我の物ネ
「被疑者、確保」
低い声が、夜の港に落ちた。
「っ……!」
気づいた時には遅かった。
左手首に冷たい金属が食い込む感触。
カチン、という乾いた音。
手錠だ。
「ん……」
特殊警察第七課、係長ナカジマ。
ナカジマは片膝をついたまま、目の前の被疑者を見上げた。
さっきまで気を失っていたはずの頭が、じんじんと痛む。胸元に妙な柔らかさの記憶が残っているが、今はそれどころではない。
変面の仮面。
鮮やかな赤の隈取り。
顔はわからない。
だが。
「……女?」
チャイナ服のスリットから覗く白い太腿。
今にも布地が破裂しそうな胸元。
どう見ても、男ではない。
「なんで……若い女が、こんな事をしている」
独り言のような呟きだった。
ユキは答えなかった。
(答えるもんですか)
手錠で繋がれた左手首を、ちらりと見る。右手は自由だ。逃げようと思えば逃げられる。
でも。
(金塊が、ある)
コンテナはまだそこにある。
密輸船が来るまで、あと――どれくらいだろう。
「お前は、どこの組のモノだ?」
ナカジマの目が、仮面の奥を覗こうとするように細くなった。
「……」
ユキは黙った。
「まあ、言わないだろうな」
ナカジマは静かに立ち上がった。ユキより頭ひとつ分以上、背が高い。
「だが、身柄は既に確保できている」
一歩、距離が詰まる。
「口を割らないなら」
さらに、もう一歩。
「その身体に直接聞くのも、可能だが?」
ぞわっ。
ユキの全身に、別種の悪寒が走った。
(このポリ公、なんて事言ってんのよ!!)
顔が仮面の下で真っ赤になる。
「っ……べ、別に! 何も喋る事なんてないし! っていうか、そんな事したら人権侵害じゃないの!? 訴えるわよ!?」
「お前が訴える立場か」
「うっ……」
正論だった。
ナカジマはしばらくユキを観察するように見つめてから、ふと視線を動かした。
コンテナの方へ。
「……待って」
「?」
「あの、ちょっと待って! 話す! 少しだけ話す! だから、その、そっち行かなくていいから!」
「急に喋る気になったな」
ナカジマの目が、すっと細くなった。
「……妙だな」
「べ、別に妙じゃないし! 私だって話したい気分の時とか、あるし!」
「コンテナが、気になるか?」
ユキの心臓が、跳ねた。
「な、なんの話? 全然気にしてないし? コンテナなんてどこにでもあるし?」
「そうか」
ナカジマはユキから目を離し、コンテナへ向かって歩き出した。
「ちょ――っ!」
考えるより先に、体が動いた。
ユキはナカジマの背中へ、全力で飛びついた。
「なっ……!」
ナカジマの背中に、ふわっとした重みと、とんでもない柔らかさが激突する。
Gカップが、背中いっぱいに押しつけられた。
「……っ」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、ナカジマの思考が、真っ白になった。
(いかんいかん)
首を振る。
(コンテナの確認が、先だ)
「離せ」
「いやよ!」
「離せと言っている」
「絶対いやー!!」
ユキはナカジマの背中にしがみついたまま、仮面の下で必死に歯を食いしばった。
時間さえ稼げれば。
密輸船さえ来てくれれば。
そうしたら――
「……随分と楽しそうだネ」
声が、した。
低く、穏やかで、底のない声。
ユキの動きが止まる。
ナカジマの動きも止まる。
ゆっくりと振り返る。
コンテナ群の影から歩いてくる男。
黒髪に走る白いメッシュ。
港の灯りを受けて、艶やかに光る。
手にしたグラスを、ゆるゆると揺らしながら。
三日月のような笑み。
ナカジマの喉が、小さく鳴った。
「……嘘だろ」
見間違えるはずがない。
「黒龍会の総帥が……直々にお迎えかよ」
凱は答えなかった。
ただ、食えない笑顔のまま、ユキへ視線を向ける。
「ユキ」
「か、凱さんっ……!!」
「ご苦労様だったネ」
凱はゆっくりナカジマへ視線を移した。
「お巡りさん」
三日月の笑み。
「その子」
指先で、ユキを示す。
「我の物ネ」
少し首を傾げる。
「壊されたら困るヨ」
ナカジマの目が、鋭く細くなった。
「………动手」
凱は静かに、グラスを持っていない方の手を上げた。
それだけだった。
だが。
「っ!」
コンテナの影から、屋上から、暗がりから――黒龍会の構成員たちが、一斉に動いた。
「総員、迎撃!」
銃声が港に弾ける。
ナカジマが身を低くする。
怒声。銃声。金属音。
その混乱の中で。
ユキは左手首を見た。
手錠。
ぐ、と力を込める。
金属が軋む。
メキッ。
「あれ?」
手錠が割れた。
「あれ? 割れた」
ユキは砕けた破片を落とすと、即座に走り出した。
ビルの壁を蹴る。
二歩、三歩。
壁を駆け上がり、鉄骨を掴んで跳躍する。
「くそ……っ! 逃がすかよ!」
ナカジマの声が下から追う。
だがもう届かない。
ユキの体は夜の高みへ消えていた。
そして。
ユキの姿が闇に溶けた瞬間。
ぴたりと銃声が止んだ。
静寂。
まるで、最初から何もなかったかのように。
「……」
ナカジマは荒い息のまま、夜空を見上げた。
重低音。
ヘリだ。
黒塗りのヘリコプターがコンテナ群の上空に滑り込む。
凱は振り返らない。
グラスを静かに傾け、最後のひと口を飲み干す。
空のグラスを構成員に渡す。
「お巡りさん」
ヘリのタラップへ足をかけながら、凱は振り返った。
三日月の笑み。
「今夜は楽しかったヨ」
それだけ言って、タラップを上る。
ドアが閉まる。
轟音が遠ざかる。
黒い機体は、夜空に溶けて消えた。
港に残ったのは、ナカジマと、散乱した薬莢だけだった。
「……黒龍会の総帥が」
ナカジマは夜空を見上げたまま呟く。
「直々に迎えに来た」
あの女のために。
「……ふざけるな」
静かに拳を握る。
「……どういう関係だ」
潮の匂いだけが、静かに漂っていた。




