上編
夏に上げようと思って、結局秋を迎えてしまいました・・・。
もっと短い予定だったのですが、気が付けば長くなったので三部作に分けています。
興味があればお付き合いください。
ある夏の約束(上)
緑が深くなった山々を遠目に、車は道を進んでいく。
田んぼばっかりが左右に広がるいかにも田舎という風景が、窓の外を通り過ぎていく。
青い空が一面に広がり、ところどころに白い雲がかかっている。
夏になれば恒例の行事である里帰り。
今日、私は父方の実家を訪れるためにこの地を訪れていた。
この田んぼ道を越えて、山の方へ入ると実家はそこにある。
「ねえ、お母さん。飲み物ある?」
運転席と助手席の淵に手をかけて身を乗り出し、助手席にいる母親に声をかける。
「こら、美月。ちゃんと座ってなさい。」
白い帽子を被った母は、私の方を振り返ると頭に手を置いてグイっと押しのける。
それから、助手席の脇にあるコンビニの袋に手をかけると、中からラムネを取り出した。
「はい。これでいいでしょ?」
「ありがと。」
受け取ると、シートに腰を下ろしてそれを開ける。
「これから山道に入るから、ちょっと揺れるぞ。美月、こぼすんじゃないぞ。」
「わかってるって。」
ハンドルを切りながら、父が注意を促す。
もう、山は目前に迫っていた。
山道に入る瞬間、少しだけ車がガタンと揺れる。
今まで強い日差しが照りつけていたが、左右の木々に阻まれて木陰に入る。
その景色を天窓から眺めるのが、私のお気に入りだ。
時折、葉の隙間から日の光が零れる。
それが、車内をまばらに照らす。
なんとなくここ余地よくて、冷えたラムネの瓶を片手にシートに頭を預ける。
「見えてきたぞ。」
運転する父の言葉に目を開く。
山道の一角に、祖父母の家はある。
木造の二階建ての家。
公道を抜けて砂利道に入り、車を敷地内に止める。
瓶をおいて、私は大きく伸びをした。
ここまで長い道のりだった。
少し左右に体を捻って解しておく。
父と母は、ドアを開いて車から降りる。
それから少し遅れて、私も車を降りた。
風が吹き抜けて、スカートを揺らす。
私の暮らす街は、うだるような暑さだというのに、森に囲まれたここの風は涼しいものだ。
「おう。おう。美月。来たか。」
祖父が顔を出す。
白いポロシャツ姿で、首にタオルを巻いている。
多分、裏庭の畑を弄っていたのだろう。
「やっ。じいちゃん。」
私は、軽く右手を挙げて挨拶する。
「お義父さん。ご無沙汰しています。」
「ああ、いやいや、美咲さん。そんな堅苦しい挨拶はいいですから。ほら、幸次郎。荷物を運んでおきなさい。」
「言われなくてもそうするよ。」
父が促されて、左右に荷物を抱えて家に入っていく。
入り口の引き戸を開けて、中で父が声を張り上げるのが聞こえる。
「母さん。来たぞ。」
「母さんなら、麓に買い物にいってるぞ。」
祖父は、家の中に入っていった父に向かって言った。
「ほら。美月も上がって行きなさい。」
「うん。お邪魔するね。」
祖父は、振り返って歩き出す。
母がその隣に付き添う。
ふと、私は足を止めた。
祖父の実家の隣に、木造の家はもう一軒ある。
顔を上げると、窓から白いカーテンがひらひらとはためいているのが見えた。
ちりん、と風鈴の音がする。
私は、少し屈むようにして隣の家の窓を覗き込んだ。
白を基調として、青い花柄をあしらったスタンドが見える。
多分、机なのだろう。
その近くに、人の気配は見当たらない。
今はいないのかな。
隣の家には、私より少し年上という雰囲気のお姉さんがいる。
名前を知っているわけでも、話したことがあるわけでもない。
ただ、彼女が自分の部屋でじっと何かしているのを、里帰りする度に目撃していた。
それが、なんとなく私には気になっていたのだ。
里帰りの中で、もう一つの密かな私の楽しみだ。
「美月。ちょっと手伝って。」
「ん。あ、はーい。」
母の声が聞こえてきたので、一度覗き見するのを中断して、私は祖父の実家に入っていくのだった。
祖父も祖母も、私たちが来るのを大分楽しみにしていたようだ。
祖父が畑を弄っていたのも、私においしい野菜を食べさせたいかららしい。
夕食時を迎えると、食卓には取れたての野菜で作ったサラダや、祖父が庭で焼いたお肉なんかが並んだ。
「美月ちゃんも、もう高校生なんだね。」
祖母は、茶碗を片手に、柔和な笑みを浮かべて何度も頷いた。
「そうそう。結構大変なんだよ。先生方もうるさいし。」
「ちゃんと勉強してるんでしょうね?」
「そ、それなり?いや、ほら。部活が忙しくてさ。」
母の鋭い質問が飛ぶ。
誤魔化そうと、手にした箸で宙を指すようにしながら大袈裟に言う。
学校では、私は図書局員として図書室の整理何かをしていた。
「ははは。そういうところは、お前そっくりだな。」
「俺は、もっと勉強してたって。」
父は、そう反論しながら茶碗を口元に運んだ。
「父さんって、部活なんかやってたの?」
「何でもいいだろ?」
「テニス部だったの。知らない?」
「は!?」
はぐらかそうとした父の横合いから、母がそう説明する。
驚いて、私はお椀をテーブルの下にまでおろしてしまう。
黒縁の眼鏡をかけた父は、どう見ても文科系という顔をしていた。
そんな父がテニス部。
「似合わない。」
「そんなはっきり言わなくても、似合わないことくらい自分でもわかってるさ。」
「いや、できるの?」
「こう見えて、スポーツは結構万能なのよ。勉強はからっきしだけど。」
「お前も余計なことばっかり言うなよ。」
母が容赦なく父の過去を次々と暴露していく。
そんな学生時代を送っているとは、少々意外だ。
「いやいや。美咲さんの言うとおりだぞ。お前は、受験の時だって。」
「父さんまでやめてくれよ。」
祖父まで父の昔話を始める。
心底嫌そうという顔をする父を前に、私も母も声を立てて笑った。
「そういえば、美月ちゃん。もうすぐお祭りだよ。」
「んっ。そっか。」
大体、里帰りをすると麓でお祭りをやっている。
それを見て回るのも、毎年の恒例行事だった。
「ねえねえ、ばあちゃん。浴衣、今年はいいのあるの?」
「もちろん。ちゃんと、おばあちゃんが作っておいたよ。」
「ありがと!ばあちゃん、大好き!」
「あんたね。お義母さんに迷惑ばっかりかけるんじゃないよ。」
母が呆れたような顔をしながら私に言う。
「いいのいいの。ねえ、着てみてもいい?」
「いいよ。じゃあ、いらっしゃい。」
テーブルにお茶碗を置いて、祖母やゆっくりと立ち上がる。
私も、それに続いて居間を出た。
木造の廊下が左右に伸びている。
居間を出て、左手は風呂場になっている。
正面に向かって突き当りを左に曲がると、二階に続く階段がある。
少し急な階段を越えて、左手側に伸びる廊下を進むと、和室がある。
祖母は、襖を開いて中へと入り、押入れの下から長い木の箱を取り出した。
「美月ちゃんは、やっぱり赤が似合うと思ってね。」
祖母が見せてくれたのは、白を基調に、赤い花をあしらった浴衣だった。
多分、すみれだろうか。
「いい。ばあちゃん、これはイケてるよ。」
「着てみるでしょ。手伝ってあげるよ。」
「うん。お願い。」
祖母に手伝ってもらいながら、私はその浴衣に袖を通した。
軽いし、大きさにも問題はない。
「どうかな?」
「うんうん。似合ってるよ。」
祖母は、嬉しそうに目を細めながら答える。
「ありがとう。」
答えながら、浴衣を着たままくるりと回る。
袖がひらりと舞った。
ふと、その時窓の外に明かりが見えた。
丁度、来た時に覗き見していたお姉さんの部屋に明かりが灯っているのだ。
窓辺で、時折カーテンが風でめくれて揺れていた。
そこに、長い黒髪の女性が机に向き合って一生懸命何かを書いているのが見えた。
あ、今はいるんだ。
「お母さん達にも見せてあげないとね。」
祖母は、そう言いながら先に部屋を出ていく。
「あ、うん。すぐ行くから、ばあちゃん先に戻ってて。」
振り返って声だけかけて、また女性の方を見た。
真剣なようで、私に気づく気配はまるでない。
いつもそうだ。
彼女のことは何度も目にしているが、目が合ったことは一度もない。
いつだって彼女は一生懸命だった。
浴衣姿を母たちに披露し、写真を撮られ、皆でテレビを見ながらゲームをして。
そんな感じで、一日目はあっという間に過ぎ去っていった。
蚊帳を張ってその中で寝ころびながら、私は彼女のことを考えていた。
一体、一生懸命何しているのだろうか。
あの様子からすると、何かを書いているように見えた。
勉強とかしてるのかな。
学生なのだろうか。
そもそも、この近隣で若い人を見ることは少ない。
皆、この町を出てしまうそうだ。
風が入り込んで、窓辺の風鈴がちりんとなった。
扇風機もないというのに、この部屋は涼しかった。
むくりと起き上がる。
振り返ると、蚊帳の外に蚊取り線香が置いてあった。
不規則に立ち上る煙を見つめながら、ぼうっと私はまた彼女のことを考え始めた。
こんなところにいて、友達とかいるのだろうか。
祖父達に聞いてみればいいのかもしれないが、何となく憚られた。
話してみたいな。
どんな人なんだろう。
見た目だけなら、優しそうな人だと思った。
「美月。あんた、まだ起きてたの?」
襖が開いて、母が顔を出した。
「ん?あ、いや。これから寝るって。」
布団をかぶるように寝ころぶ。
「あんまり休みだからって夜更かしばっかりするんじゃないわよ。」
「わかってるって。」
「ちゃんと、おばあちゃんたちのお手伝いするのよ。」
「わかってる。」
返事をしていると、母は部屋から出て行った。
再び静かになった部屋で、もう寝ようと私は決める。
ちりん、と風鈴がなるのを聞きながら、いつしか私は眠りに落ちていた。
起きてみると、もう昼頃だった。
まだ眠り目を擦りながら、一階に降りていく。
白いタンクトップのシャツと、黄色いハーフパンツ姿で、私は洗面台に立った。
鏡の向こうの私は、ぼさぼさの頭のまま眠そうな目をしていた。
「美月。」
「ん?」
軍手をつけた父が、木製の箱を手に入口に立っていた。
「ちょっと、物置から工具箱持ってきてくれ。」
「ええ?面倒くさい。」
「頼むぞ。」
私の言葉を無視するように父は奥へと引っ込んだ。
しょうがないな、と私はそのまま玄関でサンダルを履く。
裏手に回って、木製の小さな物置に近づく。
角の方には蜘蛛の巣が張ってある。
ドアを開くと、それに押しつぶされて、巣は無残な形になった。
中には自転車や、よくわからない箱などが積み上げてある。
「えっと。工具箱工具箱。」
右手の人差し指で物置のものを指さしながら、お目当ての工具箱を探す。
確か、青い感じの古めかしいプラスティック製の箱だった記憶がある。
「あったあった。」
壁際の棚にそれを見つけて、私は取っ手に手を伸ばす。
そういえば、この箱留め具が壊れてるんだっけか。
取っ手だけで持ち上げたら、多分箱が開いて中身を盛大にぶちまけることになるだろう。
「よいしょっと。」
底に手を添えて、私はそれを慎重に持ち上げた。
抱えるようにして、私は物置を後にする。
結構重たいな。
中に入っている金槌などが箱を打って音を立てる。
重たいそれを抱えるようにして物置を出たところで、青い何かが目の端に映り、足を止めた。
「あ。」
「え?」
思わず口をついて言葉が出てしまう。
そのことに、私は少なからずとも慌ててしまった。
目の前にいたのは、いつも窓から様子を見ていたあの女性なのだ。
女性は、きょとんとした顔で私の方を見ている。
「やっば。あ、えっと。どうも。」
慌てて取り繕ったように笑みを浮かべる。
それを見ていた女性は、ますます訝しげに眉を顰めてこちらをじっと見ている。
やばい、完全に怪しい人を見ている目だ。
なんとか取り繕えないかと、必死に頭を働かせる。
「ああ、えっと。そう!ファンなんです!」
「え?え?ファンって!?」
今度は女性の方があたふたし始める。
「が、頑張ってるとこ、ずっと見てました。その。尊敬してます!」
「え!?いや、その。が、頑張ってるところって?」
「いつも、遅くまで頑張ってるじゃないですか。純粋にすごいなって思ってます。」
女性の目が泳ぎ出す。
落ち着かない様子で、なにやらそわそわとしている。
「あの。大丈夫ですか?」
心配になって、下から顔を覗き込む。
「あ、いえ。すいません。その。そんな風に言われたの、初めてなものですから。」
「そうなんですか。あ、私、平松美月っていいます。」
「私は、橘花茜です。」
茜さんは、そう言って丁寧に腰を折った。
「あ、あの。よかったら、色々とお話、聞かせてもらってもいいですか!」
彼女のことが気になっていた私としては、二度とない千載一遇のチャンス。
突然降って沸いたようなものだが、これを逃すものかと一歩踏み込んで提案してみる。
「え、えっと。」
茜さんは、辺りを落ち着きのない様子できょろきょろと見ている。
あまりにも直球すぎただろうか。
不安に思っていたが、少しして遠慮がちに頷いた。
「え、ええ。特に予定もありませんし。散らかってる部屋ですけど、よければどうぞ。」
「いいんですか!!大丈夫ですか!?本当は嫌だったりしませんか?」
嬉しさのあまり、彼女に詰め寄る。
「ええ。その、誰かを部屋に上げたこととかなかったんで、ちょっとびっくりしちゃって。」
「ありがとうございます!あ!工具置いてくるんで、ちょっとだけ待っててください!」
嬉しさのあまり、工具箱を放り投げたくなるのを抑えて、私は駆け出した。
玄関の近くで、父が麦茶の入ったグラスを傾けているのが見えた。
猛ダッシュで駆け寄り、工具箱を半ば押し付けるように手渡す。
「はい!」
「おっと。お、おい美月。」
「ちょっと用事できたから!」
振り返ることもせずに、手短に要点だけ伝えて、私は来た道を引き返す。
隣の家の玄関に茜さんが待っているのが見えた。
麦藁で編まれた籠に左手を添えたまま地面に置き、右手で文庫本を広げて読書して待っている。
「あ。先に荷物置いてきてよかったんですよ。」
「大丈夫ですよ。」
本を閉じて、茜さんは柔和に笑った。
「本、好きなんですか?」
「えっと、そうですね。とりあえず、あがってください。」
本をしまって、片手で引戸となっている玄関を開けてくれる。
「お邪魔します!」
玄関を潜ると、すぐ正面に階段が見える。
「お部屋、二階なんで。」
茜さんに促されて、階段を上っていく。
階段のすぐ左手に、すこしばかり見慣れた部屋がある。
開けっ放しのドアを潜って、中をぐるりと見回す。
入口側には、背の高い本棚が並んでいる。
窓辺に木製の机があり、その上には原稿用紙が広げてあった。
「すいません。散らかってしまっていた。」
「いいえ、とんでもないです!」
振り返ると、茜さんが麦茶の入ったコップを二つ、お盆に載せて入ってくる。
部屋の中央にある円形のテーブルの上にそれを並べてくれる。
「どうぞ。」
「あ、どうも。」
私は、そこに正座してコップを受け取る。
麦茶はよく冷えていて、乾いた喉を存分に潤してくれる。
冷えた麦茶に満足してコップを置くと、改めて私は部屋の中をぐるりと見回した。
「綺麗なお部屋ですね。」
「別にそんなこと。散らかってますよ。」
「いや、私の部屋なんかよりも綺麗ですから。」
自分の部屋を思い浮かべて見ると、随分と酷いものだ。
普段は、上着とかは脱いだら脱ぎっぱなしだったりもする。
片づけるのは、基本的に友達が来るときくらいだ。
「その。私、あんまり他人の部屋とかわからないんで。」
「あれ?茜さんは、お友達の家とかいかないんですか?」
茜さんは、両手をコップに添えたまま俯いた。
「友達とか、いませんから。」
「え?またまた。」
「本当なんです。私、自閉症で昔から人付き合いが苦手で。だから、美月さんを部屋にお招きしたのが初めてなんです。」
俯いたまま、茜さんは告げる。
彼女にも、そんな苦労があったとは思わなかった。
「じゃあ、私が最初の友達なんですね。」
「え?」
茜さんが顔をあげる。
驚いたように目を見開いて、私を見ている。
「だって、友達じゃない人を部屋にあげたりとかしないですよね。だったら、私たち友達じゃないですか。」
「え、えっと。」
視線を逸らして、茜さんはそわそわとし始める。
さすがに厚かましかっただろうか。
「あ、ええっと。さすがに、厚かましかったですかね。あはは。」
「そんなことありません!」
右手を後頭部に添えてあははと笑う。
バンとテーブルを叩いて、茜さんは身を乗り出す。
びっくりして、私は半歩身を引いた。
「そ、その。嬉しいです。私なんかでいいのなら。」
はにかんだような笑みを浮かべて、茜さんが言う。
「じゃあ、友達ってことで。」
私も身を乗り出して、彼女に微笑みかける。
それから、私たちはお茶を飲みながらお互いの話に興じていた。
「え?茜さん、物語書いてるんですか?」
「そうなんです。自分を表現するのが苦手だから、物語で少しでも慣れておこうかなって。」
「結構長いんですか?」
「ええ。昔から書いてるんで。」
そういうことだったのか。
私が、昔から夜な夜な見かけていたのは、物語を書く茜さんの姿だったのかもしれない。
「あれは、物語を書いてたんですね。」
「え?」
「ああ、いえ。なんでもないですって。」
彼女が首を傾げたのを見て、私は慌てて自分の話を打ち消した。
毎晩窓から覗き見していたなんて、怪しい人物以外の何者でもないだろう。
「あ。でも、興味あります。読んでみてもいいですか?」
「えっと。その。ちょっと、時間をください。」
「え?」
「あの。お見せしてもよさそうなのを、見繕ってみますから。」
「いいですよいいですよ。それくらい、どれだけでも待ちますよ。」
彼女は、立ち上がって机に向かっていく。
入り込んだ風が、カーテンを大きく揺らす。
机にあるファイルを開いて、いくらか原稿用紙をめくっている後姿を見ていると、ひらひら舞うカーテンと相まって綺麗な人だなと素直に思ってしまう。
「夏が似合うタイプだね。」
「え?」
ぽつりと呟くと、ファイルを片手に茜さんが振り返る。
「いや。茜さん、美人だし。夏が似合うタイプだなって。」
「ど、どういう意味ですか?それ。」
「あはは。言葉通りですって。」
あたふたしている彼女を見て、面白くて私は小さく笑った。
それから、選んでくれるように促すと、少しして、いくつかの原稿用紙を手に戻ってくる。
「これとかなら。」
「いいんですか?」
恐る恐る差し出された原稿用紙を受けとる。
目を落とすと、綺麗な字で書かれているのが目に入った。
「そういえば、パソコンとかじゃないんですか?」
一度原稿から目を離して、彼女に尋ねる。
今時のご時世なら、携帯やパソコンで執筆する方が楽だろう。
「なんとなく、ですかね。手で書いてると、どこか集中できるんですよ。」
「へえ。そうなんですか?」
彼女なりのこだわりと言うものだろうか。
やり取りの後、あらためて原稿に目を通す。
なんと言うべきだろうか。
読んでいて、とても綺麗な文章だと感じた。
情景が目に浮かび、その景色があまりにも綺麗だと
思った。
登場人物の心情の移り変わりなども繊細に表現されている。
全てが、美しいと言う他なかった。
本好きで図書局員をやっている私からしたら、素晴らしいものだ。
「どうですか?」
茜さんは、不安そうに眉尻を下げてこちらを覗き込んでいる。
「いや。凄いですよ!とっても面白いですって!」
興奮気味に言うと、茜さんは困ったように苦笑する。
「そ、そんなに大袈裟に言わなくても。」
「いやいや。これ、すごいな。私、図書局員なんですよ。だから、こういう話好きだなぁ。いやぁ、紙に書いてるだけじゃ勿体ないですよ。」
まだ、感動の余韻が抜けていない。
こんなものを、私一人で独占してしまうのは、あまりに勿体ない。
「ネットに投稿しちゃったらいいんじゃないですか?」
「ね、ネットなんてそんなの無理です!」
「ええ?じゃあ、私があげといちゃいますよ。」
茜さんは、全力という様相で首を左右に振る。
そんなに嫌かな。
麦茶の入ったコップを傾けている、まだ冷たいそれで喉を潤す。
ちょうど、心地よい風が吹き抜けて、ちりんと風鈴が音を立てる。
「それで、その。」
「ん?」
茜さんは、少し俯き加減のまま遠慮がちに口を開いた。
「今度は、その。美月さんのことも、聞かせてもらってもいいですか?」
「え?ああ、いいですよ。とは言っても、別に茜さんみたいに凄い趣味があったりとかはしないんですけどね。」
「そんなこと!」
テーブルを叩くようにして、茜さんは身を乗り出してくる。
「誰にでも明るく接することができる美月さんって、とっても素敵です。ですから、きっと素敵な経験をしてきたんだと思います。」
「そ、そこまで言うならわかりましたけど。本当につまんないですよ。」
一応そう前置きしてから、今までの私の話を語って聞かせる。
茜さんは、それを黙って聞いている。
その顔は真剣で、一応楽しんでくれているのだろうという実感はあった。
気がつけば、窓の外から橙色の光が弱々しく差し込んでいた。
「まあ、そんな感じですって。」
「素敵ですね。とっても興味深かったです。」
「そんなにかな?」
すこしばかり照れ臭くて、私ははにかんだように笑いながら後頭部を掻いた。
ふふっと茜さんも小さく微笑む。
「おーい、美月。」
外から父の声が聞こえた。
はっとなって、咄嗟に時計に視線を向ける。
そろそろ夕食時だった。
「やば!帰らなきゃ!」
慌てた私は、地面を蹴るように立ち上がる。
「すいません、こんな時間までお邪魔しちゃって!」
「いいえ!いいんです。それよりも、その。もし、よかったら・・・。」
彼女は、指先を絡ませるようにしながら俯いてごにょごにょとなにかを言っている。
何を言いたいのかはすぐにわかった。
私は、にっこりと彼女に微笑みかける。
「明日も、お邪魔しちゃってもいいですか?」
彼女は、ぱっと明るい表情を見せた。
「いいですよ!もちろん。是非。」
「じゃあ、また明日ですね。」
右手を挙げて、彼女に向かって手を振る。
応じる茜さんは、恥ずかしそうに小さく手を挙げて手を振り返してくれる。
部屋を出ると、階段を一段飛ばしに下りながら声を張り上げる。
「お邪魔しました!」
そのまま玄関で急いで靴を履き、急いで隣の実家へ駆け出す。
橙色に染まる森の中で、蝉の鳴き声がそこかしこから響き渡ってくる。
丁度、表に母が出てきたところだった。
「美月。あんた、どこ行ってたのよ。」
「ふふふ。ちょっとそこまで。」
「はあ?まあ、さっさと夕食食べちゃいなさい。もう、皆集まってるわよ。」
「わかってる。」
答えながら、上機嫌に私は家の玄関を潜る。
明日が今から楽しみで仕方ない。
明日はどんな話をしよう。
どんな一面が見られるだろう。
そんなことを考え、私は胸を踊らせるのだった。
続く