王太子の花嫁候補
「いかん!いかんと言ったら絶対にいかん!」
屋敷に帰ると、ハリスはクリスティーナに噛みつかんばかりの勢いでまくし立てた。
「どんなに私が心配したと思っているのだ!いいか?無事に帰れたのは奇跡だぞ。もう二度とあのような振る舞いは許さん!」
「ですがお父様…」
「何度言ったら分かるんだ!絶対に許さんからな!」
そう言い捨てると、ハリスはバタンとドアを閉めて立ち去った。
クリスティーナは、ふうとため息をついてソファに腰掛ける。
ガルパンでの合戦で、我がコルティア軍は見事に敵の将軍部隊を制圧し帰還した。
国王にも労われ、良かったと胸をなで下ろしていたクリスティーナを、ハリスは鬼の形相で馬車に押し込み屋敷に連れ帰ってきた。
クリスティーナが、このまま近衛隊第一部隊にいさせて欲しいと言うと、頭から火が出るのでは?という勢いで猛反対されたのだった。
(確かに私があの将軍を負かせたのは運が良かっただけ。次は命の危機にさらされるかもしれない。だけど…)
クリスティーナは目に焼きついたイズールの町並みを思い出す。
まるでゴーストタウンのような不気味に静まり返った町。
ガルパンからイズールに戻り、住民が避難しているという教会を訪れると、そこには怯えたように身を寄せ合っている子ども達やお年寄りが数多くいた。
(あのイズールのような町は他にもあるのだわ。今こうしている間にも、恐怖に怯え、食べる物も手に入らず辛い時間を過ごしている人達がいる)
そう思うと、クリスティーナはいても立ってもいられなくなる。
はがゆさに、思わず父に「隊に戻ってみんなを救いたい」と訴えてみたが、案の定、いや予想以上に怒りを買った。
クリスティーナが隊に戻りたいのにはもう一つ理由がある。
それはやはり父を守りたいという思い。
右腕の怪我は良くなってきたが、屋敷に帰って来られる日はどんどん少なくなっていた。
(お父様は、毎晩のようにあのテントで眠り、気の休まらない日々を過ごしている)
自分が体験したあの非日常の出来事が、父にとっては日常なのだ。
そう思うと、クリスティーナは胸が詰まった。
何も出来ずに、ただのうのうと暮らす自分が許せず、暇を見つけては屋敷の警備隊を相手に剣の腕を磨く。
「クリスティーナ様、もうご勘弁を…」
「まだまだよ。さあ、次は誰?!」
鬼気迫る表情で、次々と自分よりもはるかに体格の良い男達を打ち負かす。
そのうちにクリスティーナは、わざと右手を封じ、かつ短剣だけで相手と戦えるまでになった。
時折屋敷に戻る度に、庭で剣を振りかざすクリスティーナを見かけ、ハリスはため息を洩らしていた。
*****
そんな日々が続き、あの日短く切ったクリスティーナの髪が肩下まで伸びた頃、ハリスはクリスティーナにある提案をした。
「王太子様の花嫁候補?どなたが、ですか?」
「だからお前だよ、クリスティーナ」
「…は?」
突拍子もない話に、クリスティーナはポカンとする。
「お父様、寝言は寝ている時におっしゃいませ。私が王太子様の花嫁になど、どこをどうやってもふさわしくありませんわよ?」
「分かっておる。これにはもちろん、裏があるのだ」
「裏…ですか?」
クリスティーナは目をきらりと光らせて、顔を寄せた。
「やれやれ。お前はこういう話ときたら、途端に目の色が変わるな」
「前置きは結構ですわ。早く本題を」
「分かったよ。実はお前も知っての通り、未だ我が国の状況は思わしくない。国王陛下が色々と手を打っておられるが、敵の動きも速く、なかなか取り押さえることが出来ない。そして我々はつい先日、ある情報を耳にした。敵のスパイが我が国の王宮に潜り込んだという、信じがたい内容のな」
「王宮に敵のスパイが?!」
これにはさすがのクリスティーナも声を上げて驚く。
「本当にそんな恐ろしいことが?」
「ああ。かなり信用出来る筋からの情報だ。そこで我々近衛隊は、王宮の警備を強化することにした。もちろん国王陛下と王妃陛下は、二十四時間つきっきりでお守りしているが、王太子殿下の警備も強化したいと思っている。そこでお前の出番だ」
クリスティーナはしたり顔で頷く。
「つまり、私に王太子殿下をお守りせよと。そうおっしゃるのね?お父様」
「ああ、そうだ。花嫁候補として王太子殿下につき添い、敵から殿下をお守りするのだ。出来るか?」
「もちろんですわ。私がやらずに誰が出来ますの?」
「そう言うと思ったよ」
早速張り切って腕まくりをするクリスティーナに、ハリスはやれやれと首をすくめる。
「お父様。お父様が大事にされている短剣を拝借してもよろしくて?肌見離さず持ち歩くには、短剣の方が都合がいいですもの」
「それは構わんが、肝心なことを忘れていないか?クリスティーナ」
肝心なこと?とクリスティーナは眉根を寄せる。
「王太子殿下の花嫁候補に化けるのだ。つまり、誰がどう見ても王太子妃にふさわしい令嬢にならねばならん。庭で剣を振り回すなど言語道断。綺麗なドレスを着て奥ゆかしく振る舞い、誰もが認めるレディになるのだ」
「…は?そ、そんなの、私には無理です!」
「ああ、そうか。なら、この話はなかったことにしよう」
さっさと背を向けて去ろうとすると、クリスティーナが悔しげに声を上げた。
「分かりましたわ。化けてみせますとも!向かうところ敵なしの花嫁候補に!」
背を向けたまま、ハリスはニヤリとほくそ笑んだ。
*****
「お姉様、とっても綺麗!」
「ありがとう、リリアン」
ウエストを締め上げるコルセットに引きつりつつも、クリスティーナはにっこり笑ってみせる。
バタバタと準備が進み、父から話を聞いた七日後にクリスティーナは王宮へと向かうことになった。
母と妹のリリアンは急な話に驚き、寂しくなると肩を落としたが、自分は偽りの花嫁でいずれここに帰って来ると分かっているクリスティーナは、にこやかに二人を説得した。
「ずっと会えなくなる訳ではないわ。それに花嫁候補というだけで、王太子様に選ばれなかったらすぐに帰って来るわよ」
「そうなのね!それなら良かった」
ん?と何か引っかかる気もしたが、クリスティーナは笑顔で頷いてみせた。
そして今日、クリスティーナはまるで別人のように着飾り、王宮からの遣いの馬車に乗って屋敷をあとにしたのだった。
「えっと、王宮ではミドルネームのアンジェを名乗るのよね?」
馬車の中で、クリスティーナは父と打ち合わせる。
「そうだな。偽りの花嫁候補だし、素性もあまり知られない方がいい」
「分かりました。王太子様はなんとお呼びすれば?」
「殿下とお呼びしなさい。王太子様も本名はなるべく控えていらっしゃるからな」
そうこうしているうちに馬車は王宮に到着する。
慣れないドレスをつまみながら馬車を降りたクリスティーナは、王宮を見上げて懐かしさに頬を緩めた。
「またここに来られるなんて!オーウェン隊長や皆はお元気かしら?」
「おい、クリスティーナ。勘違いするなよ?お前は今回、王太子様の花嫁候補だ。間違ってもこっそり近衛隊の詰め所を覗きに行こうなんて思うな」
「えっ、どうして分かったの?」
「はあ、やっぱりか」
ハリスは大きく息を吐いてからグッと表情を引き締める。
「さあ、まずは国王陛下と王妃陛下、そして王太子殿下にご挨拶に行くぞ。お前が私の娘で、王太子様をお守りする為に花嫁候補として潜り込むことはご存知だが、周りの目があるからな。お前もちゃんと、花嫁候補を演じるのだぞ?」
「心得ておりますわ。短剣もドレスに忍ばせてありますの。いつでも敵と戦う覚悟は出来ております」
「そっちの話ではない!」
またため息をつきそうになるのを堪え、ハリスはクリスティーナと共に謁見の間に足を踏み入れた。
「これはこれは。よく来てくれた。顔を上げなさい」
父の隣で深々と頭を垂れていたクリスティーナは、ゆっくりと顔を上げた。
にこやかだが威厳のある国王と、優しく微笑む王妃を一瞬目で捉えると、すぐさま視線を下げる。
「国王陛下、王妃陛下、王太子殿下。わたくしはアンジェ=ジェラルドと申します。お目にかかれて大変光栄に存じます」
そしてもう一度深くお辞儀をする。
「まあ、愛らしいお嬢さんね。堅苦しい挨拶は無用よ。どうぞゆっくりと過ごしてくださいな」
「畏れ多いお言葉、誠にありがとうございます。王妃陛下」
これくらいでもういいわよね?とチラリと視線を送ってくるクリスティーナに咳払いしてから、ハリスが口を開いた。
「それでは、これにて失礼いたします。貴重なお時間を頂き誠にありがとうこざいました」
二人で深々とお辞儀をしながら国王陛下達が広間を出るのを待つ。
ようやく人気がなくなり顔を上げたクリスティーナは、あっ!と声を上げた。
「びっくりした。どうした?」
「大変!お父様。私、王太子様のお顔を拝見するのを忘れていたわ」
「なんだ、そんなことか」
「そんなことって…。お顔が分からなければお守りしようがないわ」
「ははは!おかしなことを言うな。お前は王太子様の花嫁候補だぞ?常に王太子様のおそばにいるのだ。これから侍女が案内してくれるだろう」
「あ、そうよね」
父の言葉通り、謁見の間を出ると侍女がクリスティーナに挨拶した。
「初めまして、アンジェ様。わたくしはアンジェ様にお使えするロザリーと申します。どうぞなんなりとお申し付けくださいませ」
「ありがとう、ロザリー。どうぞよろしくね」
自分より少し年上だろうか、と思いながら、クリスティーナは髪を結い上げた清楚な雰囲気のロザリーに笑いかける。
「それでは早速、アンジェ様のお部屋にご案内いたします」
ロザリーがそう言うと、では私はここで、とハリスはクリスティーナを見送る。
「お父様、ごきげんよう」
「あ、ああ。元気でな、ク…、アンジェ」
おしとやかに振る舞うクリスティーナに面食い、ハリスは動揺しつつ笑顔で別れた。
*****
「とても広くてお部屋もたくさんあるのね。わたくし、迷子になりそうだわ」
王宮の廊下を歩きながら先を行くロザリーにそう言うと、まあ、とロザリーは口元を覆って笑みをこぼす。
「ご安心くださいませ。アンジェ様のおそばにはいつもわたくしがおりますわ。さあ、こちらがアンジェ様のお部屋でございます」
足を止めてクリスティーナを振り返ると、ロザリーは大きな扉を開けた。
「まあ!なんて素敵なお部屋なの」
クリスティーナは目を見開いて感嘆のため息をつく。
広い部屋の正面には壁一面の窓があり、明るい日差しが差し込んでくる。
壁紙や家具も優しいピンク色で、ここにいるだけで気分はお姫様のようだとクリスティーナはうっとりした。
「お気に召していただけましたか?」
「ええ。こんなに贅沢なお部屋を使わせていただいてもいいのかしら?」
「もちろんですわ。アンジェ様は王太子様のお妃様になられる方ですもの。では他のお部屋もご案内いたしますわね」
そう言ってロザリーは、壁際のドアを開けた。
「こちらから隣のダイニングルームに入ることが出来ます。そして更に向こうのドアは、ご夫婦の寝室に繋がっています」
ふ、夫婦の寝室?とクリスティーナは思わず顔を赤らめる。
(ちょ、ちょっと待って。花嫁候補とは聞いたけど、夫婦にはならないはずよね?王太子様も、私が仮の花嫁候補とご存知な訳だし。あ、でも周りの目を欺く為には夫婦を演じなければいけないのか)
ブツブツと考え込んでいると、ロザリーが微笑みながら首を傾げているのに気づき、クリスティーナは慌ててにっこり笑ってみせた。
*****
「それではアンジェ様。わたくしは向かいの部屋に控えておりますので、何かありましたらいつでもお申しつけくださいませ」
部屋に戻り、紅茶を淹れてくれたロザリーがそう言って頭を下げる。
「ありがとう、ロザリー」
クリスティーナは微笑んでロザリーを見送る。
一人になると、ふうと大きく息を吐いてソファにもたれた。
(なんだか暇だわ。お父様には剣を振り回すなときつく言われているし。何をして過ごせばいいのかしら)
そんなことを思いながらゆっくり紅茶を味わっていると、ふと窓の外から号令のようなかけ声が聞こえてきた。
ん?とクリスティーナは立ち上がってバルコニーに出る。
「あっ!近衛隊のみんなだわ」
少し遠くに目をやると、見覚えのある広い庭があった。
「ここからあの裏庭が見えるのね」
自分が隊員だったのはほんのわずかな間だったが、近衛隊のメンバーを懐かしく感じ、クリスティーナは微笑んで目を凝らす。
先頭に立っているのはオーウェンだろう。
体格の良さが遠目にもよく分かる。
皆から頭一つ背が高いのはフィルだろうか。
そう思いながら見つめていると、やがて隊員達は散らばってペアを組み、剣の稽古を始めた。
「やっぱりあれがフィルだわ。相変わらず手さばきがいいのね」
軽やかな身のこなしと無駄のない動きは、一度見たら忘れられない。
「私もいつかフィルと剣を交えてみたいわ。とても勉強になるもの」
クリスティーナはバルコニーにもたれ、隊員達の様子をいつまでも眺めていた。
*****
「アンジェ様。そろそろディナーのお時間ですわ。お支度を」
日が沈んで辺りが暗くなり、近衛隊もいなくなると、クリスティーナはようやく部屋に戻る。
ちょうどその時、ロザリーが部屋に入って来た。
「そろそろ王太子様もいらっしゃいますわ。さあ、どうぞお着替えを」
「ええ?また着替えるの?」
この部屋に案内されてすぐ、クリスティーナは動きやすいワンピースに着替えていた。
「この格好ではだめかしら?」
「せっかくのお二人初めてのディナーですもの。ドレスになさいませ。さあ、こちらを」
促されてクリスティーナは仕方なく着替える。
ノーブルなボルドーのシンプルなドレスは、肩や背中が大胆に開いていて大人っぽい。
「こんなドレス、初めてよ。おかしくない?」
自信なさげに尋ねると、ロザリーはにっこり笑って頷く。
「とてもよくお似合いですわ。髪も結って差し上げますね」
ロザリーはクリスティーナの髪をアップでまとめると、ネックレスや髪飾りを着ける。
「まあ!お綺麗ですわ、アンジェ様」
頬を押さえて鏡に映るクリスティーナに見とれると、思い出したようにロザリーは時計を見た。
「もうこんな時間!まいりましょう、アンジェ様」
「ええ」
クリスティーナは立ち上がると、ロザリーの開けたドアからダイニングルームに入った。
「お待たせいたしました」
大きなダイニングテーブルの向かい側に既に男性が着席しているのを見て、クリスティーナは膝を曲げてお辞儀をした。
「やあ、これは見違えたな。先程お会いした時のピンクのドレスもお似合いだったが、これはまた気品溢れる大人の女性の雰囲気だ。とても美しい」
「もったいないお言葉をありがとうございます」
「そうかしこまらないで。さあ、どうぞ」
「はい、失礼いたします」
ロザリーが引いてくれた椅子に、クリスティーナはそっと腰を下ろす。
「えっと、アンジェ、といったかな?」
「左様でございます、殿下」
「まずは乾杯しよう。二人の出会いに」
乾杯、とグラスを掲げてから口をつける。
そしてようやくクリスティーナは王太子の顔を見てみた。
さらりとした黒髪を後ろに流し、爽やかな笑みを浮かべている王太子を、クリスティーナは思わずまじまじと見つめる。
(私、勝手にひ弱で世間知らずのおぼっちゃまを想像していたけれど、これはいわゆる美男子と呼ばれる部類では?)
女である自分を用心棒にするくらいだから、と勝手な先入観を持っていたが、目の前にいる王太子は女性を優しく扱うスマートな男性の印象だ。
(おいくつだったかしら?まだ二十歳そこそこ?こんなにも容姿端麗なら、さぞかしモテるでしょうね。ましてや王太子様ですもの。世の令嬢は放ってはおかないでしょう。一体、どんな女性と結婚なさるのかしら。それとも政略結婚?)
想像が膨らみ、王太子が話しかけてくる内容が頭に入ってこない。
「聞いてる?アンジェ」
「あ、はい!聞いております」
「そう?なんだか心ここにあらずって感じだけど」
「決してそのようなことはございません。ただ少し、緊張しておりまして…」
咄嗟に嘘をつくと、ああ、そうなんだ、とあっさり信じ込まれた。
「まあ、出会って間もないしね。これからゆっくり時間をかけて、お互いの距離を縮めていこう」
「はい」
頷いたものの、クリスティーナは心の中で首を傾げる。
(偽りの花嫁候補なのに?親しくする必要なんてないのに。あ、そうか!これも敵を欺く為の演技なのね)
一人で納得し、自分も頑張って演技しなくては、とクリスティーナは密かに意気込んだ。
食後のデザートとコーヒーをソファに並んで味わってから、クリスティーナは隣に座る王太子に声をかけた。
「あの、殿下。わたくしそろそろ失礼してもよろしいでしょうか?」
「ああ、そうだね。今日は疲れただろうから、ゆっくり休んで」
「はい、ありがとうございます」
頭を下げてから立ち上がるクリスティーナに、王太子はサラリと付け加える。
「俺もあとで行くから」
「はい」
頷いてから、ん?とクリスティーナは瞬きを繰り返して考えを巡らせる。
(あとで行くとは?一体どこに?)
首をひねりつつ、ロザリーに促されて部屋に戻る。
「アンジェ様。お湯の用意が出来ておりますわ。どうぞお身体を温めてくださいませ」
「ありがとう、ロザリー」
考えるのをやめて、クリスティーナはゆったりと湯に浸かる。
身も心もほぐれるような心地よさにホッとし、ロザリーが用意してくれた寝衣を着ると、クリスティーナは急に睡魔に襲われた。
「アンジェ様、今夜はもうお休みになりますか?」
「ええ、そうするわ」
重いまぶたであくびを堪えながらロザリーについて寝室まで来ると、クリスティーナはベッドに横たわった途端すーっと眠りに落ちていった。




