病
物心ついた時から、これから起こるであろう嫌な事態には、最悪の想定をイメージしてから臨んできた。
それは例えば両親に叱られる事が確定している時。 …怒涛の罵詈雑言と叱責を浴びせられ、平手打ちや拳骨を喰らうとか。
或いは仕事でミスを犯した後。 …衆人環視の公開処刑で断頭を待つ罪人のような吊し上げを受ける、等々…。
起こり得る事態を最大限深刻に想定して覚悟しておけば、それだけ精神的な負担を多少なりとも和らげられるからだ。
運が良ければ、実際には思っていたよりも軽く済む場合だってあるだろう。
逆に、事態を軽く想定して、実際には深刻であった…などという結果に耐えられるほど自分はタフではない。
言い方を変えれば、相手…或いは事象に期待しないで生きる、という事だ。
寂しく、薄っぺらい生き方。
当然そんな人間と付き合いたがる奇特な人間などおらず、後悔した時には既に遅く、人生の折り返し地点を孤独の身で三年も過ぎてしまっていた。
伴侶はおろか、まともに友人と呼べる友人すら居ない。
…だから、別室に呼ばれた時には既に嫌な予感がしていたし、いつものように最悪を想定していた。
「…検査の結果ですが…」
神経質そうな顔立ちの若い医師が、さも気の毒そうな口調で病状を事細かに説明してくれる。だが、医療の知識がない身としてはその内容がどれだけ酷いのかどうかも分からない。
つまるところ、珍しい病状を示す心臓の癌だという。既に転移し、進行度合いからして今すぐ最新設備の病院に入院して治療を開始しても、生存は限りなく絶望的だという事だ。
覚悟はしていたが、自分がもう助からないであろうと宣告されても、今一つ実感が湧かなかった。大きな病院を紹介され、聞くからに大掛かりな手術の選択肢を聞かされたり、身の回りの整理についての常識的なアドバイスを受けたり、その間も徐々に悪化していく体調と共にようやく死の実感が湧いてきた。
不幸中の幸いと言っていいのか甚だ疑問だが…自分には既に家族も居らず天涯孤独の身であったので、家族に迷惑を掛けるという事は無い。それが唯一の慰めと思うしかなかった。…こんな事もあろうかと加入していた身元保証サービスの業者には世話を押し付ける事になるが、そこはまぁ、商売だと割り切ってもらうしかない。
「大淵さん、夕方の体温測りますね。よろしいですか?」
涼やかだが良く通る、柔らかい声で目が覚めた。
日に日に何をするにしても気分は悪くなっていく。息をするのも辛い。 寝起きが特にそうだった。寝ている間だけはなんとか痛みと苦しみの感覚が薄れてくれる。
それでも、この声を聞くのもまた、目を開けている時の自分の唯一の癒しだった。
「はい、お願いします…」
返事と同時にカーテンレールが開かれ、淡いピンクのナースウェアが穏やかな晩秋の西日に照らされる。豊かな胸元に香山と書かれた名札が揺れた。夕日で更に赤みがかったボブカット。健康的な丸顔に穏やかな微笑を浮かべ、てきぱきと仕事をこなしていく。
…もっとも、女性になど相手にされぬ容姿と性格で長々と生きてきたため、性欲などとうの昔に枯れ果てている。 もし自分が人並に充実した人生で…30くらいで家庭を持ち、娘がいたなら…こんな年頃だったのだろうか、という父親の気分を妄想してみるだけだ。
どうせ、もう叶わぬ事なのだから、そのくらいの妄想は赦されるだろう。
世間話も特に交わさない。ただ、返事を交わし、感謝の意を伝えるだけだ。もしかしたら裏では「あんな汚い年寄りの世話などしたくない」などと陰口を叩かれているかもしれないが、それも仕方がないと思う。
ただ、最期になるであろうという時に天使のような若い女性に世話をしてもらえたのだ。本人にはいい迷惑を掛けたが、こちらとしては良い冥土の土産になる事は間違いない。
…そして結論から言えば最初の医師の見立て通り、自分は助からなかった。
手術を受ける事すら叶わず、その夜に危篤状態に陥った。
病魔に体の自由も奪われていた。呼吸すら満足にできず、ナースコールを押す事さえできずに死の淵へと沈んでいく。
(良くも悪くも、何も残せない人生だった…)
薄れ行く意識の中で我が身の不甲斐なさを嘆く。自らを憐れむ涙が頬を生暖かく濡らした。
…だが同時に、ささやかな敵愾心も残っていた。
(もし、来世があったら…そうだ、今度は…孤独と無縁な…良い人々に囲まれて過ごしたい…)
その願いを嘲笑うように全身を襲う苦しみが強まった気がした。だが、その痛みも体の感覚と共に徐々に薄れていく。
しかしそれに反して…自分を苦しめる病魔、そして呪われたようなこれまでの惨めな人生に対する敵愾心が強まっていく。
――それでも俺は、最期まで自分の死から逃げなかった。喚かなかったし、命乞いもしなかった。最期まで戦い続けたんだ。 それだけが俺の誇りだ…
意識が薄れかけた。
(…そしてまた…どんな敵が相手でも、逃げずに最期まで戦ってやる)
暗い病室には、自分以外の患者の力ない呻き声や寝言が聞えるだけ。何もない。
自分を看取ってくれる者も、回復を祈ってくれる者も、自分の死を泣いてくれる者もいない。
自分が残してこなかったから…残せなかったから。
だから、次があるのなら…今度こそ…今度こそは…
(…せめて、最期にあの看護師さんに看取ってもらえないだろうか……もし来世があれば、あんな素敵な人と…)
病魔へのせめてもの抵抗、とナースコールに向け、思うように動かない手を伸ばそうとしながら意識は途絶えた。
それが、大淵大輔の53年に渡る人生の幕引きだった。




