隊舎の夜
セレッソは風呂が好きだ。
雪国であるアルディリアにおいて暖を取れる手段の一つである風呂は重要なものだ。
何よりも入ると気持ちが良いし、疲れも取れる。
寒さの中で帰ってきた体を温めてくれる風呂が好きなのは、セレッソだけではない。アルディリアの国民は総じて風呂好きが多かった。
さて、そんな風呂好きなアルディリア国民であるセレッソは、少し前に隊舎の風呂を借りてサッパリとした所だ。
ベナード隊の隊舎へと到着した時のセレッソとベナードは泥だらけだった。
さすがにそのままではいられないので、まずはその格好を何とかしようと、セレッソは風呂を借りた。
ベナードは後で良いと言うので、今回はお言葉に甘えて先に入らせて貰う事にしたのだ。
アルディリアの風呂は建物と同じくレンガで作られた浴槽が置かれている。
浴槽のサイズは大人一人が入るとやや狭いくらいで、端の方に幾つかの穴が開いた薄い仕切り板が入れられている。
その仕切り板の向こうに火精石という名前の小石が入った袋を水に沈めて湯を沸かすのだ。
火精石とは透明な橙色をした小石の事である。
これを幾つかのハーブと一緒に袋に入れて水に沈めると、一、二時間程度熱を発する。
使用したハーブの種類や量によって発する熱の温度は変わるが、浴槽くらいの大きさならば、小さな子供の握り拳くらいのハーブがあれば十分だ。
風呂自体はアルディリアならどこでも、それこそセレッソが泊まっている宿屋にもあるが、隊舎の浴槽は一味違った。
一般的に流通している浴槽は、レンガのザリザリとした感触が残り、浴槽の内側に寄りかかるとチクチクと痛い。
だが隊舎の浴槽はルシエが手を加えているらしく、つるりと滑らかだ。
しかも火精石用のハーブも香りや肌に良い物が使われており、洗髪に使うセクレトの粉など、使わせて貰うのがもったいないくらい質が良い。
「母さんにも送ってあげたいですわねぇ……」
そんな事を考えながら入浴を終えたセレッソはルシエに借りた服に着替えた。
薄い紫色の上品なブラウスと黒色のスカート。その上に厚手のベージュのカーディガンだ。
もともと着ていた服はそれこそ泥だらけの為、お風呂に入る前に洗濯をして、干させて貰っている。
乾くまでの間に着る物がないのでルシエから借りたのだ。
ルシエとセレッソは身長差があるので、ブラウスやスカートは少しぶかぶかしているが、着ていても問題はない範囲だ。
それよりも同じくらい胸元もぶかぶかしている方がセレッソには気になったが、言葉通りそっと胸にしまっておく事にした。
「あ、降り始めましたわね」
風呂を出て、セレッソが廊下を歩いていると、廊下の窓の向こうでしんしんと雪が降り始めているのが見えた。
雪の粒は少し大き目で、降っている量を見ると明日は大分積もりそうだ。
半乾きの髪にじわりと寒さが伝わって、セレッソはぶるりと体を震わせ、再び歩き始めた。
「ああ、セレッソさん」
歩いていると、シスネと出会った。
よく見る騎士隊の制服ではなく、ベージュのセーターとズボンというラフな格好をしている。
勤務時間は終わっているので、恐らくこれがシスネの私服なのだろう。
「お風呂、ありがとうございました」
「いえ。もうそろそろ食事の時間になりますから、食堂の方へどうぞ」
「はいですわっ」
シスネはそう言うと、そのままセレッソとすれ違い、歩いて行く。
セレッソはその後ろ姿を見送りながら、そう言えば今日の食事当番はローロだったなと思い出した。
ベナード隊では騎士がそれぞれ交代で食事当番をしている。
騎士達は昼は仕事の関係でそれぞれで食べる事が多いが、朝と晩の食事はこうして自分達で作り、一緒に食べているのだそうだ。
彼らの中で一番料理が上手なのがローロだと噂に――主にレアルから――聞いていたセレッソが楽しみだなぁと頷いていると、ふと、シスネが歩く足を止め、振り返った。
セレッソが首を傾げるとシスネは、
「その、残念でしたね」
と、眉尻を少し下げて心配そうな面持ちで言った。
シスネの言葉にセレッソはじんわりと胸が温かくなりながら、ぐっと両拳に力を込める。
「うふふ。大丈夫ですわ! また作れば良いですし、それに――」
「――障害がある方が燃える」
セレッソの言葉をシスネが受け継いで言った。
驚いて目を張るセレッソにシスネは少し微笑む。
「……でしたよね?」
恐らくセレッソがコンタールへ来て初めて見たシスネの笑顔である。
嬉しくなってセレッソは笑って頷いた。
シスネは直ぐに表情を戻すと、
「紙芝居の方は砂を払って、広間のチェロケースの上に置いてあります。ケースも一応拭いておきましたので、問題がないか確認をお願いします」
「ええ、ありがとうございます」
そう言って軽く頭を下げると、そのまま廊下の奥へと歩いて行った。
少しは仲間と思って貰えているのだろうか。
そんな事を思って唇の端を上げながら、セレッソはスキップ混じりに広間へと向かった。
「元の紙芝居はそのまま作り直すとして、あの子達が作った結末の紙芝居もあっても面白いかもしれませんわね」
ベナードにも言ったが、これは気合を入れて直さねば。
セレッソはそう心に決めながら広間の前へとやって来た。
ギィとドアを開くと、どうやら暖炉が燃えているようで、中からはふわりとした温かさが伝わってくる。
セレッソは、ふう、と息を吐くと、一歩足を踏み出した。
そして、そのまま足を止める。
広間の中へ入ったセレッソの目に、ある人物が映ったのだ。
「…………」
レアルである。
彼もまたオレンジ色のタートルネックのセーターに、茶色のズボンというラフな格好をしている。こちらも私服だろう。
レアルは広間の中央にあるテーブルの前に立って、チェロケースの上に置かれたセレッソの紙芝居を手に取ってじっと見つめていた。
紙芝居は乾いた後でシスネが砂を払ってくれているのだが、紙に染み込んだ部分はしっかりと茶色に染まっている。
騎士の姿に、村の風景に。様々な色が茶色へと変わっていた。
その紙芝居を見るレアルの目は真剣で、普段の感情豊かな表情はなく、ただただ無言でそれを見つめている。
「……レアルさん?」
声を掛けようか少し迷った後で、セレッソはそっとレアルに呼びかけた。
ドアの開く音も聞こえていなかったのだろう。
セレッソの声にレアルは、はっと顔を上げると、慌てて手に持った紙芝居をチェロケースの上に戻した。
そうして誤魔化すようにいつも通りの自信たっぷりにな笑顔を浮かべて、右手で肩に掛かった髪をフアサと払う。
「さ、サッパリしたようだな、ひよっこ作家! だがドアを開ける時はノックくらいしたまえっ」
相変わらずの言い様ではあったが、レアルの声はいつもより元気がなかった。
声の張りと言うのだろうか。心なしか肩まで少し下がっている。
どこか落ち込んでいるようなレアルの様子にセレッソは少し首を傾げなら、それでもいつもの調子で言葉を返した。
「あらっここは皆様使う広間ですもの。レアルさんだって、いつもノックしてませんわよ?」
「フフン、ボクはひよっこ作家と違って正式な騎士隊メンバーだからな! ノックなど必要ないのだよっ」
セレッソの言葉に、レアルはフンと鼻で笑うと、腰に手を当てて胸を張った。
気のせいかなと思ったセレッソだったが、いつもならばその後に来るはずの高笑いが、どれだけ待ってもやって来ない。
レアルの様子が違うのでセレッソも何と言おうかと言葉に迷い、レアルもレアルで言葉が返って来ないのでどうしたものかと口を閉じる。
そのまま無言の時間が少し流れると、レアルは腰から手を降ろして気まずそうにセレッソから視線を逸らた。
「その、だな」
レアルは逸らした視線を紙芝居に向けると、つられてセレッソも紙芝居を見る。
そうして指で顔をかきながら、レアルはぼそぼそと喋った。
「まぁ、あれだ、その。…………元気を出せ」
小さな声だった。
廊下から聞こえる誰かの足音にかき消されそうなくらい小さく、また早口にそう言うと、レアルは再び視線を逸らす。
セレッソはその言葉に目を張ると、嬉しそうに目を細めた。
「うふふ。元気はばっちりですわよ」
「そうか」
レアルは、ふー、と長く息を吐いた後、どさりとソファーへと腰を下ろす。
先程までの表情が少し和らいでいるのを見て、セレッソも同じように向かい側のソファーに腰を下ろした。
レアルの顔を見ながらセレッソは、レアルも紙芝居を楽しんでくれていた事を思い出した。
隊舎に戻った後、事情説明を求められた二人は、教会で起こった事を掻い摘んで話をしたのだが、その時に一番怒っていたのがレアルだった。
ふざけるな、それが冒険者のやる事かと、そう怒鳴ってそのまま隊舎を飛び出して冒険者ギルドへ殴り込みに行こうとしたのを、ローロとシスネが必死になって止めたのだ。
あの時のレアルの剣幕は凄かった。
くるくるとよく変わる表情は怒りの赤一色で、シスネですら目を見開いて驚いていたのだ。
全部を聞き取る事は出来なかったが、子供達の事や、冒険者の仕事の事、そして紙芝居の事で、レアルは怒ってくれていた。
驚きはしたが、そうやって怒ってくれた事がセレッソは嬉しかった。
この隊の人達は優しい。
セレッソがそう思っていると、ふと、レアルがセレッソに尋ねた。
「キミはもう怒っていないのか?」
「怒る?」
「諸々」
セレッソは少し考えた後で頬に手を添えてにこりと笑いかけた。
「あら、わたくしはずっと怒っていますわよ?」
セレッソがそう言うと、レアルが少し不思議そうな顔をして首を傾げる。
「ずっと?」
「ええ、大分年季が入っていますわ」
そう言うとセレッソは紙芝居に手を伸ばした。
セレッソの作った三人の騎士を描いた紙芝居。
それはセレッソが七年前にその目で見たセレッソにとっての真実だ。
あの時、別の方面からの真実に触れて感じたものが怒りだとするのならば、セレッソはずっと怒っている。
だから。
「この程度じゃ、まだまだ。……もちろんこれとは別に、子供達の件は怒っておりますから、きっちりとお話に行きますけれどっ」
軽く首を振ってセレッソは笑って見せる。
普段の賑やかな笑顔ではなく、それこそニヤリと笑うような不敵な笑顔だ。
レアルはセレッソの言葉に目を丸くすると噴き出した。
そうしてようやく本来の調子を取り戻したのだろう、自信たっぷりの笑みを再び顔に浮かべる。
「ところで魔法は?」
「う、うぐう! まままままだ時間がありますわっ」
「はーっはっは! せいぜい頑張ることだな、ひよっこ作家!」
「わたくしの名前はセレッソですわー!」
きいいいと悔しがるセレッソに向かって高笑いをするレアルには、もう気落ちした様子はない。
それを見て表情を戻すと、セレッソはくすりと微笑んだ。
同じようにレアルも笑う。
そうしていると、遠くからローロの「夕食できたよー!」と呼びかける声が聞こえてきた。
二人は頷いて立ち上がると暖炉の火の様子を確認してから広間の外へと向かう。
「そう言えばキミ、泊まっていかないのか? ベナード隊長がもう遅いから泊まって行けと言っていただろう?」
「わたくし、まだ正式な隊付き作家じゃありませんもの。それは後の楽しみに取っておきますわ。ベナード隊長と一つ屋根の下……きゃっ素敵!」
「キミはぶれないねぇ……」
頬に両手を添えて少し身をくねらせてドアをくぐるセレッソ。
レアルはそれを見て苦笑しながら、一瞬だけ紙芝居を振り返る。
そして少しだけ優しげに目を細めるとそのまま外へ出てドアをぱたりと閉めた。