蛇の舌と虎の尾
二年六組のプレートが掛かった教室の前で、俺は溜息を零した。何だって俺は運がないんだ。このプレートが二年三組だったら、いや寧ろ涼が六組だったらよかったのに。毎日この教室の前に立つ度に考えてしまう。
「田村、邪魔」
「あ、わ、悪い」
影が出来て慌てて飛びのいた。クラスメイトの中野だ。悔しいことにほとんどの男は俺より背が高い。羨ましい。中野を目で追うと、席に着いた彼も俺と同じように溜息を吐いていた。
「なんだよ」
目が合って、眉を顰められた。
「いやあ、何で溜息なんかと思ってさ」
躊躇いがちに訊くと、中野が何かを思いついたようで俺においでおいでをした。中野の前の席に座ると、右肩に手を置かれた。何だ、その手は。何だ、その目は。期待したような目にたじろぐ。
「同士だ。お前の彼女、三組だったよな」
「う、うん。三組」
確かに俺の彼女の涼は三組だ。
「ついでに吉田とも仲良かったよな」
「た、多分。仲良い」
「じゃあ」
今度は左肩にも手を置かれた。逃げたい衝動に駆られるががっちり掴まれてしまっている。
「俺に吉田紹介してくれ」
「無理! な、何言ってんだよ、中野。そういうことは神城にでも言えばいいじゃん。あいつも三組だし、友達なんだろう?」
「駄目だ。あいつは色事に手を貸してくれん。だから、お前の手を貸せ」
「めちゃくちゃだぁ!」
朝の静かな教室で、俺の叫びは特に響いた。
昼休み、言葉を濁して何とか中野の追撃を振り払った俺は、まだ昼なのに疲労感でいっぱいだ。中野から逃げて涼の元へ向かったが、彼女は吉田や三嶋と何処かへ行ってしまったらしい。残念だ。
トボトボと廊下を歩いていると、背後から誰かが駆けて来る音がした。振り向く気力もない。
「田村、覚悟」
「うわっ!」
史が全速力で間近に迫っていた。逃げようとしたが遅かった。タックルされて廊下に転げる。起き上がると史が仁王立ちで俺を見下ろしていた。
「史……」
「小さい男だな、田村。溜息ばかり吐く後ろ向き男に佐川はやれんよ」
「うるせえ。小さくねえよ。お前、同じ身長だろうが。それより何で激突してくるんだ」
打ち付けた膝を擦りながら立つと、如何にも史らしい顔を作った。
「佐川とクラスが別れて悔しいか。あたしは佐川と二年連続で同じになったからねえ。羨ましいだろう」
わざとだ。絶対わざとだ。自慢げに言う史が憎たらしい。
「何しに来たんだよ。用がないならどっか行けよ」
「おや、あたしにそんな口聞いていいのかな。折角あんたにいい提案をしてやろうと思ったのに」
「いい提案?」
「そう。嫌なら仕方ないな。佐川には断られたって言っとくよ」
どういうことだ。踵を返して去ろうとする史を反射的に呼び止めた。すると楽しそうに手を振りながら笑った。
「手土産を持ってくるなら、あたしたちの昼食会に入れてやる。来るか? ちなみに梶栗君は既に決定済みだ」
言うことを言ってしまうと手を振りながら去っていく史の背中。俺は沈んでいた気分も忘れて叫んだ。
「行く! 涼が喜ぶお菓子を毎日作ってやる。ついでに史にも俺特製をつける」
嬉しさでいっぱいになる。史の振っていた手が瞬間ギュッと拳になった。遠くなっていく史の背中が今の俺には神々しい。
ほくほくと気分よく六組の教室に戻ると、トントンと肩を突かれた。振り返って頬をブスッと指で突かれる。
「な、中野?」
「見てたぞ、さっき。嬉しそうだな。そのついでに俺の株をあげるくらいわけないよな。な?」
顔が引き攣った。ギギギと見上げれば、柔和な微笑み。どうしてだろう、それがとても黒く見える。さすが腐っても神城の親友。
「な?」
にこやかに肯定的な返事を強要する級友は、俺が首を縦に振るまで放してはくれなかった。
南天台高校二年六組 田村努