交渉など務まるはずもない。
フロランは死さえも覚悟していた。
ただ、あまり苦しむような死に方は遠慮したいとは思っているのだが。
兎に角コルドバの総督が姿を現わせないと、どうにも居心地の悪い場所だった。
(いっそ総督が表れず、この宮殿から追い払われる方がずいぶんマシに思えるな)
などと考えていた。
やがて先触れが、コルドバ総督の到来を告げた。
コルドバ総督のウマル・イブン・アリーは大柄な男で、脂肪がたっぷりついている様に見えるが、惑わされず見れば、脂肪の下にはしっかりとした筋肉がついているのがわかる。サラセンの流儀らしく、長く伸ばした髭。だが、最も変わっているのはその目だ。まるで猫のような目をしている。黄色い目に切れ目の様な瞳孔が縦に裂けている。まるで砂漠にいる魔神の様だ。
サラセン人とはみな、このような瞳をしているのだろうか、と思わず周囲を見渡したくなったが、堪えた。
ウマルがクッションの上に腰を落ち着けると、フロランは両膝をつき、サラセン流の礼をした。
「総督閣下にはおかれましてはごきげん麗しゅう存じます。私めはフロラン・ド・ベッソンで御座います。此度はトレド大司教、ゴンザロ・ぺトレツの使者として参りました。願わくば、ご傾聴のほど、いただきとう存じ上げます」
ウマルはつまらなそうにナツメヤシの実を摘んで口に放り込んだ。
「お前の言葉は、この一粒のナツメヤシより価値があるものか。あるなら申してみよ。俺は今気分がいいからな、すぐに首を刎ねる様なことはせん」
その言葉にフロランはゾッとした。機嫌を損ねたとしたら首と胴体が離れ離れになる事を覚悟しなくてはならない。それは、正直恐ろしい。先ほどの心持ちは何だったのか。まったく己の心が忌々しい。
フロランはふわふわした気持ちで、ウマルに提案した。「トレド大司教は、もしある条件を受け入れてくだされば、今後百年、コルドバには手を出さないと、申しております」
ウマルは疑い深そうな目でフロランをみた。勿論猫のような目をしているので、見慣れなければそうとは気が付かないのかもしれない。
だが、フロランにはウマルの剣呑さはわかった。上手く説明せねば。
「誰か、そこの使者の隣に立て。合図をしたら首を落とせ」
そういうと一人の戦士がフロランの隣に立って剣を抜いた。
フロランの胸の鼓動が早まった。非常にまずい事態になった。何とか、ここを上手く切り抜けなければ。
「閣下におかれましては私めの言葉など、真に足りるとは思われないかもしれません。しかしこれにはいくつかの理由があるのです」
そう言ってどうやって百年コルドバを安泰するのか話始めた。
「カステーリャ・レオン王国がトレドを防衛したら、次はコルドバだと閣下はお考えでしょう。確かに肥沃な大地を持つコルドバは魅力的です。しかし、それをキリスト教徒に教える必要はありません。逆に、王国にとってはコルドバはそれほど旨みのある土地ではないと、そう思わせるのです。私が見聞記を書いて、カステーリャ・レオン国王陛下に奏上すれば、そのような判断を下すでしょう。それに、カステーリャにはもっと欲しいものがあります。ナバラ王国です。ナバラ王国の諸都市はカステーリャにとっては魅力的です。これでキリスト教徒の小競り合いが始まります。ナバラ王国はカステーリャより小さい国土しか持っていないので、ナバラ王国にはトレド大司教座より、ヨハネ騎士団を派遣します。これにより戦力がある程度拮抗するはずです」
と、フロランは説明した。緊張が声に出なかった所に、我ながら良くやったと思った。
「それで、コルドバの安寧が百年保たれるのか?いいところ五十年程度ではないか」
と、ウマルは疑念の声を発した。
「トレドの帰属をめぐって、諸国で内輪揉めが始まっております。少なくともカステーリャ・レオン王国は、カステーリャ王国とレオン王国に分裂してしまいました。カステーリャ王国は更にナバラ王国に目を向けるでしょう」
「ふん、まあいいだろう。ヨハネ騎士団とやらは必ず参戦するのだろうな」
「はい。大司教閣下が命ずれば必ず」
これはハッタリだ。大司教と言えどヨハネ騎士団への命令権は有していないし、騎士団の忠誠はローマ教皇聖下、そしてヨハネ騎士団長に向けられている。大司教が騎士団を動かせるとすれば、団長閣下に『お願い』をするしかない。
「それで。百年安泰にしてくれる交換条件はなんだ」
「はい。二週間前にコルドバに大火球が落ちたと報告は受けませんでしたか」
「ああ、あれか。あれなら余も見たわ。魂消たぞ、おかげで天文学者どもが今だに議論している所だわ。それで?その火球がどうした」
「はい。実は火球が落ちた日に、生まれた赤子がおります。その赤子を探して欲しいのです」
「どのような赤子だ」
「コルドバの近郊の村で生まれた男の子で御座います。名はおそらくユスタか、それに類似した名前かと」
「それだけ分かっていて探せんか」
「此処は閣下のお膝元故に」
「トレド大司教はコルドバでは自由に動けんか。良いだろう。探してやろう。捜索にはお前も加われ」
面倒なことになった、とフロリン・ド・ベッソンは思った。探索に加わることなど想定していなかったのに。しかし、自分が行かなければどの赤子かわからない可能性がある。
「それからな、お前が話していない事がまだあるな」
フロリンはどきりとした。上手くはぐらかせたと思っていたが
「お前達がその赤子がどうするのか聞いてなかったな」
「はい」
困った。この事はあまり大ぴらにはできないのだ。
単に大司教の信仰によるものなのだ。
ああ、こんな事になるならあれらの文書を翻訳して大司教に献などしなければよかったのだ。
アスクレーピオス作と言われている『ヘルメス文書』、アイン・アル・クダト・ハマダーニー作の『形而上的試み』、シハーブ・アル・ディーン・アル・スフラワルディー作の『霊智の贈物』。
これらを発見した時小躍りしたものだ。古代の叡智、サラセン人の神秘の信仰、自分の知りえなかった知識が認められて、それが手元にあると。
だから夢中でラテン語に翻訳した。完成した翻訳文書を大司教に献上したのが、今にして思えばいけなかった。
初めは、大司教は文書に感銘を受け、神との内的合一を目指していた。その祈りは真摯なもので私もこれで信仰が深まるなら、と文書を翻訳したことを誇らしくも思えていたのだ。
だが、内的合一を目指していた大司教も次第に狂気に侵されていった。
クリストスの第二の下降が起こり三十年以内に地上の王国が実現すると妄想し始めた。そして自らを洗礼者ヨハネに準え、新たなクリストスに洗礼を施すことこそが自らの使命だと思い込み始めた。
大司教と有ろうとも、その様なことを考え始めるなど異端者として回心させなければならないのだが。運の悪い事に教会内、特に大司教座で一定数の僧侶が大司教に感化され、異端の道に走ってしまった。
私にはどうすることもできなかった。いやどうすれば良いのか分からなかった、という方が正しい。
所詮、私は多少学問ができる庶民出の助祭で、これ以上位階も上がらず、図書に埋もれて死んでゆくだけだったのだ。
この世界にはかくも異端者が多い。グノーシス者、カタリ派、マニ教徒、ポゴミル教徒、ヴァルドー派。この中では、もしかしたらローマこそが異端なのかもしれない。
これだけ異端者が多かれば、大司教の異端言説など埋もれてしまうのは、道理な事だった。
いっそ、大司教の異端言説を全て話してしまおうかと思ったが、寸前でやめた。
コーランには、ノアの次のアブラハムの次のモーセの次のキリストの次のムハンマドが最後の預言者であって、ムハンマドの次の預言者は現れないとしている。
預言者がいない以上第二のクリストスが生まれるはずもない。こんな話をすれば、ウマルの機嫌が良ければ、ただの与太話で笑って済ませられるか、そうでなければ即刻首を刎ねられるかだ。そして確率的には後者が高いであろう。
それでウマルへの問いだが、前もって決めていたことを話した。
「その昔、大司教閣下の信仰が深まってなかった頃です。大司教閣下と恋仲になった女がおりました。結婚はしなかった様です。聖職者の戒めにより、当時は認められなかったので」
昨今の聖職者の婚姻は嘆かわしいものですな、と間に挟んだ。
ウマルは「続けろ」とだけ言った。
「そうしてるうちに女の方は妊娠しました。大司教閣下のご両親は平民でしたが、並の貴族など歯牙にもけけないほどの実力を持つ商人でありましたから、当然大司教閣下の醜聞は放っておくわけには参りません。其処で色々と画策したようでありましたが、上手くいきませなんだ」
ここで、一旦話を切った。水を所望すると、ウマルは不機嫌そうに水をフロリンに与えた。
「結局、女は大司教閣下の庇護の元に出産したそうです。生まれた事どもは女の子だったと聞いております。しかし、大司教閣下の将来を慮ってか、女は子供を連れて逐電しました。それはもう、大司教閣下の心のうちは如何程でありましょうや。しかし、大司教閣下の元にはそれから、年に一度か二度、女から手紙が届くようになりました。大司教閣下は、その手紙は自分の命と同じくらい大切なものだと、私めに、言っておられました」
と、水を飲み、続けた。
「ある時、文の文字が変わっておりました。大司教閣下の娘が書いた文字でした。恋仲となった女、娘にとっては母が亡くなったと、伝える手紙でした。それを読んだ大司教閣下は、即座に娘を自分の元に呼び寄せようとしましたが、果たせませんでした。当時の大主教閣下は司教に成られる下準備をしていたものですから、弱点となる子供の存在は秘匿しなければならなかったのです」
「下準備とはなんだ」とウマル。
「選挙のための根回しで御座います。ローマはいざ知らず、はらこの地では金子が飛び交うのは当たり前のことですので」
フロリンはと傍観者のような顔つきで答えた。
「坊主のやることはいちいち気に入らんな」
とウマルが言った。
「そして、大司教閣下は無事、司教になりました。今度こそ娘を手元に、と思っていた矢先、娘の居所が全く分からなくなってしまったのです。その時は生死すら分からなかったそうです。そうして何年も後悔しながらお勤めに励んでおられた時、娘から手紙が届いたのです。娘は結婚をしており、夫がいるいること、もうすぐ子供が産まれることを、大司教閣下に伝えました。大司教閣下は大いに喜んで、孫共々娘夫婦を呼び、荘園の中で暮らせるように計らいました。しかしそれも叶いませんでした」
フロリンはまた水を飲んだ。こんな嘘くさい話を信じられるのだろうか。後ろの首切り役が静かなのが妙に恐ろしい。そう考えると、じっとりした汗が額から顎に滴る。
「八日前のことです。大司教閣下の元に文が届きました。簡素な文面でしたが、子供が産まれたこと、生まれた子供は男の子であったことを伝えるものでした。男の子はユスタと名付けた、と」
これでほら話は終わった。あとはこの、コルドバ総督が信じてくれるのをいのるのみだ。
「その子供の生い立ちは大体わかった。だがお前は俺の質問に答えていないな。もう一度言うぞ。見つけた子供をどうするつもりだ」
フロランはすくみ上がった。額から流れた粘っこい汗が、顎から滴り脇の下も嫌な汗をかいている。
「それは、その子に養育をするためにございます」
「そうかな。お前の体からは嘘の臭いがするぞ」
いっそ本当のことを話してしまおうか。
「ち」
「あん」
「誓って本当のことで御座いますっ。大司教閣下はお孫にを養育するつもりで」
「それでコルドバを百年安泰させるか孫一人に随分高値を付けるものだな」
嬲られているようだ。ウマルは面白がっても、私はちっとも嬉しくない。
良い言い訳を思いついた。
「大司教閣下は、ご自分の教区を親族で固めたいご意向です。ローマからは幾分遠いですが、教皇選挙も視野に入れたいと」
支配者からすれば、こちらの方がよほどわかりやすいだろう。たのむ、この話に乗ってくれ。
「ふん。坊主の権力争いか。それなら幾分か納得できるか」
と言いつつも、ウマルはフロランの体臭が気に入らなかった。あの汗から嘘吐きのにおいがする。だがまあ良いだろう。
「よかろう。今回は手伝ってやる。しかし作り話と判ったらお前の胴と首は離れ離れになるものと思え」
その言葉を聞いたフロランは今度こそ気が遠くなり、その場に倒れた。
ストックが尽きました。暫く更新が滞るかもしれません。




