【短編】日曜のドーナツの窓から見えるのは (2026.2.15.Sun)
「バレンタインは、彼氏と遊ぶ約束しちゃったんだ」
ごめん栞、と手を合わせて謝る幼馴染の未愛。
廊下に、ぴゅうと隙間風が通り抜けた。
「その代わり、バレンタインの次の日の日曜は一緒に遊ぼ!」
屈託なく笑う未愛。透き通るような茶色の瞳が、きらりと輝く。
つられるように小さく頷いた。
私は、そんな未愛に弱かった。
彼氏に呼ばれた未愛へ、大きく手を振る。
今年に入って三人目の彼氏。未愛は、彼氏がころころとよく変わる。
吐きだした息が、白く煙った。
未愛の背中を追いかけるように、息が伸びていく。
遠くで、未愛が彼氏と手を繋いでいた。見つめあって笑いあう二人。
お揃いのイルカのキーホルダーが、二人の鞄で揺れている。
――あの人は、未愛と付き合ってまだ三週間なのに。
心臓に、爪をぐっと突き立てられた気がした。
そのまま、未愛が去っていた方向とは反対に、踵を返す。
夕焼けの通学路に響くカラスの鳴き声が、やけに耳に残って離れなかった。
♥
日曜日、玄関のドアを開けた未愛が、にっこりと笑う。
未愛の髪から漂う、甘いチョコレートの匂い。息が詰まりそうだった。
――昨日はバレンタイン。彼氏に手作りのチョコレートでもあげたのだろうか。
「栞、どうかした?」
「……何でもないよ」
無理やり口角を上げ、ドアをくぐる。
奥のキッチンから、むせ返るような甘い匂いが立ち込めていた。
いつも通り、通されたのは未愛の部屋。
未愛は、私を部屋に通すなり下の階に降りてしまっていた。
横に置いた自分の鞄を開く。
中には、ラッピングされたカップケーキが入っていた。
毎年恒例のカップケーキ。
今日、未愛に渡そうと、昨日こっそり作っておいたのだった。
未愛は彼氏がいる。
この気持ちは、隠し通さないと。だって、私たちは幼馴染なんだから。
でも……。
袋の上を滑り落ちたため息が、鞄の中にゆっくりと溜まっていった。
沈んだ心を閉じ込めるように、鞄を閉じる。
軽く伸びをすると、視界の端の未愛のリュックに目が留まった。
キーホルダーと缶バッジが沢山ついた大きなリュック。
「あれ?」
イルカのキーホルダーが消えていた。
彼氏とお揃いで買ったと、鞄につけていたキーホルダー。
それが消えているということは、もしかして、彼氏と……。
「栞、どうしたの?」
未愛が、ドアから顔を覗かせていた。
不思議そうに首を傾げる未愛。
ごくりと息をのむ。
彼氏と別れたか聞くチャンスは、今しかない。
けたたましく鳴る心臓を、ぎゅっと抑える。
小さく息を吸うと、喉の奥から声を絞り出した。
「……彼氏とお揃いのイルカのキーホルダーが、無いなって」
「ああ、それね」
後ろ手にドアを閉めた未愛が、眉を下げて笑った。
「……昨日、踏んづけて壊しちゃった」
目の前が真っ暗になった。
ああ、聞けなかった……。
喉の奥から絞り出した声は、結局違う言葉を紡ぎだしてしまった。
唇を噛み締める。
未愛が彼氏と別れたかどうかなんて、聞くべきではなかった。
先程、私達は幼馴染だと散々言い聞かせたのに……。
伏せていた目を無理やりあげると、わざとらしくため息をつく。
「彼氏が泣いちゃうよ」
「……大丈夫だって!もう必要無いし」
いつの間にか横に座っていた未愛が、握りこぶしを作って笑った。
――ああ、そっか。彼氏と新しいキーホルダーを買ったんだ。
息が詰まる。目元がかっと熱くなった。
「そうだ、未愛」
口を開きかけた未愛に、声を被せる。
彼氏との話なんて聞きたくなかった。
手元の鞄を漁ると指先が袋に触れて、乾いた音を立てた。
袋から覗くカップケーキに息をのむ。
――大丈夫。今年もいつも通りに渡せばいいんだから。
軽くリボンを整えると、袋を引っ張り出す。首を傾げる未愛に、差し出した。
「はい、未愛。いつもの」
未愛の視線が、袋に落ちた。
「いらない」
「……え?」
きっと睨む未愛。そのまま袋を押し返される。
ぐしゃり。
袋の中で、カップケーキの潰れる音がした。
柔らかい感触が、手のひらに伝わる。
崩れた生地が、袋の中で崩れ落ちていった。
「未愛、なんで……」
「それより、これ食べて」
ふっと目線を逸らした美愛は、くるりと体を横に向ける。
ガチャンと音を立ててテーブルの上に置かれた大皿。
その上には、色とりどりのドーナツが乗っていた。
ふわりと香り立つ甘い匂い。先程キッチンに立ち込めていたのと、同じ。
喉がひくりと鳴った。
「栞にドーナツ、作ったんだ」
未愛が目を細める。
喉の奥に抑え込んだものが、どろりと溢れ出した。
「……彼氏にあげた分の、残りなんでしょ」
止められなかった。焼け付く炎に、全身が飲まれていく。
手から滑り落ちたカップケーキが、床に転がった。
「違う!わたしは、栞が……」
小さく呟いた未愛の声が、震えていた。
はっと我に返る。頭が急速に冷えていった。
――こんな事、言うはずじゃなかったのに……。
おそるおそるドーナツに手を伸ばす。
未愛の視線が指先に集まるのを感じて、耳が熱くなった。
ドーナツは、口の中でほろりと甘く溶けていった。
お腹の中のうねりが、ゆっくりと納まっていく。
「ごめん……ドーナツ、美味しい」
「うん」
未愛がドーナツに手を伸ばす。一口食べると、ちらりとこちらを見た。
「……そういえば」
未愛が小さく息を吸った。
「……何で毎年カップケーキなの?」
ぎくりと背中が強ばる。冷や汗が背中をつうと流れた。
「つ、作りやすいから」
「……ふーん、意味なんてないんだ」
未愛の瞳が微かに揺れる。
そのまま、ドーナツに視線を落とすと、動かなかった。
手のひらが、いつの間にか少し汗ばんでいた。
手元のドーナツに視線を向けると、小さく息をつく。
ふいに服の袖が引かれた。
未愛が、潤んだ瞳で私を見上げている。指先の震えが伝わって、喉が鳴った。
「ねえ、栞。ドーナツの……」
未愛の潤んだ瞳が揺れる。
ふと、その瞳の向こうに懐かしい光景がよぎった。
ドーナツの穴から、こちらを覗く丸い未愛の目。
「あ、そういえば……」
丸い未愛の瞳が大きく開き、袖を強く握りしめた。
――ドーナツの穴の向こうは、別の世界なんだよ。
そう言って、にぃっと笑った幼少期の未愛。
これが、未愛との出会いだった。
「二人で、よくドーナツの穴を覗いていたよね」
食べかけのドーナツを、そっと目に寄せる。
むせ返るような甘い匂い。
穴の向こうには、普段の未愛の部屋が広がっていた。
「……懐かしいね」
ふっと袖が軽くなる。
熱がゆっくりと離れていった。
未愛も、同じようにドーナツを目に寄せる。
ただぼんやりと、お互い歪な穴を覗いていた。
ふと耳に視線を感じて、横を向く。
思わず息をのんだ。
ドーナツの窓のその奥。
未愛が、腕をだらりと膝の上に下ろしていた。
未愛の手の中のドーナツは消えている。
ドーナツの欠片がひとつ、膝の上に転がっていた。
熱をはらんだ瞳に、赤く染まった目元。
ドーナツの甘い香りが鼻につく。
胸の奥がざわつき、思わず指先に力が入る。
ふと未愛の声が蘇った。
――大丈夫だって!もう必要ないし。
はたりと手が止まった。吐きだした息が震える。
消えたイルカのキーホルダーが、脳内で振り子のように揺れだした。
「栞……」
苦し気な声が、胸を掻きむしる。
耳の中に溶けた砂糖がべたつくように絡みつき、顔を歪ませた。
未愛がゆっくり腰を上げる。
じり、と未愛が膝をすって近づく度に、肩が強ばっていく。
全身が床に絡めとられたように、動けない。ドーナツを握る手が汗ばんだ。
未愛の唇が、ゆっくりと言葉を形作る。
ぞわりとした感覚が、背中を駆け下りていく。
怖い。
この先を、知ってしまうのが。
脳が、ゆっくりと言葉を理解していく。
自分が求めていたはずなのに、耳をふさいでしまいたかった。
「栞、知ってるよね」
「……え?」
未愛の指先が膝に触れ、爪が軽く引っ掻いた。
「カップケーキには、『あなたは特別な人』って意味があるってこと」
「ち、ちが……」
冷や汗が背筋を流れ落ちる。
肩にそっと添えられた反対の手。ドーナツ越しに、徐々に瞳が近づいていく。
甘い息が口元にかかり、思わず体が後ずさる。
受け入れてしまうのが、怖かった。
「栞……なんで」
未愛の指先が滑り落ちる。触れられた膝が、じわりと熱を帯びた。
「なんで、逃げるの?」
苦し気な未愛の声に、息が止まった。
歪んだ笑顔をたたえた口元。肩が震える合間に、荒い息が漏れている。
胸が締め付けられ、目を逸らしてしまった。
しゃくりあげる音が、遠くから胸を突き刺すかのように聞こえた。
伸ばしかけた指を、強く握る。
――ドーナツの意味は、『あなたを愛しています』
脳裏に、未愛の姿がちらついて離れない。
ドーナツの向こう。
未愛の指先が、触れそうで触れない距離で揺れていた。
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