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五億の口づけと、嘘つきのAi4ren

ヘリの中は、静かだった。

低いエンジン音だけが、機体の奥で絶え間なく唸っている。

窓の外には夜の海が広がり、港の灯りがゆっくりと遠ざかっていく。黒い水面に、点々と光が揺れていた。

ユキはシートに深く沈み込んだまま、膝の上で手をぎゅっと握りしめていた。

手錠の跡が、うっすら赤く残っている。

さっきまでの銃声と怒号が嘘みたいに、機内には静寂だけが満ちていた。


「……ユキ」

「は、はいっ」


反射的に背筋が伸びる。

凱は足を組んだまま、グラスをゆっくり揺らしていた。

琥珀色の酒が、氷と一緒に小さく鳴る。

この男は、どんな状況でも酒を手放さない。

銃撃戦の直後でも、ヘリの中でも。

まるで、世界がどう転ぼうと関係ないと言わんばかりに。


「困ったネ」

「え?」

「ユキがまたやらかしたから」


さらりとした物言いだった。

責めるでも怒鳴るでもなく、ただ事実を告げるような声。

それがかえって、ユキの胃をじわじわと締めつける。


「金塊、全部お巡りさんの物になっちゃったヨ」

「……へ?」


ユキの顔から、さっと血の気が引いた。


「え」

「え?」

「ええええええええええええええ!?」


ヘリの機内に絶叫が響く。

パイロット席の肩が、わずかに揺れた。


「う、うそですよね!? 嘘ですよね!? 私、ちゃんと守りましたよ!?」

「守ってたネ」

「ですよね!?」

「でも」


凱は肩を軽くすくめた。


「結果としては、全部持ってかれたネ」


沈黙が落ちた。

機体が微かに揺れる。

ユキの握りしめた手が、膝の上でじわりと白くなる。

それから。

ユキの声が、かすかに震えた。


「……いくら、ですか」


覚悟を決めた声だった。

聞きたくない。

でも聞かなければならない。

十九年の人生で、こんなに勇気が要ったことはない。

凱は少し考えるふりをした。


「そうだなー」


グラスをくるりと回す。


「借金、五億くらい膨らんじゃったネ」

「ご」


ユキの顔が真っ青になる。


「ご、ごおくぅぅぅ……」

「可哀想に」


まったく可哀想だと思っていない声だった。


「むりだよ、むりむり!!」


ユキは頭を抱えた。


「前のやつと合わせて……ろくおくごせんまん!! そんなの返せないよー!!」


必死に暗算したらしかった。

凱は一瞬だけ瞬きをした。

それから、くすりと笑う。

喉の奥で転がすような、小さな笑い声。


「相変わらず」


静かな声。


「ユキはおバカだネ」

「え?」

「七億五千万ダヨ」

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」


ユキはその場で崩れ落ちた。

シートから滑り落ち、ヘリの床に額をつける勢いで泣き崩れる。


「人生終わったぁぁぁ!!」


凱はその様子を、グラス越しに静かに眺めていた。

床に崩れ落ちたユキを見下ろす目は、どこまでも穏やかだ。

呆れているのか。

楽しんでいるのか。

その両方なのか。

この男の本心は、いつだって読めない。

しばらくして。


「まあ」


静かな声が、泣き声の上に落ちた。


「我は優しいから」


ユキがびくっと顔を上げる。

涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、凱を見上げた。

凱は自分の頬を、指でとん、と叩いた。

長い指。

白い肌。


「ここにキスしたら」


三日月の笑み。


「五億はナシにしてあげるヨ」


ユキの思考が止まる。

泣き声も止まる。

数秒。

機体の振動だけが、静かに続く。

それから。


「へ……?」


顔が、みるみる赤くなる。

さっきまでの青白さが嘘みたいに、耳の先まで熱が上った。


「き、キスって……」

「どうするネ?」


凱はグラスを傾けながら続けた。


「五億ダヨ」

「安いと思うけどネ」


ユキは固まったまま、凱の頬と顔を交互に見た。

ヘリのエンジン音だけが、低く響く。

五億。

五億。

五億。


(五億……)


ごくり、と唾を飲み込む。

ユキはゆっくり立ち上がった。

一歩ずつ、踏みしめるように。

揺れる機内で、慎重に足を運ぶ。

凱の前まで来て、立ち止まった。

凱はグラスを持ったまま、静かにその様子を眺めている。

三日月の笑み。

急かさない。ただ待っている。


「どうするネ?」


ユキの顔は、耳まで真っ赤だった。

少しだけ背伸びをする。

瞼をぎゅっと閉じる。

そして。

ちゅ。

凱の頬に、軽く唇を触れさせた。

ほんの一瞬。

羽みたいに軽い、ほとんど息のようなキス。

ユキはすぐに離れた。

視線を逸らす。

頬が燃えるように熱い。

心臓が、胸の内側から暴れている。


「こ、これで……五億チャラですよね……!」


凱は答えなかった。

ほんの一瞬。

目が細くなる。

その瞳の奥に、獣のような光が走った。

捕食者の顔。

だが次の瞬間。

何事もなかったように、三日月の笑みに戻っていた。


「……そうネ」


凱はゆっくりグラスを傾けた。


「じゃあ、今回はこれで許してあげるヨ」


少し間を置いて。

ぽん、とユキの頭に手が置かれた。

大きな手。

体温が、髪を通して伝わってくる。


「よくできたネ」


そして低く。

ひとこと。


「Ai4ren」


凱は笑った。


「……ちなみに」

「は、はい?」

「金塊、全部メッキだったヨ」

「………………」

「本物は別ルートで無事回収済みネ」

「………………」

「今夜のユキの頑張りは、全部」


凱の笑みが、深くなる。


「我のための囮だったヨ」


ユキの頬から、さっきのキスの熱がじわりと引いていった。


「つまり」

「五億も」

「最初から」

「……ないヨ?」

「ちょっ――――――」

「でも」


凱はグラスを傾けた。


「キスは本物だったヨネ」

「ありがとう、ユキ」


ユキは言葉を失った。

騙された。

全部、最初から、この男の手のひらの上だった。


「……っ」

「ずるいですよ、そんな言い方……っ!!」


凱はくすりと笑った。

それから、ふと窓の外へ視線を向ける。


「……さっきのお巡りさん」


声のトーンが、少しだけ変わった。

ユキは思わず顔を上げた。


「ナカジマ、だったかネ」

「知ってるんですか?」

「少しだけ」


凱はグラスを揺らす。


「優秀だヨ、あの人」

「……」

「だから、ユキ」


三日月の笑みが、少しだけ昏くなる。


「次に会ったら、気をつけなヨ?」

「あの人は」


静かな声。


「我と違って」


「本気でユキを捕まえに来るから」


ユキは黙った。

本気で、捕まえに来る。


「……凱さんは」

「ん?」

「本気じゃないんですか」


凱は答えなかった。

グラスを傾ける。

窓の外を眺める。

しばらくして。


「さあネ」


静かな声。


「我にも、よくわからないヨ」


それきり、凱は口を開かなかった。

ヘリは夜空を滑るように進んでいく。港の灯りは、もう見えない。海の黒さと空の黒さが溶け合う場所を、機体はまっすぐに切り裂いていった。

ユキは膝の上で手を握りしめたまま、俯いていた。


その横で。

凱の口元だけが、静かに深く、弧を描いていた。

グラスの中の氷が、また少し溶けた。

ヘリのエンジン音が、夜に溶けていく。



―――


特殊警察第七課。


その一室に、深夜でも灯りが点いていた。

デスクに広げられた資料の山。港湾での作戦報告書。押収できなかった証拠品のリスト。そして――一枚の、粗い画像。


変面の仮面。

赤い隈取り。


ナカジマは新しい煙草に火をつけて、椅子の背もたれに深く沈んだ。


「係長」


ドアが開いた。部下の松田が、薄いファイルを持って入ってくる。


「港湾の件、現場の映像解析が上がりました」

「結果は」

「変面で顔は割れていません。ただ――」


松田がファイルをデスクに置いた。

監視カメラの静止画だ。

画質は粗い。夜間撮影で、輪郭がぼやけている。


それでも。

鮮やかな赤の仮面。

真紅のチャイナ服。

そのシルエットは、はっきりと映っていた。


「……女だ」

「はい。体格から、おそらく二十代前後かと」


ナカジマは静止画を手に取った。


「調べろ」

「顔がない状態では、照会のしようが――」

「黒髪。チャイナ服。胸がデカい」


松田の手が、微かに止まった。


「……それだけで?」

「黒龍会の構成員だ。そこから絞れ」

「は、はあ」

「あと」


ナカジマは静止画をデスクに戻した。


「身体能力が異常に高い。銃弾を全弾回避した記録が映像に残っているはずだ。そういう人間が黒龍会に入った経緯を洗え」

「……係長、それ相当な手間に」

「やれ」

「……はい」


松田が部屋を出ていく。

ドアが閉まった。


静寂。

ナカジマは煙草を灰皿で静かに揺らした。

煙が、天井へ昇っていく。

あの夜の映像が、脳裏に流れた。

銃弾をかわす動き。

あり得ない軌道。

コンテナへ向かおうとした自分の背中に、突然飛びついてきた衝撃。

そして。


(いかんいかん)


ナカジマは煙草を深く吸いこんだ。


(任務だ)


背中の感触を、意識の外へ押し出す。

柔らかさも。

重さも。

体温も。

全部。


「……」


煙草の煙だけが、静かに揺れている。

デスクの上の静止画。

赤い仮面の下の顔を、ナカジマはまだ知らない。

だが。

港の夜風の中で聞いた声は、まだ耳に残っていた。


『 絶対いやー!!』


妙な声だった、と思う。


「……」


ナカジマは静止画を、資料の山の一番上に置いた。


「必ず割る」


煙草の火が、静かに短くなっていく。


「……顔を」

ここまで読んでいただきありがとうございました。

この話は一旦ここで一区切りですが、反響があれば続きを書こうと思っています。

ユキを追う特殊警察のナカジマと、黒龍会の凱。

そして日本側の組織もまだ動いていません。

面白いと思っていただけたら、ブクマや感想で教えてもらえると嬉しいです。

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