反転フェノメノン
「キスしたい」
そういったら、彼はキスをしてくれた。
私は執事である彼の笑った顔を見たことがない。いや、正しくは落ち着いている顔しかみたことがない。驚くだとか、悲しいだとか、そういうのは一切表情から読み取れたことはなかったのだ。温室で育てられた綺麗な花々と雨で水滴まみれになった硝子がみえる中で、彼の入れた美味しい紅茶を飲みながらそう思った。17歳になり、父が経営している会社のこともわかってきて、年上の執事との付き合いがちょうど5年になったころだった。私が中学に入ったとき、若い彼が執事になった。基本私の身の回りの管理をしてくれる。それなりに優秀。冷静沈着という言葉がとても似合うような男だった。
「ねえ、私が好きって…いったら、あなたはなんて答えるの?」
ちょっとした興味本意だった。別に彼のことがちゃんと好きだと思ったことはなかったし、ティーポットを両手で持ってまっすぐ前を見てる彼がどんな反応をするのか本当に気になっただけだった。
「ありがとうございます。とお答えいたします」
つまらない解答だと思った。彼の方をみると、私の方を向いていた。いつもは前しか見ていないのに。温室で紅茶を飲むときは必ず硝子に彼の姿が映るのだ。だから、ずっと前を向いていることを知っていた。それは昔から変わらなかったはず。やっぱり、顔を見るのは会話するからだろうか。
「貴方は私のことが好き?」
「ええ、好きですよ」
「じゃあ、愛してる?」
「お嬢様としては愛していますよ」
「そう」
当然のことながら、彼はまた笑うことはなかった。そう、愛想笑いくらいなら見たことはあったかもしれないけど、記憶にはない。微笑んだ顔も見たことがない。彼に感情はあるのかしら、と少し疑った。だから、なんとなく、キスをしたいと思った。キスぐらいすれば、少しは動揺するとか、何か違う彼を見れるとか、そんな淡い期待を思いえがいたからだ。簡単にキスなんてしていいものかと少し迷ったが、それ以上に私は彼に興味があったから、いいと思った。たとえそれが、ファーストキスだったとしてもだ。
だけど結果はそんなものだった。特に甘くも深くもない軽いキスだ。触るだけ。それも少し。最初「貴方とキスしたい」と言ったら、特に顔の表情を変えることなく、私の方を向いて、「お嬢様とキス出来るような身分ではありませんので、申し訳ないですがご遠慮させていただきます」と断られた。「じゃあ、命令でも良いわ」と言って、その後に「キスしたい」と言ったら、やっとしてくれたのだ。なんて忠実なのかしら。表情ひとつかえることなく、ここまでのことが人間にできるなんて。私にはわからなかった。
彼のこともあったが、退屈だったので、外に出たいと思った。私は彼を連れて、街まで歩くことにした。私がついてくるなといっても、それがつとめですからといって、離れてはくれないだろう。だが流石に彼に傘を差されているのもいやだったので、傘は自分で持った。まあ、車で行っても良かったが、歩きたい気分だったし、歩いても30分ほどの距離だったから特に気にすることはなかった。散歩で1時間歩いたりするのは普通だ。昨日は良い天気だったのに、と思いながら、時々通る道をゆっくり進んだ。
街につくと人がごった返していた。二人であるくのにはつらくて、とりあえず、縦になってあるいていた。勿論私は彼の前を歩いた。信号にさしかかり、私は点滅した青の信号を見てその場に立ち止まった。いつの間にか信号は赤になり、目の前を車が走り出す。大通りだからか結構スピードが速い。そんな車をみながら、一度彼の方を見た。けれど、そこには別の人が居た。あら、珍しい。彼が私の後ろにいないことなんて、今までそうそう無かったのに。そう思いながらまえをむき直した。青になったら、きっと出会えると思ったからだ。その前に、私は背中を押されたのだけれど。
いきなり道路へ押し出された私は車にぶつかったらしい。体に痛みを感じながら、ふわりと浮上した。その中で彼のいつもと違う顔を見た。
「かほ!」
彼がいつもと違う呼び方をするなんて。お嬢様じゃないのね。体の節々が痛い。意識が朦朧とするし、彼の顔がかすんで見えた。
「しっかりしろ。おい!」
彼の声が呼んでる。耳の中でしっかりと響いていた。そんな言葉聞いたのは初めてよ。ほんと、なんでこんな時に違う彼をみるのかしら。キスはあんなに軽かったくせに。
私は何かをしゃべろうとした。声が出なかった。おなかが痛かったのを憶えてる。不思議にも涙がこぼれたような気がした。
そのあと、彼の言った最後の言葉は覚えてない。勿論その時の顔も。
ただ、私は目を開けた。おなかにあたっていたのは、昨日寝るときに読んでいた本だった。脇腹に本の角がささっている。ちょっと跡にもなっていた。
「夢か」
そう思った。カレンダーを見ると、晴れていた昨日の次の日だった。随分長い夢を見ていた気がする。意識がはっきりしてくると、見た夢で憶えていたのは、紅茶を飲んだことぐらいだったのだ。だからというわけではないが、私は雨の降る中温室で彼の入れた美味しい紅茶を飲んでいた。
「ねえ、私が好きって…いったら、あなたはなんて答えるの?」
「ありがとうございます。とお答えいたします」
つまらない解答だけど、前にも聞いたことがある気がした。彼の方を見る。彼もこちらを向いた。
「貴方は私のことが好き?」
「ええ、好きですよ」
「じゃあ、愛してる?」
「愛してます」
彼の目は真剣に見えた。だけど、表情は一切変わらない。
「キスしたい」
私は彼にそういった。なんとなく無意識だった。自分の中では二度目のような気がした。よく憶えてない。彼は私にキスをした。初めてキスが甘いものだと知った。
そして、私をもう失いたくはない、と彼は言った。