終焉魔女さん、拾った娘を溺愛する
──鬱蒼とした草木が生い茂る森の中。
どこか陰鬱な雰囲気すら感じさせるこの場所ではそこかしこからおよそ生物のものとは思えないほどに耳障りな魔物の鳴き声が響いており、間違っても人がいるようには思えない。
だが……そんな怪しげな空気が満ち溢れた森の中を一見無謀な様子で、されど…誰よりも堂々とした様を晒しながら歩いていく者の姿があった。
「全く……ここも随分と歩き辛くなってきたものね。そろそろ焼き払わないと駄目かしら?」
まるでこの世に恐れるものなどありはしないと言わんばかりにそこらの枝葉をかき分けながら、ぶつぶつと独り言をこぼす女性の姿。
儚さすら思わせる銀色の長髪をたなびかせ、その恰好は森を歩き回るには向いていない様なローブと三角帽子を身に纏っている。
明らかに異様な人物。
こんな人里離れた場所に、パッと見た限りでは普遍的な魔法使いのようにしか見えない彼女がいることは何かのイレギュラーかとも思われるが……何も心配することなど無い。
この森においてはこれこそが日常の風景であり、圧倒的強者である彼女の身を心配するなど、それこそ本人の実力を知る者からすれば鼻で笑われるようなことだ。
「はぁ……素材集めのためにここまでやってきたっていうのに、こんなんじゃテンション駄々下がりね…やっぱり家で実験してればよかった…」
しかし、そんな彼女……世間からは“終焉の魔女”の二つ名で知られ、隔絶しすぎた魔法の実力ゆえに俗世からは半ば伝説の存在のようにして扱われることすらあるアルメリア・リオスは、仰々しい呼び名とは裏腹に森の道中で項垂れていた。
いつもならこの時間は自らの邸宅でもある小屋にて魔法の実験をしているところだったのだが、今日に限っては実験に必要な素材が不足していたためにここまで採取しに来ていたのだ。
…だというのに、予想していた以上に酷い状態となっていた獣道の歩き辛さにその心は挫けかけている真っ最中だった。
「もう帰ろうかしら……けどここまで来たんだし、そこで諦めるっていうのも癪よね…」
求めていた素材はまだ確保できていないのでこのままではやりたかった実験も出来ずじまいになってしまうが、特段慌てて取り掛かるようなものでもないため今から戻ったとしても問題はない。
ただ……アルメリアのプライドの問題として、一度やると決めたことをこんなことで諦めるのは…何となく悔しいような気もする。
少女のようにしか思えない端正な見た目とは裏腹に、内面におけるプライドは実力に伴って人一倍に高いアルメリアだ。
自分で決めたことゆえに反故にしたところで困ることなど無いのだが……やはり、来てしまったのだから最後まで向かっておこうと再び決意し直し、森を歩いていく。
…相変わらず歩きにくさを増していく道への文句は留まることも無いが、そこはグッと我慢である。
どうしても耐えられないというのならここら一帯を荒野にでも変えてしまえばよいなどと、割と物騒なことを考えつつも進んでいくと…ふと、聞き慣れない声のようなものが彼女の耳に届いてきた。
「……何? 魔物…じゃないわよね。これは…人? けど、これって…」
森の騒めきに乗せられて運ばれてきた音の正体は人の声に近しいものを感じたが、そこにも微かな違和感を覚えた。
普段の彼女であれば、このような些末事を気にかけなどしない。
この森に人がやってこようとそれは彼女の知ったことではないし、この場における環境の苛烈さを考慮すればまともな人間が生きて出られるようなところではないのだ。
だからこそ、アルメリアはこの地を居住場所として選んだのだが……今はそれはいいか。
なんにせよ、日頃の彼女ならば眼中には置いたとしても興味すら湧かせずに放置しておく案件。
……それでも、何故このような行動に出たのかは自分自身でも分からない。
今までに蓄積していたストレスゆえか、たまたまアルメリアの興味でも湧きあがったのか。
明確な理由こそ本人にも分かったものではないが、何にしても彼女がそこに対して意識を向けたことに変わりはない。
浮かび上がってきてしまった疑問をそのままにしておくのも彼女の性分ではないため、一度森での探索は打ち切ることとしてアルメリアは謎の声がする方向へと舵を切って行くのだった。
「……この辺りだったはずよね。人の姿なんてどこにもないじゃない……もしかして、ただの聞き間違いだった…?」
声がしてきたポイントだと思われる場所まで辿り着いたアルメリアだったが、辺りをきょろきょろと見渡してみても人らしきものは確認できない。
もしや、自身の単なる聞き間違いだったか……無駄足を踏んできてしまったと落胆しながらそんなことを思い、引き返そうとした時。
すぐ近くの草によって覆い隠された茂みの近辺から、さっき聞いた声に近しい……しかし、はっきりとした声とは言えない泣き声のようなものが辺りに響いてきた。
…もうここまで近寄って聞き取ってしまえば、嫌でも理解は出来る。
つい先ほど聞いた時には距離もあったために、確証が持てなかったが……この声の正体はおそらく………
「…あぁ、そういうことね。また随分な置き土産をされたことだわ」
…軽く草むらをかき分けてみれば、すぐにその正体には辿り着くことが出来た。
小さな籠に粗末な毛布だと思われる布が被せられ、その中心には……赤ん坊の女の子が、喉を張り上げて泣き声を上げながら騒いでいる最中だった。
近くに他の人間の気配はなく、ここにいるのは間違いなくこの赤子一人だけ。
こういうことは大して珍しいことでもない。
アルメリアは興味もないので碌に記憶に留めてもいないが、彼女が住み暮らしている森の近辺にはいくつかの村があり、そこでは多くの村人が支え合いながら生活を営んでいる。
…だが、その村々が属している国では現在税収が非常に高く釣り上げられたものとなっており、収めなければならない農産物の割合も厳しいものとなってしまっているのだ。
そうすれば何が起こるのか……答えは考えるまでもない。
食べられるものがなくなればその分だけ人を養えなくなり、どこかを切り捨てなければならない。
冷たい考え方だと思われるかもしれないが、村全体を存続させていくためにはそういった犠牲も黙認していかねばならないのだ。
そして、こういった捨て子もその一例である。
アルメリアはこの森に住みついてから長く生きているが、それまでにも何度か同じような光景は目にしてきた。
それは赤子だったり、老人だったりと年齢は様々だったが……切り捨てられた人間は多くがここにやってくる。
その後のことに関しては特に調べたことも無いので知らないが、まぁ…大半は魔物にやられるか、食糧が確保できずに餓死するかの二択だろう。
「けど、どうしようもないわね。あなたも可哀そうだけど…生き残れることを祈ってるわ。じゃあね」
だが、それを知ったところで彼女が取る選択肢は変わらない。
もとよりここまで来たのは耳に届いた声の正体を突き止めることであり、赤子を助けることを目的に訪れたわけではないのだ。
関心が湧いた事柄には貪欲なまでに執着を見せるアルメリアだが、それ以外の興味も引かれないことにはとにかく無関心。
それは今回に限っても例外ではなく……赤ん坊に軽く別れを告げるとそのまま立ち去ろうとする。
……が、その直後に向けられた反応に、彼女は思わず立ち止まることとなってしまった。
「…いや、何でそこで泣き止むのよ。それにすっごいこっち見てるし……そんな見られたって出来ることなんてないわよ?」
それまで泣き叫んでいた赤ん坊の声はアルメリアが去ろうとした瞬間にピタリと鳴りを潜め、そこに代わって背後に強烈な視線を感じてしまう。
…他でもない赤子から発せられた視線であり、何故だかそこには魔女と呼ばれ恐れられている女でさえ引き留められるような強い意思が込められているように思える。
だが、それを無視して立ち去ることは簡単だ。
いくら見られているとはいっても相手はただの赤ん坊であり、その仕草に深い意図なんてあるわけがない。
本能的にこちらに目を向けているだけの行動に、アルメリアの方が動けなくなるなど本来ありえないはず、なのだが……どうしてか、その時の彼女は不思議とそこから動けるような気がしなかった。
「…何よ、あなた。もしかしてだけど……私のところにでも来たいって言うの?」
「あー…? ……ぁあっ!」
「……嘘でしょう。そこで反応されても困るんだけれど…」
返ってくるはずもないことなど分かり切っているが、後で思い出した時にも未練を残さないようにと確認の意味も込めて赤ん坊に質問を投げかけてみれば…結果はまさかの肯定。
こちらの言っていることなど理解しているはずも無いだろうに、舌足らずな声で元気よく返された返事は……柄にもなく、可愛らしいとあのアルメリアをもってしても思わされるほどに無邪気なものだった。
「…はぁ、仕方ないわね。私のところに来たってまともな子に育つなんて思えないけど…本人が良いって言うなら良いでしょう。それに…すぐに飽きるに決まってるわ。それまでの辛抱ね」
こうなってしまえば音を上げるのはアルメリアの方である。
子供をここに置いていくための理由は潰され、それを拒否するための材料すら持ち合わせていない彼女ではもはやここに少女一人を置いていくという選択肢は選べない。
…まぁ、少しの間くらいなら構わないだろう。
どうせ子供を育てるなんて飽き性の自分であればすぐに放り出してしまうだろうし、そこまでの暇つぶしだとでも思っておけばいい。
曲がりなりにも子を預かる人間の思考とは思えないが……当人は至って真面目だ。
それにいつまでもこんなところに居座っていてはさっきまで大声を上げていた赤子の泣き声に釣られて魔物が呼び寄せられてしまうかもしれないし、この気分で戦うのはあまり気乗りしない。
戦闘になれば余裕で勝てることが分かっていたとしても……勝てることと戦いたいかどうかはまた別の話なのだから。
ゆえにアルメリアはさっきまでとは打って変わって満面の笑みを浮かべた子供を抱き上げると、自身が暮らしている小屋への帰路に着いていく。
…すぐに飽きる。どうせ一か月も持たない付き合いになるだろう。
そんなことを考えながら邪魔な草木を魔法で削り取っていき、なるべく子供に葉が当たらないようにと一応の配慮はしながら戻って行った。
これが、後の親ばかっぷりを存分に発揮させることになる魔女とその娘の出会い。
ここから数年の月日が経過し……話は現在へと移っていく。
◆
「…ままー! この絵本一緒に読んで!」
「セレネ…走ったら危ないって言ってるでしょ? 走らなくても本は読んであげるから、今度から気を付けなさいよ?」
「うっ……だってぇ…ままに絵本読んでもらいたかったんだもん…」
「うぐっ!? …そ、それなら仕方ないわね。ほら、いらっしゃい?」
「わーい!」
相も変わらずローブ姿で銀髪をたなびかせた女性は数年前から全く変わらぬ容姿を維持したままに小屋にて時間を過ごしていたが、そんな変わらぬ風景にも一つの……否。
一つというにはあまりにも大きすぎる変化がそこには存在していた。
それこそが今女性からセレネと呼ばれた少女の存在であり、母親とはまた違った…少しウェーブがかった美しい金髪を揺らしながら愛らしくもあどけない、子供らしさを全開にした魅力を振りまきながら母の元へと駆け寄ってきていた。
…そう。彼女こそが数年前にアルメリアが拾ってきた少女本人であり、セレネと名付けられた子供である。
あれからすくすくと成長を見せた少女は見事なまでに母となったアルメリアに懐いていき、今となってはどこまでも母親大好きっ子へと変貌を遂げていた。
…だが、それ以上に変化が激しいのはその懐かれた側である。
セレネを引き取った直後は飽きたらまた放っておけばいいなどと考えていた者と同一人物だとは思えないほどに、彼女の娘に対するリアクションは変貌したという表現では表しきれないほどに変化してしまっている。
しかし、これほどまでにアルメリアの態度が変わったのには確固とした理由がある。
当初はすぐに飽きるか放り出すだろうと思われていた子育てだったが……本人にとっても意外なことに、アルメリアは途中で放棄するような真似をしなかったのだ。
もちろん、全てが最初から上手くいったわけではない。
ご飯一つとっても始めは何を食べさせたら良いものかと苦悩してばかりであったし、夜眠る時にも夜泣きをしてしまう娘に手を煩わせられることばかりだった。
…それでもここまで面倒を見続けることが出来たのはひとえに、ふとした瞬間に見せてくるセレネの愛らしき仕草や素振りだった。
寝かしつけている最中に見かける可愛らしい寝顔や、抱き上げた時に見せてくれる満面の笑みを向けられ……気が付けば、世話をし始めた頃に思っていた飽きなど訪れる気配すらなく、“終焉の魔女”をもってしても魅了されてしまう始末であった。
そうして時は過ぎ去っていき…数年が経過した今、親子となった二人は俗世から隔離された森の中にて周囲の風景に似つかわしくない、微笑ましい日常を送っていた。
「それじゃあ…今度はどの絵本を読んで欲しいの? 見せてごらんなさい」
「これがいい! これ読んで!」
「これは……セレネ、この物語好きねぇ…もう何回読んだかも分からないわよ?」
「だって好きなんだもん! 早く読んで!」
急かすようにしてアルメリアに向けて持参した本を持ってきたセレネだったが…そんな彼女が持ってきたのは以前から幾度も読み聞かせている一冊の本だ。
内容としては一人の魔法使いが様々な困難苦難を乗り越えながらも最後にはハッピーエンドを迎えるという王道の冒険譚を軸にした物語、なのだが……どちらかといえば少年が好みがちなジャンルであり、女の子であるセレネにとってはつまらないと評価されても良さそうな話だ。
しかし、それでも彼女はこの物語を非常によく好んでおり既に何度もアルメリアから読み聞かせてもらっている。
その度に、聞き馴染んだはずの冒険譚を目を輝かせながら聞き入るセレネの姿は…不覚にも、アルメリアが読み聞かせを中断しかけてしまうほどに可愛らしいものだったと述べておこう。
ちなみに、何故ここまでセレネがこの物語に執着しているのかということをそれとなく聞いてみたことがあったのだが……その時の返答は以下の通りである。
『んー…? だってこのお話、魔法使いの人がままに似てて格好いいんだもん! 私もこんな凄い魔法使いになりたい!』
…この時、アルメリアは生まれて初めて悶えるあまり死にかけるかと思ったそうな。
愛しの娘から『ままのようになりたい』、『格好いい』という褒め殺しのダブルパンチを食らった彼女は内心で渦巻く歓喜に身を任せてセレネをそれはそれは甘やかしまくった。
最強の魔女でさえ抗えぬセレネの魅力が凄まじいのか、それとも単にアルメリアが親ばかすぎるだけか…その判断は、少し微妙なところであるが。
それと喜びに震える情緒の片隅にて、『私…こんな立派な生き方はしてないんだけど…』なんてことを思ったそうだが、まぁそれは些細なことだ。
世界で誰よりも愛している娘から何よりも嬉しい言葉を貰えたのだから、それ以外のことは全て些末事である。
「セレネがそれで良いならいいわよ。こっちで読んであげる、から……」
「……? まま、どうかしたの…?」
「…あぁ、いいえ。何でもないわよ? ただ…ちょっとだけここでお留守番しててもらってもいい? すぐに戻ってくるから」
「うん…? …分かった」
…だが、そんな中にあって何かを感知したかのように雰囲気を変えたアルメリアによって、読み聞かせは一時中断されることとなってしまった。
セレネとの楽しいひと時を途切れさせてしまうことは、非常に……非っ常に心苦しかったが、それでもこれに関しては放置するわけにもいかないのですぐに対処しなければ。
「…ごめんね、セレネ。用事を終わらせたら絶対にすぐ戻ってくるから…それまでは我慢できる?」
「……うん。ままがお出かけしちゃうのは寂しいけど…我慢する!」
「良い子ね……棚にあるお菓子を食べててもいいから、ちょっとだけ行ってくるわ」
「まま…気を付けてね!」
「ええ。ありがとう」
母が家を空けてしまうことにセレネも隠しきれていない寂しさを滲ませていたが…そこは流石アルメリアの子と言うべきか。
内心で間違いなく抱えているだろう本音をグッと抑え込み、声を張り上げながら母を見送る姿を見たアルメリアはというと……どこまでも良い子な娘をほんの少しでも一人にしてしまう申し訳なさからそっと彼女の頭を撫で、同時に発動させていた魔法によって瞬時に転移していった。
…この状況を作り出した愚か者へと、制裁を下すために。
◆
「リーダー…本当にこんな陰気臭いところに魔女の隠れ家なんてあるのか? なんかガセネタでも掴まされたんじゃないだろうな…」
「へっ、そう思いたいならおめぇは一人で戻ってろ! …その代わり、取り分はお前だけゼロになるだけだがな」
「そ、そうは言ってないだろ! ただ…俺はこんな危険地帯に人が住んでることなんてあるのかって聞いただけだ」
──同時刻。アルメリアがセレネと少しの別れをした直前のこと。
彼女ら親子が住んでいる森の中に一つ……いつもであれば見かけないはずの、数十人規模の集団が何かを探し求めるようにして探索をしていた。
彼らは各々が屈強な肉体にそれぞれの武器を手にしており、ボロボロの服装にはそこかしこに血痕らしき跡が残っている。
どう見てもガラが良さそうな集団ではないが……実際、彼らはまともな職に就いている者達ではなく小規模の村を襲うことで生計を立てている盗賊であるため、ガラが良く見えないという評価は正しい。
そんな盗賊がここに……〈失墜の森〉と呼称され、危険度最上位クラスにも指定される魔物がうようよ彷徨っているような危険地帯に足を踏み入れてきたのかは謎なところだ。
それは盗賊団のメンバーの一人でもある、少しやせ型の男も同様だったのか質問を飛ばしていたが……リーダー格の男から返ってきたのは嘲笑まじりの返答だ。
「ったく仕方ねぇな……いいか? 一回しか言わねぇからよく聞いとけ」
「お、おう」
「確かな筋からの情報だがな……“終焉の魔女”については知ってるな?」
「……そりゃ当然だ。あんな怪物を知らないやつなんてこの世にはいないだろ」
薄ら笑いと共に声を低め、周囲に何者もいないことを確認した男達は魔物をおびき寄せないようにと警戒しながら仲間の一人へと事の詳細を語っていく。
…“終焉の魔女”。その二つ名はこの国に生きる者であれば知らぬ人間はいない。
一説では噂好きの誰かが生み出したおとぎ話なのではないかと語る者も存在するくらいには、その圧倒的すぎる実力が知れ渡る女とのことだが……そこに比例して知名度も他の追随を許さないくらいには、この魔女の伝説は広く認知されている。
曰く、魔法の実力で比肩する者は皆無であり、たったの一撃で都市を壊滅させられる腕を持つ。
曰く、世間では希少とされる文献や今では失われてしまった魔導書、さらには貴重素材の山が彼女の手元には現存している。
…曰く、彼女の怒りを買えば命はない、等々。
流石に噂にしても尾ひれがつきすぎだろうと聞いた時には鼻で笑ったものだが……それと同時に、これは良い稼ぎ話に出来ると盗賊団のリーダーは考えた。
彼が注目したのは、伝聞してきた噂話の中でも特に金になりそうな『貴重素材の山が魔女の手元にはある』というものであり、これを奪ってしまえば丸儲けできるという思考ゆえの判断でここまでやってきたのだ。
タイミング良く、『魔女の居住地は魔物が蔓延る〈失墜の森〉中央にあるらしい』という情報をゲット出来ていたことも大きく関係していたのだろう。
強力な魔物との遭遇を避けるために魔物が嫌う香りを放つ匂い袋を大量に用意し、森に入るための準備を整え終えてある。
そうして自分の手元に金になるチャンスが多く集まり、そのための道しるべまで整えられてきたともなれば……大抵の人間は、そのレールに喜んで飛び乗ってしまうものだ。
たとえそれが…深く抜け出すことも出来ない、底なし沼に通じているレールだったとしても。
「…そういうわけだ。分かったか? だから俺たちがこうしてわざわざ出張って来たんだろうが」
「それは理解出来たけどよ……けど、大丈夫なのか? 魔女ってすげぇ強いんだよな? 下手に関わりゃヤバいんじゃ…」
「おいおい…まさかお前、ビビってんのか!?」
「はっはっは! こりゃ傑作だな! …魔女が怖いってんなら、家に帰ってママにでも慰めてもらった方がいいんじゃねぇか!」
「う、うるせぇ! 誰もビビったとは言ってねぇだろうが!」
すると一通りの説明を聞いたやせ型の男は今聞いた話と自分の知っている魔女に関する伝説を思い出し、本当に“終焉の魔女”が住んでいるのならそこを刺激するのはマズいのではないかという考えがちらつき始めた。
…それは、極めて常識的な判断だっただろう。
いくら伝説のように扱われていたとしても、現存しているかどうかすら分からない相手と相対する可能性が少しでもあるのなら事前準備を整えてからここを訪れた方がいい。
しかし…そう仲間に告げれば戻ってくるのは彼が魔法使い一人に怯えている臆病者というレッテルであり、舐められれば終わりのこの業界においてそのような屈辱を味わいっぱなしというのは認められないため無理やり強がった態度を取ってしまった。
「…心配する必要なんてねぇさ。確かに“終焉の魔女”の噂は凄まじいが……所詮は噂程度。こういうのは話が広まっていく内に事実からかけ離れたものが膨れ上がるものだからな」
「そ、そうか。…そうだよな!」
「ああ。それに…魔女なんて言っても、相手は一人だ。そこに女ともなれば…この人数の男を相手にして勝てるわけがねぇ! こんなに楽な仕事もないってもんだ!」
ある意味、リーダーの男が口にした言葉は間違っていなかったのかもしれない。
魔女などともてはやされていようとも、大人数で一人を囲んでしまえば大抵はなすすべもなく討伐されて然るべきだし、その判断は何も間違っていない。
どれだけ実力に自信があろうとも、数の暴力に人は敵わない。
それは揺るぎない不変の事実であるし、選ぶ戦術としては何もおかしくない。
…そうだとしても、彼らの認識とそのターゲットの間にある実力差に誤りがあるとすれば…きっと、とても単純なことだった。
これは彼らを責めることも出来ない。これを想像してみろという方が酷なのだから。
ただ一つ、盗賊団が誤認していた事実があるとすれば……目当てとしていた魔女は、人に許された領域など遥か昔に超越してしまった怪物であるという事実。その一点だけだ。
「ま、お前らも今回はそのつもりでいっとけ! 何なら魔女だなんて高飛車ぶってる女と遊んでやるなんてこともいいかもしれねぇな!」
「うっひゃー! リーダー、それは流石に天才すぎますってー! んなこと言われたら、俺もやる気が漲ってきちま──」
「───へぇ? それは是非とも見てみたいものだわ」
「……は? あ、あぁ………っ!?」
──盗賊団のメンバーが下衆な提案に対し、各々でゲラゲラと笑い声を上げていた時。
唐突に響き渡ってきた、透き通るかのような美しい声色。
…だというのに、そこに込められた意思は酷く冷たいものを思わせてくる。
そうして声がした方向をその場にいた全員がバッと振り返って見れば……そこには、先ほどまで誰もいなかったはずの位置に一人の女が立っていた。
長いローブに身を包み、森の雰囲気に似つかわしくない高慢さすら感じさせる銀髪を揺らした美女。
街中を歩いていれば誰もが振り返って目を向けると確信させてくる美女の登場に、場所が場所であれば見惚れる者もいただろうが…現状を顧みればそうもいかない。
道中が順調だっただめに忘れがちだが、ここは国の騎士団ですらその危険度ゆえに立ち入ろうとしない魔物の強さを誇る〈失墜の森〉である。
…そんな命の危機と常に隣り合わせな場所に、ただ一人で何てことも無いように振る舞いながら佇んでいる謎の女。
ただし……盗賊団が即座に動けなかった理由はもう一つあるのだ。
それは何かというと…目の前の美女が伸ばしていた手の先。
しなやかな腕に掴まれていた仲間の首に置かれた掌から、思わず視線を奪われそうになるほどの美しい光が発せられ…その直後。
今までは自分たちが手にするだろう宝の山を想像して笑みを浮かべていた男の目からは光が失われていき、肌からは艶が消え去り……最終的に、男だったものは元の形も影もない灰の塊へと姿を変貌させた。
「…きったないわね。うちのセレネとの時間を中断してまでここに来たってのに…みすぼらしいものを触らせるんじゃないわよ」
「……だ、誰だてめぇはっ!!」
「はぁ…? 誰と言われてもね…別に答える義理なんてないでしょう。ただ私は自分の家に近づく不審者がいたから、それを追い払いに来ただけよ」
パッパッと手に付着した灰を振り払いながら心底うんざりした表情を浮かべる美女……彼女こそが盗賊団の目的とされていた“終焉の魔女”と呼ばれるアルメリアだったが、向こうが娘との時間を切り上げてまで移動してきた意味はこれである。
元々アルメリアほどの力量があれば森全体に探知魔法を展開しておくことなど造作もなく、それゆえに盗賊の集団が押し寄せてきたことも完璧に把握していた。
しかし…その程度であるのならば彼女もわざわざ関わろうとはしなかったし、毎度のように放置するだけで済ませるつもりであった。
…あったのだが、思いの外順調に自宅である小屋まで接近しようとしていたため、面倒ではあったものの直接対応するためにこの場所まで飛んできたのだ。
ターゲットが向こうからやってきてくれたことが、盗賊達にとって幸運だったか不運だったのかは……すぐに分かることだ。
(…くそがっ! こんな場所に平然と立ってる女…まずまともなわけがねぇ! となれば先手必勝で仕留める!)
「…てめぇらっ! 一斉にかかれ! 殺しても構わねぇっ!!」
リーダーから放たれた合図を皮切りに、盗賊達は即座に襲撃体勢へと入る。
普段はへらへらとした言動が目に付く彼らだが、有事の際には意識の切り替えを瞬時に行えるほどには統率が確立出来ているのだ。
これまでに幾度も修羅場を乗り越え、今に至るまで盗賊家業を続けられてきた腕前は伊達ではない。
…ただし、それは……鍛えてきた実力がまともに通用する相手であればの話だ。
「…なっ!? け、剣が動かねぇ…っ!」
「ど、どうなってんだ……!」
「……私を目の前にしても立ち去る気配は無し。普通敵対した相手の実力くらい把握できるでしょうに……何もしてこないなら見逃そうかとも思ったけど、こんなことされちゃ駄目ね」
盗賊にしては連携の取れた動きで敵を翻弄し、それに困惑している隙に必殺の一撃を叩き込む。
それこそが彼らの必勝の戦闘スタイルであったが……何故だかアルメリアの周囲へと振り下ろされた剣や斧などの武器はことごとくが彼女の近くでその動きを止め、ピクリとも動かなくなる。
…あまりにも摩訶不思議な光景であり、こちらの攻撃の一切が通用していないという事実。
だが、彼らが絶望するにはまだ早い。
魔女が得意とするのは防御だけでなく、むしろ本番はこれからなのだから。
「んじゃあんたら……『朽ちておきなさい』」
「がぁ………っ!?」
「こひゅっ……!」
繰り広げられる顛末は先ほどと何も変わらず、アルメリアへと近づいた者はその全てが灰の山へと姿を変える。
…絶望的なんて言葉では足りないほどに、隔絶しきっている両者の戦力差。
当初は人数差で圧倒してしまえば良いとすら考えていた盗賊のリーダーですら…この展開は頭が理解を拒んでしまうほどに信じがたき理不尽の権化。
「な、な……! 何をしてんだ、てめぇは……っ!! さ、さっきから妙な魔法ばっか使いやがって…!」
「…? 別に珍しいことなんてしてないわよ。ただ時空間魔法を使ってあんたらの体内経過時間を早めて、一気に老衰させてるだけだもの。…ま、ちょっと威力高め過ぎて身体も崩壊しちゃったみたいだけど…そこは誤差ね」
「……はっ?」
そこに加えて……何てことも無いようにアルメリアから告げられた一言は、男たちから戦意を失わせるには十分すぎた。
…時空間魔法。それは現代において使い手が失われたとされている古代の遺物だ。
効果としては文字通り、時間と空間に関わる魔法を扱えるようになるというものなのだが…扱うために要求される技量が尋常でなく高いのだ。
さらに言ってしまえば、この魔法を行使するには時空間に関する概念についての知識を感覚と理論で理解している必要があり……それもあって、この時代で扱える者は皆無だとされていた。
…だというのに、アルメリアはこともなげにそれを扱えると断言してきたのだ。
それだけで察せてしまう、お互いの力量差。そこに開かれた彼我の距離。
自分たちが何に手を出したのか……何と敵対してしまったのか。
「もう面倒くさいし……これで終わりでいいわよね。じゃ、次は…あんたよ」
「……ははっ。こんなの…本物の、ばけも───っ」
…意識が暗闇に途切れる寸前、男が目の前の女を見て何を思ったのか。
それは当人にしか分からないことだが……今となっては聞くことさえ叶わないだろう。
なんにせよ、アルメリアと対面した盗賊団の影どころか、痕跡すら掻き消されたのは…彼らが相対してから数分も経っていない頃のことであった。
「…ふぅ。今戻ったわー。セレネはお利口にして……」
「……ままっ! お帰りなさいっ!!」
「わっと! …セレネ、ただいま。待たせちゃってごめんね?」
野暮用を軽く済ませて小屋へと戻ってきたアルメリアが溜め息をこぼしながら玄関へと転移をすると、次の瞬間に身体を小さな衝撃が襲い掛かってきた。
その正体は今の今まで一人で留守番をしていただろうセレネであり、母がいなかったこへの寂しさを紛らわせるかのように彼女は自信の身をアルメリアへと擦り付けていた。
…普段は一人であっても大人しく留守番を出来ているセレネがこうも感情を露わにするとは、よほど寂しい思いをさせてしまったのだろう。
「まま……ご用事もう終わったの? 本読んでくれる?」
「ええ。少しお片付けをしなきゃいけないことがあったけど…それももう済んだから、いくらでも読んであげるわ」
「やったぁ! じゃあ早くしよう!」
しかし、そんな娘の憂いを含んだ顔も次のやり取りによってすぐに笑顔を取り戻した。
あえて盗賊が我が家へと近づいてきたことは曖昧に濁して伝えたが……まぁ、そこは仔細を話す必要もないだろう。
自分たちの家に外敵が近寄っていたことを話して無闇にセレネを怖がらせてしまえば、それこそアルメリアの望むことではないのだから不必要な過程である。
そう判断し、彼女も先ほど手ずから葬ったばかりの盗賊のことを綺麗さっぱり忘れることとした。
この世界でもトップクラスの危険地帯に住まう魔女の噂。
そこにて展開されている日常風景は…何とも穏やかな母と娘の温かな一幕であり、これこそが彼女らの当たり前な日々なのだった。
◆
「…あら、もう調味料が無いわね。買い置きも……ゼロ、と。街に行かないと用意は無いか」
小屋の中にて夕食の準備をしていたアルメリアだったが、そんな折に使おうとしていた塩の在庫が切れてしまっていたことに気が付いた。
少し前に買っておいたと思ったのだが…こういう際の人の記憶というのは頼りにならないものらしい。
棚にしまっておいたはずの予備も尽きていることを確認すると、食材ならばまだしも調味料ともなれば街まで出向かなければ手に入らないため、少し手間だが調達に向かおうと意識を切り替える。
…と、そこでアルメリアが作業をしていたところにひょっこりと姿を見せた者が一人。
「…まま? どこかお出かけするの?」
「ん? …あらセレネ。お昼寝してたんじゃなかったの? そうね…ちょっと買わなくちゃいけないものがあるから、街まで行ってくるわ」
扉から顔を見せたのは愛娘であるセレネであり、さっきまで部屋の一つですやすやと昼寝の時間に入っていたはずだが……物音で起きてしまったのだろうか?
相も変わらずあどけない可愛らしさを全開にしながらも母の後を追ってきたようで、どこかに出かけようとしている空気を鋭敏に察知したようだった。
「…私も一緒に行きたい! ままとお出かけしたい!」
「えっ、セレネも一緒に? うーん……だけど、街でも危ないことはあるから連れていくのは…」
「良い子にしてるから! お願い!」
「…そうねぇ」
母の買い物に付き添っていきたいと言い出したセレネの言葉だったが、それに対するアルメリアの反応は芳しくない。
その理由はひとえに、この森とは違い街に出向けば多くの人の目に娘の姿が映ることになるからだ。
…こればかりは当人の杞憂が過ぎるものだと思うが、(アルメリアから見て)世界一可愛いセレネの姿を衆目の下に晒してしまえば、何が起こるか分かったものではない。
隣には最強の魔女が付いているために何かをやらかした時には愚か者へと地獄の制裁が下されるだけなのだが…それでも、セレネの魅力に釣られて拉致や誘拐を考えない者がいないとも限らない。
その可能性が小数点以下にでも存在している以上、街というある意味この場所よりも危険に溢れている所に娘を連れ出したくはない、というのが母の本音だったのだが…必死にお願いをされてしまえばそんな決意も揺らいでしまう。
いつもはセレネの口から滅多に出されることもない、貴重な我儘でもある。
「……分かったわ。でも、絶対に私の近くから勝手に離れたりしたら駄目よ?」
「…! うん! ままと一緒に行く!」
…まぁ、あれだ。
確かに街に娘を連れていくことに不安は残っているが、どうあろうとも自分が見張っていれば大きな問題は起こらないだろう。
…断じてお願いをしてくる上目遣いのセレネの魅力にやられてうっかり許可を出しただとか、そんなことではないのだ。
「それじゃああと少ししたら出掛けるから、準備してらっしゃい。私はここで待ってるから」
「はーい!」
それにああも嬉しそうに部屋を掛けていく娘が喜んでくれたのなら、了承したことにも意味はあったのだろう。
どちらにせよ、アルメリアがやることは最初から最後まで一貫している。
もしもセレネに不埒な意思を持って近づこう者がいるのであれば、その者にこの世の地獄を見せてやるだけのこと。
…ある種、襲い掛かってきた不審者の方が哀れにすら思えてしまうほどの爆弾が街に赴くことにそちらの方が心配になってくるが、どうしようもないことだ。
そもそもの前提からして、魔女の理不尽さなど誰に押しとどめられるものでもないのだから。
可能だとすれば、それこそセレネから直接お願いでもされるくらいのことでそれ以外は軒並み不可能だろう。
…そうして、二人の街散策は唐突に決まったのだった。
「……ふむ。ここはあまり変わってないのね」
「…うわぁー! すっごい綺麗! お家も綺麗だけど…ここも広くていいね!」
アルメリアの転移によって最も近場の街……この国に住まう者からはアウラスと呼ばれる伯爵が治める都市へとやってきた二人だったが、アルメリアは久方ぶりにやってきた街の様相を観察し、セレネはそうそう見ることもない街の規模に目を輝かせていた。
…そんな娘の反応を見て、アルメリアは内心の片隅で『…うちももう少し拡張しようかしら。空間操作をすれば普通に出来るだろうし…街に負けてなんていられないわ…!』と謎の対抗心を燃やしていたが、そこはスルーである。
突っつけば余計な事情が飛び出てくるだけなので、こういった時にはそっとしておく方が正解なのだ。
「…こほん。ほらセレネ。手を繋いでいきましょう? はぐれたら危ないからね」
「あっ、うん! ままとお出かけ…楽しみだね!」
「…ええ、そうね。楽しみだわ」
それでも半ば脱線しかけていた己の思考を無理やり本来の目的へと叩き直し、自宅の拡張計画は一旦置いておくこととしてアルメリアはセレネの小さな手を握る。
娘の街に対する憧れにも似た視線はとても気にかかることであったが、今はそれよりもせっかくの親子の時間を満喫した方が得である。
ここまで来てしまった以上、色々と考え込むよりもそうして割り切った方が幾分か楽しめるというものだ。
もちろん、セレネの身の安全のためにも周囲への警戒は全力で発動させているが…そこはそこ、これはこれだ。
母との街散策を純粋に楽しむセレネを横目にしながらも、アルメリアもまた微笑まし気な表情を浮かべながら足を進めていくのだった。
「…まま。そういえば今からどこに行くの?」
「場所は…そうね。とりあえず食材が買えるところがいいから、レイラちゃんのお店に行ってみましょうか」
「え、レイラちゃんに会えるの!?」
「…ふふっ、えぇそうよ。せっかくだし、挨拶も兼ねて行ってみましょ」
二人が歩いている道中。
そこで繰り広げられる会話の中でセレネの方から今自分たちがどこに向かっているのかと尋ねられたが、その返答として出したレイラという名前を聞いた途端、大喜びしたリアクションを見せてくれる。
レイラというのはこの街にある店、そのうちの一つでもある店を経営している夫婦の一人娘であり、セレネにとって数少ない同年代の友人でもあった。
かつても何度かこの街には訪れた経験があるため、その折に店を訪れたタイミングで仲良くなったようだが…こういった機会でも無ければ会うチャンスはそうそうないので、用事のついでに寄ってみるのも良いだろう。
…それとこれは会話内容に何も関係のないことではあるが、彼女らが通った道……そこに通じている裏路地にはあちこちに意識を失って倒れ伏している人間の姿がある。
これは他でもない、アルメリアによって遠距離から撃ち放たれた魔法によって迎撃された者達の末路だ。
何故そのような惨劇が裏路地という場所に広がっているのかというと、事の顛末は単純だ。
幸いなことにセレネは街並みを眺めることに夢中だったため、気が付いていなかったようだが……彼女らが歩いている後ろ姿を、何とも粘着質な目を向けながら見つめる者達が何人かいたのだ。
魔法を使うまでもなく分かる。明らかにセレネの身柄を狙った輩である。
ただ、そういった相手も一応は行動を決起する前だったために最低限の手心は加えてやり、対処も気絶する程度の威力にまで落とした魔法に落ち着けて意識だけを失わせて放置しておいた。
…ただまぁ、その途中で見つけた男の一人に『…はぁ…はぁ……! あの子、僕の嫁にぴったりだなぁ…!』なんてのたまっていた馬鹿がいたので、そいつだけは念入りに魔法を叩き込んでおいた。
あんな気色の悪い相手に対してまで情けをかける必要はない。
むしろここで叩き潰しておけなければ後々の世に害しかもたらさないと判断したので、その辺りは容赦せずに対応させてもらった。
変態に与える慈悲などありはしないのだ。それが愛娘を見て言われたともなれば尚更の事。
そんな知らなくても良い真実は、セレネには悟られることも無かったようなのでひとまずは安心といったところか。
「……? まま、私の顔に何か付いてる…?」
「いいえ、セレネは相変わらず可愛いなって思ってただけよ」
「…そうかな? ままにそう言ってもらえたら嬉しいな!」
「……うちの娘が、可愛すぎるわ…」
これまでに通りがかってきた変質者の対処に若干精神的な疲労も蓄積してきたアルメリアだったが、それも娘と一言二言交わせば即座に消し飛んでしまう。
自分自身が褒められたことに照れくささを滲ませながら、はにかむような笑みを浮かべるセレネの顔は…言葉では形容しがたいほどに魅力に溢れていた。
…本当に、アルメリアの下で育ちながらよくここまで素直な性格に育ってくれたものである。
それもこれも、セレネが生来生まれ持った性格も多分に影響はしているのだろうが……だとしても、これだけの魅力を持ちながら成長してくれたのは何よりも嬉しいことだ。
「…あっ、レイラちゃんのお家が見えてきたよ! レイラちゃん! 久しぶり!」
「え…? …セレネ!? いつ来てたの!」
「えへへ……さっきままと一緒に来てたんだ。久しぶりだね!」
そうこうしていると次第に目的としていた店の前まで到着し…その店先にて掃除をしていた少女に向かってセレネは勢いよく駆け寄っていった。
すると駆け寄るセレネに気が付いたのか、向こうの少女の方も驚いたように声を上げていたが……近づいてくるのが誰か理解するとパッと花を咲かせたかのような笑みへと表情を変えていった。
少しくすんだ茶髪のショートボブをふわりと揺らし、髪色にも近い栗色の大きな瞳を輝かせた少女……この子供こそがセレネの友人であるレイラであり、店の手伝いでもしていたのか恰好は小さなエプロンを身に纏っていた。
「レイラちゃん、こんにちは。今日もお店のお手伝いをしてたの?」
「あ、セレネのママ! こんにちは! 何かお探しですか?」
「ちょっと調味料が切れちゃったから、その買い足しにね。お母さんはいるかしら?」
「いますよ! …お母さーん! お客さんだよー!」
そこにアルメリアも後を追いかけて合流した後に軽く声を掛ければ、元気よく返事をしてくれたレイラによって店の奥にいるだろう店主を呼んでくれた。
レイラとアルメリアは、セレネを通じて何度か面識があるためもう気心の知れた顔なじみでもある。
ゆえに向こうにしても、友人の母親という認識だからこそここまで気さくな対応が出来るのだろうが…それでも、この母が世に噂される魔女であるという事実までは未だ教えていないため、そこも少なからず関係しているのだろう。
…まぁ教えたところで無用な混乱を招いてしまうだけだろうし、そもそもアルメリアは自分から“終焉の魔女”であると名乗ることはほとんどない。
大抵は対面した相手の方から隔絶した実力差ゆえに恐れられて魔女であると認知されることが大半なので、名乗る必要もないという事情もあるにはあるが。
「はいはい。…あら、アルメリアじゃないか。またひょっこりと顔を見せに来たもんだね!」
「お久しぶりね、ミランダさん。今って調味料の在庫はあるかしら?」
「もちろんあるさ! 何しろ品数だけは揃えてるのがうちの自慢だからね」
「頼もしいわ。えぇっとそれじゃあ…塩をいくつかと、あとは…」
そんなことを考えながら思考に没頭していると、次第に店舗の奥から恰幅の良い女性が姿を現した。
見た目からして男勝りな雰囲気と豪快な人柄を感じさせ、それに伴って性格の良い人相を露わにしているのはレイラの母であるミランダであり、こちらも数年前からの付き合いがある相手だ。
それとアルメリアにとっては、こちらの方が重要な事実でもあるが……彼女は子育て経験の上でも数えきれないほどに世話になってきた相手であり、今となっても頼りにすることが多い人物である。
レイラ以外にも多くの子宝に恵まれたらしいミランダは、当たり前のことだが子供を育てることなど初めてだったアルメリアにも優しくアドバイスを教えてくれた。
正直、彼女がいなければどこかで取り返しのつかないミスをしていただろうと確信するくらいには、アルメリアをもってしても頭が上がらない者なのだ。
「…はいよっ! これでピッタリのはずだから、確認しておくれ!」
「助かったわ。ミランダさんのお店は食材の品ぞろえも質もしっかりしてるから、こういう時は頼りにさせてもらっちゃうわね」
「はははっ! そう言ってもらえるなら私らもありがたいってものさ! …しかし、今日は大丈夫だったのかい? ここに来るまでに変な輩に絡まれなかっただろうね」
「あぁ…そういえばそんなやつらもいたわね。適当に対処してきたからあまり覚えてないのだけれど……」
「…そっちも相変わらずみたいだね。まぁ変なこと考えるやつらが悪いんだから、そこは何とも言わないけど…」
だが、何気ない会話の中で言及されたのはここに来る道中でも何度か遭遇した不審者に関することであり、そちらは適当に放置してきたと告げればミランダから返されるのは呆れの感情を多く含んだ乾いた笑い声だ。
「仕方ないわよ。あいつら……よりにもよって、セレネに汚い手を向けようとしてきたんだもの。あれくらいで済ませてきたことを感謝してほしいわ」
「確かにあの子の可愛さもあるんだろうけどね…あたしの考えじゃ、多分そいつらはアルメリアの方も見て近寄ってきてるんだと思うよ?」
「私を? どうしてよ」
「そりゃ決まってるさ。…何せあんた、セレネなんて娘がいるとは思えないくらいに若々しくて綺麗なまんまだからね。男が放っておかないってもんだ」
しかし、セレネに余計な真似をしようとした時点でアルメリアの頭から相手に情けをかけるという選択肢は掻き消されている。
むしろ命を取るといったところまではしないようにと最低限の加減はしているのだから、その点を褒めてほしいものだと思っているくらいだが……ミランダから見ればそれとは別に、二人の傍に不審者が近づいてくる要因があるとのこと。
それは簡潔に言ってしまえばアルメリア側の容姿であり、実際に指摘されてしまったが確かに彼女の見た目は一人の娘がいるとは思えないほどに若々しい。
さらに付け加えるのであれば容姿も見事なまでに端麗なものを有しており……当人がさして気にもしていないのでスルーしてきたが、男女問わず視線を釘付けにしてしまう程度にはアルメリアも極上の魅力を持っているのだ。
そんな彼女と、これまた子供ゆえに醸し出されているあどけない可愛らしさを全開にしたセレネが隣に並びながら歩いていれば…人目を引くのも致し方ないというものだ。
「そう言われてもね…別に私はセレネにさえ好かれていればそれでいいし、男から言い寄られたって邪魔なだけよ」
「また世の女を敵に回しそうなことを……別にいいか。ともかく気を付けなよ? 余計な恨みを買ったら何をされるかなんて分かったもんじゃないからね」
「…肝に銘じておくわ」
これが仮に何の関係も無い他者から言われたことであればアルメリアも聞き流していただろうが、幾度も世話になってきたミランダからの言葉ともなれば多少は受け取り方も変わってくる。
それに少なからずセレネの身の安全にも関わってくることだ。
自分の実力があれば、そこまで警戒するほどのことでもないかもしれないが…恩人の言う事は素直に聞いておくとしよう。
「まっ、何にせよだ。二人ともこっちにはたまにしか来ないんだからもっとここに来る回数をふやしてみたらどうだい? レイラがセレネに今度はいつ会えるのかってよく聞いてくるんだよ」
「……そうね。考えておくわ」
次第に会話の内容も忠告にも似たものから他愛も無い談笑へと移り変わっていき、何気ない日常会話へと変化していく。
娘とその友人による交流を増やしてあげるためにも、大した用事がなくともここにやってくる機会は増やしてあげるべきかもしれない……そう思った時。
唐突にアルメリアの表情にわずかな陰りが混じり……顔は動かすことなく目線だけをどちらともつかぬ場所へと向けていた。
「………へぇ、何とも凄い偶然もあったものだけれど…放置しておくのも後味が悪い、か」
「うん…? アルメリア、ぶつぶつ言って何かあったのかい?」
「あぁいえ、別に大したことでもないわ。……まぁ、この程度でいいでしょう」
急変したアルメリアの態度には正面から向き合っていたミランダも違和感を嗅ぎ分けたようで、頭に疑問符を浮かべながら問いかけてきた。
だが……彼女はその疑問に対してはっきりとした返答を返すことは無く、代わりに目線を向けた場所に軽くパチンッと指を鳴らした。
…アルメリアがしたことはそれだけであり、それ以外に何ら大した変化はない。
彼女の腕を知る者からすれば何か派手な魔法を仕掛けたのかと思ってもおかしくはないが、周囲を見渡したところでそれらしきものが発動したような兆候は見られず、そよ風一つ巻き起こっていない。
そんな彼女の意図が掴めない行動に、ミランダも最初は疑問を覚えたようだが…すぐにその引っ掛かりも忘れ、先ほどと同様に穏やかな談笑へと戻っていくのだった。
(…敵は感知した限りだと興奮状態。いるのは雑魚ばかりだけれど…如何せん数が多いわね。近くにそれなりの数の人がいたみたいだけど…ま、あの程度ならこれで構わないわ)
…誰にも話していない胸の内で、アルメリアがそんなことを考えていたと知ることはなく。
◆
「急げ!! 事は一刻を争うぞ!」
「グレイ様! 次の指示はどういたしますか!」
「市民の避難が最優先だ! すぐに伝令の者を送り、街から離れるように伝えろ! 戦える者は総動員するように指示しろ! 私の名前を出しても構わんっ!」
「「はっ!」」
──街はずれにある門の付近。
そこでは穏やかな日常を過ごしている街の中とは裏腹に……緊迫した空気と切羽詰まったような声が響き渡っていた。
その中心にて鎧を着こんだ衛兵たちに指示を出す人物……この街の責任者にして、この国における伯爵の身分を賜ったグレイ・アウラスは眼前の危機を前に何とかこの窮地を乗り切らんと策を弄している真っ最中だ。
「…まさか、この領地で魔物が暴走状態に入るとはな……神は我らを見放したのか…!」
瞳を細めながら目の前の光景を思いきり睨みつけ、そこにて群れを成す数百体……いや、よもやすれば数千体にすら届き得るのではないかと思わせるほどの魔物の軍隊。
…通常、ここまでの魔物が数を揃えてくることなどありえはしない。
魔物という生物は基本的に人類共通の敵であり、そして魔物同士も同種族以外のことは敵とみなしているために数を増したとしてもせいぜいが数十体程度のものなのだ。
だがしかし…そこにもいくつかの例外というものはある。
それこそがグレイも悔し気に顔を歪めながら口にしていた魔物の暴走状態であり、何らかの要因が絡んでくることによって魔物の本能が一段階強化されてしまい、日頃であれば手を組まないはずの種族が異なる魔物と徒党を組んで人を襲うようになるというものだ。
…これがまだ街から離れた場所であれば対処のしようもあったというのに、よりにもよって多くの人々が暮らす街の傍で起こってしまったことは不運としか言いようがない。
泣き言を言っていられるような状況ではないことは重々承知しているが、だとしてもこの現状を見てしまえば文句の一つも言いたくなる。
「…グレイ様っ! 戦闘準備、概ね完了いたしました!」
「……そうか。人員はどれほどだ」
「…およそ、三百ほど。冒険者にも召集を掛けましたが、応じたのは中位クラスが二割と上位クラスが十五組です…」
「……確認出来るだけでも、あそこにはワイバーンやフェザーバードといった上位の魔物がいる。それに対して、三百か…」
部下から報告を受けたグレイはこちらも用意出来た戦力を確認するが……襲い掛かろうとしている魔物に抗するには、あまりにも不足した戦力差。
これでは彼らの背後にある街を守り切ることは出来ず、守るべき民衆の命すら蹂躙される………
そんな確定した未来を思い再び思考が暗雲に覆われそうになるが、戦う前から弱気になっていてはどんな戦いでも勝機などありはしない。
勝てはしなくとも…せめて民が命を繋げられるように、逃げるための時間くらいは稼いでみせるとグレイは自前の剣を鞘から抜き放つ。
「……こうなっては仕方ない。皆の者っ! ゆくぞ!!」
決死の覚悟を固めた戦士たちは、己の守るべきもののために自らの命すら懸けた覚悟を持って敵陣へと駆けようとする。
それはまさに、負け戦の前哨戦。
どれだけ覚悟を固めようとも引き離された戦力差は覆しようがなく、飛び抜けた力量を持つ者がいれば話は変わってきたのかもしれないが、ここにはそのような凄まじい実力者などいない。
はなから結果が分かり切っているような、負けるためにやるしかないという空虚な結果が待ち受けていることなど誰もが理解出来ている。
それでも、彼らは歩みを止めることはない。
たとえ凄惨な末路が待ち構えていようとも、自分たちがやらなければ他に守れる者はいないのだという使命感を胸に敵へと立ち向かっていく。
…だからこそ、だろうか。
天は命を懸けて戦いへと望む彼らを見捨てることは無く…この場を気まぐれに訪れていた実力者との巡り合わせが、この場にいた者たちの命を救うことになる。
「……待て! …何だ、あれは」
…勢いを乗せて命を捨てる覚悟を併せ持ち、敵の魔物本陣へと飛び込もうとした時。
グレイはふと……自分たちの上空。
未だ勢いの衰えない暴走状態の魔物の真上に展開されていた……魔法陣と思われるものを目にした。
形としては誰もが見たことのあるものだ。
構造からしておそらく、組み込まれた魔法はそれほど複雑な術式でもない。
発揮される効果としては…数ある魔法の中でも使い手が多い火属性のものであり、組み上げられた魔法陣から放たれるものはただ炎の弾を射出するだけのシンプルなもの。
その程度ならば伯爵にも容易く扱える程度の規模だ。
…だが、思わずその光景を見た全員が揃って足を止めてしまったのは…とても単純なことであり、明らかに展開規模がおかしいのだ。
一目で確認出来るだけでも…魔物の大群を丸ごと取り囲めるレベルの大きさで作り上げられている魔法陣は、神の御業と言われても信じられてしまうほどに圧倒的な威圧感を保ってその場に君臨している。
…どれだけの魔力量があればあのような信じがたき光景が実現できるというのか、ここにいる誰もが想像することすら出来ない。
ただ一点、確かなことがあるとすれば……それはここにはいない何者かがあの魔法を発動させようとしていること。
そうして……魔法が発動したが最後、敵対した者に確実な報いを受けさせるということだけ。
そして、あまりにも非現実的な光景を目にした誰もがその場へと足を止め…いよいよ魔法は発動される。
──次の瞬間、世界は炎の渦に包まれた。
そこにいたのが何者であろうとも、抗うことなど到底不可能な規模で発動された火力を耐えきる魔物などありはしない。
ただただ、強い。その一言に集約されるほどに隔絶した熱量は、近くにいたグレイを含む討伐戦力には何故か及ぶことも無く……やっと炎が収まったと思った時には、世界から魔物の姿は灰すら残さずに掻き消されていた。
「……い、今のは…何だったんだ…」
唐突に街の危機が訪れたかと思えば、またもや突如として出現した謎の魔法によって危機は殲滅されていった。
聡明なグレイをもってしても理解しきれない怒涛の展開の数々に、無意識の内にこぼれた一言はこの場にいた者たちの内心を全て代弁していたことだろう。
なんにせよ、はっきりとしていることは…今の一撃によって街の危機は脱したということであり、あの魔法に自分たちが救われたということ。
──その後、あの時に街を救った奇跡の炎は『神がこの街を救うために天からもたらした奇跡の魔法』として発表され、明確な英雄が現れることも無く事態を収拾させていった。
…実際に街を救ってみせた最強の魔女はその報告を聞き、『…まぁ、私に面倒が降りかからないならそれでいいわ』と思ったそうだが……それは他の誰にも与り知らぬところだ。
いずれにせよ、未曽有の危機に襲われるところだった街を救ったのはあくまでついででしかなく…本来のところはミランダの店が壊れるとアルメリアが困るからであり、セレネも訪れている街を襲撃されるのは本意ではなかったと、ただそれだけのことなのだから。
結局、用事を終えたアルメリアとセレネはミランダたちに別れを告げるとすぐに帰ってしまったが…その晩に行われた魔物の討伐を乗り越えた記念として開かれた宴会には、参加することもなかったのであった。
◆
…よく晴れた昼下がり。アルメリア達の住まう森にも木漏れ日が差すような心地の良い天候がやってきた日のこと。
こんな気持ちのいい日にはどこかに遠出をしてみるのも悪くないと思わせてくるかのようだったが……あいにく、今のアルメリアとセレネにはそのような考えはない。
「……まま、いくよ!」
「ええ、いいわよ。思いっきりやってみなさい」
「むむむ…っ! …えい、【メテオ・フラスト】!!」
小屋から少し出たところにあるやたらと広い庭にて、この親子二人は張り切った声をだしながら何故だか魔法をぶつけあっていた。
厳密にはセレネの放つ魔法をアルメリアが防ぐという形式であり、一見すれば何かの親子喧嘩かとも思われそうなものだが……もちろんそんなことはない。
これは少し前から定期的に行っている魔法の鍛錬であり、セレネの方から魔法を使ってみたいと志願してきたことでもある。
…しかし、アルメリアも最初はその申し出に難色を示した。
確かに魔法を使えれば便利な点は多いが、それと比例して危険なリスクも跳ね上がってくる。
コントロールや使い方を誤れば魔法を使った際に誤爆をすることだってあり得るし、そうなれば被害を受けてしまうのはセレネ自身なのだ。
本音を言えばセレネにはそのような危険なことをすることなく、安全な環境下で過ごしてほしいと少し窘めながら説得すれば……非常にあっさりと、セレネお得意の涙目による懇願に陥落して渋々許可を出すこととなってしまった。
まぁ……捉え方を変えればいざという時のための自衛手段としても活用が出来るし、そのための備えとして教えておくのは悪くないだろう。
…自らにそう言い聞かせることで何とか納得することとし、今となっては時折自宅の庭にて魔法の講義や実践をすることも珍しくはなくなった。
それとこれは少し誤算だったが…セレネにはどうやら魔法に関連した才が備わっていたようで、教えれば教えるほどにどんどんと腕を上げていく様を見るのは親としても誇らしいことだった。
なのでアルメリアも万が一のために備えをしておくのであれば実力があるに越したことはないと判断し、ガンガンと自らの知識と技術を娘に叩き込んでいったのだが……少々やり過ぎである。
実際、今もアルメリアに向けて放たれた魔法の【メテオ・フラスト】は国内最高峰のアカデミーに属する主席生徒でも習得するのがギリギリのラインという、何とも馬鹿げた習得難易度と威力を誇る技なのだが…それをいとも容易くセレネは使ってみせたのだ。
本人に備わっていた生まれついての才能と、この世界でも類を見ないほどに優秀な教師でもある最強の魔女が教鞭を取れば…ここまで育ってしまうのも納得ではあるのかもしれない。
…明らかにやり過ぎな点に目を瞑れば、だが。
「…中々良くなってきたわね。威力も良い感じだったし、このままいけば大抵の相手には勝てるようになるかもね」
「…むぅー! でも、ままには全然勝てないよ…」
「そりゃあ…私もまだまだセレネに負けるわけにはいかないもの。そこは譲れないわ」
だが…それだけの凄まじい技を撃ち放ったとしても、相対しているのはこれまた規格外の人物だ。
魔法が着弾すると同時に、とてつもない熱気と爆風が響いたというのに…まるでかすり傷一つ付いた様子すらない。
周囲にいつの間にか展開されていた防御障壁によってセレネの魔法を完璧に捌いてみせたようだが…そこに気が付いたところで彼女が見せた反応は悔し気なものだ。
「とりあえず…今日はこんなところね。セレネは才能もあるし良い子だから、このままいけば私くらいには強くなれるかもね」
「じゃ、じゃあ…今日こそお家の外に行ってもいい!?」
「…だーめ。それはまだ許可出来ないわ」
「えー……どうしてよー…」
口を尖らせながら不満をこぼしていたセレネだったが、そんな会話の中で彼女は母に向けて以前からお願いしていたことを再度口にしてみる。
…それでも、返ってくるのはこの前と何ら変化も無い回答であったが。
「単純に危ないからよ。ここは私の結界を張り巡らせてあるから安全だけど…森の中は獰猛な魔物があちこちにいるの。セレネが出たらあっという間に食べられちゃうわ」
「……私、もうそんなに弱くないもん」
「確かにセレネは強くなったけど…それとこれとは別なの。強いことと戦えることは違うからね」
「……よく分かんない」
「今は分からなくても良いわ。…とにかく、勝手に外に出ちゃ駄目よ? 分かった?」
「……うん」
「…そう。セレネは良い子ね」
セレネが以前からお願いしているのはこの家から少し出た先……今も景色だけは見えている森の探索をしてみたいという話であり、何度もアルメリアから断られてしまっている案件だった。
それは今回も同様の流れであり、母からはあまり違いの区別がよく分からない話をされて終わってしまう。
…口では納得したような素振りを見せているが、態度では納得できていないのが丸わかりである。
だが、こればかりは仕方が無いだろう。
アルメリアが言うように、今二人がいる場所だけは彼女が直々に施した結界の影響もあって魔物が近寄ってくることも無いが、そこから一歩外に出てしまえば周辺は強力な魔物の巣窟だ。
いくらセレネの実力が高まり、大抵の雑魚には勝てるようになってきたとは言っても…世の中には必ずそれを上回ってくる者がいるのだ。
この場所などその最たる例であり、弱肉強食を体現した環境は圧倒的な実力でも無ければまともに生き残ることすら出来ない。
「じゃあ…私は少しだけ実験しなきゃいけないことがあるから、先に家に戻ってるわね。セレネも身体を拭いてから戻ってらっしゃい」
「……はーい」
そう言い聞かせられたセレネは小屋の中へと戻って行く母の後ろ姿を見つめながら…同時に、いつもは家から眺めるだけだった森の風景を目に焼き付ける。
…その瞳の奥に、隠し切れない好奇心を滲ませながら。
「……何でままは、いつもお外に出たら駄目だって言うんだろうなあ…私だってもう一人でも大丈夫なのに…」
セレネが大まかに身体に付着した汚れを拭き終わり、自宅にあるソファに寝転びながら独り言を呟いている時。
その言葉には隠しきれていない文句も見え隠れしていたが…セレネとて馬鹿ではない。
母が言っていることも理解は出来るし、もし自分一人で魔物と遭遇してしまったらどうなるか、ということに対する危険度も理解はしているのだ。
…理解した上で、最近はメキメキと向上している己の力量を感じ取れているからこそあのような願いを申し出ているという理由もあるのだが。
「んー…! …ままもお部屋に籠っちゃったし、退屈だなぁ…」
それと現在はアルメリアが日課の魔法に関する実験をするために専用の研究室に籠ってしまっているため、尚更彼女が実感する不満は大きくなっていく。
何か出来ることは無いか。この退屈を紛らわせられるような何かは無いか。
辺りをきょろきょろと見渡しながら、もう何年も住んでいる家を少し探してみれば…ふと窓の外に映った、先ほど見たばかりの森の景色が視界に飛び込んできた。
「……あそこって、何があるんだろう…」
前々から思っていた疑問。そこに付随してきた子供ゆえに湧き上がる好奇心。
すぐ目の前にあるのに、ただの一度として足を踏み入れたことが無い森への神秘性を見た子供が抱く興味というのは…そう簡単に抑えきれるほど堪え性のあるものではない。
「…ちょっとだけ、行ってみようかな。ままには…すぐに帰ってくればバレないよね」
…それゆえに、セレネの内に湧きあがった感心は留まることなく彼女の身体を突き動かした。
彼女にとっては初めてとなる、母の言いつけを破った行動。
その先に何が待ち構えているのかを知っていればこのようなことはしなかったかもしれないが……いや、そんなことを論じても意味はない。
どちらにせよ、セレネはそうと決めれば一直線な子だ。
…少しだけの外出をすると決めた数分後には、自宅から彼女の姿は見えなくなっていたのだった。
「…なんか、少し暗くて見づらいかも……それに歩きにくい…」
家を出てから数分が経ち、今のセレネは小屋から見て西側の方向へと進んでいる。
もちろん行く先に何があるかなど彼女には知る由もないため、進む方角など直感で決めただけなのだが……そうだとしても、道中の歩き辛さには言葉もこぼれてしまう。
これも少しセレネにとっては想定外のことであったが、森の中とはいっても普段暮らしている家の周辺はアルメリアによって完璧に整備がされているために足場の不安定さなど実感することは無かったのだ。
だが…それも一歩外に踏み出してしまえば辺りは獣道に囲まれた高低差だらけの地面であり、気を付けなければ躓いてしまいそうな木の根も時折姿を見せている。
そこに追い打ちをかけるように…今の彼女の周辺は森が深くなっているのか、先ほどとは異なり心なしか景色も薄暗いものへと変化してきている。
…森の様相が心地の良いものからどこか不気味さを思わせるものへと姿を変え、セレネが思っていたような楽し気なことが待っている気配は未だに感じられない。
それどころか、遠方から聞こえてくる動物の鳴き声のような音や風がざわめく音は、少しずつセレネの心に恐怖心を蓄積させてくる。
「……ひっ…! …な、何今の……」
今も背後の草むらから鳴り響いた、何かが通り過ぎたかのように聞こえてきた茂みを揺らす音に彼女は肩を跳ねさせてしまう。
…忘れてはならないが、この森は国内でも屈指の危険度を誇る魔物蔓延る魔境である。
そんな場所で、背後を過ぎ去るかのように通ったものが何だったのかは…考えない方が良いのかもしれない。
「……か、帰ろう…ままに会いたいよ…」
人の気配すら感じられない森の中を彷徨いながらたった一人で時間を過ごしていれば、たとえわずかな時間でしかなかったとしても心細さというのは増していく。
ましてや、そこがいつ命を狙われるかも分からない危険地帯ともなれば当然のことだ。
なのでセレネも今来たばかりの道を辿って戻ろうとし、すぐに足を引き返そうとするが…ふとそこで、己の前方に見慣れない光のようなものがあることに意識が向いた。
「……なに、あれ…?」
今自分が置かれている状況すら一時的に頭から抜け落ちてしまい、セレネはどこかその光に導かれるかのようにふらふらとおぼつかない足取りで恐る恐るそこへと向かって行く。
…きっと、彼女が犯してしまった失敗があるとすればそこだった。
セレネはその光のように見えた何かに惹かれずに、すぐに離れるべきだった。
そうしていれば…この後に待ち受けている恐怖など、体感することはなかったのだから。
(……これって、何が…………っ!?)
…草木をかき分け、目に飛び込んできた光景。
身体に枝を引っかけながらも何とか視界を確保すれば、そこにいたのは……黒々とした鱗と巨大な体躯を併せ持った、荘厳さすら持ち合わせているように思える魔物。
口元に生やした鋭い牙に二対の翼を持った…ある意味、この世界でも最も名が知られた強さを誇る生物。
…遭遇したら死を覚悟しろとまで言われるドラゴンと、セレネは邂逅してしまったのだった。
◆
「…こんな感じかしらね。大分いい具合に仕上がってきた感じ、と」
同時刻。自宅の小屋にて日課とも言える魔法の実験を行っていたアルメリアはおおよそ満足いく結果が得られたため、ここらで今日の実験は切り上げることとした。
あまり長く熱中しすぎるとセレネを一人にしてしまう時間が長くなってしまうし、アルメリアとてそれは望むところではない。
正直なところを打ち明ければ、四六時中セレネと一緒に過ごしてあげたいところではあるのだが……この実験も娘に関わってくることであるため、完全な無視は出来ないというのが悩みどころだ。
まぁ今日はこれで一段落も付いたので良いだろう。
「よいしょっと……セレネ。待たせちゃってごめんね。今作業が終わったから……って、あら?」
取り掛かっていた作業にも区切りがつけられれば、後は愛しき娘との時間を堪能するだけである。
既に夕食も完成していて物体の状態を保存するための魔法をかけてあるため、食べようと思えばいつでも食せる状態にだって出来ている。
ゆえに、残すところは本当にセレネとのひと時を満喫するだけだったのだが……部屋から出ると、異様な静けさに満ちた小屋の空気に違和感を感じた。
感じ取った違和感の正体が何かまでは説明が出来ない。
だが…何となく、嫌な予感がしたアルメリアは半ば無意識に探知魔法を行使するが、そこで嫌な予感というのは加速していく。
「…セレネが、いない? …まさか」
普段であれば家のどこにいようとも見逃すわけもない娘の存在が、今日に限ってはどこにも見当たらない。
まさか自分の技量を持ってしても見過ごしたのかと思い、何度も確認し直すが…結果は同じ。
どう考えてもこの家に居ないという結論が確定していき…ふと思い至った可能性を否定しかけるが、万が一の事態を思って探知の範囲をこの地の全域に拡大する。
そうすれば…見つけられてしまう。
見間違うはずもない最愛の娘の気配を、何故だか森のほぼ中央に位置する最奥にて感知し……そして、その傍にいるだろう生物の気配も同時に認識した。
「……っ! セレネッ!」
状況を把握すれば、彼女が取る行動は決まっていた。
即座に自らの魔力で転移のための術式を組み上げ、セレネに迫っている危機を追い払うためにアルメリアもまた、小屋から姿を消していくのだった。
◆
(……だ、大丈夫…こっちには気が付かれてない、はず…)
…セレネがドラゴンを発見してしまってから、どれだけの時間が経過したのか。
数分か、はたまた数十分か。もしくは数秒程度しか経っていないかもしれない。
もはや正確な時間など考える余裕すらなくなってしまったが…それは当たり前のこと。
今のセレネは大木を背にして身を隠すようにして、未だに動く気配を見せない竜がここから立ち去るのをひたすらに待ち続けている。
…生きた心地などしない。心臓はうるさいくらいに高鳴り続け、己の鼓動だけが耳には鳴り響き続けている。
最初はすぐにここから離れ、逃げなければとも思ったが……そうしようとしたところで、震え続けている足ではまともに動けるかどうかすら怪しいところだった。
あるいは…逃げた際の足音でこちらの存在に気が付かれ、その瞬間に殺されてしまうかもしれないという恐怖がセレネをここに踏み留まらせていた。
(……いやだ、死にたくない…! まま…っ!)
…零れ落ちそうになる涙を必死に堪えながら、頭の中で思うのは誰よりも頼りになる母の事。
そして…つい数時間前に告げられた言葉の意味を、セレネはようやく理解した。
強いことと、戦えることは違う。間違いなくその通りだった。
確かにセレネはアルメリアから魔法の技術や知識を教わり、以前とは比較にもならないほどに強くなれた。
それこそ、魔法を十全に行使すればあのドラゴンから逃げおおせるくらいのことは出来たかもしれない。
…だが、実力を持っていることと発揮できることはまた別の話なのだ。
現に今のセレネは魔法を使う余裕すらなくして震えているだけで、戦おうなんて考えにすらなれていない。
ただひたすらに、この恐怖に支配されてしまった時間が早く過ぎ去ってほしいと願ってばかりで…心は立ち向かう前から折れてしまっている。
──そして、運命というのはそういった者にことごとく残酷な事実を突きつけていく。
「………あっ」
…小刻みに震える身体ゆえに、本人も意図したわけではなかったのだろう。
少し…ほんの少しだけ、腰を掛けた位置を変えようとした時……近くに落ちていた枝葉を踏みつけてしまい、辺りに乾いた音が響き渡った。
だが、それは…現状では致命的すぎる、自らの存在を教えてしまう行為に等しい。
「…っ! きゃあっ!?」
微かな音くらいは聞き逃してくれるのではないか、なんて淡い期待が通じるような相手でもなく、背後に佇んでいたドラゴンは唐突に響き渡った音がした方向へと歩みを寄らせ…鋭い爪を薙ぎ払い、セレネのいた大木ごとへし折ってきた。
幸いにも爪は彼女の少し上を通り過ぎたために、今の一撃で身を引き裂かれるというようなことは無かったが……それでも、見つかったことに変わりはない。
「…や、やだっ……嫌だ…!」
…数秒前とは比べ物にもならない威圧感を携えながらドラゴンは眼前の獲物へと視線を向けている。
その口元からは隠しきれていない涎を溢れさせながら…明らかにセレネのことを食料としてしか認識していない目を向けられ、彼女は何とか逃げようとするも…力が抜けてしまったのか、言う事を聞いてくれない足ではまともに距離を取ることすら出来ない。
万事休す。どうしようもなく詰んでしまっている。
こんな人気のない場所で…母の言う事を守りもせずに、勝手なことをした罰だとでも言うのだろうか?
あまりにも惨い結末が己のすぐ目の前まで迫り、セレネが限界を超えた恐怖から涙をこぼす。
「……まま…っ! 助けて…!」
掠れた声から最後に求められたのは、いつも自分のことを最優先に考えてくれていた最愛の母。
こんな辺鄙な場所で届くはずもない。聞こえるわけもない助けを発し、このまま命の灯火を途切れさせることになる………
「───蜥蜴風情が、うちの娘に何をしようとしているの?」
「ッ!?」
…ことは無かった。
突然周囲に透き通るかのような声色が響いたかと思えば、それと同時にとてつもない怒りを込めたかのような衝撃音と共にドラゴンの困惑が入り混じった悲鳴が響き渡る。
…ドラゴンが困惑するのも当然だ。
何せ、いきなり現れた女はどう見ても腕力に優れているわけでも筋力に秀でているわけでもないというのに……体格で圧倒的に勝っているはずのこちらを殴り飛ばしたのだから。
それも、力で抵抗する暇すらも与えられることなく圧倒的な膂力によって吹き飛ばされたともなれば混乱するのも無理はない。
それでも……現れた魔女が、己の娘を狙った不届き者に対して慈悲を与えるかと問われれば…答えは一つ。
「……死になさい。【空間裂断】」
「………ッ!?」
一切の慈悲も、許しもなく。
与えられるのは、ただただ絶対的な敵対者への死。それ一つのみ。
ドラゴンのみに留まらず、その空間上にあるものをまとめて切り裂く防御不可の斬撃を食らった愚かな敵対者は…真っ二つにされると同時に、その生命活動を停止させることとなった。
「……ま、まま…!」
「………セレネ」
そうして騒動の原因となった元凶がたった一人の乱入者によって始末された後に…セレネは、この場に駆けつけたローブ姿の母。アルメリアと再会を果たしたのだった。
…しかし、そんなアルメリアも今だけはいつものような優し気な笑みを浮かべておらず、真剣な眼差しをセレネへと向けていた。
「…私、言ったわよね。勝手に外に出たら駄目だって」
「…っ! …はい。ごめんなさい……」
「…どうして、何も言わずに出て行ったりしたの! 危うく死ぬところだったのよ!」
「…わ、私……こんなに怖いって…知らなくて…!」
母の言う事…説教は誰がいるわけでも無い森の中で大きくこだましていき、今回ばかりは自分が全面的に悪いのだと思い知っているセレネは素直に謝ることしか出来ない。
実際、アルメリアが駆けつけていなければ…あと数秒でも対処が遅れていれば今彼女が生きていたかなんて分からないし、そのような可能性の方が低かっただろう。
「……本当に、心配させないで。怖かったのよ…? 私もセレネが、いなくなっちゃうんじゃないかって…」
「……ま、まま……! …ひっぐ…っ! ご、ごべんなさい……ごめんなさい……!」
「…いいのよ。こうして、無事でいてくれたんだもの…」
そうして自分のしでかしたことの重さを思い知らされたセレネは…ふわりと傷ついてしまっている娘を癒すように、優しい手つきでアルメリアによって抱きかかえられる。
もう二度と味わうことが出来なくなるかもしれなかった、母の温もりに包まれたセレネは緊張の糸が切れてしまったのか…もしくは、母の優しさに触れられたことで安心したのか。
大粒の涙を両目からこぼしながら、小さな口からひたすらに反省の言葉を繰り返す娘の姿を見て…アルメリアもまた、自分の元へと娘が帰ってきてくれたことに人知れず安堵の息を吐くのであった。
「…もう泣き止んだ? あんまり危ないことをしたらこうなるんだから…もうしたら駄目よ?」
「…うん。ごめんなさい……」
セレネがしばらく母の胸で泣き叫んでからしばしの時間が経ったが、時が経過すれば感情の高まりも落ち着きを取り戻してくる。
目元を赤く腫らしながら、まだテンションも戻ってきていないため少し気分は沈んだままであったが……ともかく、セレネも今回の件はしっかりと反省したようだし一件落着であろう。
…アルメリアも今回の件を通じて、もし娘がいなくなってしまったら、なんて恐ろしい事態を想像することとなってしまったが…最悪の事態だけは避けられたのだから、そこを良しとしておこう。
「…そうだわ。セレネ、少しだけ降りててもらってもいい?」
「…? 分かった…」
すると今度はアルメリアが何かを思い出したかのようにハッとした仕草を見せ、それまで抱きかかえていたセレネを一旦地面に下ろした。
…タイミングもちょうどいい。まだ完全に完成したというわけではないが…今回のような事態がまたと起こらないとは言い切れないので、今から渡してしまっても問題ないだろう。
そう判断したがゆえに、少し前から作っていた一品……セレネの護身用に調整していた道具を懐から取り出し、彼女へと手渡す。
「えっと……これね。セレネ、こんな時になんだけれど…これをプレゼントするわ。もし良かったら着けてみて」
「これ…なぁに?」
アルメリアの手からセレネの掌へと渡ったのは、一つのネックレスだ。
細身のチェーンにて繋がれた先には、小さな宝石にも似た輝きを放つ青色の石がはめ込まれており……何とも綺麗な仕上がりをしているアクセサリーだった。
「これは私が作ってみた、セレネだけのお守りよ。そんなことが無いとは思うけど…いざという時に、セレネを守ってくれるようになってるわ」
「…これ、私がもらっていいの?」
「もちろん。そのために作ったんだから」
「……嬉しい…! まま、ありがとう!」
「あらあら。…いつまでも甘えん坊ね」
セレネの身を案じた母が自らのために、自分のためだけに作ってくれたという魅入られるような輝きを秘めたネックレス。
まるで手に持っているだけでも、母からの愛情を感じられるかのように温かな熱を帯びたこのアクセサリーは……今日からセレネの宝物の一つとなるのだった。
…ちなみに余談だが、このネックレスは単なる気休めのお守りというわけではない。
アルメリアの発言からして、おそらくセレネは心の支えとしてこのネックレスを受け取ったのだろうが…実際のところはそれだけに留まらない、とてつもない効果を秘めている。
パッと挙げられるものだけでも物理・魔法共にあらゆる攻撃を瞬時に防ぐ障壁を展開する魔法であったり、常時微弱な回復効果をもたらしてくれる波動を放つ効果であったり…さらには、セレネがどこにいるのか常に位置を把握するための魔法までもがこのネックレス一つには込められている。
さらに言うのであれば…アルメリアが割と本気でそれらの効果を隠蔽する術式も組み込んでいるため、たとえ第三者から情報を盗み見られようとも問題はない。
娘の身を案じた母がどのような状況にあっても無事に家に帰ってこれるようにと、万が一の事態に備えてアルメリアが一から組み上げた魔法の数々なのだが……どうやら自重という言葉はどこかに忘れてきたらしい。
これだけの性能が備わってしまえば、国宝級の一品と言われても納得するどころかそれすらも凌駕してしまっている品質なのだが……バレなければ何も問題がないというのが彼女の考え方であり、基本スタイルでもある。
実際、アルメリアほどの実力を持つ者が本気で施した隠蔽など見抜ける者がこの世界にいるとは思えない。
せいぜいが考えられるとしても、ネックレス自体が劣化してしまったことで魔法の状態も劣化することでバレるくらいのものだが…それだって、劣化するのは早くとも数百年は先のことだ。
魔女の技量と力量を持ってすれば、この程度は容易いものである。
…手加減という重要な要素が抜け落ちていることは……少し目を瞑っておこう。
「……はい。あら、やっぱりセレネによく似合ってるわね」
「えへへ……そうかな?」
「もちろん。世界で一番可愛いと断言できるくらいよ」
それよりも今は目の前の娘のことの方が重要だ。
アルメリアが直接製作したネックレスをセレネの首元に手を回しながら着けてやり、その姿を見てみれば何とも可愛らしい。
一応の目的としては護衛のための手段として作ったものではあるのだが……それと同じくらいに、娘に渡すものなのだから無骨なデザインは許容できないと、見た目に関してもこだわりを詰め込んでいる。
緩やかなウェーブを描きながら揺れているセレネの金髪に対し、厳選して選抜してきた深い青色の宝石。
それは見事までに愛らしさを含んだセレネの姿を作り上げており…やはり自分の目に狂いは無かったと、アルメリアは内心で深く頷いていた。
「……さて、それじゃあ帰りましょうか。セレネも早くお風呂に入らなきゃいけないし…いつまでもこんな場所に居たら怪我をしちゃうからね。行きましょうか」
「うん! …あ、まま……一つお願いしてもいい?」
「うん? どうしたの?」
最高に可愛いセレネの恰好を見れたことでひとまずアルメリアも満足できたので、これ以上ここに留まる必要は無いと帰宅するための転移魔法を組み上げていく。
…すると、そんな母の姿を見て何故か恥ずかしそうにしたセレネの方から何やらお願いしたいことがあるとのことなので、一旦魔法の方を中断してそちらの話を聞くこととする。
「その……帰るまで、ままに抱っこしてほしいなって…」
「………全く、そんなことわざわざ言わなくてもいつだってやってあげるわよ。ほら、こっち来て?」
「…うん!」
…どうやらセレネがしてほしかったことというのはアルメリアに抱きかかえてほしかったという、これまた可愛い要求であった。
その程度の事ならば造作もない。むしろ、こちらだっていつでもしてあげたいくらいの事だったので、彼女もそんなお願いは無碍にすることなく受け入れてあげる。
そうすれば…セレネも母に抱えられることを喜んでくれたようで、腕の中に顔をうずめながら満面の笑みを浮かべていた。
「じゃ、今度こそ帰るわよ? 準備は良い?」
「うん! ばっちり!」
愛しい娘の笑みを見れば、アルメリアの自然と頬が綻んでしまう。
しかし、早いところ帰ってあげなければセレネの肌に付着してしまっている泥から菌が繁殖してしまうかもしれないし、それによって体調などを崩してしまうかもしれない。
それだけは避けておきたいところだったので……セレネにも確認を取れば、即座に発動直前まで組み上げていた転移魔法陣を行使させて二人は住み慣れた小屋へと戻って行く。
…何者の姿もなくなった森の中心部は、先ほどまで交わされていた会話など嘘だったかのように元の静けさを取り戻していった。
その後もこの親子が巻き起こしていく、温かく穏やかでありつつも…どこか騒々しい。
賑やかさに満ちた日常がこの地を中心として展開されていくことなど、知る由もなく。
はい。というわけで久しぶりに短編を上げてみました。
今回はいつもとは若干趣向が変わってこんな感じのお話になりましたが…どうでしたかね?
少なくとも自分は出来に満足しているので何も言う事が無いんですが、良かったら感想なんかをお聞かせください。
たまにこういう話を書いてると気分転換にもなって楽しいので、また機会があったら書こうかな…なんて考えてもいますが、まぁそこら辺は追々ということで。
それと、もしこの物語好評であったら別シリーズとしてまた続きでも書いてみようかななんて思いますんで、どしどし評価の方もお待ちしております。