悪役令嬢になったのは、ずっと受け入れていたから ――王妃ベアトリクス視点
本作は『悪役令嬢になったのは、ずっと受け入れていたから』の王妃ベアトリクス視点となります。
本編を先にお読みいただけますと、よりお楽しみいただけます。
最初にその娘を見た時、ベアトリクスは、よくできた伯爵令嬢だと思った。
王妃の前には、日々さまざまな娘たちが現れる。婚約を控えた令嬢、社交の場へ出始めたばかりの少女、家の事情を背負わされ、年齢より早く大人の顔を覚えた者。どの家にも都合があり、どの娘にも事情がある。その中で、マリアベルデ・クランツェルという名の伯爵令嬢は、たしかに目を引く方ではあったが、あの時はまだ、それ以上ではなかった。
際立って華やかなわけではない。むしろ色味を抑えた衣装を選ぶ娘で、その日も灰青の衣に身を包み、飾りを控えた髪型で現れた。けれど所作が崩れず、視線の上げ下げに無駄がなく、王妃の前へ出る緊張をのみ込みながらも、礼の角度ひとつ乱さない。育ちのよさだけではなく、家の躾が骨に入っている娘なのだと分かる立ち方だった。
その時、クランツェル伯爵領は災害のさなかにあった。長雨による増水、堤の損壊、湿気による備蓄の劣化、村ごとに広がりつつある熱病。いますぐ国中の兵と物資を動員せねばならぬほどではない。だが放っておけば、確実に地方の力が削られていく種類の痛みだと、財務と民政から上がってきた数字が示していた。
「クランツェル伯爵領の件で、民政局へ願い出ております」
マリアベルデの声は落ち着いていた。若い娘にしては低く、よく通る声だった。媚びず、怯えず、だからといって不遜にもならず、ただ必要なことだけを簡潔に告げる。その声音だけで、王妃の前で自分を大きく見せようとする娘ではないことが分かった。
だが、最初の印象を決めたのは、むしろ言葉のあとだった。
王妃の前に出る令嬢の多くは、少しでも印象を良くしようとする。緊張のあまり余計な一言を足す娘もいるし、逆に引きつった微笑みで取り繕う娘もいる。けれどこの娘は違った。礼をし、答えを待ち、次の言葉がなければすぐに下がれるよう、体のどこかが常に次の場へ向いている。
この娘は、自分のためにここへ来ているのではない。
そう感じたのは、その一瞬だった。
王妃の時間を取っていることすら惜しむように、彼女の焦りはどこか別の場所へ向いていた。家か、領地か、あるいはそこで待つ誰かか。後ろに抱えたものがあまりにも重く、王妃の前に立つことすら手段のひとつでしかない顔だった。
ベアトリクスは、話は聞いているとだけ告げ、体をいたわるようにと、型通りの言葉を添えた。
「ありがとうございます」
そう返したマリアベルデの声は、やはり落ち着いていた。
だが、その礼のあとに胸を緩めるでもなく、救いを見た顔をするでもなく、完璧な礼だけを残して下がっていく背を見た時、ベアトリクスはほんのわずかに引っかかった。
疲れすぎている。
そう思った。
けれど、その時はそれだけだった。
王妃の立場は万能ではない。むしろ万能に見えてはいけないことの方が多い。個別の陳情に口を出せば制度は歪む。あくまで窓口は民政局であり、財務であり、定められた裁可の流れを通るべきだ。そうでなければ、救済は恩寵に変わる。恩寵に変わった救済は、必ず人を歪める。
だから、その小さな違和感は、王妃の内側に置かれたままになった。
数か月のあいだに、マリアベルデを何度か見かけた。
会うたびに、娘は少しずつ痩せていった。
衣は変わらず整っている。化粧も崩さない。髪も完璧にまとめられている。だが、その内側の身体が削れていくのが、王妃の目には分かった。頬が薄くなり、目の下に影が差し、指先の骨がほんの少し浮く。それでも姿勢だけは崩さない。崩せないのだろう、とベアトリクスは思った。今の彼女にとって、崩れないことそのものが最後の壁になっているのだと。
その頃からだった。
王子たちの周囲で、クランツェル伯爵令嬢の名が不自然に浮くようになったのは。
第一王子アルニードは、もともと陳情者の話をよく聞く。理性的で、数字にも強く、秩序立てて物事を裁くことに心地よさを覚える性質だ。だから最初は気にしなかった。地方の事情に通じた伯爵令嬢の名が、彼の口から出ること自体はおかしくない。
だが一度、夕餉の席でアルニードが「彼女は堅いが理解は早い」と言った時、その声音にわずかな柔らかさが混じったのを、ベアトリクスは聞き逃さなかった。
政務の対象について語る声ではなかった。
第二王子セオバルは、もっと露骨だった。
彼は昔から、自分の弱さを他人に預けるのが上手い。苦しそうに微笑み、分かってくれるのは君だけだと囁く。その癖を母として知っていたからこそ、ある日ふと、「クランツェルの娘は真面目すぎる。少し力を抜けばよいのに」と口にした時、ベアトリクスの内側で警鐘が鳴った。
なぜお前が、地方伯爵令嬢の“力の抜き方”を知っているのか。
第三王子ユドリックは、もっと分かりやすい男だった。無遠慮で、軽く、触れてよい相手と悪い相手の区別を何度叩き込んでもどこかで甘える。だが一度だけ、回廊の端で、彼が笑いながら「そんな難しい顔してると台無しだぞ」と言うのを聞いた時、その先にいたのがマリアベルデだったのを見て、ベアトリクスは扇を閉じる手を止めた。
娘は何も返さなかった。ただ礼をし、その場をすり抜けた。羞じらっているようにも、怒っているようにも見えなかった。ただ、もっと差し迫った何かに耐えている顔だった。
そこでようやく、違和感はひとつの線になりかける。
けれど、まだ切れない。
王妃は、女の勘だけで王や王子を断じることを許されない。気配だけで家を裂けば、それこそ国が揺らぐ。王家の内実がどうであれ、切るには証が要る。切る先が王そのものであればなおさらだ。
だからベアトリクスは、自分の中で何度も違和感を押し戻した。
押し戻したのに、別のところからまた現れる。
ある夜、寝所係の動きが不自然に遅い時刻まで続いた。王のもとから使いが出て、戻り、また出る。珍しいことではない。王には王の夜があり、静かな時間にも人は動く。だが侍従長が何気なく「クランツェル伯爵令嬢は今夜も宿泊中でしたか」と確認した瞬間、ベアトリクスは扇の骨を強く握りしめてしまった。
その名が、そこにあるのはおかしい。
完全におかしいとまでは言えない。地方からの陳情者が夜まで城内に残ることはある。安全確保のために客室へ移されることもある。だがなぜ、王の寝所係の動きと噛み合うのか。なぜ王子たちの気配と絡むのか。なぜ支援の進みが遅いのに、完全には切られないのか。
答えの形は、女としてはもう見えていた。
だが王妃として、それを確かめることができない。
もし違ったらどうする。もしただの偶然だったらどうする。もし王妃が地方伯爵令嬢へ向かって「あなた、王や王子に何かされているの」と問いかけた瞬間、その娘の尊厳を別の刃で傷つけることになったらどうする。
そう思うと、踏み込めない。
踏み込めないこと自体が、すでに遅れであり、加担に近いと気づきながらも。
だからせめて、遠回しに声をかけた。
人払いの少ない午後、王妃宮の窓辺で、ベアトリクスは偶然を装ってマリアベルデを呼び止めた。
「無理をしていませんか」
本当はもっと違う言葉があったはずだった。眠れているのか、食べているのか、何が起きているのか。だが口から出たのは、それだけだった。
マリアベルデは、ほんの一拍だけ目を上げた。驚きも涙もない。ただ、その一拍で、この娘が言葉をどこへしまい込むかを決めたのが分かった。
「お心遣い、恐れ入ります」
完璧な返答だった。
完璧すぎて、ベアトリクスは逆に理解した。
これは何もない時の返しではない。何かを絶対に零してはならないと決めた者の返しだ。
それでも、その時は切れなかった。
あとになって、何度も思う。
あの時、もっと踏み込むべきだったのではないかと。
だが、その“あとになって”がどれほど無価値かも、同じだけ知っている。
夜会の数日前には、もう空気がおかしくなっていた。
フェルモンドは静かすぎた。
アルニードは整いすぎていた。
セオバルは自分も傷ついているような顔をしていた。
ユドリックは面白がる気配を捨てきれていなかった。
揃いすぎている、とベアトリクスは思った。
四人の男が、温度の違う顔をしながら、実際には同じ方向を向いている。ひとりの娘に何かを被せて終わらせるつもりの顔だと、その時にはっきり分かった。
そこでようやく、妻としての時間が終わる。
夫や息子を守る側ではなく、王家そのものを切る側へ、心が静かに傾いた。
クラウディアを呼んだのは、その夜だった。
娘は母に似て、余計な言葉を欲しがらない。「明日の夜会で、何かあればクランツェル伯爵令嬢を取りなさい」とだけ告げると、クラウディアはすぐに意味を理解した顔をした。
「父上ではなく、あの娘を」
「ええ」
「王子方も含めてですか」
「必要なら」
そこでクラウディアは、ひどく静かに息を吐いた。
「遅いですね」
責めるでもなく、慰めるでもなく、事実として。
ベアトリクスは答えた。
「ええ。だから次は遅れません」
夜会の空気は、最初から悪かった。
香の匂いが少し強すぎる。楽師の音も、弦の高音ばかりが耳に残る。貴族たちの笑い声は表面だけを滑り、場の奥に別の緊張があることを皆が感じていた。
マリアベルデが中央に立たされた時、ベアトリクスはまず、その立ち姿を見た。
崩れていない。
泣きも縋りもしない。
それを見た瞬間、胸の底が冷えた。
本当に冤罪だけなら、違う反応もある。怒りで声を荒げる者、恐怖で涙を落とす者、誰かに助けを求める者。だがこの静けさは違う。長く何かを呑み込んできた者の、もうその延長でしか呼吸できなくなった静けさだ。
アルニードが整えた口調で罪を並べる。
セオバルは気の毒そうな顔をする。
ユドリックは軽く煽る。
そして、マリアベルデが口を開いた。
「……演技すら見分けられないくせに」
その瞬間、ベアトリクスは思った。
やはりそうだったのだ、と。
王子たちは、この娘を見ていない。見たい形でしか見ていない。欲しい時だけ柔らかなものとして、都合が悪くなれば節度を欠いた女として。ひとりの人間として見たことが、最初から一度もなかったのだ。
そこから先の言葉は、ベアトリクスにとっても刃だった。
王や王子たちの言葉。
曖昧な約束。
支援の遅れ。
昼も夜もなく呼びつけられた事実。
受け入れさせられたのが快楽のためではなく、領地と家のためだったという告白。
ひとつひとつは断片だったものが、娘の口から並べられた途端、一本の線として立ち上がる。
そして腹に手が置かれた時、ベアトリクスは、もう何が来るか分かってしまった。
「この子は、陛下の御子です」
世界が止まったように思えた。
驚いたのではない。驚くには、違和感が積もりすぎていた。ただ、確信に変わったのだ。疑いではなく、もう逃げ場のない事実として。
この瞬間、王家を守るという選択肢は消えた。
いや、もっと正確に言えば、王家を守るならば、王や王子ではなく、この娘を取るしかないと決まった。
ベアトリクスが口を開いたのは、その時だった。
「黙りなさい」
夫へ向けてではない。王へ向けてでもない。ただ、この場でまだマリアベルデに黙れと言える側すべてへ向けて。
その一言を発した瞬間、自分が何を切ったのか、ベアトリクスには分かっていた。夫婦としての時間。母として庇うべきだとされてきた線。王妃として曖昧に支え続ける役割。
全部だ。
けれど、それでも遅かった。
遅れたのだ。
クラウディアがマリアベルデの傍らへ立ったのを見て、ようやく少しだけ息ができた。自分は遅れたが、娘はこの瞬間には間に合った。
監査は三日で終わらなかった。
終わるはずがなかった。夜間入退出の記録、侍医の控え、民政局の裁可文書、教会支給の遅延記録、輸送順変更の書簡控え。ひとつなら言い逃れもできたろう。だが数が揃い、時期が噛み合い、同じ名の周囲に同じ歪みが集まりすぎていた。
再び開かれたのは、夜会のような華やかな大広間ではなかった。王城内の裁定の間。装飾を抑えた石造りの部屋で、長卓の上には綴じられた記録束がいくつも積まれていた。
そこに座る顔ぶれは前回より少ない。けれど軽くはなかった。ベアトリクス、クラウディア、財務長官、民政局長、聖堂監督官、侍従長、侍医頭。そして離宮から連れ出されたフェルモンドと、三王子。
マリアベルデはその場にはいなかった。立ち会わせないと決めたのはクラウディアだった。
「本人にこれ以上、自分を証拠のように扱わせる必要はありません」
その一言で、すべてが決まった。
裁定の間は冷えていた。外は曇りで、窓から入る光も鈍い。
最初に口を開いたのはアルニードだった。
「私は何度も申し上げますが、乱暴なことはしておりません」 「脅しもしていない」 「彼女は自ら応じていた」
その声はまだ整っていた。少し青ざめてはいたが、言葉を選ぶ癖は最後まで消えないらしい。
クラウディアが書類を一枚開く。
「民政局補助裁可台帳、三月二日。クランツェル領の補修石材申請、保留」 「翌三月三日夜、あなたの私室への入室記録」 「三月四日朝、同案件を半量で通達」 「次です」
また一枚。
「四月十日、追加申請。保留」 「四月十日夜、再度の入室記録」 「四月十一日、半量承認」 「三度目もございますが、まだお読みしますか」
アルニードの喉が動く。
「それは……裁可の順と偶然重なっただけだ」
その瞬間、ベアトリクスの胸には、怒りより先に、冷えた疲労が来た。
この子は最後までそこへ逃げるのだ、と。
乱暴ではない。脅していない。偶然だ。そう言いながら、相手が自分で応じた形を整えることを、賢さだと信じてここまで来た。その賢さを褒め、理性的であることを美徳として育てた時間の中に、自分もいたのだと思うと、息の置き場がなくなる。
「偶然」
クラウディアは淡々と繰り返した。
「三度続いても偶然」 「あなたは便利な言葉をお持ちですね」
ベアトリクスは静かに告げた。
「お前は最後まで、己が乱暴でなかったことを盾にするのですね」 「乱暴でなければ何をしてもよいと、本気でそう思っていたのですか」
アルニードは答えられなかった。
次にセオバルの番が来た。
教会薬剤支給記録が並べられる。申請、保留、深夜の呼び出し、翌日の一部支給。不足量。再申請。繰り返し。侍医頭が静かな声で、薬剤量がどれほど足りなかったかを読み上げていくたび、セオバルの顔は崩れていった。
「私は彼女に頼っただけです」 「苦しかったのです」 「本当に、あの時の私は」
その顔を見た時、ベアトリクスは、幼い頃から何度も見てきた表情だと思った。
叱責の前。
不利になった時。
自分が責められる側へ回ったと知った時。
またその顔をするのか、と、母としての疲れが先に来た。
苦しい顔をして見せれば、周囲が少し手を緩める。自分の弱さを先に差し出せば、相手がそれ以上深く刺しにくくなる。その癖を、結局最後まで捨てられなかったのだ。
「ええ、苦しかったのでしょう」
ベアトリクスが言う。
「だから苦しい顔をすれば、人を使ってよいと?」
セオバルは泣きそうな顔をした。だがもう、その顔に意味はない。ここには彼の顔色を見て譲る者がいなかった。
ユドリックは最初こそ噛みついた。
「俺に実務の裁可権なんて大してない!」 「兄上たちみたいに数字を握ってたわけじゃない!」
「だから軽いと申しているのです」
クラウディアの声は冷たかった。
「大きな決裁権がないから、人を好きにしてよいと?」 「船便の優先、騎士の仮駐留、補給順変更。小さい権限であっても、切羽詰まった地方には十分に首輪になります」
そのあとで示されたのは、輸送順変更命令の控えだった。署名はユドリックのもの。備考には、私的要請につき優先、の文字。
ユドリックはその紙を見た瞬間、初めて何も言えなくなった。
そこでベアトリクスは、奇妙なほどはっきりと感じた。
この子は今、初めて“許されない側”へ落ちたのだと。
末子として笑って済まされる側ではなく、裁かれる側へ。軽さが愛嬌ではなく、罪として数えられる場所へ。
その事実をようやく飲み込んだ顔だった。
そして最後に、フェルモンドだった。
王は最初からほとんど喋らなかった。だが侍従長が深夜の召し記録を読み上げ、侍医頭が懐妊時期を述べ、侍女頭が寝所係の証言を差し出したところで、ようやく低く言った。
「王には、慰撫も必要だ」
その場の空気が凍った。
ベアトリクスは、そこで初めて夫をまっすぐ見た。
怒りではなかった。むしろ、何かが音もなく切れる感覚に近かった。
ああ、この人は本当に、自分が何をしたのかをその言葉で済ませられると思っているのだ、と。
「慰撫」
短く繰り返す。
「災害で崩れる領地を背負った娘を」 「まだ二十の伯爵令嬢を」 「支援の机と寝所のあいだで往復させておいて」 「あなたはそれを、慰撫と呼ぶのですね」
フェルモンドは答えない。
その沈黙の中で、夫としてのものが完全に死んだと、ベアトリクスは理解した。
ベアトリクスは椅子から立った。
「十分です」
その一言で、もう裁定は終わっていた。
「フェルモンド、退位」 「アルニード、セオバル、ユドリック、継承権永久剥奪」 「異議は認めません」 「これは家の問題ではなく、統治資格の問題です」
誰も、もう反論しなかった。
その夜のうちに、フェルモンドは王城奥の離宮へ移された。名目は静養だったが、実際には監視下の隔離だった。側近の出入りは厳しく制限され、王としての裁可権は停止される。印璽もまた、ベアトリクスの管理下に置かれた。
アルニード、セオバル、ユドリックの三王子にも、それぞれ謹慎が命じられた。第一王子アルニードは王太子府の封鎖と私的文書の押収。第二王子セオバルは教会系統との接触停止。第三王子ユドリックは近衛と切り離されたうえで北塔への移監。どれも名目上は調査協力のためだったが、実態は継承者としての資格を剥がす前段階に他ならなかった。
数週にわたる監査ののち、処分は正式に確定した。
フェルモンドは退位。以後、王都近郊の離宮にて終生幽閉。同時に、王族費の大幅削減と私的側近網の解体が命じられた。
アルニードは継承権永久剥奪のうえ、南辺境の修道院附属監査院へ送られた。表向きは行政補佐の任だったが、王都へ戻ることも、二度と中央政務へ関わることも許されなかった。
セオバルは聖堂庇護下に置かれ、名目上は悔悟と奉仕のための隠棲とされた。だが実際には、教会系統の財と人脈から完全に切り離され、王族としての影響力を失ったまま一生を終えることになる。
ユドリックは最も遠く、最も華やかさのない処分を受けた。北方旧砦への移送。軍籍にも政務にも就けず、少数の監視兵とともに辺地で歳月を潰すだけの生活だった。
誰も処刑はされなかった。
だが、王としても王子としても、二度と誰かの上に立てない形で、すべてを失った。
本当に重かったのは、そのあとだった。
人払いした私室で、ベアトリクスは扇を机へ置いた。そこで初めて、自分の指先が震えていることに気づく。王の前でも、貴族たちの前でも、娘の前でも震えなかったのに、誰もいなくなった途端に震えが来る。
夫を切ったからではない。息子たちを落としたからでもない。
もっと前に切れたかもしれないものを、切らずに今日まで引きずった自分を、ようやく自覚したからだ。
遅れた。
その事実だけで十分だった。
そこへ言い訳を足せば、ただ軽くなる。
扉が静かに叩かれた。
「お入り」
クラウディアだった。
娘は一歩入って、母の顔を見た。そして少しだけ目を細める。
「お疲れですね」
「ええ」
「遅れましたね」
ベアトリクスは、今度は逃げずに受け止める。
「ええ。遅れたわ」
「でも、切りました」
「ええ」
そこでクラウディアは、机の上の命令書を見た。クランツェル領への即時支援、王族私的裁量の制限、夜間召しと支援決裁の切り離し、記録開示と監査の徹底。どれも、もっと早く存在していなければならないはずの文面だった。
「署名を」
そう促されて、ベアトリクスは筆を取る。
王家を守るためではない。
この国を、二度と同じ形でまわらせぬためだった。
筆先が紙へ落ちる。
その瞬間、ようやく自分が決めたのだと実感した。感情で終わらせない。哀れみで済ませない。制度に落とし、記録に残し、人ひとりの身体と沈黙を見えぬ支柱にして国を保つ、その古いやり方を終わらせるのだと。
翌朝、ベアトリクスは王女宮へ向かった。
マリアベルデに会うためだった。
扉の前で、侍女が一瞬だけ伺うような目をした。だが王妃の来訪を拒む者はいない。静かに扉が開き、室内の温かな空気が流れ出る。
娘は窓辺近くの椅子に座っていた。
夜会で中央に立っていた時と同じ人間とは思えぬほど、今の彼女は小さく見えた。背筋はまだ保っている。だがそれは、誰かに見せるためというより、長くそれしかできなかった人間の癖として残っている姿勢だった。
こちらに気づくと、マリアベルデは立とうとした。
「そのままで」
ベアトリクスが言うと、娘はわずかに止まり、それから浅く礼だけをした。
沈黙が落ちる。
昨日のように、大勢の前で言葉をぶつけ合う場ではない。誰も見ていない。だからこそ、何を言うかで本当の重みが出る。
「支援の第一便が出ました」
まずそれを告げた。
「三日以内に到着予定です。石材、工兵、医師、薬師、税停止命令書、監督官任命書」 「二便には木材と医療具、追加の穀物を付けます」 「村ごとの配分記録も残させます」
マリアベルデは黙って聞いていた。
目元は少し赤い。泣いたのだろう。けれど声は震えなかった。
「……ありがとうございます」
礼を言われる筋ではないと、ベアトリクスは思う。
いや、思うだけでなく、言わねばならない。
「礼は不要です」 「本来はもっと前に届くべきものでした」
マリアベルデの指先が、膝の上でほんの少しだけ動いた。
ベアトリクスは続ける。
「私は昨日、責任を引き受けると申しました」 「ですが、引き受けるという言葉で過去を薄めるつもりはありません」 「遅れたことは遅れたままです」 「あなたに受け入れさせた時間も、戻りません」
そこでマリアベルデが、はじめてまっすぐ顔を上げた。
静かな目だった。恨みだけではない。泣き言でもない。ただ、逃がさぬ目だった。
「では、なぜおっしゃるのですか」
「申し開きではなく、確認のためです」
ベアトリクスは答えた。
「私は何も知らなかったわけではありません」 「何かがおかしいことには、気づいていました」 「それでも切るのが遅れた」 「その遅れごと、自分で見ておかなければならないので」
そこでやっと、マリアベルデの表情が少しだけ揺れた。
怒りとも悲しみともつかぬ、もっと細い揺れだった。
「……気づいていたのですね」
「ええ」
「それでも」
「ええ」
そこに言い訳はなかった。
王妃として確証が足りなかった、王家を切るには証が必要だった、国を揺らすわけにはいかなかった。どれも事実ではある。だが、それをこの娘の前に並べれば、自分の遅れを正当化する材料にしかならない。
マリアベルデはしばらく黙った。
そして、ひどく小さな声で言った。
「私は、王妃陛下をお恨み申し上げるべきなのでしょうね」
ベアトリクスは、その言葉を静かに受け止めた。
「そうでしょう」 「そうでなければ、おかしい」
娘は一度まばたきをした。
泣くまいとしているのではない。
その答えが、あまりにまっすぐで、少しだけ想定外だったのだろう。
「ですが」
ベアトリクスはそこで区切った。
「恨まれることと、私が立つことは別です」 「あなたが私を許さなくても、私は立たねばならない」 「あなたのためだけではなく、この国のために」
マリアベルデはゆっくりと腹に手を当てた。
その仕草を見て、ベアトリクスも視線を落とす。
ここにいるのは、王の罪ではない。
その先に残る命だ。
「この子を、隠し場所にはいたしません」
あらためてそう告げる。
「王の恥として押し込めることも」 「都合のよい象徴にすることも」 「させません」 「この子が次代として立つなら、それはあなたが黙って耐えた褒美ではなく、この国が二度と同じ形で回らぬようにするためです」
マリアベルデは目を閉じた。
長い沈黙のあと、かすかに頷く。
「……分かりました」
それは許しではなかった。
和解でもない。
ただ、今ここで交わせる限界の合意だった。
それで十分だと、ベアトリクスは思う。
マリアベルデの部屋を辞した時、クラウディアが廊下の壁際で待っていた。立ち聞きはしていない顔だが、母が長引くと見て待っていたのは分かる。
「いかがでした」
「嫌われたままよ」
「当然です」
「ええ」
そこでベアトリクスは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
自嘲に近いものだったかもしれない。
「けれど、話はしたわ」 「やっと」
クラウディアは何も言わなかった。
ただ一度だけ、静かに頷いた。
それからの日々は、早かった。
フェルモンドの退位は貴族院へ通知され、三王子の継承権永久剥奪も記録として残る。私的側近網の解体は予想以上に抵抗を呼んだが、それでも崩した。地方支援の決裁手順は組み直され、夜間召しと公的支援が交差せぬよう条文まで起こした。
ある老臣が、ため息まじりにこう言ったことがある。
「ここまでなさらずとも、時が経てば忘れられましょうに」
ベアトリクスは答えた。
「忘れられるからこそ、条文にするのです」
その返しに、老臣は口を閉じた。
忘れられる。
曖昧になる。
情で薄まる。
そうして同じことが繰り返される。
もう、その繰り返しの側には立たない。
夜更け、書類へ最後の署名を終えたあと、ベアトリクスは窓を開けた。冷たい風が入ってくる。王城の灯りはまだ消えない。人は動き、書類は走り、命令は夜のうちに地方へ向かう。そうやってやっと、本来あるべき速さが戻る。
遅すぎた。
だが、今からでも遅れを制度で埋めるしかない。
遠くで、夜明け前の鐘が鳴る。
ベアトリクスは目を閉じ、その音を聞いた。
それは弔鐘ではなかった。
何かが終わったことを告げる音であると同時に、次を始めるための音でもある。
寝台に入っても、長く目は閉じられなかった。
それでも翌朝、自分はもう妻としてではなく、統治者として起きるのだと、はっきり分かっていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本編『悪役令嬢になったのは、ずっと受け入れていたから』が、自分にとって投稿作品100作目でした。
そしてこちらのベアトリクス視点が、101作目になります。
せっかくの節目なので、本編だけで終わらせず、王妃側から見た話も書いてみたくなりました。
本編ではマリアベルデ側から見た「受け入れさせられてきた側の痛み」を中心に描きましたが、こちらではベアトリクス側から見た「気づくのが遅れた側の責任」を書いています。
王妃を、何も知らなかった人にはしたくありませんでした。
薄々おかしいと気づいていた。けれど切るのが遅れた。
その遅れもまた、この話では大きな意味を持つものとして描きたかったです。
本編とあわせて、マリアベルデ、クラウディア、ベアトリクスの三人でようやくこの話の形になるのかなと思っています。
100作目の本編、そして101作目の別視点まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




