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17.炎

 青年は慧斗、と名乗った。慧斗さんが引くと自転車はするすると前に進み、わたしがこいでいるときとは大違いだった。来たときよりずっと短い時間で同じ道を戻り、やがてプラネタリュウムにたどり着く。

「こんなところにプラネタリュウムがあったんだ。おれ、こっちの丘には来たことがないから知らなかった」

 慧斗さんが目をみはるのを横目に、両開きの扉に手をかける。アンダーソン氏は扉のすぐ近くで待っていた。ただいま、と言おうとするより早く、けたたましい鳴き声が響きわたる。アンダーソン氏は慧斗さんの顔を見るなり、激しく吠えたてたのだ。番犬としての血が騒いだのだろうが、それにしては敵意がありすぎる。わたしは彼の前にしゃがみこみ、灰色の体をなでてなだめた。あまりうるさくするとミタカの体に障りそうだ。それはアンダーソン氏にとっても本意ではないだろう。

 氏はほどなくして鳴きやむ。それでもむくむくとした毛の向こうから慧斗さんとじっと見張っているのはわかった。

「ごめんなさい。アンダーソン氏……アンダーソン氏っていうんですけど、あの子、アンダーソン氏にとっては大事な場所なんです、ここ」

「いや、いい番犬だって証拠だ。ふうん、アンダーソンっていうんだ」

 慧斗さんはどこか熱っぽい目でアンダーソン氏を眺めていた。やがてふいと視線を逸らして、ミタカに向き直る。そうしてわたしにどこに寝かせたらいいか聞いてくるので長椅子まで案内すると、こんなところで寝てちゃ疲れがたまるだけだと顔をしかめる。とはいえこのプラネタリュウムにまともな寝台がないことはもうわかっている、毛布をしいてその上に寝かせた。

 慧斗さんは慣れた手つきでミタカの熱を計り、濡らしたハンカチで頭を冷やし、そして食べものを提供してくれた。お供えものとして持ってきたものだったらしい。ミタカに食べられるかどうかはわからないけれど、もらっておくことにする。

 こまめにハンカチを取り替え、汗を拭いてやり、ミタカを見守る。ひとりでないことはありがたかった。アンダーソン氏とここでじっとしていたら、不安だけが大きくなってどうしていいかわからなかったにちがいない。

 どのくらいの時間が経っただろう。慧斗さんが立ち上がり言った。

「落ち着いてきた。……このまま安静にしていれば、大丈夫だと思う」

 そう言われて見下ろしたミタカの顔からは、たしかに赤い色が引いていた。白いまぶたは固く閉じて深く眠りこんでいることが知れる。荒かった息もいまは落ちついて安らかだ。

「そうだ、璃子ちゃん」

 慧斗さんがこちらに向き直る。

「聞きたいことがある。おれ、犬を一匹さがしていて」

「犬? ゆうれい犬ですか?」

「いいや。生きた犬なんだけど。はぐれてしまって」

 それでこんな日が暮れたなか、さがしていたのだ。

「まだ子犬。金色っぽい毛で、耳が垂れていて。……おれの時計の音、聞くのが好きで。はぐれたときも持っていってた」

 わたしは目を丸くした。こんな偶然ってあるのだろうか。慧斗さんのさがしている犬の特徴は、たったさっき出会った子犬と一致している。そう答えると、慧斗さんは目をかがやかせた。

「ほんとう!? どこにいるかわかる」

「集合住宅で見ましたけど……その後どこに行ったかはちょっと」

 ごめんなさい、と謝ると、慧斗さんは首を振った。

「いや、ありがとう。行ってみるよ、集合住宅のほう」

「見つかるといいですね」

 わたしももう死んでいるとはいえ飼い犬をさがしに来ている身だ。同情とともにそう言う。慧斗さんはうなずいて、扉に近寄った。

「ほんとうに、ありがとうございました」

「いいえ。……お大事に」

 言い残して、慧斗さんはプラネタリュウムを出て行く。すかさずアンダーソン氏が走り込んできて、後ろ姿に吠えたてた。

「アンダーソン氏、ほんとうに男の人には容赦がないのね」

 毛むくじゃらの頭にぽんと手を置くと、アンダーソン氏はなにか言いたげに鼻を鳴らした。

 ミタカの様子を見ようと、背後を振り返る。――せつな、かすかな音が耳に届いた。しゅう、と空気が鳴る音。そして目の前で、青白い炎が咲いた。暗がりのなかで目を焼く炎が、ミタカの口から連なり出てくる。かすかな熱を炎に感じながら、駆け寄る。炎はたて続けに吐き出され、やがて夢のようにたち消えた。

 黒々としたまつげが、かすかに震えた。蝶の羽がはばたくように、まぶたが開く。

「……ミタカ」

 薄青の光彩はもやがかかったようだった。とろりとした眠気が晴れていくのが見て取れる。ミタカはわたしの顔を見て、のんきに笑った。おはよう、と。

「いまのですっきりした」

「いまの、って」

「うん、やっぱり、慣れないことはするものじゃないな」

 ミタカはわたしのつぶやきに答えようとはしなかった。

 もうなにも聞かない、知ろうとはしない。そう決めたはずだった。

 なのにどうしたことか、べったりと、不満が喉に張りついていた。

「ごめんね璃子、心配かけただろ」

 心配かけた、とか言うなら、どうして体から炎が出たのか説明してみろ。なんだかひどくもやもやした気持ちになってしまって、わたしは思わず口を開いていた。

「ミタカ、この町から出られないのね」

 ミタカは黙っていた。わたしは彼の色の薄い虹彩に視線をぶつけ、挑むようにことばをかける。ほとんど睨んでいたと思う。

「どうしてそんな姿でいるの。不便なことしかないじゃない」



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