氷漬けの原稿
セレッソが叫んでから直ぐの事。
とにかく腹の底から声を出した事が良かったのか、最初にこの部屋を見た時に受けた衝撃からくる動揺は多少落ち着いたようで、セレッソはその氷よりも濃い青色の目で改めて部屋をぐるりと見回した。
壁や床は当然の事だが、ベッドやクローゼットにチェロケース、机や、その上に置いてあったペンやインク瓶など、部屋中のあらゆる家具や調度品が薄い青色の氷で覆われていた。
しっかりと凍りついているそれらを見ながら、セレッソは普段自分が執筆作業をしている場所にある椅子へ近づき、手を伸ばした。
部屋のドアを開けた時同様に、服の袖越しに椅子の背もたれを掴み、動かそうと試みる。
だが、椅子は縫い付けられたように、氷で床に固定されてしまっていた。
「ふむ」
椅子から手を放し、そのままその手を顎へと持って行って、セレッソは小さく頷く。
セレッソは冬の討伐の際に、氷の獣のボスの体に彼女の武器である戦斧が刺さり、抜けなくなってしまった事がある。
同化するように凍りついたセレッソの戦斧。
今のこの部屋の現状は、ただ凍りついているだけというよりは、戦斧に起きた事の方に近い気がするとセレッソは思った。
セレッソがそんな事を考えながら部屋の入り口の方を振り返ってみると、ふと、氷の青色に違いがある事に気が付いた。
先程セレッソが足を踏み入れた際にヒビが入った氷の床や、開けたままのドア。
それらのものは、この机やベッド付近の色と比べて氷の青色がより薄くなっている。青色というよりは水色に近い。
反対に机やベッドのある場所の氷の青色は、少し濃い色だ。
そう、ちょうど氷の獣の色と同じ色である。
「お姉さん、だ、大丈夫ですか?」
部屋の入口の方から恐る恐る一歩を踏み入れながら、クルトゥーラはセレッソに声を掛ける。
「ええ、平気ですわ。でも、滑りやすくなっていますから、気を付けて下さいね」
「は、はい。…………うわあ」
クルトゥーラはセレッソの言葉に頷きながら、足下を見つつ歩く。
そうしてセレッソの近くまで来ると、顔を上げて辺りを見回し、感嘆の声をもらした。
「綺麗……」
ぽつりと呟くクルトゥーラの言葉にセレッソは頷く。
凍り付いた窓越しに差し込む光が凍りついた部屋の氷に反射して、煌めく。
ベッドやクローゼットなどの大きなものは、それに合わせて大きく、ペンやインク瓶などの小物は小さく。
キラキラ、キラキラと、物や差し込む光の具合によって変わる煌めき。
幻想的なその光景に、セレッソはかつての冬の討伐で見た氷の獣の事を思い出していた。
「これは、良いネタに……!」
セレッソは両手の拳をぐっと握ると、嬉しそうに笑う。
最終的にそこに思考が行き着くのが作家の性という奴だろうか。
――――だがその笑顔は次の瞬間、ある物を目に映したが為に、再び凍りつく。
嬉しそうに、楽しそうに、くるくると辺りを見回していたセレッソは、ふと、テーブルの脇に重ねられたものに目を止めた。
紙の束である。
厚さはなかなかだ。
「――――」
あれが何であるかを理解した瞬間、セレッソは絶句した。
次の瞬間には部屋を覆っている薄い青色の氷よりも青ざめる。
「わ、わ……わたくしの原稿――――ッ!」
部屋の中のありとあらゆるものが凍っているという事は、彼女の原稿も例外ではない。
完成したか、もしくは完成間近ほどの分厚い原稿用紙の束は、カチンコチンに凍り付きキラキラと煌めいていた。
「おい、どうした!?」
二度も聞こえたセレッソの叫び声に、ベナード達、隊舎にいた者達が血相を変えて駆けつけて来た。
一度目に聞こえた叫び声でセレッソの部屋へ向かっている時に、二度目の叫び声である。
それは焦りもするだろう。
ベナード達はセレッソの部屋の前まで来ると、開いていたドアから顔を覗かせ、中を見て唖然とした表情になった。
「な、何ですか、これは……」
「うわー! うわー! すごーい! 綺麗ー!」
驚くシスネの背後では、マルグリートがぴょんぴょん跳ねて部屋の中を覗きながら、歓声を上げている。
そんなマルグリートを落ち着かせようと、ピエールが慌てて彼女の肩に手を置いた。
「ま、ま、マルグリートお嬢さん、空気を読みましょう……!」
「何を言っているの、ピエール。空気は吸うものよ」
「い、いや、そうですけどぉ……」
わいわいと賑やかに騒ぐ二人の声に、シスネはこめかみを押さえる。
そんな賑やかな部屋の入り口から、少し離れた先。
そこでも入り口と同じくらい賑やかな声が聞こえていた。
「ど、ど、ど、どうしましょう! そ、そうですわ! とりあえず戦斧でガツーン! と!」
「お、お姉さん、戦斧もチェロケースと一緒に凍り付いていると思います」
「はっ! そうでしたわ! それならばまずはチェロケースを……うぐぐ、わたくしの部屋! わたくしの武器をはーなーしーてーくーだーさーいーなー!」
氷というか部屋が敵になったような言い様である。
わたわたと慌てながら騒ぐセレッソ達に、きゃいきゃいとはしゃぐマルグリート達。
両者の賑やかさに落ち着きを取り戻したベナードは苦笑し、シスネはため息を吐いた。
「ははは、まぁ、何ともなさそうで何よりだ」
「いえ、隊長。何ともないわけでもなさそうですが……これは一体何なのでしょう?」
「そいつは部屋にいる奴に聞いてみるか。おーい、セレッソ! こりゃ一体どういう騒ぎだ?」
とにかく部屋の主に聞くのが早いとベナードがセレッソに声を掛ける。
セレッソはベナードの声にハッと振り返ると、氷漬けのチェロケースから手を放し、そのままその手を頬に添えた。
「いえ、わたくしの原稿がカチンコチン……ベナード隊長! ベナード隊長がわたくしの部屋に! 婿に……冷たい!!」
「まだ何も言ってねェんだが」
この部屋の寒さだ、頬も冷たくはなっていただろう。
だが、その手はそれ以上に冷たかったようで、手を頬に添えた直後にセレッソは叫んだ。
妙なタイミングで先を越されたベナードがくつくつ笑いながら、部屋の中へと一歩足を踏み入れる。
そうして手を腰に当ててぐるりと部屋の中を見回した。
「なるほど、氷の獣の体に良く似ているな」
ベナードも毎年冬の討伐に参加しているので、氷の獣については良く知っている。
彼の言葉にシスネが「そうですね」と頷くと、マルグリートとピエールは「へぇー」と興味深そうに目を見開いた。
「すごいね、シスネ! あたし達と同じくらいなのに、氷の獣を見た事があるんだ! さすが騎士様!」
「え!? えっと、その……いえ、僕は……」
「うう、僕なんて、氷の獣を前にしたら足が震えそうなのに……」
尊敬の眼差しを向けるマルグリートとピエールに、シスネは困ったように視線を彷徨わせた。
見たことがあるか、ないかと言われれば、シスネは実際にその姿を目にした事はない。
討伐に参加する事はあっても、不思議な事にシスネが向かう方角には決まって氷の獣が現れた事がないのだ。
氷の獣に関する知識は、本や騎士達から聞いた話や、画家が描いた絵などで得たものである。
その事をシスネは気にしているのだが、無論マルグリート達はそんな事は知らない。
「ああ、この間な、セレッソの武器が氷の獣の氷で氷漬けになったんだよ。あの色と似てるよな、シスネ」
「あ……は、はい!」
そこへ助け舟を出したのがベナードである。
マルグリート達はベナードの言葉に「そうなんだぁ」と納得したように頷く。
話が逸れた事でシスネはほっとしつつも、若干後ろめたそうに目を伏せた。
「それで、セレッソ。どうなってんだ、これは」
「わたくしにも良く分からないのですけれど、クルトゥーラと一緒に部屋に戻って来たら、こんな事になっていましたの」
「お前が最後に部屋を見たのはいつ頃だ?」
「えーと、確か……朝食を取る前ですわね。朝食を食べたら直ぐに下で書類の整理をしていましたから」
セレッソが部屋の壁の掛け時計を見上げて言う。
時計の針もまた氷によってカチンコチンに凍り付いてしまっていた。
「なるほど、その後か。しっかし、部屋に戻っていなくて良かったな」
ベナードの言葉に、自分がこの部屋のように氷漬けになる可能性もあった事を思い出して、セレッソはぶるりと体を震わせた。
寝坊は今の所した事がないが、これが執筆作業中だったら危なかったかもしれない。
「ええ、本当に……い、いえ! でも、大変なんです、ベナード隊長!」
セレッソは少し青ざめつつ、ベナードの言葉に胸を撫で下ろした。
そうして、ふとある事を思い出し、勢い良くベナードを見る。
「どうした、何か不味い事でもあったか?」
「ええ、とっても不味い事ですわ! ねぇ、クルトゥーラ!」
「は、はい! と、とても不味い事です……!」
セレッソに話を振られたクルトゥーラがこくこくと真剣な表情で頷く。
セレッソだけならばまだしも、クルトゥーラまでも不味いと言っている事に、ベナードの表情も真剣なものへと変わる。
そうして言葉を待つベナードにセレッソは声を張り上げて言った。
「わたくしの原稿が氷漬けなんです!!」
セレッソの声が部屋の中に僅かに木霊したように聞こえた。
ベナードとシスネ、マルグリートはポカンと口を開けて彼女を見る。
ピエールだけはバッと口に手を当てて「信じられない」と言うように目を見開き、一歩後ずさった。
「そ、そんな……原稿が……!」
「ええ、そうなんです、原稿が……!」
「い、一大事、です……!」
セレッソとクルトゥーラ、ピエールの間には何かしら通じるものがあるようで、三人はお互いの顔を見ながら頷き合っている。
彼女達とは逆にベナードとシスネ、マルグリートは今一つ良く分からないようで、顔をかいた。
「こ、この状況で原稿の心配ですか……?」
「当り前ですわ、シスネさん! 原稿は、原稿は作家の命なんですの!」
シスネの言葉にセレッソは胸を叩いて訴えかける。
だがやはり、今一つ伝わり辛かったようだ。
「長い時間待って、待って、ようやく食べる事が出来たケーキみたいな存在ですわ」
「ああ!」
セレッソがそう言うと、ようやくシスネにも伝わったようだ。
神妙な顔をして頷くシスネにベナードとマルグリートは『何か違うような』と思いながらも口には出さなかった。
「まぁ、とにかくだ。この氷を何とかしねェとなァ……」
「ええ、わたくしの原稿のためにも!」
セレッソはベナードの言葉に、ぐっと両手の拳を握って力強く頷いた。




