雰囲気ロマンス
「ただいま」という声と共に家に入ってきた彼女は、頭から靴まで余すところなく濡れていた。店に並んでいる間に突然降ってきたという雨に、対処できなかったらしい。
雨が激しくなる前に大人しく帰ったらよかったのに。僕のその発言に彼女は、「だってどうしても食べたくて」とはめていた手袋を外しながら答えた。現在見ることのできる彼女の身体で、唯一濡れていない手を見ながら僕は考える。女性というものは全くもってわからない。この寒い日……しかも天候の芳しくない日に進んで外出しようとする気持ちがまずわからない。
彼女がどうしても欲しかったというのは、今話題のケーキ店の、限定焼きプリンタルトである。普通の日に行くと、あまりに多い女性ファンの行列のせいで買うどころかその姿を拝むことすらできない品らしい。この天候だから今日は購入できたが、それでも行列は免れなかったと語る彼女は嬉しそうだ。
彼女は自分のためのタルトを箱から出し、僕にと買ってきてくれたスイートポテトもテーブルに並べた。両方とも、いかにも女性が好みそうなポップな包みに入っている。スイートポテトはいい。あまり砂糖に頼っていない薩摩芋そのものの甘みが、僕は嫌いではなかった。礼を言って、スイーツの包みを破った。
彼女がタルトを頬張る。綺麗な形の唇をタルトの油分がなぞり、てらてらと輝いた。その油すら惜しいとでも言いたげに、彼女の舌が唇を舐めとった。濡れた唇が、淫猥だと思う。
申し訳程度にタオルで水気を拭った髪からは、まだ水が滴っている。肩まで伸びた亜麻色の髪に含まれた水分はそのまま頬を伝い、肌に吸い込まれた。上気した肌はまた、僕にとっては毒だ。彼女と一度は一体になったはずの水が空気になり替わるとき、色香も噴き出しているようでどうしようもなくくらくらした。水を含んだ女性とは、どうしてこうも魅力的なのだろうか。それとも、これは僕の彼女だけが持つものなのか。
次に視線は、タルトを持つ彼女の手に向けられる。白い肌。細い指。なのに、乾いた手。勿体ない。乾いている白い手はマネキンのそれのようで不快だ。
――ねえ。マニキュア、塗らない?
スイーツを食べつつ彼女に提案する。彼女は興味なさげに、タルト食べ終わってからならいいよと言った。今は何よりタルトに夢中のようだ。僕はただ了承を得られたことに満足した。
彼女の無垢な白い手に、真っ赤なマニキュアを塗る瞬間が好きだ。僕によって濡らされていく指。僕の色に、染まる。彼女に堂々とマーキングしているようで心地良い。僕はそのとき何の罪も犯さずして彼女を汚せるのだ。
僕は待ちきれなくて棚からマニキュアの瓶を引き出すと、その蓋を開けた。途端に鼻腔を掠めるシンナー臭に、彼女が嫌そうな顔をした。反対に僕は幸福感を味わった。シンナーって興奮作用もあるんだっけな、と関係のないことを思う。
ああ、早く彼女の綺麗な手を取って、その爪のひとつひとつに僕の証を刻みたい。乾いたらその跡を舐めて、彼女の手を僕でべたべたに濡らしたい。欲求は留まるところを知らない。
彼女の呼吸と僕の呼吸で満ちた部屋の中に、雨音だけが響く。自分の気持ちとシンクロした水音のリズムに、胸が高鳴った。
三題噺「手袋」「雨」「スイートポテト」