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第2話 リアレンへの道

首都リアレンは、俺の家から歩いて三時間。


急げばもっと早い。走れば二時間でもいける。

……けど今日はもう夕方だったし、脚がまだ痛い。あの呪いみたいな梯子のせいで。


三十時間。

誰がそんな訓練を思いつくんだよ。


父さんに決まってる。


俺は荒れた大地を歩きながら、ずっと空を見ていた。


夕焼けが――変だった。


ただ赤いだけじゃない。

誰かが巨大な器を持ち上げて、空に血をぶちまけたみたいな色。濃くて、重くて、嫌に生々しい赤。


胸の奥がざわつく。


嫌な予感。



俺が住んでる場所は、本当に何もない。


道と呼べるものは、首都へ向かう踏み固められた一本の筋だけ。

近くに家もない。隣人もいない。旅人が通ることもない。


地平線まで続く、何もない荒野。

その真ん中に、一本だけ立っている巨木。

そこに、俺たちの家がぶら下がってる。


人が現れるのは、首都から一時間ほどの距離まで来てからだ。


あの辺りに入ると、いつも思う。

――俺はここでは、よそ者だ。



その「よそ者」扱いが一番分かりやすいのが、首都の手前にある小さな集落だった。


村というほど大きくない。

家が輪になるように固まって建っていて、石造りじゃなく木造だ。でも妙に整ってる。暗い板壁、窓枠の白い模様、低い屋根。まるで建物そのものが空を見上げるのを怖がっているみたいだった。


住んでる天使は二十人ほど。

夕方になると必ず外へ出てくる。水の器を運ぶ者、薬草の束を抱える者、戸口に立って短い会話を交わす者。

その動きが、揃いすぎている。


……生活が「儀式」になってしまったみたいに。


全員が似ていた。

似すぎていた。


体つきは他の天使と変わらない。

でも、外見が身分を語ってしまう。


肌は白く、つやのない白。

そこに「血色」というものがほとんどない。

そして何より――髪だ。


灰色しかない。


濃い灰。灰の粉みたいな淡い灰。古い金属みたいな灰。

それ以外が、ない。


リアレンでは、それが分かりやすい印だった。

彼らは「手」を持つために生まれてくる。

権力のためじゃない。高位の魔法のためじゃない。決定の場に立つためでもない。


最初から、役目が決められている。


服もそうだった。


都の天使が着るような整った装束や外套はない。

彼らが着ているのは、厚くて荒い布の、左右非対称の衣。袖が片方だけだったり、そもそも袖がなかったりする。

布は帯で結ばれているんじゃない。白鈍い銀みたいな留め具で、身体に沿うように留められている。


手首には布じゃなく細い環。役目の印が刻まれている。

胸には名前のない平たい標。共同体の記号だけ。


飾りじゃない。

印だ。


家も密集して、互いに寄りかかるように並んでいる。

この場所では、上を見ない。

空を見上げない。


弱い?

普通?


……違う。


「諦めてる」んだ。


生まれた瞬間から、

自分が何者になれないかを知っている天使たち。



俺が近づいた瞬間、空気が止まった。


視線。

一斉に。


この手の視線は、もう慣れてる。

慣れてるからこそ、種類まで分かる。


あの老人は、靴底についた汚れを見るみたいな目。

あの女は、子どもを引っ張って俺から遠ざける。

同い年くらいのやつは、俺を見てないふりをしながら、目だけは離さない。


昔は腹が立って仕方なかった。

身体が震えるほど。


今は……もう疲れた。


俺は、わざと笑ってやった。大げさなくらいに。


「よっ。久しぶり。元気してた?」


そう言って手を振る。


「暗い顔やめろよ。似合わないぞ。笑えって」


……返事はない。

むしろ表情がさらに曇った。


うん、知ってた。


たまに笑いそうになる。

意味が分からなすぎて。


俺は、何もしてないのに。

ただここを通るだけなのに。


それでも、彼らの目の中では、俺が全部の原因みたいだった。

灰色の髪も。閉じた家も。抜け出せない暮らしも。


俺は肩をすくめるしかない。


「……じゃ、元気でな!」


最後にもう一回手を振って、少し小さな声で付け足す。


「……悪かったな。俺が機嫌を悪くさせたなら」


もちろん、返事はなかった。



それから三十分ほど歩いたところに、俺のお気に入りの場所がある。


うちの巨木ほどじゃないけど、背の高い木が一本。六メートルくらい。

枝が低く垂れていて、葉がざわざわと頭の上で鳴る。そこだけ空気がひんやりしている。


その木からは、リアレンが見える。

手のひらの上みたいに。


それに――果実もなる。


俺の子どもの頃の、生きがい。


俺はそれを「グリメル」と呼んでいる。

温かい金色の、小さな楕円の実。薄い皮はひと噛みで弾ける。


味は、甘い蜂蜜と冷たいミントを混ぜたみたいで、舌が少しピリッとする。

そのあと、胸の奥のざわつきがすっと消える気がする。


昔は、丸一日こればっかり食ってた。


枝に登り、葉の陰に座って、一つもいだ。


「……よし。グリメル、いただき」


かじる。


甘い。

冷たい。

落ち着く。


俺はリアレンを見上げて――固まった。


彗星が飛んでいた。


しかも、一つじゃない。たくさん。


星が瞬いたり、光が落ちたりするのは見たことがある。

でも彗星は初めてだ。

一本、また一本と、空に長い尾を引いて、まるで誰かが空を光で切り裂いてるみたいだった。


俺は口を半分開けたまま、しばらく動けなかった。


「……やば……」


リアレンは、元々きれいな都だ。

嫌われても、俺はこの都が好きだった。


なのに今夜は、さらに綺麗だった。

彗星が、全部を飾ってるみたいに見える。


きっと俺は、この景色を忘れない。



俺は旅が好きだ。


目の向く方へ歩くのが好きだ。

知らない場所、知らない空気、知らない景色――そういうのが好きだ。


でも父さんは許さない。


……正確には、言葉で止めるわけじゃない。


俺が八歳か九歳の頃、何度も逃げようとした。

荒野の端へ、こっそり。タイミングを見て。今度こそって思って。


無駄だった。


父さんは毎回、俺を見つけた。

いつも、ちょうどいいタイミングで。

一度も外さない。


何も言わずに現れて、俺の向きを変えて、家へ戻す。

脅しもない。説明もない。


……選ぶ余地がない。


回数を重ねるほど、俺は遠くへ行けなくなった。

そして、そのうち――行くのをやめた。


「行くなら首都だけだ。妹の顔を見て、帰れ」


それが父さんの決まり。


俺は父さんを尊敬してる。

してるけど――胸のどこかが、いつも締め付けられる。


俺の世界は、荒野と木と家と、リアレンまでの三時間。

それで終わりみたいで。


彗星を見ながら思った。

いつか、俺はもっと先へ行く。


いつか。



休憩を終えて、俺はまた歩き出した。


リアレンが近づくにつれて、都は「街」じゃなく、「生き物」みたいに見えてくる。


高い建物が空へ突き刺さるように並ぶ。

白に近い淡い石の壁。その表面を、細い金色の筋が走っている。

塔と塔の間には回廊のような橋が渡され、そこを天使たちが行き交う。小さな影が、巨大な構造物の中を流れていく。


噴水。水路。段差。広場。

全部が計算されてる。

手で建てたというより、誰かが「こうあるべきだ」と決めて形にしたみたいだった。


住んでる数は知らない。

でも、二十万とか三十万とか――そのくらいは普通にいそうだ。

見えてるのは、その一部だろう。


俺はマフラーを引き上げて、顔の下半分を隠した。


こうした方が楽だ。


視線が減る。

囁き声が減る。

「また来た」って空気が、少しだけ薄くなる。



そして、俺は見つけた。


セリア。


大きな噴水のそばに、動かず座っていた。

街の飾りの一部みたいに。


俺の妹。十歳。


背は、もうすぐ俺に追いつきそうだった。

俺が一五〇で、セリアが一四五。

その差が妙に可笑しくて、いつも「そのうち俺を見下ろすんじゃないか」と思ってしまう。


セリアは、他の天使とすぐに違うと分かる。


髪が赤みがかっていた。

銅みたいな、温かい色。

この都の白さと灰色の中では、やけに生々しい。


きちんとまとめているのに、意地の悪い束が必ず逃げて、頬の横に落ちてくる。

本人の性格みたいに。


目は淡い色で、普段はやたら生きてる。

……でも今は、くすんでいた。


噴水を見ているようで、見ていない。

視線が、どこにも留まっていない。


セリアの向かいには、像が立っていた。


片手を掲げた女のアルコン。

まるで都を祝福しているみたいな姿。


――アルコン・アエステリア《原初の花芽》。


俺はその名前を、子どもの頃に聞いた。


七歳くらいの時、教本に載ってた。

ほんの数行だけ。

最初期のアルコンの一人で、力は「花芽はなめ」――そう呼ばれる、と。


それだけ。


でも父さんは、時々違う言い方で話した。

俺とセリアに、寝る前に。


「昔の世界は動かなかった。石は変わらず、水は同じように流れ、何も“なろう”としなかった」


「そこへアエステリアが現れた。近くにいると、石に模様が浮かび、水は行きたい方へ流れ、光さえ揺れた」


父さんは「花芽」という言葉の前で、いつも一瞬止まった。

まるで、その呼び名が正しいのか迷ってるみたいに。


「世界は変わった。生きた。だが、そのせいで裂け目が生まれた。直せない傷が残った」


そこまで言うと、父さんは話を終える。

セリアはたいてい、その途中で眠る。

俺だけが目を開けたまま、天井を見ていた。


噴水の水が高く上がって、柔らかい雨みたいに落ちてくる。

景色は綺麗だった。


……でもセリアは、沈んでいた。


俺の胸が、少し痛んだ。



俺は音を立てずに近づいた。

できるだけ静かに。


(よし……)


背後から耳元へ顔を寄せる。


「……ぶ」


セリアが爆発した。


跳んで、回って――脚が飛んできた。


俺の頬に直撃。


世界が一瞬、真っ白になった。


俺は二、三メートル吹き飛んで、茂みに突っ込む。


「……っ、あうっ」


セリアは一瞬、戦う姿勢のまま固まって――俺を見た。


「ミレム!?」


次の瞬間、顔が花みたいに明るくなる。


そして、突っ込んできた。


抱きつかれた衝撃で、肺の空気が全部抜ける。


「セ、セリア……重い……痛い……降りろ……」


「一か月だよ! 一か月!!」


むくれた顔で、でも離れない。


「会いたくなかったの!?」


俺は頭をかきながら、目を逸らす。


「……ごめん。治癒と火の魔法、練習してた」


「言い訳」


即答。冷たい。


俺はため息をついて、セリアの頭に手を置いて髪をくしゃっとする。


「分かった。もうこんな間は空けない。もっと来る。約束する」


セリアが目を細める。


「約束?」


「約束」



そこから俺たちは、都を歩いた。


セリアは学舎の制服を着ていた。

動きやすい薄いチュニックに、短い濃色の上掛け。喉元の留め具は小さくて、邪魔にならない。

足元は柔らかい靴で、石畳を踏んでも音がしない。


胸には小さな印――青地に白い枝。


「勉強どうだ? また成績悪いんじゃないのか」


「はぁ? あんたの治癒よりはマシだし」


「……え?」


俺、固まった。


セリアは得意げに笑う。


「事実でしょ」


「残酷な妹だな……」


俺が死んだふりをすると、セリアが笑って、俺もつられて笑った。


少しだけ、心が軽くなる。


噴水のそばで、セリアが言った。


「父さんは? また地下ばっか?」


俺は肩をすくめる。


「慣れた。いつも何か探してる。俺は余計なこと言わないようにしてる」


セリアは眉を寄せた。


「会いたいのに」


「大丈夫。父さんも心配してる。きっと来る」


……セリアは納得していない顔だった。


俺は笑って言う。


「来なかったら、俺がぶん殴って連れてくる」


「言わないで」


セリアの声が硬くなった。


「……ごめん。冗談」


しばらく沈黙して、セリアが小さく言った。


「ここ、好きじゃない。ひとり。友だち、できない。みんな……変な目で見る」


俺はセリアを見る。


「俺がもっと来る。約束する」


それから、できるだけ平静な声で聞いた。


「……いじめられてないよな? 変なことされてない?」


セリアは顎を上げて、はっきり頷く。


「ない。大丈夫」


俺は信じた。

信じたかった。


俺は笑って言う。


「もし触られたら、そいつは俺が潰す。で、治癒魔法で――」


セリアが吹き出した。


「治せないでしょ」


「……お前さぁ」


「言葉、強いのに治癒だけ弱いんだもん」


「うるさい」



俺たちは夕焼けを見ていた。


風が髪を揺らす。

空はまだ、血みたいな赤だった。

まるで空そのものが傷口になって、じわじわと色が滲んでいるみたいに。


胸のざわつきが消えない。

むしろ強くなる。


時間が遅くなったような感覚。


風が静かになる。


周りの天使たちは笑って歩いていた。

何も感じていないみたいに。


――そして。


音がした。


最初は、氷が割れるみたいな、小さな音。

次に、もっと大きく。

最後は、耳が壊れるほどの――


空が、裂けた。


本当に、裂けた。


割れた空の向こうから、

濃くて黒い血が、滝みたいに流れ落ちてくる。


都が凍りついた。


天使たちが一斉に空を見上げる。


裂け目の中に――


目があった。


巨大な、悪意のある、

“ここにいてはいけない”目。


どこを見ているのか分からないのに、

俺は確信した。


――俺を見ている。


セリアが、俺の手を握った。


俺は動けなかった。


頭の中に残った言葉は、ただ一つ。


やばい。


ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。

次の話は、3〜4日以内に更新する予定です。

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