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22.ずっと言いたかったこと

 まぶたが重くて開けられなかったけれど、ほほにふれているざらつきの正体は、どうやら砂だ。わたしはいつのまにか、砂地に横たわっている。ざわざわという音がすぐ近くでする。虫のざわめきのようなその音。これはきっと海鳴りだ。

 どうにかこうにかまぶたを開いて上体をわずかに起こす。わたしは、声を失った。

 目の前に広がるのは、波すら黒々とした海だった。

 たったさっきまで、わたしは廃墟のなかにいたはずだ。それなのにどうして、こんなところに。

 考えかけて気づく。空は墨を流しただけのような味気無さで、星ひとつひかってはいない。手もとを見れば、砂は白く乾いている。まるで、骨をくだいたような砂。

 見覚えのある景色だった。わたしはここに、来たことがある。――そう、四十二度の高熱を出して、死にかけたあのときの浜辺だった。

 気を失う前のことを思いだす。わたしは頭を打って、ここに来た。

 ああ、死ぬのか、わたし。

 実感はまったくないままに、そんな考えがぽつんと浮かんだ。

 ぼんやりとしているうちに、波が高くなっていく。息苦しくなるほどに風はないのに、水面は見るまに荒れてゆく。

 やがて波が押し寄せて、わたしの体が浮いた。とっさに踏んばろうとした足は、抗いきれない力につかまった。まるで海のなかからだれかが引っぱっているみたいだった。

 一瞬の後、わたしは嵐の海のなか。口のなかに塩からい水が入りこむ。それでようやく、実感した。

 死ぬ。その二文字に、体がこわばる。海水は前に浸かったときとおなじにぬるいようで冷たく、体温と感覚は指先、つま先からどこかへ逃げてゆく。

 嫌だ。いま死ぬだなんて、嫌だ、とわたしはもがいていた。やっと自分の本心に気づけたのにここで終わりだなんてあんまりだ。波にのまれまいと、手足を必死でばたつかせる。けれども体には重たい水がからみつき、思うようにならない。

 ばちが当たったのだろうか。いままで、生きることから顔を背けてきたから。そんなわたしに、都合のいい奇跡なんて訪れるはずもないのかもしれない。でも、でも、だけど。あきらめたく、ない。ここにきて往生際の悪さが、顔を出している。

 目に海水がしみ、強く目をつぶった。ふいに、まなうらに光るものがあった。……いつか見た、一番星。その下で交わした会話が、思い出される。

 ――だってこの世界じゃ、想像は現実になるだろう。

 あの日、ミタカは言った。わたしは答えた。この世界でほんとうになるのは、滅びに向かう幻想だけだと。そのことばは笑い飛ばされた。

 ――案外そうでもないって。保証する。

 あのときは、妙に自信たっぷりな彼の様子がふしぎだった。いまならわかる。根拠はミタカ自身だ。自分が人間になりたいと願って、それは叶えられた。

 慧斗さんのことばを信じるのなら、黒い犬もまた、願いの具現化だ。

 だとしたら、わたしは諦めなくてもいいのかもしれない。わたしは水面でもがきながら、ことばにこめる。口に水が入るのにもおかまいなしで、たいせつな思いを音に乗せる。

「会いたい」

 もろもろに邪魔されて、ちゃんとした声にはならなかった。それでも言えた、と思った。これ以上ない本音を。

「会いたいよ、モモさん」

 そして、わたしはたしかに聞いた。自分の手足がばちゃばちゃと水面をたたく激しい音の合間に、なつかしい声がひびくのを。

 一陣の風が、吹いた。

 ――くきゅるるるるるる。

 聞きちがえようもない鳴き声を聞きながら、わたしは見つけた。水平線の方向に、ずぶぬれになってなおかがやく金茶の毛並み。

 時間が止まったような気がした。そのすがたが目に入った一瞬を、ひどく長く感じた。

 強くすずやかな風をともなって、モモさんは目の前に現れた。かと思うと、わたしを連れて岸まで泳ぎだす。荒波などないのと同じだと言いたげな、見事な泳ぎだった。

 岸に足がつく。まるでむかし助けられたときとおんなじだった。いまも、むかしも、モモさんはたのもしい。そのことに胸がいっぱいになったけれど、わたしはしっかりしなくちゃいけなかった。

 会えたのだから、言わなくては。

 水から上がり、モモさんを見つめる。感極まっているせいか、金茶の毛も黒い目もお大きな手足も、なにもかもがまぶしく見えた。

 深呼吸をひとつ。そして、言った。

「ありがとう」

 それが、心の底で、モモさんに言いたくて言いたくてしかたのなかったことばだった。

 モモさんは答えなかった。ただ黒いひとみでわたしをじっと見つめた後、水から上がらないままに、きびすを返した。

 呼び止めても意味はないのだろうと、なんとはなしにわかっていた。きっとモモさんはむかし、熱を出したわたしの代わりに海の向こうの住人になった。それはくつがえせないことだ。

 だから遠ざかる背なかに、わたしはもう一度叫んだ。

「モモさん、ありがとう!」

 あのとき、助けてくれて。

 いま、助けてくれて。

 心地よい風をあびながら、わたしは水平線の向こうにいとしい家族のすがたが消えてゆくのを見ていた。



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