歴史資料(→対立期→)
※※※フレーバーテキスト注意※※※
本編で語られた歴史についてまとめていく予定の、作者が忘れてしまわないための資料、でした。
当初の予定では本文からコピペしてまとめていく感じだったのですが、世界設定を語っていく新規の文章になりました。
こちらはただのフレーバーテキストですので、お読みいただけなくても、本編だけでお楽しみいただけ…………ると信じております。
後半ですので、前半部分の『歴史資料(戦乱期→統一期→均衡期→)』からお読み下さい。
※後半の予定だったのですが、書きすぎて中巻になりました。天変期と現代の設定はまた書きたくなったら書いてしまうかと思われます。
※これ、もはや対立期で一作書いてしまったほうが、残念な本編よりおもしろいかも……?
※スピンオフ商法だ………書籍化したら対立期とか統一期とかほのぼの日常系ストーリーとかのスピンオフいっぱい作って原作料的なやつでぼろ儲けするんだ……。
『歴史区分解説』
歴史区分は以下のように構成されております。
戦乱期→統一期→均衡期→対立期→天変期→現代
本資料(下巻)では、対立期~現代までの解説をさせていただきます。
戦乱期〜均衡期までの解説は、以前の資料(上巻)にてまとめさせていただきました。
・対立期(統一暦1357年〜2170年)
均衡期に次いでおよそ八百年と長く、それ以上に動きの多い歴史区分であるため、対立期の中でも初期、中期、後期と大別されており、通して、「八百年の戦」と呼称される。
この対立期は、統一王の信奉者から「最終戦争時代」と呼ばれ、均衡神の信奉者からは「邪神叛逆」と呼ばれる時代である。
対立期の前の歴史区分にあたる均衡期の終わり頃には、統一王の信奉者たち、「統一思想」の持ち主は、統一主義者と呼ばれ、厳しい弾圧を受けていた。
「最終戦争時代」、当時の「統一思想」の継承者たちは、この時代の戦いこそが「再統一」への最後の機会であるとして、結束を呼びかけたのである。
しかしながら、人々の均衡神への信仰の強さ、主神教会の隆盛を思えば、統一主義者たちの困窮ぶりは想像に難くなく、対立期における彼らは、時代の主役にはなれなかった。
事実として、この時代、ワーレンディア、コルサーラ、メセドナの主要三大陸の中で、統一主義者が率いる純然たる独立勢力は、メセドナ大陸に存在した「メセドナ再統一首長国連邦」のみである。
それ以外の地域においては、当時、邪神と呼ばれる神が率いた「邪神軍族」に便乗し、内包されるような形で、細々と存続を許されていただけであった。
統一王を源流とするバルゴンディア王国と、その周囲のバルゴンディア旧臣国家群を含むワーレンディア大陸ですら、統一主義者ではなく、主神教会がその権勢を振るっていた。
その代わりに、メセドナ大陸における統一の気風は、現代のメセド・タルクァーン帝国にまで、連綿と受け継がれることとなる。
一方で、均衡神の信奉者たちの呼称には、この時代の結末がよく示されている。
「邪神叛逆」、この対立期の八百年に渡る戦いは、ただの「叛逆」であった。
彼らにとって幸運なことに、そう断ずることが可能であるほど、明確な決着がついているのだ。
神にも人にも、「均衡」の世を覆すことはできなかった。
しかし勿論、究学院に所属する学徒たちにとっては、大いに議論の余地がある時代である。
バローグ史上において、この対立期ほど「加工された歴史」は、他に類を見ない。
先の資料にても述べたとおり、この対立期という歴史区分の始まりは、均衡の時代の長期化による、主神教会の腐敗に端を発している。
旧バルゴンディア統一暦、1357年、当時コルサーラ大陸にあった主神教会の総本山が、たった一夜にして壊滅した。
邪神と呼ばれる一柱の神と、第一使徒『裁判狩り魔女』の襲撃を受けたためである。
この邪神と呼ばれる神についての研究は、残念ながら究学院内でもほとんど進んでいない。
多くの資料、文献において、ただ「邪神」としてしか伝わっておらず、その「邪神」という呼称がいつから定着しているのかも、定かではないのである。
この次元バローグの神々の一柱である以上、「何かを司る神」であることが推察されるのだが、民間でも学院内でも、「何も司っていない邪なる神である」とする意見が声高に叫ばれている。
大変遺憾なことに、邪神が「ただの邪神」のままでいることを望む二つの勢力が、純粋なる究学を妨げ続けている。
忌憚なく申し上げるならば、その二つの勢力とは、主神教会と邪神教団という、およそ対極に位置するはずの宗教家たちである。
この二つの勢力は、対立期の終焉から今日に至るまで、時を問わず場所を選ばず、あらゆる手段を尽くして、邪神の研究を妨害してきた。
よって、これより本書にて述べる内容は、まったくの私見であることをここに記しておく。
統一期以前の資料を参照するに、かつて邪神と呼ばれた神は、バローグ史上に複数存在した可能性が高い。
特に統一期においては、その時代までに存在した戦乱神こそが邪神と称されていた神であることに、疑いの余地は無い。
それを裏付ける「統一文字」以前の旧言語による資料は不可解に散逸し、旧言語の解読に生涯を賭した究学者たちは、闇へと葬られてきた。
戦乱神は統一までの過程に没しており、それから邪神の再出現までに、実に千年もの時を要することになる。
邪神の連続性はそれほどまでに不確かなものでありながら、新たにその課題に取り組もうとする学徒は、現れない。
遠からず、私のもとにも、きっと刺客が訪れることだろう。
さて、対立期が始まった1357年、邪神の力は絶大であった。
主神教会の総本山には、「主教聖騎士団」の本部も併設されていたという。
英雄揃いとされていた聖騎士団をものともせずに、邪神は一夜でその地を壊滅させた。
その報は、既に確立されていた風魔法による「風信網」に乗り、すぐさま世界中に伝えられることとなった。
これにより、隆盛を極めていた主神教会は一枚岩ではなくなり、各地方ごとに分裂することとなった。
地方ごとに教義の内容にも差異が表れ始め、主神教徒の間にも争いが生じるようになったため、これを「教宗派生」と呼び、地方ごとに異なる教義を持った教会勢力のことを、それぞれの「宗派」と呼ぶ。
八百年に渡る対立期の終焉にこの「宗派」が統合されたために、現代には「宗派」なる概念が伝わっていないのである。
この対立期の最初期において、邪神軍族の第一使徒『裁判狩り魔女』は、コルサーラ大陸のみをその活動の場としていた。
邪神の使徒たちの出自は不明であることが多いが、彼女の場合、その二つ名のとおりに、主神教会が執り行っていた「信仰裁判」を目の敵にしていたことは、間違いない。
裁判とは名ばかりのその悪習のことを思えば、それによって生じた怨恨こそが、『裁判狩り魔女』の戦いの動機であったことが察せられる。
つまり、「信仰裁判」などという愚行が罷り通るほどの腐敗こそが、総本山壊滅の呼び水となったと考えられるのだ。
邪神の第一使徒と目されているが、人智を超えた大魔法の使い手であったことから、彼女は魔導神の加護も授けられていたのではないかと伝えられている。
邪神との共闘回数は少なく、単独でコルサーラ大陸各地の主神教勢力を襲撃してまわっていたようである。
第一使徒の時代には、未だ、この対立期に邪神の下に集った「邪神軍族」という集団は存在していなかった。
それゆえに、単独で主神教勢力と渡り合った『裁判狩り魔女』は、「最初にして最強の使徒」と評されている。
邪神と二手に分かれてコルサーラ大陸の主神教勢力を窮地に陥れ、教会の横暴によって虐げられていた多くの人々を解放した。
のちに、その人々が中心となって邪神軍族を形成することとなる。
だが、大魔法使いの宿命として、彼女はやはり短命であった。
対立期の初期、200年ほどの期間は、コルサーラ大陸における邪神軍族拡大の時代であった。
『裁判狩り魔女』の死後、第二使徒として知られる悪名高い『鳴り止まぬ幼児攫い』が邪神軍族を組織し、さらに各地で幼児攫いを行うことで、幼少の頃から洗脳を施し、価値観を植え付け、そうしてこの後何世代にも渡る邪神軍族の礎を築き上げた。
『鳴り止まぬ幼児攫い』、『軍族産み』、『限り無き孕ませ屋』といった倫理観の欠如した使徒たちが、なりふり構わず人口を増やし、邪神勢力の拡大に努め続けた。
これが定説とされているが、当時の文献の中には、自由市民の子供が大量に攫われていたことを示す資料は少なく、また、邪神軍族内部の生活を著した文献は存在しない。
放浪しながら拡大し続けていた邪神軍族は、ついにコルサーラ大陸の一部を占有するに至り、建国宣言こそ出さなかったものの、事実上の自治領としていた。
これに対し、コルサーラ大陸の教会勢力は執拗に出兵を繰り返しては、邪神に撃退されていた。
その結果、ただでさえ邪神と『裁判狩り魔女』の襲撃によって疲弊していたコルサーラの主神教会は、急速に財政難に陥るとともに、求心力を失うこととなった。
教会内で責任問題が紛糾し、権力闘争の末に内部分裂を起こし、二つの宗派に二分され、武力紛争にまで発展した。
これが「南北教義論争」と呼ばれる出来事である。
論争どころか、血みどろの武力衝突であったということを付記しておく。
それを好機と見たのが、コルサーラ大陸から北に「海」を隔てた対岸、ワーレンディア大陸南部の主神教国家であった。
「同教融和」を唱えて「南北教義論争」の仲介を名目とし、コルサーラ大陸に軍隊を派遣した。
これにより、コルサーラ大陸は、南北の対立に加えて、ワーレンディア大陸からの派遣軍と、そして邪神軍族の、四つ巴の様相を呈することとなった。
ここからの300年ほどの期間は、コルサーラ大陸の戦乱の激化と、各大陸へ戦火が飛び火していく、対立期中期となる。
この時期の代表的な邪神軍族の使徒は、『造反せし破戒僧』と、『泥酔の簒奪者』である。
『造反せし破戒僧』は、コルサーラ情勢を邪神軍族の一強体制へと一変させた人物として知られており、『泥酔の簒奪者』は、邪神軍族によるワーレンディア大陸進出の橋頭堡を築き上げた人物として有名である。
この対立期の中期からようやく、均衡神の使徒である『天秤』と邪神との戦いが、目撃されるようになった。
つまり、それまでのおよそ200年間、均衡神は事態をただ静観していただけであったとも受け取れるのだが、その真意は定かではない。
歴史考察において、「神の意志」こそが常に最大の難問であり、そしてまた、最も考察しがいのある課題でもある。
『天秤』たちの参戦とともに、邪神は、邪神軍族から離れ、単独で世界各地に出没するようになった。
コルサーラ、ワーレンディア、メセドナの主要三大陸だけでなく、多島海域や魔導小大陸など、300年の間に、世界中が『天秤』と邪神の戦闘に巻き込まれ、大小様々な混乱が引き起こされた。
ここで邪神の「神の意志」を汲み取るとするならば、かの神は、自らを慕う信徒たちを、『天秤』との戦いから遠ざけようとしたのではないだろうか、そう私には思われた。
実際に、この対立期中期の邪神は、一度も『天秤』との戦いに信徒たちを参加させることはなかった。
もちろん、酷薄邪悪極まりない神にそのような一面があったなどと、そう評する人間は私の他にいるはずもない。
この時期の邪神軍族に見られる「軍族離散」は、理に合わず不可解である。
「軍族離散」を率いた邪神の使徒としては、『先導する博徒』や、『煽動する詐欺師』が知られている。
コルサーラ大陸の覇権を握り、ワーレンディア大陸南部への進出も盤石にした、その段階で、邪神軍族は各地へとバラバラに離散していった。
その一見して野蛮で無法な大移動に見られる共通点はたった一つ、邪神と『天秤』の出没地点を次から次へと追っているような、不確かながら、そのようにも受け取れる進路を辿っていることが、資料からは読み取れる。
邪神の足跡を追うようにして世界中に拡散していく邪神軍族の有り様が、私にはまるで、親に追いすがる幼子のように映るのだ。
さて、教会の側に視点を変えてみよう。
対立期の初期から、コルサーラ大陸の戦火が激しさを増すにつれ、コルサーラの主神教徒は他の大陸へと流入していった。
これを「主神教徒移民」と呼ぶ。
教徒の移動に伴い、主神教会の中心地は、自然とワーレンディア大陸に移ることとなった。
とはいえ、やはりコルサーラとワーレンディアとでは、もともとの主神教の在り方に差異があったために、ここでも宗派による対立が見られるようになる。
ワーレンディア大陸の中で、特にバルゴンディア王国と周辺の旧臣国家群における主神教というものは、国王の権威付けとしての意味合いが強かったようだ。
そのため、ワーレンディア大陸中央部には、コルサーラほどの熱狂的信仰は無かったのである。
一方で、地理的にもコルサーラ大陸に近く、結びつきの強かったワーレンディア大陸南部、および西部では、もともと主神教への信仰も篤かった。
そのような下地があったワーレンディア大陸に、コルサーラから大量の「主神教徒移民」が雪崩れ込んだわけである。
それによって、ワーレンディア大陸は、大まかに五つの地域に勢力が分かたれた。
まず一つ、コルサーラ大陸に由来する熱心な主神教徒が集い、「コルサーラ正主教会」という宗派に発展した、ワーレンディア大陸南西部、および西部。
次に、コルサーラの「南北教義論争」の際に軍隊を派遣した国があり、それにつけ込んだ『泥酔の簒奪者』によって国を奪われ、その周辺国もろとも邪神軍族の勢力圏と化してしまった、南東部。
そして、「主神均衡新教会」という宗派を共有する、バルゴンディア王国と旧臣国家群の大陸中央部と、その以北の大部分。
さらに、メセドナ大陸における主神教会勢力の支援を行っていた地域であり、「聖神信道宗」という特殊な宗派が勃興した、大陸北東の沿岸部。
最後に、統一王への忠義を守り通し中立を宣言した、「森番の一族」と「森の民」たちが住まう、大陸北西の小範囲。
対立期の初期、中期における、メセドナ大陸と、多島海域、魔導小大陸についても述べていく。
メセドナ大陸においては、対立期の初期、邪神と『裁判狩り魔女』がコルサーラ大陸で暴れ回っていた頃に、主神教国家と統一主義国家との争いが始まった。
この時期、メセドナ大陸の統一主義国家は多数存在したが、「連邦制」という特殊な国家形態をとり、一つの巨大な勢力として、「メセドナ再統一首長国連邦」の名のもとに結束していた。
その多国家からなる「メセドナ連邦」が、コルサーラ大陸での主神教会の失墜を見て、メセドナ大陸からの教会勢力の排除に乗り出したわけである。
メセドナ大陸における主神教国家は少数派であったものの、コルサーラ、ワーレンディアの主神教勢力からの支援があり、メセドナ内での主神教国と統一主義国の対立は、長期化することとなった。
そのうちに、コルサーラからの「主神教徒移民」がメセドナ大陸にも押し寄せ、徐々に統一主義の「メセドナ連邦」も苦戦を強いられるようになる。
そして対立期の中期、邪神と『天秤』との戦闘が引き起こした混乱、「神々の賽振り」によって、主神教会勢力がメセドナ大陸の形勢を大きく覆すことに成功する。
しかし、すぐに邪神を追うようにして「軍族離散」が始まると、邪神軍族がついにメセドナ大陸にも進出を果たした。
これにより、統一主義者、主神教徒、邪神軍族の三者がメセドナ大陸に出揃い、「メセドナ三教対立」の時代が始まったのだ。
多島海域の対立期初期、中期は、比較的平穏である。
ワーレンディア、コルサーラ二大陸のそれぞれからメセドナ大陸へと至るための、二本の「大航路」を掌握しているために、戦争景気を享受していた。
「海に隔てられた大陸」が存在しない現代の我々には想像し難いことではあるが、流通の大部分を握っている「商神殿」の本店が、当時この多島海域に店を構えていた、と言えば伝わるだろうか。
つまり、現代でいう「世界の中心」の、経済分野における役割を、この多島海域という地が果たしていたようなものなのである。
しかしそれゆえに、「主神教徒移民」、「軍族離散」といった大移動が始まると、各勢力が徐々に多島海域の暗部へと侵食していき、裏の資金源が集中し、情報戦の舞台へと発展していくこととなった。
それでも、対立期中期までは、平穏といえるのだ。
対立期の後期には、この多島海域に、悲劇がもたらされることとなる。
魔導小大陸については、バローグ史上の例にもれず、ほとんど文献が残されていない。
いつの時代も、本当に究学者泣かせな土地である。
対立期の初期、中期について知り得る範囲で言えば、この地でも邪神と『天秤』との戦闘が行われ、大なり小なり混乱が生じたらしいことと、「主神教徒移民」と「軍族離散」によって魔導小大陸に押し寄せた群衆が、魔導神の信徒たちに殲滅されたらしいこと、それだけが伝わっている。
大変貴重なことに、後期については、例外的にいくつかの動きが資料上に残されている。
対立期中期には、邪神と均衡神以外の神々も、人の争いに干渉し始めていたようである。
おそらく、主神教が全盛であった均衡期が終わったことで、人々の信仰心がその他の神々にも向き始めていたのではないかと思われる。
均衡期の間にも信仰を集めていた商売神、鍛治神、豊穣神や、いつの世にも一定数の信者が存在する、大空、大海、大地の三大神と、戦の世になったことで信仰を集めた武勇神、闘争神などが、早い段階から動きを見せていたようである。
それでは、対立期、後期に話題を移そう。
中期における邪神と『天秤』との戦闘、および「軍族離散」によって、コルサーラ大陸だけでなく、バローグ中の人々が邪神勢力の脅威を実感することとなった。
それにより、様々な対立がバローグ各地で別個に発生していた状態から、「全バローグ対邪神軍族」という世界規模での対立の構図へと発展していった。
ここに至り、神々の勢力も二分され、邪神と主神との対立に積極的に介入するようになったと伝えられている。
しかし、神の意図はやはり常人には得難く、それを示す資料は稀である。
後期の始まりの目安となっているのは、「邪教合流」、及び「第一次聖秤軍」の出征である。
統暦1894年、ワーレンディア大陸中央部、旧臣国の領内にて行われた邪神と『天秤』との戦闘に、ついに邪神軍族が参加した。
邪神軍族は大量の死傷者を出しつつも、『天秤』の一人を討ち取ることに成功した。
これを「邪教合流」と呼び、これ以降、邪神は再び邪神軍族と行動を共にするようになる。
このときの使徒が、『血涙流す追跡者』である。
『裁判狩り魔女』と、後の『道断の反英雄』に並んで、神にも迫る戦闘能力を振るった使徒として知られている。
対立期後期に出現した邪神の使徒は、『嘲る闇』、『浅謀短慮蛮人』など、突出した武力の持ち主ばかりであり、邪神とともに『天秤』との戦いにも身を投じている。
「邪教合流」の際に『天秤』が邪神軍族に討ち取られたという情報は、すぐさまバローグ中を駆け巡ることとなり、各勢力は素早い反応を見せた。
それが、「聖秤軍」の結成である。
邪神軍族の脅威が間近に差し迫っていたバルゴンディア王国は、すぐに全世界へと檄文を飛ばし、邪神軍族討伐のための連合軍の結成を呼びかけた。
その求めに応じ参集した、邪神討伐を目標に掲げる多国籍軍のことを、「聖秤軍」と呼び習わしたのだ。
しかし、「第一次聖秤軍」に参加した勢力は、決して多くはなかった。
バルゴンディア周辺の旧臣国家群と、そして「メセドナ連邦」からの、数合わせ程度の老兵たちだけである。
つまりこの「第一次聖秤軍」とは、実質的に、バルゴンディア及び旧臣国連合軍でしかなかったのだ。
ワーレンディア大陸北東の「聖神信道宗」も一度は応じたのだが、不倶戴天の神敵である「メセドナ連邦」の旗印を見かけたことで、何もしないうちに離脱してしまったのだという。
そのような様態ではあったものの、むしろ大規模な連合にならなかったことが功を奏したようで、「第一次聖秤軍」は万全な備えをもって邪神軍族を迎え撃った。
「聖邪会戦」、コルサーラ大陸の狭小な一地方から始まった邪神軍族が、ついに多国籍軍と対立するまでに至ったのだ。
結果は、「第一次聖秤軍」の勝利である。
このときの邪神軍族には、個人の武力が突出した猛者はいても、戦略規模で盤上を俯瞰できる指導者がいなかったのだ。
「軍族離散」によって、移動しながらワーレンディア大陸の中央部を荒らしていた邪神軍族は、再び、ワーレンディア大陸南東まで押し返されることとなった。
もちろん、勝利したとはいえ、聖秤軍側も無事では済まなかった。
離散し広範囲を荒らしていた邪神軍族を各個撃破し、戦闘範囲を縮小させつつ押し戻すという目標を達成したために、聖秤軍側は大々的にその勝利を喧伝した。
しかし、邪神と『血涙流す追跡者』を一手に引きつけ続け、多方面から同時に押し寄せるという戦略をとったために、聖秤軍は大きな損害を出したのだ。
特に、自ら邪神誘引の役目を買って出た連合の盟主、バルゴンディア王国の部隊は、壊滅的な打撃を受けた。
当時、『古王国の双翼』と持て囃されたバルゴンディアの二人の英雄、『右翼の英雄』と『左翼の英雄』は、この「聖邪会戦」でともに戦死している。
一方、「聖邪会戦」に敗北し、ワーレンディア大陸南東に押し込まれた邪神軍族だが、「邪教合流」を果たしたことで、各地に離散していた軍族たちが続々と邪神のもとに参集してきていた。
その中には、若き『浅謀短慮蛮人』の姿もあった。
彼はその二つ名に反して思慮深く、それでいて大胆な戦術も採用する、大変に優れた戦略家であった。
第一次から第三次までの聖秤軍に参戦したバルゴンディア王国の『棋竜老公』は、後に『浅謀短慮蛮人』との戦の中で、「この齢にして師を仰ぐ心持ちだ」という言葉を残している。
邪神の使徒たちの二つ名は、熱心な主神教徒が侮蔑を込めて呼称し始めたようなものが多く、この『浅謀短慮蛮人』の場合も、その例に漏れなかったのだ。
その戦術があまりに大胆であったために、野蛮人の偶然と揶揄し、多大な屈辱感を背景に『浅謀短慮蛮人』と呼び始めたようである。
彼の活躍の場は、この後、すぐに訪れることとなった。
各地に離散していた邪神軍族ではあるが、依然としてコルサーラ大陸では優勢を保っていたため、コルサーラ大陸からワーレンディア大陸の邪神のもとへと、人員と物資の継続的な供給が始まっていた。
ワーレンディア大陸の主神教勢力から見れば、邪神軍族の後方に海を隔てて、広大な供給源が存在する、という構図になる。
当然のことながら、ワーレンディアの諸国はこれを嫌ったため、主神教勢力を糾合し、「第二次聖秤軍」を結成する。
この時期の聖秤軍と邪神軍族との争いについては、『棋竜老公』の弟子であり、養い子でもあった、『不出来者の孺子』が残した手記、後世に「不出来孺子従軍行覚書」と名付けられた史料によく記されている。
ちなみに、天変期の『瑠璃鐘社、露文』が書いた通俗本の「不出来孺子聖戦記」には多大なる脚色が施されており、史実とは似ても似つかぬほどにかけ離れているので、決して参考書とはされぬよう、留意されたい。
『不出来者の孺子』という人物は『叡智の英雄』としても知られているが、自ら矛を手に最前線で兵を率いることなど無かったし、ましてや、『浅謀短慮蛮人』相手に一騎討ちを繰り広げ、『道断の反英雄』と互角に渡り合うなど、絶対に有り得ないことである。
そもそも最後の第十三使徒である『道断の反英雄』の時代と、『不出来者の孺子』や『浅謀短慮蛮人』の活躍した時代とでは、150年以上もの開きがあり、荒唐無稽というほかない。
もちろん、娯楽読本としての「不出来孺子聖戦記」は不朽の名作であり、歴史の彼方に想いを馳せるきっかけとするのは良いだろう。
幼き日より、「不出来孺子聖戦記」は今もなお私の愛読書であり続けている。
脱線してしまったが、信憑性が高い「不出来孺子従軍行覚書」という史料には、当時の『棋竜老公』の思惑が残されている。
バルゴンディア王国の軍事を主導していた『棋竜老公』は、「第一次聖秤軍」の勝利のために、バルゴンディア軍を犠牲にした。
しかしそれはなりふり構わず無計画に行われたわけでは決してなく、その勝利を喧伝することで、聖秤軍という多国籍連合軍の有効性を内外に示し、より大規模な「第二次聖秤軍」を作り出すためであったのだ。
ワーレンディア大陸南東の邪神軍族を大軍で包み込み、堅く陣を敷いて徐々に包囲網を狭めつつ、後方、ワーレンディアとコルサーラの間にある海上を封鎖し、コルサーラ大陸からの補給線を断つ。
「邪教合流」後に集結した邪神軍族、それを逆手に取り、急激に人口が増えた軍族の支配地を、何年もかけて干上がらせる。
これが、『棋竜老公』が構想した長期戦である。
しかしながら、各国各勢力の思惑は、彼の計画をすぐに頓挫させてしまうのであった。
「第二次聖秤軍」に集ったのは、以下の勢力である。
まずは「第一次聖秤軍」の際に中核を担った、バルゴンディア及び旧臣国連合軍。
そして新たに加わった、ワーレンディア大陸西部から南西部にかけて広がる、「コルサーラ正主教会」を国教と定める国々。
さらに、第一次では「メセドナ連邦」との確執により参加しなかった、「聖神信道宗」の僧兵軍団。
それから、コルサーラ大陸北西部に残されていた、少数の主神教国家群。
これらの面々が集ったことで、「第二次聖秤軍」は、その進路を誤ることとなった。
既に根回しを済ませていた「コルサーラ正主教会」は、バルゴンディア王国に対して、聖秤軍の主導権を譲るように求めたのだ。
旧臣国家群の一部にも根回しが済んでいることを悟ったバルゴンディアは、連合の盟主という立場を降りざるを得なかった。
そのようにして主導権が交代した「第二次聖秤軍」は、「聖大陸奪還作戦」を開始する。
聖大陸とは、すなわち、かつて主神教会総本山が設立されていた、コルサーラ大陸のことである。
ワーレンディア大陸の邪神軍族を支えるコルサーラの大地が脅威である、という点では、『棋竜老公』の計画と共通しているようにも見える。
しかしその実は、聖大陸奪還という宗教的大義を名目に、領土獲得を目指していただけにすぎない。
このようにして、「第二次聖秤軍」は、宗教的熱狂と領土獲得の野心を抱えたコルサーラ上陸軍と、自国防衛のために残らざるを得ないワーレンディア防衛軍の、二手に分かれることとなった。
聖秤軍の長所であったはずの圧倒的な動員数というものを、分割してしまったのだ。
多国籍連合軍の短所が浮き彫りとなったこの事態に、『棋竜老公』は、自身の不明を恥じ、人の世の愚かさを嘆いたという。
これに対して、『浅謀短慮蛮人』が真っ先に行ったことは、実に意外な行動である。
なんと、この段階で、戦局とは無縁であった多島海域に人員を送り込み、一部地域を迅速に制圧してみせたのだ。
このときは未だ、世界は『浅謀短慮蛮人』のことを知らない。
野蛮なる邪神軍族がまたしても不可解な移動を始めたようだ、そのようにしか捉えられていなかった。
ワーレンディア防衛軍に残っていた『棋竜老公』でさえ、邪神軍族の総攻撃を覚悟していたがために、胸を撫で下ろしただけであったという。
しかし、『不出来者の孺子』は違った。
このとき、彼の手記にはこう記された。
「脅威だ。邪神軍族の中に、邪神以上に恐ろしい存在がいる。バローグ全土を、一つの棋盤に変えたやつがいる」
英雄は英雄を知る、二人の天才の時代が近付いてきていた。
「第二次聖秤軍」がコルサーラ上陸を果たすと、次に、『浅謀短慮蛮人』は自ら兵を率いてワーレンディア大陸南西部を襲撃した。
ワーレンディア南西部、つまり、「コルサーラ正主教会」の勢力圏である。
「聖大陸奪還作戦」を主導しているのは「コルサーラ正主教会」であるため、その主力はコルサーラに上陸したばかりだった。
もちろん、二手に分かれた聖秤軍のうちの一手、ワーレンディア防衛軍が残っているため、無防備なところを襲撃されたわけではない。
しかし、その報せは当然コルサーラ上陸軍のもとにも届き、海を渡ったばかりの軍隊の動揺を誘うには充分だった。
南西部を襲った『浅謀短慮蛮人』は、そのまま軍族を率いて略奪を繰り返しながら、「コルサーラ正主教会」の勢力圏内を奥へ奥へと進んでいく。
彼は土地に固執せず、都市を占領しようともせず、そしてワーレンディア防衛軍との戦闘も避けながら、ひたすらに略奪で飢えを凌ぎつつ、いくつもの国境をまたいで移動し続けた。
その報告は海を越え、逐一コルサーラ上陸軍のもとに届く。
「コルサーラ正主教会」の教義のもとに繋がっているとはいえ、このコルサーラ上陸軍も、多国籍連合軍である。
本国が侵攻を受けたという部隊が次第に増え、海を越えて引き返したいという意見が上がるようになり、「聖大陸奪還作戦」は徐々に失速していく。
ワーレンディア防衛軍の多くは、「主神均衡新教会」に属するバルゴンディア王国と旧臣国家群である。
そのワーレンディア防衛軍は、邪神軍族を追って「コルサーラ正主教会」の勢力圏に入ったものの、越境の度に一悶着が起こり、援助も受けられないどころか、通行の許可が下りないことすらあり、邪神軍族の追跡は遅々として進まなかった。
「コルサーラ正主教会」が聖秤軍の主導権を握ってから、そういった際の取り決めを再三『棋竜老公』が求めたにも関わらず、通達が行き渡っていなかったのだ。
海を隔てたコルサーラ上陸軍では、邪神軍族を止められなかったワーレンディア防衛軍の「失態」を責める声が上がり、やがて、バルゴンディア諸国の野心を疑う論調が日に日に強くなっていった。
ついに、コルサーラ上陸軍は「聖大陸奪還作戦」を断念し、ワーレンディア大陸へと引き返すこととなった。
同じ頃、静観していた邪神がバルゴンディアに向けて進軍を開始したため、ワーレンディア防衛軍は、『浅謀短慮蛮人』が率いる一群の追跡を諦め、邪神の侵攻に備えて守りを固めた。
南西部に深く入り込み略奪を続けていた『浅謀短慮蛮人』は、率いていた軍族を統制し、これ以降は立ち止まることなく素早く引き上げていった。
遅れて、コルサーラ上陸軍がワーレンディア大陸へと帰還すると、邪神も侵攻を取り止め、『浅謀短慮蛮人』の一群は無事に邪神のもとに合流した。
ここに至って、『棋竜老公』を始めとした各国の英雄たちは、『浅謀短慮蛮人』の存在を認識し始めた。
彼の無造作な略奪行為によって、「第二次聖秤軍」はただただ翻弄されただけで終わってしまった、ということに気が付いたのだ。
しかしやはり、本当の脅威に気付いていたのは、『不出来者の孺子』だけであったようだ。
彼は、養父である『棋竜老公』に、一刻も早く「第三次聖秤軍」を組織するよう提言した。
このとき『不出来者の孺子』が主張したのは、多島海域の奪取である。
『浅謀短慮蛮人』は、ただ単に「第二次聖秤軍」を翻弄していただけではなかったのだ。
聖秤軍を翻弄することで、彼が稼いだのは時間であった。
これは「不出来孺子従軍行覚書」にて、多分に推測を交えて記されている内容ではあるが、このとき既に、コルサーラ大陸にいた邪神軍族の多くが、多島海域を経由してメセドナ大陸へと至るための、大移動の最中にあったという。
『浅謀短慮蛮人』が多島海域を抑えた最初の一手は、このコルサーラとメセドナの二大陸を結ぶ、大航路を確保するためであったのだ。
それは、メセドナ大陸における「メセドナ三教対立」の様相を、邪神軍族の優勢へと変えるための一手でもある。
つまり、最初の一手の段階から、メセドナ大陸を邪神軍族の第二の供給源とすることを狙っていた、ということになる。
もしも聖秤軍が、邪神軍族の供給源となっていたコルサーラ大陸の奪取に成功したとしても、その頃には、メセドナ大陸が新たな供給源となっている可能性がある、ということだ。
そして、そうなってしまえば、二本の大航路を握っている多島海域を越えなければ、メセドナ大陸には手出しできない。
『不出来者の孺子』は、その目論見を看破し、多島海域こそが両軍にとっての急所となることを見抜いたのである。
しかしながら、史上において、バローグの世界の理や神々に愛された才ある者が、常に報われるとは限らない。
彼の養父の懸命な働きかけにより、「第三次聖秤軍」は、程無く結成されることとなった。
「第二次聖秤軍」の反省から、いくつもの取り決めが整備され、同じ宗派の部隊ばかりが固まることのないよう、注意が払われた。
だがそれでも、愛弟子の提言を聞き入れた『棋竜老公』の主張は、退けられた。
野蛮にして低俗なる邪教の輩が戦略的な行動を起こしているなどと、そのような主張を信じる者は、各国の上層部の中にはほとんどいなかったのだ。
結局、「第三次聖秤軍」の目的は、またしても「聖大陸奪還作戦」の遂行となった。
それは、『浅謀短慮蛮人』の目論見どおりとなる選択である。
このときの『不出来者の孺子』の落胆ぶりは、彼の手記によく表れている。
だが、彼は落胆しただけでは終わらない。
上に立つ権力者を、下の立場から意のままに操縦する術を模索すること、それを自身に課したのである。
これは、彼にとって生涯の課題となった。
おそらくは、彼のその生涯を知ったからこそ、『瑠璃鐘社、露文』は、かの英雄が意のままに躍動する「不出来孺子聖戦記」を書いたのであろう。
さて、集結した「第三次聖秤軍」は、再び、ワーレンディア防衛軍とコルサーラ上陸軍の二手に分かれることとなった。
『棋竜老公』と『不出来者の孺子』は、ワーレンディア防衛軍に残っている。
結果から述べれば、前回の「第二次聖秤軍」同様、この戦いも『浅謀短慮蛮人』の思惑に沿って進んだようである。
もはや聖秤軍の制御が不可能であることを悟った『棋竜老公』は、できうる限りの方策として、ワーレンディア防衛軍とコルサーラ上陸軍による、ワーレンディア大陸南東部の邪神軍族に対する挟撃作戦を立案し、その実行の約定を結ぶことに成功したのだ。
コルサーラ上陸軍は、前回同様にコルサーラ大陸北西部の主神教国家に上陸、大陸北岸を東進しつつ邪神軍族の沿岸拠点を制圧、大陸北東部に入った段階で渡海を開始し、対岸、ワーレンディア大陸南東部の邪神軍族領に上陸する、という手筈になっていた。
それまでの間、『棋竜老公』が指揮するワーレンディア防衛軍は、邪神と使徒による侵攻を耐え忍び、コルサーラ上陸軍のワーレンディア再上陸とともに、総攻撃をかける。
これが、「聖大陸奪還作戦」の継続を尊重しつつ、本来の目的である邪神軍族討伐を果たすために苦慮しつつも打ち出した、『棋竜老公』にとっての最善策である。
後に、この戦いを回想した『不出来者の孺子』は、コルサーラ上陸軍に作戦の成否を委ねざるを得なかったことが、最大の敗因であるとしている。
「他の誰にも馬を曳かせず、手綱を握るのは己であり続けること」「軍を動かす前に、まず人を動かす、軍事の前の人事に全てが賭かっている」といった教訓を得たようである。
それに対して、余計な重荷を抱えることのない邪神軍族の戦略は、やはり一枚上手であった。
コルサーラ大陸に上陸し、東進を開始したコルサーラ上陸軍を迎え撃ったのは、『浅謀短慮蛮人』が率いる一隊であった。
いったいいつからであったのか定かではないが、既に渡海し、迎撃準備を整えていたのである。
彼は今度は個人の武勇を存分に見せつけ、コルサーラ上陸軍の出鼻をくじいた。
この知勇兼備の英傑ぶりと、何にも縛られることのない邪神軍族の自由さに、『不出来者の孺子』は純粋な羨望をその筆跡に滲ませている。
敵でありながら、『浅謀短慮蛮人』という人物に傾倒していく、といっても過言ではない。
このときも、『浅謀短慮蛮人』は時間稼ぎに徹している。
コルサーラ大陸では、その武勇を頼りに一撃離脱を繰り返し、ワーレンディア大陸では、絶大な破壊力を誇る邪神を防衛戦力として利用し、膠着状態に持ち込んだ。
その時間稼ぎは、東進を阻害され焦れたコルサーラ上陸軍が、『棋竜老公』との約定を破り、好き勝手にコルサーラ大陸侵攻を開始してしまうまで続けられた。
邪神軍族は、その稼いだ時間を使って、コルサーラ大陸から続々と脱出していた。
『浅謀短慮蛮人』の戦略どおり、最初から、彼らはコルサーラ大陸を捨てるつもりでいる。
一方、聖秤軍の面々には、「守るべき領土を捨て去る」という戦略が存在するなどと理解できるはずもなく、ましてやその領土が大陸の過半ともなると、そのような選択肢を想像できていたのは、おそらく『不出来者の孺子』ただ一人であったろう。
そして恐ろしいのは、古い地域では既に400年近く住まい続けていたはずの領土を、容易く捨て去ってしまう邪神軍族の信仰心の強さである。
だが、やはりそれ以上に、『浅謀短慮蛮人』の戦略が恐ろしい。
彼は、第二次、第三次と、多国籍軍である聖秤軍の短所を徹底的に利用した。
特に、この「第三次聖秤軍」の際に見せた戦略は、まさに邪悪なる策謀であったと言っていい。
東進を阻まれたコルサーラ上陸軍が好き勝手にコルサーラ大陸内を侵攻し始めると、『浅謀短慮蛮人』は時間稼ぎをやめた。
そして、以後、彼の率いる部隊は、コルサーラ大陸からその姿を消したのである。
戦うべき相手を失ったコルサーラ上陸軍、多国籍、多勢力の思惑が絡み合ったその軍隊を阻むものは、もはや存在しなくなった。
彼らの眼前にあるのは、もぬけの殻となり、誰のものでもなくなった、広大な土地である。
巻き起こった争い、領土の奪い合いは、人の世の必然と言えよう。
そのようにして、「第三次聖秤軍」は瓦解した。
コルサーラ大陸は欲望渦巻く群雄割拠の地となり、一時は聖秤軍の名の下に味方同士となったはずの諸勢力は、見事に「対立」することとなったのだ。
第二次、第三次の聖秤軍を封じ込めたばかりでなく、これにより、第四次以降の聖秤軍の結成すらも大幅に遅らせることに成功したのである。
まさしく、『浅謀短慮蛮人』という人物は、対立期という時代の申し子であった。
その後、コルサーラ大陸から海を越えての大移動を果たした邪神軍族は、「メセドナ侵攻」を開始する。
メセドナ大陸の過半が順当に占められ、やはりその地が、邪神軍族の第二の供給源となった。
コルサーラ大陸の領土については、その全てを放棄したわけではなく、大陸北東部、及び東部の沿岸は軍族が固守している。
そしてこの頃、ワーレンディア大陸の南東部に居座り続けている邪神と、そこに集った邪神軍族も、勢力圏を拡大している。
ついに邪神軍族は、バローグで最も強大な勢力へと至ったのである。
さて、先だって余談にて記した、天変期の文豪が残した通俗本の題名を思い出して頂きたい。
「不出来孺子聖戦記」、そう、ここから先、『不出来者の孺子』が世に出たあとの時代の戦いは、「聖戦」なのである。
邪神軍族が一強に近付いたことによって、バローグの均衡は破られた。
主神「均衡を司る神」が、均衡を取り戻すための介入を始めたのである。
まず、メセドナ大陸の邪神軍族を率いていた『血涙流す追跡者』が、主神によって討ち取られた。
その際、メセドナ大陸にいた邪神軍族のうち、およそ三分の一にも達する人数が死亡したそうである。
ワーレンディア大陸にいた邪神は、その事態を察するとすぐに海を飛び越えてメセドナ大陸へと急行したらしい。
メセドナ大陸における主神と邪神との戦いは「メセドナ聖邪大戦」と呼ばれ、大陸中の地形を変えながら20年近く続けられた。
神々の大戦を詳細に記すことができた文献は存在しないのだが、「メセドナ聖邪大戦」での主神と邪神との争いに決着はついていない、ということだけはわかっている。
20年の間にメセドナ連邦は崩壊し、大陸内の人口も激減したが、統一主義者、主神教徒、邪神軍族の三教はなおも対立し、荒れ果てた大地を奪い合うのである。
少し戻り、「メセドナ聖邪大戦」が勃発した直後、『棋竜老公』は既に亡く、『不出来者の孺子』はバルゴンディア王国の一翼を担っていた。
『棋竜老公』を重用していたバルゴンディア王は、老公の「不出来者の孺子なれど、その天稟はこの老骨を遥かに凌ぎ、邪神討滅の大志を果たさんと思し召すならば、必ず用うべき無双の士である」との推挙に応えて、一隊を率いる指揮官として抜擢していた。
しかし、その際に言われた「かの蛮人を阻まんと欲するならば、孺子に帥の御旗をお授けになりますよう」との言葉には、さすがにバルゴンディア王も肯くことができなかった。
この時代、帥の旗とは、全軍の指揮権を預けられた、総司令官の陣幕に掲げられるものを指す。
無名の若者に国事を任せられないのは当然のこととはいえ、それでも一隊を預けたのは、破格の待遇と言える。
その後も、戦場での働きが際立っていることが知れ渡ると、バルゴンディア王は、『不出来者の孺子』を厚遇することに決めたようである。
彼は異例の早さで昇進していき、一軍の将として、「メセドナ聖邪大戦」の勃発を迎えることとなったのだ。
邪神と主神がメセドナ大陸を舞台に「メセドナ聖邪大戦」を始めたために、ワーレンディア大陸の諸勢力にとっては、邪神不在のまたとない好機が到来していた。
バルゴンディア王は、『不出来者の孺子』の助言に従って「第四次聖秤軍」を結成する。
来たるべきときに備え多量の偵知を放ち、諸国の情報収集に努めていた『不出来者の孺子』は、聖秤軍に迎え入れるべき国を厳選し、第一次以来となるバルゴンディア主導の聖秤軍を組織することに成功した。
さらに、国の内外を問わず、邪神軍族討伐のための「聖秤義民軍」を募ることを布告し、従軍中の糧食の支給を保証した。
これにより、大陸中から、食い詰め者、義侠の徒、信仰者、野心家、復讐者、賊徒、脱国者、貧民、そして勇気ある民たちが、続々と聖秤軍のもとに押しかけたのである。
この「聖秤義民軍」は、『不出来者の孺子』が志願して編成を行い、その指揮を執った。
その際、以前に自らが率いた軍隊の内の、指揮官から一般兵に至るまで、目ぼしい人材を多数引き抜いており、彼らを中核に据えて、まったく新しい形式の編制を生み出した。
兵を多数の小部隊に分け、それぞれについて経験豊かな兵長にまとめさせ、確かな知識を持つ一人の指揮官がそれを率いる。
その小部隊を一つの単位とし、それを組み合わせてより大きな部隊を作り、その大きな部隊をより有能な一人の指揮官と数人の補佐官でまとめ上げ、一つの軍をその数個の大部隊から成り立たせる。
そしてその全体を、軍の責任者とその補佐官たちが統轄している。
このような編制は、現代では常識となって久しいが、実はこのときの『不出来者の孺子』が始めたものが元となっている。
この編制では一つの軍を編成するのに大量の指揮官が必要となり、そのためには、軍事に関する理論体系の整備や、命令系統を維持するための律法、教育制度の確立などが求められる。
しかし、この対立期に至るまで、およそ1300年間にも渡って大きな戦争が行われていない均衡期が続いていたのである。
軍制改革の優先度は低く、さらにその間、人間相手ではなく、魔獣や災害に対する備えとして、軍隊の在り方が変わっていった。
複雑な戦術が考案されることもなく、細やかな部隊運用の必要もない、対立期初期までの軍隊とは、そのようなものであったのだ。
対立期初期から後期に至るまでには戦乱の知識が蓄積されており、『不出来者の孺子』や『浅謀短慮蛮人』たちが、それを新たな戦争の様式へと組み上げたわけである。
さて、短期決戦に打って出た「第四次聖秤軍」は、邪神軍族の戦線を押し戻すことに成功し、その後すぐに解散する。
大量に集まった「聖秤義民軍」を養い続けることができなかったためである。
義民軍に参加した者たちのその後の進路は様々であり、『不出来者の孺子』の手勢となった者や、その他各国に仕官した者、郷里に帰った者や、傭兵となり、後に「傭兵ギルド」の前身となる組織を作り上げた者など、多岐に渡った。
中には、邪神軍族を押し戻したあとの空白地に居住権を得て、その地を開拓しつつ軍事訓練を行い、次の聖秤軍に備える者たちも多数いた。
同じ頃、多島海域は激しい戦火に見舞われていた。
「メセドナ聖邪大戦」でメセドナ大陸が主神と邪神の戦場になると、多数の避難民が多島海域へと押し寄せた。
メセドナ大陸からの避難民とは、つまり、主神教徒も、統一主義者も、そして邪神軍族も含まれるわけである。
多島海域は、メセドナ大陸に引き続いて「三教対立」の舞台となってしまったのだ。
もともと、この多島海域には、ワーレンディア・コルサーラ・メセドナの主要三大陸から流入した主神教徒の間で宗派の違いによる対立があり、さらに複数の原住部族国家や、商売神の「商神殿」を守る神殿黄金騎士団、魚人協商組合軍に、山海匪賊連、民間武装組織赤浜一家、などといった多数の勢力が入り乱れていて、日夜抗争に明け暮れていたのである。
そこにメセドナからの三教勢力が押し寄せ、一気に火が点いてしまったわけである。
そしてまた、その多島海域からワーレンディア・コルサーラの二大陸へと、火種を抱えた避難民が連鎖的に流れ込んでいく。
次に動いたのは『浅謀短慮蛮人』で、バルゴンディア方面の大陸中央部ではなく、ワーレンディア大陸南西部への侵攻を開始する。
「第四次聖秤軍」に参加した国々は大陸東岸に接する地域が多いため、多島海域から続々と流れ込んでくる避難民や敵対する勢力の対応に追われており、邪神軍族はその隙を見て、大陸南西方面の戦線を押し上げておくという選択をしたのである。
これに対し『不出来者の孺子』は、自らの手勢と、最前線に住み着いていた元義民軍のみを率いて、邪神軍族の勢力圏へと攻め入った。
前線の拠点を次々に攻略していく『不出来者の孺子』であったが、『浅謀短慮蛮人』もまた、大陸南西部へは向かうことなく、既に自らの手勢のみを率いて反転してきていた。
つまり最初から、大陸南西へと攻め込む動きによって『不出来者の孺子』を誘い出し、討ち取ることを考えていたわけである。
一転して窮地に陥った『不出来者の孺子』は、巧みな退却戦を繰り広げるも、ついに『浅謀短慮蛮人』の本隊に追い詰められてしまう。
だがしかし、その段階で、『浅謀短慮蛮人』は追撃戦を中止するのである。
九死に一生を得たはずの『不出来者の孺子』は、颯爽と引き上げていく『浅謀短慮蛮人』を見て歯噛みしたという。
なぜなら、ここまでの『不出来者の孺子』の行動も、『浅謀短慮蛮人』を誘き出して討ち取るための作戦だったからである。
元義民軍に開拓をさせつつ巧妙に造営させていた伏撃地点に、『無頼の英雄』や、『孺子の懐刀』、『孺子の衛弓』などといった『浅謀短慮蛮人』に対抗できる武人と、貴重な精鋭魔法部隊を伏せていたのだ。
お互いに最も警戒すべき相手であると認め合っていた『不出来者の孺子』と『浅謀短慮蛮人』は、この後も、このようにして対立を繰り広げていくのである。
そして、第五次、第六次の聖秤軍を経て「メセドナ聖邪大戦」が終結し、「第七次聖秤軍」の際、魔導神の加護を受けて大魔法使いとなっていた『叡智の英雄』、つまり『不出来者の孺子』は、陣中に没するのである。
また、『浅謀短慮蛮人』も、その「第七次聖秤軍」の解散を最後に姿を消した。
一般的に、究学院内ですらその後の『浅謀短慮蛮人』の動向は知られていなかったわけであるが、魔導ギルドに伝わっていた大変貴重な史料である「ニヴル=イーズ文書」を拝読する機会を得て、私はその後の彼の動向を知った。
「ニヴル=イーズ文書」によれば、『浅謀短慮蛮人』は単身、魔導小大陸へと渡海し、魔導都市ニヴル=イーズを半壊させた末に魔導神によって討ち取られたのだという。
私は、この史料を目にして、しばらく驚きと興奮を収めることができずにいた。
ご存じの方もおられるかもしれないが、なんと、この点についてのみ、『瑠璃鐘社、露文』の記した「不出来孺子聖戦記」は、史実との一致を見るのである。
私がいったいどれほどの衝撃を受けたことか、おわかりいただけるだろうか。
幼き頃に歴史研究を志すきっかけとなってくれた英雄譚は、その志によって単なる娯楽読本へと姿を変え、そしてまた、興味深い謎を秘めた研究対象へと成り変わったのだ。
これだから、究学という活動は本当におもしろい。
叶わない願いであるとわかってはいるが、叶うことならば、いつまででもこの道を歩み続けていきたいものである。
『不出来者の孺子』の時代のあとについては、彼の遺した「不出来孺子従軍行覚書」ほどの詳細な史料は現存していない。
この後、第八次、第九次までの聖秤軍は比較的近い期間に続けられ、伝説的な暗殺者である邪神軍族の第十一使徒、『嘲る闇』が登場するようになると、軍事的な強さよりも個人の武勇が重宝される、英雄の時代が訪れる。
そして再び、今度はコルサーラ大陸へと戦場を移して、主神と邪神が相争う「コルサーラ聖邪大戦」が勃発する。
その際には、『天秤』や英雄たちと邪神の使徒との戦い、武勇神や大空神などといった神々やその加護を受けた使徒たちの戦いも、コルサーラの地で繰り広げられたようである。
「コルサーラ聖邪大戦」が終結すると、邪神軍族には第十二使徒『悪獣牽きの従者』が現れ、主神教勢力は「第十次聖秤軍」を結成する。
この頃、「メセドナ聖邪大戦」と「コルサーラ聖邪大戦」という二度の大戦を経て、邪神の力も主神の力も着実に低下していた。
それにより他の神々が介入する余地も増え、それがさらに、人々の主神と邪神以外の神々への信仰心を高め、様々な神に加護を授かる使徒、英雄の増加へと繋がるのであった。
この「第十次聖秤軍」より「聖秤英雄部隊」が組織されるようになり、少数の最精鋭のみで直接邪神を討伐しようという動きが見られるようになる。
「第十次聖秤軍」を凌いだ『悪獣牽きの従者』と邪神軍族であったが、時が流れ、新たな英雄が続々と世に出でて育つ一方、年老いた『悪獣牽きの従者』以外に邪神軍族には使徒となるほどの強者は現れず、「第十一次聖秤軍」によってついに第十二使徒『悪獣牽きの従者』は討ち取られ、邪神軍族は追い詰められていくのである。
対立期の末期、最後の邪神軍族たちは、ワーレンディア大陸の南東部、かつて『泥酔の簒奪者』が奪ったその地のみを拠り所としていた。
一度目の大戦である「メセドナ聖邪大戦」が起こる直前、その頃には世界の半分を席巻していた邪神軍族であったが、もはや命運が尽きようとしていることは、この当時、誰の目にも明らかであったろう。
衰えたとはいえ、邪神は未だ人には及ばぬ絶大な力を有していて、邪神軍族を防衛し続けていた。
しかし反対に、主神教徒たちが攻撃をしかけている間、主神は二度の大戦で失った力の回復に専念することができ、順調にいけば、次の「ワーレンディア聖邪大戦」で邪神を討ち取れる可能性が高かった。
そのような情勢の中、いつの間にか、軍族防衛を続ける邪神の傍らで、毎度必死の戦いを続ける少年が目撃されるようになった。
その少年はいつしか『邪神の小姓』と呼ばれるようになり、やがて青年になると、畏怖を込めて「道を断つ者」と呼ばれるようになる。
「会すれば進路無し、対すれば退路無し、敵すれば活路無し」と謳われ、「最後にして最高の使徒」と名高い、『道断の反英雄』の時代が到来したのである。
英雄活劇の講談として、この時代が統一王の英雄譚と並んで人気を二分している有名な時代であるということは、諸兄ご承知のとおりであろう。
そうなればもちろん、主役となる英雄、『反抗の英雄』も世に出てくることとなる。
だがやはり、創作物語と史実とは大きく異なるものであるということを、ご留意いただきたい。
特にこの『反抗の英雄』については、その出自から性情、功績に至るまで、大きく「加工された歴史」が広く信じられている。
まず彼は熱心な主神教徒として知られ、『聖炎の聖人』としても現在の主神教会から奉られているが、彼の用いた独特の軽鎧は「森番の一族」が使用していたとされるものに伝え聞く特徴が酷似しており、その「森番の一族」とは、統一王の臣下の末裔として変わらぬ忠誠を誓い続けていた一族なのである。
そしてもともとの異名についても、『忌まれ火』や『災厄の落とし子』といった呼称が記録に残されている。
主神教会の教えによれば、彼は主神である均衡神から聖炎を操る「火因支配」の力を授けられたということになっているが、『災厄の落とし子』という異名から察するに、大量の火因を纏うとされている『バローグの災厄』に襲撃を受けた村落などの、生き残りであったのではないかと思われる。
もちろん、バローグ史上、『バローグの災厄』に遭遇して生存した者はいないとされているため、これは仮説の域を出ないのではあるが、彼の「火因支配」はその際に身についたものなのではないだろうか。
さらに、彼の『反抗の英雄』という異名は、歴史に名高い邪神と彼との一騎討ちでの戦いぶりからそう呼ばれるようになったとされているが、それ以前から『反抗の英雄』と呼ばれていたことを示す資料も見受けられる。
それによれば、他の英雄や聖秤軍の方針とことごとくかみ合わない性格であったことから、反抗心の強い『反抗の英雄』と呼ばれるようになったとされている。
彼に関するもう一方の「加工された歴史」についても、ここに記しておく。
私は過去に、現代で暗躍している邪神教団の教典とされるものを入手したことがあるが、彼らは『反抗の英雄』のことを、第十四使徒『災厄の落とし子』として奉っているようである。
その教典によると、『反抗の英雄』は『道断の反英雄』と手を組んで、均衡神を討ち取るべく戦いを挑んだというのだ。
『反抗の英雄』の最期が行方知れずになっているのをいいことに、主神教会も邪神教団も、好き勝手に『反抗の英雄』を祭り上げているのである。
さて、『道断の反英雄』と『反抗の英雄』の時代には、第十二次から第十四次までの聖秤軍が結成され、「第十三次聖秤軍」の際に『反抗の英雄』と邪神との一騎討ちが起こり、その後、「ワーレンディア聖邪大戦」が勃発し、その大戦の中で、最後の「第十四次聖秤軍」が出征した。
それらの戦いが記録された信憑性の高い資料は非常に少なく、ある種、神話と化してしまっている。
特に、いかなる経緯で先代の均衡神が倒れ、今代の「均衡を司る女神」が邪神を封印したのか、その最も重大な部分が、判然としないのである。
主神教会の教典でさえ、この「新聖封邪」について、非常に曖昧で観念的な文言しか残されていない。
二度の大戦の時点で主神・邪神ともに衰えていたようであるため、三度目の大戦でおそらくは共倒れに近い結末を迎えたのではないかと思われるが、この対立期の終焉は、「統一王の横死」に次ぐ、バローグ史上の大きな謎であるのだ。
バローグの新たな主神となった「均衡を司る女神」が、全世界に向けて「均衡回復の神言」をくだし、「八百年の戦」は幕を閉じた。
統一歴2170年のことであったとされている。
新たな均衡神は主神教徒たちに自身への信仰を誓わせ、すべての宗派が統合された。
邪神軍族はわずかに生き残っていたとされ、その末裔が現代の邪神教団を創り上げたと言われている。
だが、結びに代えて究学院の学徒にあるまじき私的な感情で述べるなら、今の世の邪神教団が邪神軍族の末裔であるなどと、私は決して認めない。
邪神教団を名乗る連中の教義は、史上に見られる邪神軍族の生き様にことごとく反している。
邪神軍族の始まりは、均衡期という時代の中で強引に形成された社会における弱者たちであり、対立期という時代に寄り添い合って行き場を求めて戦った挑戦者たちであった。
ただの犯罪者ギルドに過ぎない邪神教団などとは、本質から大きく異なっているのである。
邪神も邪神軍族も悪であると断じられているが、虐殺行為や捕虜への拷問を行っていたなどという話はいっさい伝わっていない。
そこにはある種の気高さがあり、中期、後期においても、自分たちの先祖をはじき出した世界を塗り替えてやろうという力強さがある。
だからこそ、対立期という時代の出来事は、時を超え、今も講談や娯楽読本として人々に受け入れられ、語り継がれているのではないだろうか。
実を言えば、私には、邪神教団か、あるいは主神教会からの刺客が私のもとに訪れるのを、心待ちにしている節がある。
もう終わりの見えた人生であるから、最後に、私の講義が、私の得た学問が、いったいどれほどの力を秘めているのか、それを試してみたいのである。
この現代における数々の異変に、私のこれまでの究学を。
対立期のこととなると、どうもいけない、今回はずいぶんと長く書いてしまった。
後世の学徒にきっと呆れられるに違いない。
天変期、及び現代まで書き進める予定であったが、ここで筆を休めることとする。
この文書がきっと人の目にふれることを信じて……