7 完全勝利タクティクス初級編5
「もうこの通りは完全に干上がっているな。場所を変えよう」
田中さんは段ボールを持って、足早に歩きだしました。
私はその後を追いかけます。
田中さんは学生時代ハードなスポーツをしていたかのような、しっかりした体躯をしており、声も一際大きいので、初対面の時は怖い人かなと思っておりました。
ですが、それは私の勘違いだったようです。
今思い出したら恥ずかしくなってくるような私の愚痴に対しても、まじめに答えてくださいました。
雨も上がり、少しだけ嬉しい気持ちになってきました。
田中さんは居酒屋が並ぶ通りの前で足を止めました。
完全に出来上がったサラリーマン達が、大声で話しながら歩いています。
「ここは、この時間でもまだまだ多い。ここで勝負しよう。あれ? しがないOLの足立さん、どうした? 気分が悪いのか?」
ふと、昨日の思い出が蘇ってきたのです
居酒屋を見ると、足がすくみます。
でも本当は居酒屋が苦手ではなく、スーツ姿の男性が苦手でもなく、嫌なのには社長と部長と私を笑う社のメンバーだけ。
だから気合を入れなおし「しがないOLは、全然大丈夫です!」と笑顔を作りました。
「よっし! ここで一気に減らしていくぞ。俺は左。足立さんは右に陣取る。両手が塞がっている人は無視だ。無意識で思わず掴んでしまうポジションにティッシュを差し出す。手の中に押し込んでから、事後でよろしくお願いしますって言え。それだけでいい」
「え? そんなに強引でいいんですか?」
「だって大抵、如何ですかと聞けば、よく分からなくても反射的にいいえ結構ですって断っちまうだろ? 携帯に保険とかの営業電話がかかってきたら、うぜぇとか思わないのか?」
「まぁそうですが、せめて何かくらいは言わなくてもいいんですか?」
「渡されたら嫌でも見るだろ? それでいい。その後、必要か不要かを考えて貰えたら十分だ。最悪、中の紙を捨てたら普通のポケットティッシュとして使えるし、少なくとも相手にダメージを与えることはない」
「……で、でも」
「どうした?」
「それじゃぁ、お店の売上的にどうなんでしょう? 経費を使ってこういった宣伝をしているのでしょうから、それなりに効果を期待していますよね? もし効果がなければ、そうなったら、田中さんのお仕事にも影響しますし……」
「あはははは」
田中さんに思いっきり笑われて、ムッと私は「な、何がおかしいのですか?」と突っかかりました。
「いや、すまない。
そこまで考えてくれるとはありがたいと思ってね。
だけどそういった戦略は、前段階で決めているから心配は不要だ。折り込みチラシがいいのか、ポスティングがいいのか、それとも路上での呼び込み、Webサイトを使ったブランディング……。そういったのは、戦う前に机を並べて考えている。ティッシュ配りという戦略は、短時間の勝負で直接情報を伝えることできるというメリットがある反面、その攻撃力は他にくらべてかなり低いことは戦略会議の段階で分かっていることだ。
そして、戦いは既に始まっている。
一旦戦闘が始まった以上、つべこべ考えず、とにかく戦い抜くしかない。
この段ボールの中にある弾丸をすべて撃ちまくって空にしたら、それで戦闘終了。勝利条件は、与えられた弾丸を的確に命中させること。ただそれだけだ。効果がなければ広告の内容を変えるか、場所を変えるか、それとも戦略自体を変えるかは指揮官の仕事だ。俺たちの正義は、このティッシュの広告をたくさんの人に見てもらう事。
おっと、団体さんが出て来たぞ。散ろう」
分かったような、分からないような。
でも確かに、導線にティッシュを差し出すと、思わず手に取ってもらえるのは確かのようです。酔っている人は尚更避けることができず、思わず掴んでくれます。
表面の広告を見て、うぅっと思っているかもしれませんが。
「如何ですか?」とは言わず、受け取ってもらった後で「ありがとうございます。よろしくお願いします」と付け加えるだけで、さっきとは結果が全然違いました。
田中さんは居酒屋の中をチラチラ見ています。
もう遅いですし、そろそろ一杯やりたいのでしょうか?
「あ、あの……、こんな時間まで付き合わせて、ごめんなさい」
私の言葉が聞こえていなかったのでしょうか。
田中さんは、「やらかしたぞ! 足立さん、段ボールを持って俺に続いてくれ」と口早に言い、店の中に入っていきました。
訳も分からず、田中さんに続きました。
どうやら、ビールのジョッキを落としたようです。
机はびしょびしょで、床には破片が散乱しています。
頬が赤くなっている男性の一人が、申し訳ない顔をしたままあたふたしています。その横にはスカートを濡らした女性が不機嫌そうな顔で睨んでいます。
田中さんは私の耳元で「この店はオペレーションが足りていないから、やらかしてもまともに対応ができないんだ」と告げました。これを待っていたかのように、ちょっぴり口元に笑みを浮かべています。
「大丈夫ですか? ティッシュならいくらでもあります」
そういうとティッシュを次々とばらして、テーブルを拭き始めました。
「あ、すいません。助かりました」とワンテンポ遅れて店員が駆け付けてきました。
田中さんは、「オーダーが入っているみたいだぜ? ここは大丈夫ですから」と他のお客さんを指差しました。
「申し訳ございません。よろしくお願いします」
「いや、いいってことよ。それよか、このお店にティッシュを置かせてもらえないかな?」
「店長に聞いてきます」
田中さんは他のお客さんにも「濡れていないですか? 良かったらティッシュをどうぞ」と言いながら配りまくっています。
掃除が終わり、店から出た田中さんは、「大量にはけたな」とにこやかに話しかけてきました。
「ですが大丈夫でしょうか? この行為は、ティッシュを破棄したようなもんですよね?」
「だけどあの店にいたほぼ全員に、広告を見せる事には成功したぜ? ミッション的にはまったく問題ない」
「そうなんですか?」
「あぁ、ティッシュ配りという大義名分を使って、以下に沢山の人の目に広告を届けるかが、このミッションのカギだからな」
店から5人組の男性が出てきました。
「あの~。先ほどはありがとうございました。このお店は、まだ空いていますか?」
「12時までだから、まだ大丈夫ですよ」
「これから5人で行こうと思いますが、まだ大丈夫ですか?」
「私は呼び込みではないから、お店の状況までは分からないです。ですが電話をしたら教えてくれると思いますよ」
「そうですか。ありがとうございます!」
その後、横のテーブルにいた二組も、同じような質問を田中さんにしました。
彼らが去った後。
「呼び込みまでしちゃうなんて田中さん、すごいです。もしかしてここまで計算して行動したんですか?」
「まさか。それに俺たちは呼び込みではないから、そこまで求められていない。ただ俺は、戦う前に決めたことを忠実に守っていればいいんだよ」
「戦う前に決めたこと?」
「そう。仕事の依頼を受ける前に、ちゃんとやれそうか、それとも無理そうか、仕事を受ける前に決めるだろ? 一旦、やると決めたら、逃げずに最後まで遂行する。それが勝利の早道だと俺は思うぜ?」
「……」
「どうした?」
うちは完全にブラックです。
拒否権はありません。
今日、受けたプレゼン資料の仕事も、きっと後で難癖をつけられて怒られると思います。
そんなこと分かっていましたが、それでも受けてしまいました。
思い出すと悲しくなってきます。
「断るのが怖いから、怒られるのが嫌だから、いつも……私……バカみたいに……。でも結局、いつも怒られています……」