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06.モモさん

 その心づもりならしていた。わたしはうなずく。ミタカはわたしを手まねきして、客席に座らせた。見るも無残な劇場の客席たちだったけれど、ミタカが案内した席にはぶあつい座布団がしいてあった。ほんとうなら大きく倒れるだろう背もたれは、どこかで壊れているようで、体重をかけてもびくともしない。

 ミタカもわたしのとなりに着席する。アンダーソン氏もどこからかやってきて、わたしたちの足もとに寝た。

 わたしはかばんから手帳を取り出して、はさんであったふるい写真をミタカにわたす。当の犬と、おさないころのわたしがうつった写真だ。目をつむり、彼がどんなふうだったか思いえがいてみる。写真なんてなくても、まなうらの闇になつかしい姿が現れた。大きな犬で、毛は金茶だった。たれ耳で、目が黒くてくりっとしていて。

「……名前はね、モモ。でも年上だったから、モモさんって呼んでいた」

 モモさんは祖母がひろってきた犬で、わたしが産まれる前から家にいた。先輩か、兄か。そんな存在だった。

「いつも笑っているみたいな顔をしていたし、鳴き声が変わっていたから、ちょっとまぬけに見えた。でも、ほんとうはすごく勇敢で」

 そう、モモさんはとても勇敢で、年下のわたしにもやさしい犬だった。……けれど、勇敢だったからこそ。

 心の奥で、古傷がうずいた。

「わたし、死にかけたことがあるの。高熱を出して」

 唐突に聞こえただろうに、ミタカはあまり動じなかった。彼自身が脈絡のないもの言いばかりするせいで、慣れているのかもしれない。

「高熱って」

「聞いておどろけ四十二度」

「真顔でおどけないでくれ。ちょっとこわいよ」

 失礼な。けれどほほにふれてみると、たしかにそこはみじんもゆるんでいなかった。

「四十二度、ねえ」

 となりに座るミタカをうかがうと、眉をひそめていた。ふたたび、四十二度。とつぶやきが漏れ、顔がかたむいた。おどろくというよりは、疑問を感じている様子だ。わたしの視線に気づいて、あいまいな笑みを作る。

「いや、なんでもないんだ。つづけて」

 うなずいてまた前を向く。一度話しだしてしまえば、記憶はつぎからつぎへと湧きでてきた。濡れた鼻の感触。お陽さまのにおいのするやわらかな毛並み。

 わたしのたいせつな家族は、たしかに生きていた。でも。

「たぶん、わたしの身代わりになって死んだ」

 足もとのアンダーソン氏が、身じろぎをした。


 四十二度の熱にさいなまれる眠りのなか、見た夢がある。

 砂浜に立っていた。空は墨をながしたような黒をして、星も月も見いだすことはできない。それなのに、えんえんとつづく浜の砂は、ぼんやりと白く光って見えた。足を動かせば、砂はからからに乾ききっていることが知れる。まるで骨でもくだいて作ったよう。目の前に広がる海は広々として、水平線はぼやけて空と同化していた。けれども、ほんのわずか海のほうが空より暗い色だった。

 波打ち際に立てば、重たい水があなうらの砂をさらってゆく。

 海鳴りのひくいうねりは、まるで虫のざわめき。

 そのときのわたしには、ふしぎと確信があった。ぼうっと熱に浮かされた頭で、悟っていた。ここはこの世の終わりの海。彼岸と此岸のさかいめの場所。わたしのいのちは、行きつくところまで来てしまった。つまるところ、残されたのは死だけだ、と。

 深く考えないまま――いや、頭がぼうっとして考えられないまま、いかなくちゃと思った。この海の、向こうに。わたしは沖に向けて歩きだした。どんどん海は深くなり、胸までが海水に浸かる。水はなまぬるいようで冷たい。体は少しのあいだに動かすのもおっくうなほどに冷えきったけれど、わたしの歩みは止まらなかった。

 そしてあるとき踏みだした足が、地面につかなかった。顔が一瞬、水に浸かる――そのときだった。

 背後からぶわ、と風。

 一拍おいて、くきゅるるるる。

 その妙ちくりんな音を、わたしが聞きちがえるはずはなかった。なにせ唯一無二の音なのだから。わたしの最愛の家族、モモさんの鳴き声。どこでどうまちがったものか、モモさんはいっさい吠えない犬だった。その代わりに、笛によく似た気のぬけた音ばかり漏らした。

 一息に正気づいたわたしは、ばたばたともがいて振り向く。そこに、走りこんでくる金茶の毛並みの大型犬が見えた。

 モモさんは体が濡れるのもかまわず海に入り、わたしを陸まで連れもどした。けれども、自分は海のなかにとどまったままでいた。おいでと呼ぶと、気のぬけた鳴き声がひとつ帰ってきた。

 わたしの夢はそこで終わりだ。目覚めると真っ白な病室にいた。くしゃくしゃに顔をゆがめた両親がわたしをのぞきこんでおり、肩を抱いてよかった、よかったと泣いた。

 その後、家からの知らせを聞いてわたしは呆然とする。ごはんをあげようとした祖母が、地に体を横たえたモモさんを見つけたのだ。すでに、こときれていた。雨が降るなかにいたわけでもないのに、モモさんの体毛はぐっしょりと濡れていたという。

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