王太子殿下、真実の愛で国家を救う
「クラリッサ・フォン・ベルンシュタイン! 私は今ここに、そなたとの婚約を破棄する!」
王太子殿下が高らかに宣言すると、大広間のあちこちから歓声が上がった。
私はちょっとびっくりした。
婚約破棄されて歓声が上がるというのは、どういうことだろう。
「そして私は、真実の愛を見つけた! 聖女マリアンヌこそ、私の妃にふさわしい!」
殿下は隣の女性を指差した。
マリアンヌ様は困惑した顔をしていた。
私も困惑した顔をしていたと思う。
ところが、周囲の貴族たちは大喜びしている。
中には、涙を浮かべている人までいた。
「素晴らしい!」
「王国の未来は明るい!」
「これで財政難も解決ですな!」
最後の人は、ちょっと何を言っているのか分からなかった。
私はとりあえず礼をした。
「婚約破棄、承りました」
すると、なぜか大広間が静まり返った。
「……それだけか?」
殿下が尋ねた。
「はい」
「ほかに何か、言うことはないのか?」
「殿下のご多幸をお祈り申し上げます」
殿下は、ひどく不満そうだった。
「そなたは私を愛していたのではないのか!」
私は少し考えた。
「昔はそうだったかもしれません」
「ならば、なぜ泣かぬ!」
なるほど。
ようやく理解した。
皆様は、私が泣くのを待っていたのだ。
⸻
この世界には、一つ奇妙な法則がある。
本気で失恋した人間の涙は、宝石になる。
どういう仕組みなのかは、分かっていない。
恋人に捨てられた人間が泣くと、涙が床に落ちる前に固まり、色とりどりの宝石になるのである。
本当に恋をしていなければ、宝石にはならない。
また、失恋の悲しみが強ければ強いほど、宝石の質はよくなる。
片思いの失恋でもよい。
ただし、相手に振られたと知って、心底悲しくならなければならない。
だから、恋をしていない人間が無理やり泣いても駄目だ。
玉ねぎを切っても駄目。
目にゴミが入っても駄目。
恋人に殺された場合も、泣く前に死んでしまうので、基本的には駄目である。
この法則のおかげで、世界にはたいへん面白い産業が成立していた。
失恋宝石業である。
古くから、貴族の結婚には莫大な財産が動く。
しかし、婚約破棄にもまた、莫大な財産が動く可能性がある。
だから王侯貴族の婚約には、必ず宝石商が立ち会う。
婚約破棄された令嬢が泣き崩れ、その涙から大粒の宝石が生まれれば、その由来も相まって非常に高価な品として取引される。
もちろん宝石は泣いた本人の所有物だ。
ただ、貴族の婚約では、失恋宝石の一部を婚約解消の補償金に充てる契約を結んでいることが多い。
私と王太子殿下の場合も、そうだった。
婚約を破棄された私が宝石を生んだ場合、その半分は王家に納める契約になっていた。
なぜそんな契約を結んだのか。
当時十四歳だった私は、あまり深く考えていなかった。
父も王家との婚姻が成立するものだと思っていたし、破棄される場合の補償など、形式的な条項に過ぎないと考えていた。
ところが、王家はどうやら、そこに目をつけたらしい。
⸻
「クラリッサ!」
殿下が叫んだ。
「そなたは幼い頃から、私を一途に慕っていたではないか!」
それは事実だった。
十四歳の頃、私は殿下が大好きだった。
殿下は美しい少年だった。
剣術が得意で、馬にも上手に乗り、笑うととても可愛らしかった。
私は殿下から手紙が届くたびに喜び、殿下の誕生日には刺繍を贈った。
十五歳の頃には、殿下との結婚式を想像して、こっそり涙ぐんだこともある。
だが、人間は成長する。
殿下も成長した。
私も成長した。
そして殿下は、成長するにつれて少しずつ嫌な男になっていった。
最初は小さなことだった。
約束を忘れる。
私の話を聞かない。
他の女性の容姿を、私と比較する。
やがて私のことを、ただの政略結婚の相手として扱うようになった。
それでも、私は婚約者としての務めを果たした。
王家との関係は、公爵家にとって重要だったからだ。
ただ、十八歳の頃には、私はもう殿下を愛していなかった。
だから、婚約破棄された今も、別に悲しくないのである。
「殿下」
私は言った。
「申し訳ございませんが、もう愛しておりません」
大広間がざわめいた。
殿下は呆然とした。
「……何?」
「ですから、殿下を愛しておりません」
「馬鹿な!」
殿下は私を指差した。
「そなたは私のために、あれほど尽くしていたではないか!」
「婚約者でしたので」
「私の衣装を選び、誕生祝いを贈り、王宮の行事を手伝っていたではないか!」
「婚約者でしたので」
「私のために、毎月のように手紙を書いていたではないか!」
「婚約者でしたので」
殿下は口を開けたまま固まった。
私は申し訳なくなった。
本当に。
ただ、どうしようもない。
涙は出ないのだから。
⸻
「おい、どうするんだ!」
宰相が小声で殿下に話しかけた。
「このままでは、約束の宝石が手に入らんぞ!」
聞こえている。
「分かっている!」
殿下も小声で怒鳴った。
やはり聞こえている。
実は、王国は財政難だった。
三年前の戦争で、莫大な借金を抱えていたのである。
税収を増やしても、なかなか返済できない。
そこで王宮は、失恋宝石を使った資金調達を計画した。
王太子の婚約者である私は、殿下を一途に愛していることで有名だった。
その私が、公衆の面前で婚約を破棄されたらどうなるか。
きっと大量の涙を流すだろう。
そして、その涙は高価な宝石になるはずだ。
実際、王家が婚約を結んだ当時、私の恋心が本物だったことは疑いようがなかった。
殿下も、それをよく覚えていた。
「クラリッサ。私はそなたを捨てるのだぞ!」
「はい」
「悲しくないのか!」
「少し残念ではあります」
「では泣け!」
「無理です」
私は困った。
殿下も困った。
宰相はもっと困っていた。
なぜなら、王宮はすでに宝石の売却益を見込んで、商人たちから金を借りていたからだ。
借入契約には、今夜の舞踏会で生まれる失恋宝石を担保とする条項が入っている。
もちろん、宝石が生まれなければ、担保不足になる。
商人たちは、そのことを理解していた。
大広間の隅では、王国最大の宝石商が無言で帳簿を閉じていた。
怖い。
私は殿下を見た。
殿下も宝石商を見た。
二人とも、少し青ざめた。
⸻
「待て、クラリッサ!」
殿下は急に優しい声を出した。
「そなたとの思い出を、私は決して忘れていない」
何を言い出したのだろう。
「覚えているか? 十四歳の頃、私たちは王宮の庭園で一緒に星を眺めた」
覚えている。
「そなたは、流れ星を見て願い事をしたな」
覚えている。
「私とずっと一緒にいられますように、と」
覚えている。
あの頃は、本当に幸せだった。
殿下は微笑んだ。
「私はあのとき、そなたの願いを叶えてやろうと思ったのだ」
私は少し胸が苦しくなった。
懐かしい。
殿下にも、あんなに優しい時期があった。
「あの頃の私たちに戻れたなら……」
殿下は私の手を取った。
私は思わず、目頭が熱くなった。
その瞬間。
「来たぞ!」
宰相が叫んだ。
「涙だ!」
大広間がどよめいた。
宝石商が帳簿を開いた。
殿下は期待に満ちた顔で私を見た。
私は、すっと涙が引くのを感じた。
「……殿下」
「何だ?」
「今、私を泣かせようとなさいましたね」
殿下は黙った。
「宝石のために」
殿下は、さらに黙った。
私は深くため息をついた。
十四歳の私が聞いたら、どれほど悲しむだろう。
しかし、二十二歳の私は、もう悲しくなかった。
腹が立っただけだった。
「殿下」
私は手を引いた。
「先ほど、婚約破棄を承りました。以上でございます」
そして、踵を返した。
「待て!」
殿下が叫んだ。
「クラリッサ!」
私は振り返らなかった。
⸻
そのときだった。
「少々、お待ちください」
涼やかな声が響いた。
聖女マリアンヌだった。
彼女は私の前に進み出た。
「クラリッサ様。一つだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「殿下は、あなたから宝石を得るために婚約を破棄されたのですか?」
私は殿下を見た。
殿下は目を逸らした。
「どうやら、そのようです」
マリアンヌは頷いた。
そして殿下に向き直った。
「殿下」
「マリアンヌ!」
殿下は救われたような顔になった。
「そなたも何か言ってくれ! このままでは王家の信用が――」
「私との婚約のお話ですが」
「ああ!」
殿下は胸を張った。
「もちろん、約束どおり結婚しよう! そなたこそ私の真実の愛だ!」
マリアンヌは微笑んだ。
「お断りいたします」
静寂。
殿下が瞬きをした。
「……何?」
「お断りいたします」
「なぜだ!」
「私は、殿下を愛しておりませんので」
私は思わず、マリアンヌの顔を見た。
彼女は実に晴れやかな笑顔だった。
「殿下。私は以前、あなたに申し上げましたね。クラリッサ様を不幸にするような婚姻は、再考なさるべきだと」
「そうだ! だから婚約を破棄したではないか!」
「ええ。それはよかったと思います」
「ならば!」
「しかし、私が殿下と結婚するとは、一度も申し上げておりません」
あ。
確かに。
思い返してみれば、マリアンヌは一度も殿下への愛を口にしていなかった。
殿下が彼女を好きだという話は、よく聞いていた。
しかし、マリアンヌが殿下を好きだという話は、聞いたことがなかった。
「私は聖女として、貧しい人々の救済に尽くしたいと考えております」
マリアンヌは続けた。
「殿下がその活動を支援してくださるとおっしゃったので、感謝しておりました」
「そうだろう!」
「しかし、女性を傷つけて、その悲しみを換金するような方と結婚したいとは思いません」
殿下の顔が、みるみる青ざめた。
「マリアンヌ……」
「申し訳ございません」
彼女は深く礼をした。
「私は殿下の妃にはなれません」
そして、私に向き直った。
「クラリッサ様。よろしければ、ご一緒に帰りませんか?」
私は笑った。
「喜んで」
二人で歩き出した。
そのとき。
背後で、小さな音がした。
ころん。
何かが床に落ちたような音だった。
続いて、もう一つ。
ころん。
ころころころ。
私は振り返った。
そこには、驚くべき光景が広がっていた。
⸻
王太子殿下が泣いていた。
大粒の涙を、ぼろぼろと流していた。
そして、その涙が次々と宝石に変わっていた。
赤。
青。
緑。
透明。
ありとあらゆる色の宝石が、殿下の頬から落ちてくる。
しかも、大きい。
一粒が親指ほどもある。
「マリアンヌ……!」
殿下が叫んだ。
また宝石が落ちた。
「私は、本当にそなたを愛していたのだ……!」
また落ちた。
「そなたと結婚できると、信じていたのに……!」
ぼろぼろぼろ。
すごい。
私は思わず感心した。
殿下は、本当にマリアンヌを愛していたのだ。
しかも、相当に深く。
今夜の婚約破棄計画については、王家の財政難が原因だったのだろう。
だが、聖女への恋心まで偽物だったわけではないらしい。
それは少し意外だった。
殿下は私を泣かせることができなかった。
しかし、マリアンヌは殿下を泣かせることができた。
そして、宝石が次々と床に溜まっていく。
大広間の貴族たちは、誰も動かなかった。
ただ、唖然として殿下を見つめていた。
最初に動いたのは、宝石商だった。
彼は猛烈な勢いで床に這いつくばり、宝石を拾い始めた。
「……す、素晴らしい!」
商人が叫んだ。
「こんな大粒の失恋石、見たことがありません!」
宰相が我に返った。
「いくらだ!」
「一粒、金貨五百枚は下りません!」
「五百!」
宰相は叫んだ。
「殿下! もっと泣いてください!」
大広間が騒然となった。
「殿下! 王国のために!」
「あと少しです!」
「頑張ってください!」
何を頑張るのだろう。
殿下は泣きながら怒った。
「貴様ら! 私の悲しみを何だと思っている!」
その瞬間、宝石商が叫んだ。
「今の一粒は金貨千枚です!」
宰相が跳び上がった。
「殿下! 素晴らしい!」
殿下はさらに泣いた。
私はマリアンヌを見た。
マリアンヌも私を見た。
二人で、少しだけ笑ってしまった。
⸻
結局、王太子殿下はその夜、王国史上最大の失恋宝石を生み出した。
合計、金貨二十万枚相当。
王家の財政難を、一晩で解決できるほどの金額だった。
もっとも、宝石は殿下自身の財産である。
王国が勝手に取り上げることはできない。
そこで宰相は、殿下に丁重にお願いした。
「殿下。どうか、国庫への寄付をお願いできませんでしょうか」
殿下は泣きながら言った。
「もう好きにしろ!」
これで王国は救われた。
よかった。
本当によかった。
ただし、国王陛下はたいそう複雑な顔をしていた。
息子が失恋して泣き崩れたことは、親として悲しい。
しかし、そのおかげで国家財政が立て直されたことは、国王として喜ばしい。
一体どんな顔をすればよいのか分からなかったらしい。
結局、国王陛下は宰相に命じて、王太子の失恋宝石を国庫に納めさせた。
そして、息子を抱きしめた。
「よくやった、アベル」
殿下はまた泣いた。
宝石が一粒増えた。
宰相が拾った。
⸻
さて。
この事件は、王国の婚姻制度に大きな影響を与えた。
従来、失恋宝石は主として女性が生み出すものと考えられていた。
実際には男性も失恋して泣けば宝石を生む。
ただ、男性が人前で泣くことは恥とされていたため、その事実があまり注目されていなかったのである。
ところが、王太子殿下の一件によって、状況が変わった。
何しろ、王太子が泣き崩れたおかげで、国家財政が救われたのだ。
王宮はこれを美談として発表した。
『王太子殿下、真実の愛に涙し、国家を救う』
たいそう評判になった。
それからというもの、王国内では男性の失恋宝石を積極的に評価する風潮が生まれた。
男性が失恋して泣いても、以前ほど馬鹿にされなくなった。
むしろ、立派な宝石を生んだ男性は、誠実な恋をした証拠だとして尊敬されることさえあった。
婚約破棄の際に、男性側が宝石を生むことも珍しくなくなった。
一方、問題も起きた。
宝石商や金融業者が、男性の失恋を商売に利用しようとし始めたのである。
美しい女性に男性を誘惑させ、十分に恋をさせてから振る。
すると宝石が生まれる。
これを繰り返す詐欺が流行した。
もっとも、恋愛感情を意図的に生み出すというのは、なかなか難しい。
本当に好きになってしまうこともある。
逆に、何度も振られているうちに、男性の方が恋愛に慣れてしまうこともある。
また、詐欺師の女性が男性を本気で好きになってしまい、予定どおり振った後、自分の方が泣いて宝石を生むという事件もあった。
これは業界で「逆採掘」と呼ばれた。
あまり儲からなかったらしい。
⸻
私はというと、マリアンヌと親しくなった。
彼女は聖女としての活動を続けている。
私も公爵家の事業を手伝いながら、彼女の救済活動を支援するようになった。
ある日、マリアンヌが私に尋ねた。
「クラリッサ様は、殿下のことを本当に愛していなかったのですか?」
「昔は愛していましたよ」
「では、いつから愛さなくなったのです?」
私は少し考えた。
「分かりません」
「分からない?」
「ええ。ある日突然、愛情が消えたわけではありませんから」
私は紅茶を飲んだ。
「少しずつ、なくなっていったのだと思います」
マリアンヌは頷いた。
「それは、少し悲しいですね」
「そうですね」
私は笑った。
「でも、おかげで今は、ずいぶん身軽です」
マリアンヌも笑った。
「それは、よかった」
しばらくして、彼女はふと思いついたように言った。
「ところで、クラリッサ様」
「はい」
「殿下は、今も私のことがお好きなのでしょうか」
私は考えた。
「どうでしょう」
「またお会いする機会があったら、気まずいですね」
「そうですねえ」
「私が現れた途端に泣き出したら、どうしましょう」
私は吹き出した。
「宝石商を呼びましょうか」
マリアンヌも笑った。
「ひどい!」
「でも、殿下の財政も助かりますよ」
私たちはしばらく笑っていた。
⸻
その頃、王宮では。
王太子殿下が、ようやく失恋から立ち直りつつあった。
「もう、マリアンヌのことは忘れよう」
殿下は決意した。
宰相は、少し残念そうだった。
「そうですか……」
「何だ、その顔は!」
「いえ、何でもございません」
「私は新しい恋を探す!」
「それは結構なことでございます」
「今度こそ、私を本当に愛してくれる女性と結婚するのだ!」
宰相は頷いた。
「殿下なら、きっと素晴らしい女性が見つかるでしょう」
そして、少し考えた。
「ただし、次のお相手には、なるべく長くお付き合いいただいた方がよろしいかと」
殿下は眉をひそめた。
「なぜだ?」
宰相は、慎重に言葉を選んだ。
「万が一、また失恋なさった場合……」
「おい」
「いえ、もちろん、そんなことはないと思いますが」
「宰相」
「もし万が一、殿下が深く愛した女性に振られるようなことがあれば……」
「宰相!」
「王国の財政は、さらに安定するかと」
殿下は机を叩いた。
「貴様は私を何だと思っている!」
宰相は深く頭を下げた。
「申し訳ございません」
しかし、宰相は内心で考えていた。
王太子殿下がもう二、三回ほど本気の失恋をしてくだされば、王国は百年安泰なのではないか。
もちろん、口には出さなかった。
出せば間違いなく首になる。
そこで宰相は、王国の財政計画書に新しい項目を一つ追加した。
『臨時収入』
その横に、小さく鉛筆で書いた。
『王太子殿下の恋愛状況による』
それを見た会計官は、深く頷いた。
こうして王国の財政は、当面のあいだ安定することになった。
ただし、王太子殿下の恋愛は、ますます不安定になった。
おしまい




