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剣道の理合を理解した武志と華は人としても大きな成長を成し遂げる

順調に蕾ができる

後ろから面(4)

拉致される様に彼女の部屋に連れ込まれ、剣道養子の洗脳にあった帰り道、このまま家に帰り、母に何か感づかれ、詮索されると拙いと思った。何とか落ち着き、気分転換を考え、行きつけの武道具店に立ち寄った。

店頭には今日発売になったばかりの剣道雑誌「日本剣道」が平積みされ、表紙には年代別剣士特集という文字が躍っていた。

手に取り特集記事のページを開くと名のある剣道家、指導者、現役選手が写真入りで掲載されている。写真の下には座右の銘、生年月日、身長体重、剣道歴等のプロフィールが記されている。

写真は皆、背筋に定規が入っているように真直ぐな姿勢で、濃紺の装束で明るい目をして収まっている。違うのは雰囲気だ。

 このイメージを例えれば、学生は同じ制服を着ているのに、人、そのセンスによって恰好よかったりそうでなかったりする。そのこの感じだ。剣士達も同じで、似たような紺の道着を着装し、皆、笑顔で写真に納まっているのだが…、それぞれ皆、醸し出す雰囲気が違うのだ。

何ともいえぬフンワリした感じの人もいるし、人を射抜くようなピシッとした目をした先生もいる。少し考えると、当たり前だが、フンワリ型は年配の指導者を引退した大先生、ピシット型は現役指導者、そしてキリット型は現役選手、特に若手は挑む様な覇気まで感じさせ人もいる。

ページをめくっていると青山先輩も特集されていた。微笑んでいる。柔らかい。写真の中から小春日和の匂いを感じるポートレートだ。

若手の中でこの雰囲気は特異であり傑出している。妖怪から先輩と自斉先生の血縁関係を知らされたせいか、先輩の姿は自斉先生の姿に重なって見えた。

近年のサッカー人気、スケートボード等の新競技の参入で、剣道人口の減少が急速に進んでいる。その流れに対し、各剣道団体が入門応募チラシ等を作成して幼稚園、保育園、小学校、公民館、役場等各方面に働きかけている。青山先輩の写真はそこに掲載するのにぴったりだと思った。子供には優しいお兄さん、お母さんにはイケメン先生、それもこの上なく強い…。

運の悪いことに、行先不安で途方に暮れている今日のタイミングでの先輩の掲載写真は、俺に小学校時代以降の苦い記憶を思い出させた。懐かしいが、今の自分を顧みて考えると…、先輩が凄すぎて、この人が本当に俺を可愛がってくれた人かと自信がぐらついた。それほど、先輩と俺の距離は大きくなっていると思え、体が震えた。

それでも、目はインタビュー記事の内容を追っていた。

・・この前のインカレでは準優勝の二位。ご本人は残念な成績と思われているでしょうが、来年にかける意気込みを聞かせて下さい。

…残念だなんて、そんな事は思っていません。インカレは出来過ぎです。運よく結果を出せただけ、そう思っています。大学レベルでは、私はまだまだついて行くのが精一杯の選手です。

幸い、W大には良き指導者・良き先輩が居られ、修行するには素晴らしい環境です。今回の幸運を上手く活用して日々精進し、今年以上の成績を収められるように頑張ります。

・・尊敬する選手、目標にしている選手は居られますか?

…こんな事を言うのは生意気ですが、選手の立場では宮崎正裕先生が目標です。

・・この前まで高校生であったあなたに酷な質問かもしれませんが、全日本選手権で宮崎選手の優勝回数を凌駕するとすれば青山選手だとのご意見をお持ちの先生方が多くおられます。この期待、ご本人はどう思われます?

…そう考えてくださる、先輩方、先生方のお気持ちは本当に有難いです。でも、それをなす事は極めて困難です。が、剣を志した以上、日本一の夢に向かって邁進し修行いたします。それに、並み居る先輩方ばかりでなく、後ろから追いつけ追い越せと、迫ってくる凄い選手もいますから、皆さんを師と仰いで、切磋琢磨の稽古あるのみです。

・・先輩だけでなく後輩にも目を向けられておられるのですか?その凄い選手って誰ですか?

…今は無名です。名は言えませんが、私の弟の様な、そんな高校一年生です。多分三年後、大学生になれば私を凌駕する存在として皆様にご挨拶する事になると期待しています。

後の記事が読めなくなった。弟分の凄い選手とは…、多分、俺のことだ。

妖怪の唐突な話を聞いた後のこの記事は、俺にとって強烈なワンツーパンチとなった。

俺は記事を見つめたまま崩れそうになる膝に力を込めて、平静を装った。誰も見ていないのに、周囲の視線が気になり、思わず武道具店内を見回した。皆、誤解している。英語のカマキリ教師の質問の圧力、無視の暴力にも耐えられずに逃げ出している俺が、全日本の試合場に立てる勇気を持てるはずがない!その前に、県予選さえ通過できないだろう。俺にとって、県大会優勝は遠き道のその先にある。其れなのに、実績皆無の俺の事を…こんなに評価し、考えてくださっている。俺は不甲斐ない。

竹刀を探し見ようと思っていたが、その気も薄れ、店を出た。外は真っ暗で、星も見えず月も出ていない。当然だ。いつの間にか雨が降り出していた。この天気は俺の気持ちだ。暗く湿って泣き出している。

でも、小さな目の前の現実を考えると、今なすべきことは冷たい夜の闇に駆け出さすことだ。直近の問題は、母の「何をしていたの!勉強もしないで…」の叱責の声が…玄関に入って靴を脱ごうと俯いた途端の俺の後頭部に降りかかりってくるのを避ける手段だ。

いや、今日は妖怪から母へ俺が帰った連絡が入っているだろう。妖怪は母の懐柔に成功し、俺同様に母も掌で転がしている。だから、今、真っ直ぐに帰ればお咎めは無いだろう。こんな簡単な思い至った時、重苦しい正体の良くわからない大きな恐怖が、再度、俺を包み込んだ。

俺は完全に妖怪の支配下にある。今降っている雨はいつか止む。でも、妖怪による甘く怪しい誤解に満ちた俺の支配と、お世話になった皆さんの俺に対する身に余る過度の期待、その他諸々、この多重の苦痛はいつ終わる事か…、分からない。はたして、稽古して打ち破れるものであるのか?

俺は、知らないうちに、苦悩の世界に連れ込まれ、ただ闇雲に面打ちをして藻掻いている自分を感じた。

・・・・・・・・

梅雨も終わり、蒸し暑い昼休み、その不愉快さを増長させるような中間試験の会話がクラスの中を飛び交う。妖怪はいつものように、教室の後ろの右隅でポツンと弁当を食べている。まるで周囲の喧騒は聞こえない山奥にでもいる雰囲気だ。

俺もまた、その隣で四角い弁当箱を開く。今日もおかずは卵焼き一つ。後は白米だけ。母の手抜きの惨め弁当だ。「お母さん、勘弁してよ」アルミの蓋の裏についている滴を見ながら思わず一人で、愚痴をこぼした。その時だ、事あるごとに、俺の落ちこぼれ度を嘲る意地の悪い同級生が、そっと、後ろから近づき俺の唯一のおかずである卵焼きに自分の箸をズカッと突き立て、これ見よがしに頭上に振りあげ、

「デクの一つしかない卵焼き、取ったぞー!」と得意気に騒ぎ立てた。一種のいじめだ。

俺は何も言えなかった。

自席でポツンと一人、弁当を食べている俺の姿はクラスの皆に出来損ないの孤独を具現化しているのだろう。魅入られる視線でなく、見てはいけないものを、何かの拍子で見てしまった。そんな一瞬凍り付いた周囲の視線が俺を取り囲んだのを感じた。

一匹狼だ。俺はそう振舞っているつもりだが、周囲の見方は全く違う。もっと冷たい。級友の俺を見る目は、体の大きい、小心者の落ちこぼれだ。

昼食時、多くの級友は三々五々、集まり集い、色とりどりのおかずを見せて仲間内でつまみあう。俺は誰からも相手にされない一人ぼっち。そんな中で起こったことだ。

いじめっ子は、俺の卵焼きを頭上から下ろすと、そのまま大口を開けて、パクリと飲み込み、

「弁当のおかずは卵焼きだけ。授業にはついて行けない。もっさりと教室の空気を汚し、温度と湿度をあげるだけの存在。お前なんかどこかに行け!木偶の棒。クラスのレベルが下がる」

怒っている猿みたいに頬を紅潮させヒステリックに叫び、俺を罵った。

中間テストのクラス平均点が学年最低で、英語のカマキリ教師に馬鹿クラスと呼ばれた腹いせなのだろうか?でも、俺にどうしろというのだ、何で俺に怒りをぶつける!

俺は英語の授業では相変わらず無視され続けている。蚊帳の外だ。でも、このところ妖怪のテスト対策個別指導で常に平均点は越えている。特に今回は87点と平均を20点も上回った。この猿野郎は俺を平均点以下の馬鹿だと決めつけて、いじめの対象にしているに違いない。鬱陶しい、張り倒すか…?我慢にも限度がある…、そんな気持ちが浮かんだ時だ。

「安田君、これ食べて」妖怪が俺の弁当箱を机の脇に避け、代わりに、自分の机の下にあった風呂敷包みを俺の机の上にドカンと置いた。妖怪が手早く風呂敷の結びを解き開くと出てきたのは重箱。上蓋を開くと正月に売り出されるデパートの御節と見まがうばかりの豪華な弁当だ。何時、用意したのだろう?そもそも何故?

そして、お調子者の虐め猿に向かって

「本物の分からない人は、出しゃばらないで!あなたなんかより、安田君は成績いいわよ。自分よりおとなしい人に欲求不満をぶつけるなんて、恥を知りなさい」

前髪越しにピシリ睨みつけた。

「何だ!落ちこぼれの妖怪女が偉そうに…。お前達は二人とも、クラスのブレーキ、面汚しだ」

その罵りが発せられると、間髪をいれず、様子を見ていた窓際にいる秀才グループからよく透るバリトンの声が掛った。

「おーい、杉浦。余計なことを言うようだが、小泉は女子で学年トップだぞ。今回のテストも英語満点の二人のうちの一人だよ」見ると相良が笑っている。

おサルの杉浦は

「エッ、そんな…」と呟き、臆病そうに周りを見回し、周囲の白けた視線が自分に集中しているのを感じ取り、こそこそと教室を逃げだした。

お取り囲んでいた皆も何だか間が悪くなって俺と妖怪に背を向けた。

俺自身、今起こっている事の展開についてゆけず、どうしようかと妖怪を見た。彼女はそんな喧噪の中にいたにも関わらず、いつものように山野渓谷での黙想の姿勢に入って自席で髪の毛の中に視線を落として俯いている。結局、俺と豪華弁当だけが取り残された。どうしたものかと思ったが、とっても美味しそうだったし、妖怪の顔もあるので有難く頂いた。本当に旨かった。

食べた後、誰も見ていないのだが、何だかとても恥ずかしくて目が上げられず、空の弁当箱を見つめていると、妖怪の手が横手からサッと伸び何事もなかったかのように回収していった。

「有難う」聞こえたかどうか分からないが、俺は呟くように言った。

前髪越しに、明るいレーザーが見えた気がした。俺は思わずまた呟いた。

「ご馳走様、一度に二度もお世話になりました」感謝の気持ちだ。

・・・・・

その日の午後、相良が俺を呼び出した。

「気の向いたときでいいから、俺達のグループに出入りしろ。杉浦みたいな馬鹿が居るから」

有難かったが、乗り気になれない。何回誘われても答えはノーだ。

「妖怪は?」

話を振った。

「彼女は大丈夫。お前と同じくらいスケールが大きいが自分勝手に黙想の世界に入り込める。完成度は極めて高い。有り余る才能にてこずっている未熟者もお前とは違う」

・・・・・

そんなことがあっても、教室では、俺は妖怪に弁当騒ぎがなかったかのような態度を取った。

女子が男子の弁当を用意するのは特別な関係にあると理解されても仕方がない。でも、俺は周囲にそんな関係だと思われたくはなかった。妖怪はそうかもしれないが、俺は妖怪の妖術に嵌まるのは沢山だと思っていた。

お互いに、「おはよう」の挨拶さえしない。隣に座っているのに、俺は左側、妖怪は右にしか行けず、お互いが会おうとすると地球を一周しなければならない。皆の前では、そんな距離のある雰囲気だ。

授業の間の休み時間、俺は寝る。妖怪の方を向くのは厭だから左頬を机にあてて突っ伏して眠る。頬には机の木目がしっかりとつく。

妖怪は不動だ。いつでも机の下の雑誌を覗けるように背骨を丸く曲げ、前髪で表情を隠し、誰とも目を合わさないように視線を消した姿勢のままじっとしている。時々、俺は後頭部に彼女の視線を感じるが、それは気のせいかもしれない。

授業中の態度について、俺は少し改めた。授業はウトウトしながらも、できるだけ聞くようにした。そして、授業が終われば一行だけだが、その日一番重要だと思った事をノートに書き留めるようにした。これは妖怪のアドバイスだ。効果はテキメン。試験前に書きつけたポイントを見ると不思議な事に授業の様子が脳裏に浮かび上がり復習になる。この効果と妖怪が俺のためにだけ、秘密裏に作ってくれる試験前特訓ノートの問題を解くだけで、楽に平均点は取れるようになっていた。妖怪の指示に従うのは癪だけれど…、弁当をはじめ色んな援助をしてくれる妖怪に対して、成果を出す事は俺の責務であり、俺なりのケジメだと考えていた。試合は勝たねばならないし、テストは点数を取る事が成果なのだ。

・・・・

夏休みが終わり新学期初日、五,六時限は体育館で夏休み中に参加したインタハイの映写会が「高校夏の奮戦記」と題して行われた。残念ながら今年、我が高校から、インタハイ県予選を通過し全国大会に進出できたクラブは無かった。俺に言わせればこれは反省会だ。

俺は映写会場となった体育館に入って、いつものように他人に虐げられない自分の居場所を探して、ウロウロしていると「そこどいて…、君!」と怒鳴られた。

声の主を見ると「放送班」の黄色の腕章をつけた二年生だ。俺を見て憤懣やりきれないというようにニキビだらけの顔を赤らめながら睨んでいた。

「君、映写機とスクリーンの間に立たない!皆そうしているでしょう。これが見えないの!」

看板付きのコーンポストの縄張りを指差し、ヒステリックに説明する。

確かに、皆、俺のウロウロしている場所を避けて動いている。俺は、邪魔にならないようにと人のいない所に向かう悲しい習い性がある。それが俺を立ち入り禁止の場所に導いたのだ。

放送班は、ため息まじりに、そして小さな子供に教えるように、俺に指差し指示を行い、俺の行き先を示した。

「君は一年生だな。一年はあっちだ」

その先を辿ると確かにいつも俺の周りをチラチラしている顔が見える。一年生の集団だ。日常生活において、俺は周りの顔は見えるが心が見えていない。見えていないから彼らが何を思っているのか、それを恐れる。その恐怖から逃れる手法として、恐れる相手から自分の存在を打ち消し、少なくとも自分の周りにいる人に迷惑を掛けないように、且つ、自分に禍が降りかからないように努めている。少し言い方を違うが変えると『俺は他人の邪魔をしない。だから皆も俺の生きるのを邪魔しないでくれ』と願っている。でも、その願いは聞き入れられることなく、逆に誤解される。このように、人を避けて群の外にいるから逆に目立ってしまうみたいだ。

さっき、放送班の二年生に怒鳴られるまで、気付くと、俺は、今日、誰とも話していない。そして、声を掛けられたのが叱責のあれだ。頭の中では色んな事を考えているのだが、それを自分で話し、自分で聞いて、自己完結する。それしかないのだ。自分の世界でぐるぐる回り、いくら頑張っても外の世界は遠くて近づいてこない。

俺は、放送班に指示されたとおりに一年生の指定場所に近づくと身の置き場所を求めて、やはりウロウロ徘徊した。そんな俺の徘徊を見つけた相良が手を振って俺を呼び寄せる。

「剣道部のインタハイ予選の記録もあるそうだ。一緒に見よう」

座れと、自分の座っている隣にある小さな床の隙間を掌でトントン叩いて促した。でも、体のでかい俺が座るにはその空間は狭すぎた。どうしようかと迷って、目を泳がせると相良の隣に静かに佇む弓道部の女子と目があった。彼女は澄んだ綺麗な瞳で俺にニッコリと柔らかく微笑みかけると、肩を揺すり、お尻をずらせて、俺の座る場所を少しでも大きく開けてくれようとした。でも、その動作が、連鎖的に彼女の隣に座っていたギャル女にあおりを加えた。ギャル女は、相良の誘いに迷い、のそっと立っている俺に対して排除の視線を浴びせかけてきた。汚いものを見るように…。俺は、その視線を、張られた結界と理解した。ギャル女に拒否された俺は、ギャルの視線にスパンと跳ね飛ばされ、叩きつけられるように一歩下がり、思わず右頬を歪ませた。

それを見て相良は申し訳なさそうに俺に向かって肩をすくめた。彼の好意は有難いが、俺はその好意に応えられない。俺は目を伏せ、その場を離れ、スクリーンから離れた壁際に居場所を求めて腰を下ろした。

間もなく照明が消され、スクリーン上に各種競技のインタハイ地区予選の記録が映し出された。剣道部は予選3回戦で強豪の成徳学園に敗れた。0勝5敗、一本も取れずのボロ負けだった。ビデオのティロップは三回戦で惜敗と表示されたのだが…、結果に続いて試合に敗れ涙にくれる部員の姿が映し出された。そこでのキャプテンのセリフが「後輩に夢を託します」だ。

これは剣道部に限った事ではない。どのクラブも同様の編集がなされていた。白々しい。笑えぬ茶番ビデオだ。俺は思う。少なくとも剣道部はインタハイ県予選を勝ち抜きたいのであれば実力で選手を選ぶべきだ。

選手は二年生以上。同列の実力なら三年生をレギュラーにするなんて馬鹿げた暗黙の了解を撤廃すればよい。変猪口先輩に託された「諦めと言う負け犬根性」を背負って俺達は来年の予選突破を目指すのか!笑ってしまう。

剣道の強さで言えば俺と相良は群を抜いている。この弱小剣道部での話だが…。でも、今日のビデオに俺たちは少しも写っていない。一年生だから。補欠にも入れない。クラブ活動はダラダラ続ける弱虫のためにあるのではないだろう。まして、弱虫上級生に指示され、こき使われ、下に見られるためのものでは断じてない。でも、実態は…。

中学のころは良かった。聖心館の仲間であった相良と競い合い、ともに試合で活躍した。技の相良、力の安田。市民大会の目玉選手であった。剣道をしていて張りがあった。 

今の俺は、ギャル女やカマキリ教師にゴミ扱いされている。落ち込んだ俺は、体育座りして両手で抱えた足の間に顔を落としてこんな物思いにふけっていた。

会場が湧いた。何かが起こったようだ。その気配に俺は顔を上げ、足元からスクリーンの方に体を起こし視線を前方の画像に移したが、何もなかった。多分瞬間的なことで、俺の気付いた時には皆が湧いたシーンが終わっていたのだろう。視線を元に戻そうとして、相良と弓道部が寄り添い座っているのが見た。二人はお似合いだ。相良は剣道だけでなく、勉強もできるし、社交も上手い。羨ましい。

見てはいけないものを見た気分になり、俺は、膝の間に顔をねじ込み、再び耳を押さえ、周囲の音を遮断した。剣道の立ち会いをイメージし、臍下丹田に力を籠め自分の世界に意識を飛ばした。集中できた。世間が消え、別乾坤に入れた。俺の世界だ。俺の心がのびやかになるとともに上半身は屹立し姿勢が整った。俺は俺だ。そう思った瞬間。後頭部をしこたま叩かれ、現世に引き戻された。

振り向くと、いつの間にか俺の背後に妖怪が座っていた。壁と俺のほんの少しの隙間に知らないうちに体を入れていた。こんな空間によく入ったものだ!と思うが、妖怪は「最初から自分がいた」というような顔をして「がさがさしない!見えないじゃない」と低い声で小さく叱責した。暗がりの中だが俺を睨みつけているのが分かる。

確かに、大きな俺の後ろにある小さな隙間からでは俺の背中が邪魔になりスクリーンが見えづらいだろう。でも、「その言い方はない」と思ったが…、かなう相手ではない。俺は妖怪の視線の邪魔にならないように少し腰を前に押し出し、頭をできる限り低く下げ、床に平伏するような姿勢を取った。かなり苦しい…。ここまで皆から逃げてきて、何故、こんなところで妖怪に気配りを…、本当に、情けなくなった。

・・・・・・・

映写会は終わった。暗幕が開かれると線状に光る外光が、閉じ込められ、蒸し暑さで、びっしょりと汗を掻いた生徒達を、水槽の水面で口をパクパクさせている金魚の群れの様に露わにした。その生徒の群は新鮮な空気、大きな空間を求め、一斉に開かれた体育館出口へと向かった。

群れの流れを邪魔しているのは下駄箱だ。靴箱から靴を出し、履く。その行為が渋滞を招き混乱を引き起こしていた。俺は群の流れに出来るだけ、さからわぬように気を付けて、なんとか、混雑する下駄箱の靴までたどり着き、最上段に収納した運動靴を取りだそうとした。

その刹那、俺の下隣から、ぬっと手が出て、俺の胸元に頭を突き出しながら下駄箱から靴を取りだそうとする女子がいる。見ると妖怪だ。靴は彼女の視線より高いところ、俺の眼前の靴箱に入れられていた。彼女は俺の懐から伸びあがって、靴に手を伸ばす。結果、彼女の顔は上向きになり、前髪がわかれ、そこから白くて品の良い美しい顔がこぼれ出た。すごく可愛いい。仄かに良い匂いもした。そう思った瞬間、俺の本能は目覚め、下半身が勝手に動き出した。

まずい、こんな姿勢で、妖怪に俺の…を気付かれたら…。

俺はとっさに妖怪に背を向け下駄箱に殺到する生徒達に対面し、彼女を守る障壁ブロックと化し、その場にストンと蹲った。俺は、あたかも取り出した靴を履くため靴紐を締めなおす振りをして。靴も持たずに…間抜けなことだが…

そんな俺の様子を気にする風もなく、妖怪は俺の蹲る背中にできたスペースで悠々と靴を履き終え、何事もなかったかのように群れとともに体育館から出て行った。

「今の、小泉だな」

本能の興奮が収まりズボンの埃を払う仕草で股間の形を整えながら立ち上り、靴を手にした俺の背後から、相良がボソッと声を掛けてきた。振り向くと、彼の目はこれ以上の面白さは無い、そう笑っていた。

「小泉は、お前を監視し、そして、上手く操って利用している」

「何も…、そんな事は無い」

「操作されている本人が気付いていない。それを妙技と言う」

「何を言っている?相良」

「映写会では、お前に視界を確保させ、下駄箱では人波よけの防護壁として利用していた」

「偶然だ」

「馬鹿、必然だよ。お前に欠けているのはそこのところ。相手の本質を捉えてそれを上手く利用しないと…」

俺を完全に見下した発言だ。うるさい奴だと心の中で相良の面をしこたま打った。でも、その観察は正しいのだと思う。

「ところで、彼女の家に行った?」

「ああ、行った。その前に俺の部屋に来て、勝手な事をしていった」

「小泉の家は凄かっただろう。旧家の豪邸だ。そこで、お前は赤子のようにオモチャにされた。コロコロと」

さっきのギャル女の汚い視線に犯された俺にこうやって話しかけ、嘲る様に冗談を言う。相良は物事に頓着しない大物だと思う。こいつも何でも見通したかのように俺に対して平気で振舞う。妖怪とよく似た奴だ。これほどまで皮肉屋だと、今まで気づかなかったけど…。

「何だか分からないが、体に定規を当てられて洋服の採寸をするようにサイズを測られた。そして、青山先輩と俺の比較データを見せられた」

「青山先輩って、太郎さん?」

「そう、子供のころの様子や剣道の稽古内容を聞き取り調査された。それに妖怪と青山先輩の関係を示す家系図なんかも見せられた」

「家系図?」

「そう、俺が偶然に書庫で青山先輩ご一家の写真が貼られたアルバムを見つけたのだけど…、妖怪が俺がその写真に気付いたのを知ると、青山先輩と妖怪の家系、つまり血縁について教えてくれた。自斉先生、青山先輩、妖怪は親戚なのだ。それに唐突な話だが、妖怪の家は学問でも武道でも日本一を目指しているそうだ」

「ほー、他の奴が言うとおかしいが、小泉だったらと思うと、俺には、ごく自然、素直に納得できる。面白い」と、一人で頷くと、相良は続けた、

「で、安田の役割は?」

「日本一の剣士になって、妖怪と結婚するんだって…」

「えー、それは傑作だ。見る人が見ればお前の凄さは一目瞭然なのだ。流石に慧眼。だけど結婚までは…、唐突な感もある。高一女子の話としては…」

ここまで、言わない方が良かったのかもしれない。相良は妖怪や俺の事を言いふらすような奴じゃないから、心配はしていないが、確かに、尋常な話じゃない。クラスの他の奴らに漏れ知れたらますます好奇の目で見られてしまう。

「で、安田はどう?」

「何が?」

「小泉との関係さ」

「よく分からない。彼女は綺麗だと思う。飛びぬけていて、近寄りがたいくらい…」

「惚れたか?」

「そうじゃない。俺には凄すぎる。賢くて、美人で、金持ちで…、なのに落ちこぼれて妖怪と呼ばれ、独りぼっちで、教室の隅に…、こんな状態に平気でいる女子なんて…」

「おまえ、分からないんだ、自分が惚れているのかさえ…」

「惚れているなんて、そんなことは論外だ。格が違う。それより未知の恐怖って感覚だな」

「それは正常だ。でも、嫌がられるのは承知で、一つ忠告するよ。安田は仲間を作った方がいいと思う。小泉とのバランスもあるし、安田の人間としての社会性改善にもなる」

また、いつもの話のぶり返しだ。いくら、幼馴染とはいえ、しつこい。

「ガラクタと調子をあわせてやって行くなんて考えられない。弓道部は許せるが、ギャルの糞女は我慢できない。さっきの俺に対する視線を見ただろう。男連中も肩の弱い野球部員と、セコセコの勉強型。相良にくっついているダニに見える。あんなのは…」

「相変わらずだな。もういいよ。安田。悪口に聞こえる話はするな。誰でも皆、多かれ少なかれ傷、欠点を持っている。そこを補い合う。良いところを認めてやるべきだ」

「仲間をかばうね。でも、相良は完璧だよ。勉強も出来て、清潔感溢れる彼女もいて。俺とは違う。認めるよ」

「違う!安田、よく聞け!人でなく人間としてのバランスだ。少しは考えろ。仲間を作り、群でバランスと取ることも、生きていく上には必要なこと」

バランスという言葉が辛子みたいに目がしらに来た。俺はどうすればいいんだ。心がバラバラと崩れて行く。途方にくれたら、言葉が出た。

「俺はもうこりごり。仲間、バランス…、いくら考えても答えは見つからない」

「お前は凄すぎる。安田。何をしても、させても。お前が本気になった瞬間に、お前はその集団で抜きんでる。一番になる。サッカーも剣道もそうだった。今は小泉の指導で勉強もできるみたいだけど…、その気になれば、勉強もできるよ。間違いなく…」

「相良…、それが悪い事なの?俺は一生懸命に言われたとおりに、みんなが喜んでくれると思って、自分のできる限り、懸命になって物事に取り組んでいるだけだ。誰も傷付けたり、人に嫌われるような邪な事を企てたりはしない」

「そう、お前は、悪くない。悪くないけど、でも、それを目障りと思う奴等も多くいる。剣道では、お前がいるからレギュラーになれない者が出る。そいつの気持ちを考えてみろ。そこの配慮をしながら自分を伸ばす。そういうお前自身の配慮と、お前を取り巻く環境づくりが必要なんだ。それを一切せずに、自分は他人を傷つけず、一生懸命努力しているだけだと主張しているのがお前だ。才能ある人材としての配慮が足りない。お前は天賦の才能だけで生き、一人ぼっちでいる。協力者がいないままで…。それが今のお前だ。お前の輝きは、嫉妬深い人間に対し、目障りだから言い掛かりをつけたいと思わせるには十分だ、いや十二分だ。お前は独りぼっちだから、奴らは群れて、徒党を組んでお前を取り囲んで潰しにかかる。少年サッカーの時だけじゃない。これからは剣道部でも同じ事が起こると思うよ。このままじゃ」

「そんな配慮をみんなやっているようには思えないけど…」

「やっている。皆、お前ほど才能はないからその必要性は小さいけれど。それでも、小さな軋轢さえ恐れて仲間という群れを作って相互に守り合っている。そんな人たちを、お前は毛嫌いしている。その態度を「小物どもが…という風に馬鹿にて…」と、お前が攻撃しているように勘違いする人もいる。」

「それって、言い掛かりだろ。そもそも仲間って言うのは、保身のための道具なの?その解釈だと、そして保身の代償として我慢と苦痛を皆、仲間と定義したメンバーに差し出しているんだろ?」

「一緒にいる事を我慢と苦痛で片づけられるのがお前の強さで欠点だよ」

相良が投げ出すように言った。

「言葉だけじゃない。物理的にもそうだ。例えば、安田の技は強くて速い。だけど、打たれて人の多くは、「いいところを打たれたとは思わない」という。圧倒的な体格と運動能力を持つ安田と言う才能に押しつぶされ踏みにじられたように感じている。ほぼ皆んな…」

「それが俺の剣道だから」

「違う、安田、全く違う!」

「何が…」

「お前を相手する側から言うと、上手く言えないが…、お前は自分勝手なのだ。交剣知愛って言葉、自斉先生がしきりに仰っていたのを覚えているだろう」

「ああ、剣の修業を通じて相互の研鑽をする、人格を高めあい、そして確たる信頼関係と友愛の情を育むことだと教えられた」

「それが分かっていて、今の状態をどう考えているの。お前は相手の事を考えず、才能の赴くままに自分の思った行動をする。その行動は常人にとってとてもできない様な凄い事でも、お前は当たり前の様に、普通に平気にやってしまう。そんなお前には誰もついて行けない。お前に悪気がないのは皆、分かっているのだけれど。何とも我慢ならない。嫉妬してしまう。教室も部活も一緒だよ」

相良は俺を諭している。

同級生から生き方や人間関係について意見されるのは愉快じゃない。本当は有難く聞き、素直に従うべきなのだろうが…、耳をふさいで駆け出せば聞かなくて済むならそうしたい。

そう思ったら、我慢して聞く気がなくなった。

「稽古に行く」

俺は、プイと横を向き、踵を返し、俺の目を見つめる相良の視線を断ちきると部室に向かった。

うるさい人間関係や社会があるクラスには二度と立ち入りたくないと思った。ぐちゃぐちゃ言っているけど、それって自分より優れているものに対する嫉妬じゃないのか!…自然にふるまっている。傲慢でも、不遜な気持ちも持たず、他人として悪いことしてないのに…嫉妬の餌食にされる。悪者たちは徒党を組んで優れた奴を貶める下品な奴らだ。これのどこが正義だ!切磋琢磨だ!狂っている。相良の言うのは悪者に対する世渡り術で、本質的に間違えている。俺は厭だ!

何と言われようが、今日は、思いっきりの面打ちをしよう。稽古で全力を尽くせば肉体が苦しくって悲鳴を上げる。そうすれば、俺はこの付きまとう煩悩から離脱出来る。打たれた相手は打突の強さに脳震盪を起こしそうになるかもしれないが、知った事じゃない。それが稽古だ。

昔から、そうしてきた。どうせ、俺は理解されない、嫌われ者だ。そして、見方によっては、虐められっ子だ。

・・・・・・・・

道場北側の剣道部室、日が当たらず、澱んでむっとする空気。饐えた臭が充満するその空間に入りハンガーにかけられた道着に手を伸ばす。何週間も部屋干しだけで、洗っていない道着は噴き出した汗が乾いて塩を吹き、強烈なアンモニア臭を発散している。その臭いゴワゴワした袖に腕を通す。

衛生上の問題があるといわれるかもしれないが俺はこの饐えたような空気を吸うと、緊張が解けて心がホッと緩む。息を吐き、目を閉じると自然に瞑想に入ることができる。学校にいて、リラックスできる数少ない場所だ。

それも、他部員が着替えを始めるまでのわずかな時間だが…。着替え中の彼らのおしゃべりが始まった途端、俺の居場所は無くなってしまう。

今日も、失敗した。部員の集まる前に室を出て、道場裏にでも行き、誰も来ない片隅で無念無想の別乾坤を作っておけばよかった。

少し早く来たので、油断していた。俺は人の目につかない部室の一番奥のロッカーに背をもたせ体育座りをして、頭を両膝に埋めボンヤリしていた。そうするうちに、入口で雑談が始まったのだ。逃げ道を押えられた。

こうなったら、入り口にある机に頬杖をついてたむろし、雑談している彼等が着替え終わり道場に行くのを、この片隅で気づかれないように、息をひそているしかない。

道場に行くために「そこ、通して」と彼等に声を掛けるのは憚られる。言葉を発した瞬間に、邪魔者を見るような視線が俺に注がれるのは何とも嫌だ。俺の存在は迷惑がられている。喉に引っかかった魚の骨のように。

彼等の不満は相良の言うようなものなのか?真の所は、俺には分からない。いや、俺は彼らにどのように思われて居たいのか?自分でさえそれが分からない。特別視されようと思ったこともない。いわんや尊敬されようなんて考えたこともない。空気の様に放っておいてほしいだけだ。こんなことを考えていると思考の迷路にはまり込む。そうこうするうち、更に他の部員も集まって来た。そして、俺にとって状況は最悪の方向に動いた。

・・・・・・・・

「今日の先輩の言葉はありがたかったよな。期待に応えるためにも、練習計画を立てよう。」と、いつものようにまとめ役を買って出る次期キャプテンを狙う二年生部員が、着替え途中のパンツ裸でたむろする部員に向かって声をかける。その声に、隠れているつもりの俺は、息が詰まる。どうせツマラナイ話だ。聞きたくない、と言っても、今、道場に逃げ出すと、協調性のない奴だと確実に非難される。

二年生たちは今年以上の成績を上げるには何をすべきかを口々に提案した。練習方法は…、その為の体制は…、そもそも、その基礎となる方針は…、それが決まらないと…、稽古時間が迫っているのも忘れたかのような大議論が始まった。

この人たちは、こんな議論をしているより、面打ちを一本でも多くし、剣道の為の正しい筋肉を付けたほうが好いことに気づいていないのだろうか。この部は稽古量が、つまり剣道の為の筋肉養成トレーニングが絶対的に少ないと思う。顧問の杉山先生もそれが分かっていて、見て見ぬふりをしているとしか思えない。小学生が通う町道場である聖心館の半分しか竹刀を振らない高校剣道部は俺にとって奇妙であり、それに気づかぬ彼らは滑稽だ。

「切り返しの回数は今のままでいいのかな?」

「中山博道は地稽古重視と言っていたように思う…」

「じゃー、切り返し半分にして、地稽古を増やそう」

「俺は反対だ、来年、四回戦まで勝ち上がる地力をつけるためには基本を疎かにできない。地稽古を増やすと、変なひっかけ技や、身内の駆け引き合戦の研究が主になる。強い学校に通用する面打ちの稽古を増やすべきだと思う」

「基本は基本で充実し、他校との練習試合を増やしたら…」

「相手校との交渉は、誰がやる?学校は煩いぞ」

「そんな交渉事の問題は、今、関係ない。お前は、どんな稽古をすると、四回戦まで戦い抜けると考えているのだ。それを言え。」

話が煮詰まらず、みんなの言葉に、迷いが現れ、解決策が見えず、絶望感が漂い始める。

皆の口が重くなり、沈黙が…。

皆、分かっている。自分たちが弱いことを。その原因は、稽古不足であり、遡ると、自分たちが怠け者である、もしくは自分の才能のなさに行き着くことを…。

切り返し、基本打ち、地稽古、面打ち、練習試合、思いつく限りの練習内容を入れ替えても、一時間半の稽古時間で県大会四回戦突破は無茶だ。正面から、自分自身を見直さないと…。

と言っても、杉山先生に目標を話し、お任せすると、超高校級の稽古内容を提案されるだろう。恐ろしくって、お願いできない。

皆、楽に、馬鹿にされない三回戦敗退程度の成績を上げ、卒業したい。できることならレギュラーになって、良い思い出作りを…、なんて口には出さず、内心では思っているのだ。

パンツ裸で輪の中心で、意見の仕分けをしていたまとめ役が、行き場を失った空気の重さに耐えきれずに、ハンガーに掛かった道着に手を伸ばしながら、隠れている俺の方を顎でしゃくって、

「安田、お前はどう思う」と言うなり、いきなりロッカー奥を覗き込み、意見を求めてきた。隠れて居ることに気付かれていた。

皆の意識の外にいるための努力に徹しロッカー奥に身を潜めていた俺は、まとめ役の視線に、そしてそれに続いて覗き込む多くの視線に縮みあがった。

どう答えればいいのだ。「全ての稽古量の倍増」というような正論を述べてもそのまま受け取ってくれないに決まっている。弱い先輩ほど楽をして、上手く立ち回って、少しでもレギュラーになれる機会を拡げようと、積極的に自分に有利な持論を展開しているのは、部屋の隅で全体を見ている俺が一番分かっていた。

そして、レギュラーになって試合に出たいと切望している先輩にとって、俺が一番の目の上の瘤だということも分かっている。何を言っても袋叩きのネタを提供することになる。一層のこと、「杉山先生にすべてお任せしたら如何ですか。」と言いたいところだが…

それは、生徒だけでなく、脛に傷を持つ先生にもタブーだろう。

言葉につまり、息ができず、顔だけが火照ってくる。まずい。

その時、部室の入り口でよく通る声がした。

「日本剣道のインタハイ特集に有力校の稽古内容が掲載されていました。それを参考にすれば…、先輩方は本質を見抜き必要なポイントを押さえるのが上手い。そう、スーパーマンが感心していました。」

相良だ。

「それいいね」皆、異口同音に呟き、ほっと、口元を緩ませた。「それ、俺、読んだ。」と、話の落としどころができ、元気づいたまとめ役は、部室の隅、忘れられたようにほこりを被っていたホワイトボードを部室の中央に引きずり出し、いつ書かれたのかさえ分からない切り返し一〇回の板書を勢いよく消すと、稽古内容と大書した。そして、自分の頭の中にある雑誌記事内容のポイントを箇条書きにし、説明を始めた。

俺への質問は皆の意識から消し飛んでいたが、俺はやっぱり部屋の奥隅に押し込められていた。記事を読んでも稽古量増加にはならないのにと馬鹿にしながら。

俺は何者だろう。教室での位置づけは分かっているのだが、剣道部での居場所の不自由さに漠然とした不安が襲い掛かった。孤独、いや、俺の結界を簡単に打ち破ってくる平然とした皆の暴力。

これに耐えて、俺はやってゆけるのだろうか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

稽古前の準備体操が始まってすぐに、顧問の杉山先生が道着を付けのっそりと立ちはだかる壁のように見えるそのゴツイ姿を現した。今日は、週一回の先生元立ち特訓日だ。それにしても、現れるのがいつもより十分あまり早いようだ。

稽古はいつも通り、基本稽古の面打ちをしてから、二列になり、相手を作っての基本稽古。それを終えて三分間の回り稽古だ。この時、杉山先生は稽古列の上座の一番左の師範位置に留まり、部員が三分のインターバルで右側にずれ、次々に相手を変えた実戦形式の稽古をする。

先生との稽古では、皆、全力で打ちかかるのだが、腑抜けになったとは言え鯛は鯛、物が違う。全日本級の実力は俺達部員を遥かに凌駕している。皆、先生にこてんこてんに打ち込まれ、突き飛ばされ、倒される。特に今日は気合が入っているように感じた。

地稽古が一回りする。皆ヘトヘトで、立っているのも精一杯、青眼に構えようとするのだが、ふらついてしまうそんな風に絞られた。これは号令をかけているキャプテンも同様で、疲れ切った彼は、一回りしたのを良い機会と、

「稽古やめ、十分休憩」の号令を掛けた。

皆、下座に倒れ込むように正座し、面を取る。そんな息も切れ切れの部員を前に、上座に座る先生は息一つ切らせず、俺たちの様子を見下ろしている。

余りの力量の違いに圧倒され、部員たちはいつもの軽口も忘れ、黙ってあえいでいる。

その時、教頭が道場の入口で一礼すると、頭を下げ、背を曲げた姿勢の小走りで、スーパーマンに駆け寄り、

「先生、全日本東西対抗高校剣道大会の審判依頼状が届きました。指導者として名誉なことです」と、俺達まで聞き取れる声で連絡した。

この声に、道場全体が沸き立った。

「先生おめでとうございます」と、キャプテンが拍手し駆け寄ると、

いつもは苦虫を噛み潰したようなスーパーマンの四角い顔に笑顔がこぼれた。

中央の大会に呼ばれたこと、それは、過去の重大事故の後遺症は解消し、高校剣道界に復帰の糸口が開けたということだったのだろう。

スーパーマンの顎から、汗か涙か分からないが水滴が流れ落ちた。部員たちは疲れを忘れたかのように次々に駆け寄り、それに対しスーパーマンは両手を広げ集まった部員たちの肩を優しく叩いて感謝の意を表していた。

器用になったものだ。本当は、俺たちが弱く、審判は出せるが、選手は出場できない。屈辱のはずだ。それでいて、このパフォーマンス。

呼吸を測ったように、キャプテンが、

「先生、これから審判していただけませんか?」

見慣れた光景が始まった。スーパーマン組易し、と気付いた場合の先輩直伝の技術だ。

この馴れ馴れしさは何だ。この場にいることさえ、お尻がこそばゆくなる。俺は目を逸らせ群れから一人離れ、道場の下座に正座した。そんな俺に気付いた次期キャプテンを狙う二年生か、皆から離れ、俺のところに寄ってきて腰を下ろし、

「スーパーマン、何だか、今日、気合が入っていると思ったら、こういうこと。でも、疲れたね。」と、何時にない調子で話しかけてきた。

「先輩方は、来年、四回戦突破を目標に、合理的な稽古を励むのでしょ。いいタイミングですね。朗報ですね」この男の本心が分からないので、警戒して,差しさわりのない返事を返した。

「そうだけど、急にきつい稽古も、なんだしね。だから、キャプテンには試合稽古希望のサインを出しておいた。状況もぴったりだし、先生も流れと空気が読めるからOKだと思うよ。」

こう言いながら、お祝いの後、先生を上座に話し込んでいるキャプテンの方を眺めた。キャプテンは先生が審判をする剣道部内学年対抗試合稽古の申し入れをしているに違いない。

でも、なんでこの二年生は俺に、こんなことを話しかけてくるのだろう。分からない。俺のことを認めてくれているのか、それとも暇つぶしか、いや、自分がキャプテンになる来年に向けての懐柔だろうか?

煮え切らずにいる俺の態度に苛立ちを感じたのか、二年生は、

「試合したくなかったら、やらなくていいよ。」と、言葉を繋いだ。

「安田は強すぎる。お前は、右手に力が入り過ぎているので打たれると痛い。」

と、自分の技術を棚に上げ、俺の打ち方が悪いので迷惑しているようなことを言う。そして、俺に向かって、にやつきながら、降参、参ったの意を示すように万歳をした。

「いえ、最後まで稽古します。俺、強くなりたいから。」

ボソッと、本音が素直に出た。俺は、強くなりたい。俺を認めてくださる皆に恥をかかさない意味においても、自分の為にも。

「大体、スーパーマンとの稽古は一人三分で十分。それが済んだ今、俺たちが練習試合をしたいと言ったらそうなるよ。スーパーマンは物分かりがいいもの。安田もメリハリをつけたら…、張りばかりじゃ壊れるよ。」

二年生は得意そうに上から目線で俺に意見して、再び、先生とキャプテンに目を移した。

先生は物分かりがいいからと、俺が床を踏み抜けば稽古は休みにするし、疲れたら、楽な稽古にメニューを変えさせる。後輩にはサボることを勧める。この調子だと、この人がキャプテンになった来年は、部室内での喫煙、飲酒、何でもありになりそうだ。先輩達のやっていることは、間違っていると思った。

全日本級の実力を持ち、鍛え上げたごつい体に、筋肉質丸出しの四角い顔をちょこんと乗せた剣豪を、口先だけの怠け者高校生が、物分かりが好いなぞとの人物評を下す。あきれ返って、悲しみさえ感じる。先生は、何のために生きているの?先生はだらしない高校生の男妾なの?

そんな俺の自問にも気づかず、二年生は言葉をつづけた。

「剣道部も去年、スーパーマンが来てから良くなった。前の顧問は、剣道は弱いくせに、やたら厳しくって、基本の面打ちと切り返し、試合に負けると稽古量を倍にするような奴だった。そのせいで、部員も減った。それが、スーパーマンになってから、歯止めがかかった。生徒の言うことを聞く顧問は貴重だし、ありがたいね。」我が意を得たり、とばかりに満足げに、笑った。

その笑顔に油断して、

「先生は、問題を起こしたくないだけ、俺たちは見捨てられているのかもしれません。」

俺は、つい、思っているが隠していた、「言ってはいけない事」をポロリと吐いた。

しまった。鳥肌が立ったが、もう遅い。暑苦しい道場の空気が冷たく不穏に震えるのを感じた。

「安田は、いつも、外から俺たちを冷たく見て笑っている。お前たちと違うって…、でも、それって失礼だろ…、相手のことを慮って、仲良くやっている俺たちを、弱虫め!と小馬鹿にしている。嫌な奴。」俺の方を見ないで、吐き捨てるように言った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

俺は何もわかっていないのだろう。俺以外の剣道部員と先生の間にある、彼等に言わせれば、「阿吽の呼吸」とでも言う物を。

そんな事、俺は絶対に許せない。

全日本選手権に出場する難しさ、理屈では誰もが分かっている。それを裏打ちする先生の強さも、稽古を通じて痛い程体感している。その意味では、部員は皆、先生を尊敬し、信頼している。だから厳しい稽古を指示しても、部員が従う素地はあると思う。でも、先生は生徒の言葉に乗り、易きに流れ、そうはしない。

生徒を信頼し、生徒を育てようと思うなら、毅然とした姿で、本当にあるべき姿を示し、目標に向かって、一緒に歯を食いしばって頑張る。そんな指導をしてくださると思うのだが…。

毎回の事だが、先生、やる気がないの?それとも、俺たちを見捨てているの?と、反芻する。こう思うのは俺だけなのか!

部員達は、先生に見捨てられ、小馬鹿にされていることに、本当はとっくに気づき、内心びくびくしている?開き直っている?

そのやり場のないストレスを、俺にぶつけてきている?

先輩達は自分たちのプライド、エゴの為に「先生の俺達を強くしたいという思い」と「俺の強くなりたいという気持ち」を分断しようとしているのか?…そして、やり場のない感情の矛先を後輩で弱い立場にいる俺に向けて…、ただでさえ目障りであり、レギラー取りの脅威である俺に向かって、「嫌な奴」の言葉がでたのだろうか?

・・・・・

キャプテンの申し入れが認められ、そのあとの稽古は練習試合になった。

先生の指示により、チームは、一年生七人、二年生八人が学年別に分かれ、抜き試合を行った。審判は実質的に引退している三年生が交代で務めた。

俺は一年生チームの先鋒、つまり一番手に、一年生チームの大将は相良が指名された。

試合は簡単だった。俺は、二年生チーム八人全員を一本も取られず打ち破り勝ち抜いた。対戦相手がいなくなったので、仕方なく、ルールを変え、俺は一年生チームの次鋒から順繰りに対戦し続け、そのまま副将まで十三人を倒した。そして、最後は大将の相良と対戦した。

相良は、手強かった。俺は面に飛ぶのだが、奴はそれを首の皮一枚をのこし、かわす。そして、無理攻めで体勢の崩れた俺に、意表を突く、返し技の小手、胴を打ちかけてくる。

ナマズやウナギを掴もうとしている時、力を入れれば入れるほど、ヌルヌルと逃げられる。同様に、俺は力んで打ち込めば打ち込むほど、自分の体勢を悪くし、相良に躱され捌かれた。

苛立った。ねじ伏せてやれとの気持ちになった。逃れられないように間合いを詰め、身動きできない状態で面を打とうと勢い込んで前に出て竹刀を振り出した瞬間、俺の右小手がポンと鳴った。相良の出小手が決まった。負けた。

竹刀を納め、礼をした。

「参りました」相良に声を掛ける。上手く打たれた。でも、どうやって打たれたのか分からない。「十四人目だったからね。疲れだね。」相良が、謙遜する。

違う!俺は完全に負けたのが分かっている。どのようにして打たれたのか分かっていない…これが問題で…一番悔しい。

その時、そこに、思わぬ方向から、割れ鐘の様な言葉が強引に割り込んできた。

「十四人目!人数なんか関係ない。目の前の敗戦。それが安田の課題だ」、杉山先生だ。

「どんな状況でも、どんな試合でも、負けてはいけない。負けて悔しいと思う気持ちが大切で、負けを正当化することなぞ言語道断。今の小手は、動きを完全に読まれ、見切られ、引き出されて、打ち込まれた。安田の完敗だ」

先生の四角い顔の中で三角に見開かれた目から火が出て怒っている。その下駄顔が前のめりに、俺に迫ってきた。

いつもとは全く違う別人だ。俺はその迫力に圧倒され仰け反る様に身を引いた。その俺に、圧し掛かる様に近づき身を寄せ胸を張ると、俺の眼前にぶつける様に顎を突き出し、こう言った。

「安田は真剣に努力する。その上、誰にも負けない身体、運動神経、そして剣道センスを持っている。全日本選手権制覇も夢でない。けど、一般の集団の中に入るとオドオド、逃げまどっている。でも、剣道で一対一になった時は、まったく逆。傲慢極まりなくに、自分の心のまま相手を弾き飛ばす。でも、それも弱い相手にだけ。才能で弾き飛ばせない剣道の理合の分かった強い相手にはあしらわれてしまう。安田の剣道は…。交剣知愛の剣道ができていない。弱い者を瞬殺し、本当に剣道の分かった奴には苦戦し、やがて相手に操られ、自分を失い、負ける。そこのところに気づけ!今日の試合結果を踏まえて!自分のこの部におけるポジションと自分の剣道について考えろ」

何を言われるかと思ったら、相良と同じことを言われていた…。

不覚にも涙が出た。先生は、部で孤立している俺のこと、真剣に剣道に取り組もうとしている俺のこと、全て分かってくれていた。

だから、今日、先生自身の過去の呪縛が解けた日に、自分の考え、部の体制を示す為にキャプテンの誘いに乗ったふりをして、この部内剣道試合を認めたのだ。

部員に俺の強さを認めさせ、俺の居場所を作り、剣道部のこれからの方針を、何をすべきかを…、具体的に示す為、おさぼり高校生の口車に乗せられ安きに流された振りをして…。

今日の試合は来年の体制構築の第一歩。本格始動のデモンストレーションだったに違いない。

今の言葉、様子と気迫。先生に対する俺の不信不満は払拭された。先生の本気が良く分かった。

「先生、よろしくお願いします」俺は、その場ですぐに正座し、先生の足元に頭を下げた。挨拶が終わり、顔を上げ、先生の目を見上げると、いつもの糸を引く目の奥が笑っていた。俺を取り巻く部員たちは、先生と俺の様子を、何が起こったのかと不思議そうに見ていた。

剣道部での俺の居場所が決まった。俺が「てっぺん」だ。そして、俺は、スーパーマン杉山の一番弟子だ。 何をするかは考えていないが、先ずは強くなることだけに専念することに決めた。

後ろから面(5)

 新人戦に向け、懸命な稽古を続けた。朝の起き抜けの三百本素振りに始まり、放課後はクラブ活動での稽古の後、杉山先生から面の基本打ち、小手面の連続技の基本打ちと個別特訓をいただいた。それに加え、先生の指導する夜の七時から始まる実業団の稽古会に参加した。

あれ以来、俺は充実している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この四日間、妖怪が学校に姿を現していない。教室の入口につながる俺の右席の主が居ら空である。風通しが良すぎて、スウスウと落ち着かない。

妖怪から罵倒されたことのあるクラスのお調子者が溜まったストレスを吐き出すように、妖怪のいない空席の椅子の背凭れを両手で掴むと前後にガタゴト揺すり、登校拒否第一号と騒ぎ立てた。

「糞野郎、死ね!」と俺は肚の中で呪った。

そんな俺の殺気に気づいたのか、相良が俺の背後から、顔を近づけ声をそっと耳元で囁いた。

「小泉は何かしている。彼女はおバカ猿が騒ぎ立てるようにストレスで潰れるなんてことは決してない。何か企てている。間違いない。お前、何か知っている?」

「いや、何も。」

俺は、相良と視線が合わないよう、前を向いてぽつりと答えた。ほかのクラスメートの注意をひかないために…

だが、相良のグループの連中は俺たちの様子に気付き、そっと聞き耳を立てていた。この連中はこの前の剣道の部内練習試合で、相良に負けるまでの俺の十三人抜きを知ってから、以前とは違ってどちらかと言うと友好的に接してくれるようになった。認められたのだろう。

とは言っても、俺には見えない“仲間という結界”の中から俺の事を見つめている事には変わりない。彼等のメンバーのうちの何人かは俺が少しでもその結界に触れるまで近づくと、それとない排除の警告を発する。見えない電気ショックの様に…。いや、彼等にはその意識はないのかもしれない。でも、排除されたと感じた俺は、その気まずさで、以前より大きく彼等との距離を取るようになる。

「彼女の欠席理由を知っている人がいれば、登校拒否なんて変な噂も立たないのだけれど…」

相良の隣に寄り添い立つ、弓道部の女子が目を曇らせて心配そうに俺に向かって呟いた。

妖怪は、特別な場合を除き、誰とも話をしない。俺も、彼女とは知らん顔だ。

妖怪は、クラスの皆にとって、居るだけの存在。いや、在るだけの存在なのだろう。彼女の中身は伏魔殿でさっぱりわからない。そんな存在だから、みんな勝手に想像する。クラス員の数だけ彼女に対する勝手な憶測がなされ、やがて噂されそれが、色んな発展をし、ある一つの発言、それがどんなに根拠がなく、いい加減なものであったにせよ、それを核として集約され共通する歪んだ妄想となって結実する。致し方ない。

今は妖怪が孤独に耐えられず心を病み、登校拒否になっているとの憶測に支持が集まっている。そしてそれを多くの級友は事実だと信じ込み始めていた。一人として、欠席の理由を知っている者はいないのに。

まして、成績抜群で、覆われた黒髪の下には美しい顔があるらしいという推測話は彼女を魅力的な謎の人物と位置づけ、クラス皆の想像力をさらにかきたてるには十分だった。

そんな状況で、彼女が登校し、知らぬ顔でひっそり席に座っていたら…、その謎はさらに深まり、皆の妄想は際限なく増長するだろう。

妖怪でなく、俺が休んだら、どうだ?

たぶん、相良が抜け目なくフォローしてくれるだろうが…。

まあ、話題になれば、の話だけど。

「ま、確率は低いが、夏風邪をひいているってことも考えられる…」相良が呟くと

「彼女に風邪は似合わない。でも、彼女が今更、登校拒否なんておかしいわ…。誰とも話さず、教室の隅に居るだけなんて、私には一日だって考えられない。」

不細工なギャル女が軽蔑に色を付けて一丁前に俺たちの話に嘴を入れてきた。カチンときた。此奴は嫌いだ。

「糞ギャル、黙れ」

思わず吐いた自分の怒鳴り声に俺自身が驚いた。どうしたのだ…、俺。

そんな俺を周りの視線が冷たく排除する。

俺は完全に異物だ。

ギャル女は俺の剣幕に、ひきつった低能面を両手で覆うと、「怖い」と呟き、肘を閉じ掌で顔を覆うと、仲間の後ろに隠れた。

相良は、何もなかったかのように、仲間に向かって別の話題を提供した。

俺は、一人ぼっちで、見事に、仲間の輪から押し出された。

仲間バリアーは不思議なくらいに強固なのだ?

訳が分からない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

思い切って、俺は妖怪の家に、お見舞いに行くことにした。家への道は覚えていたし、なにせ妖怪のお屋敷は広大だ。家の中に公道があっても不思議なく普通に見えるに違いない。学校から方向だけ間違えず真っ直ぐ東に行けば塀にぶつかる。その塀に沿って歩けば門があり、そこでインターホンを押せば誰か使用人が出てくるだろう。そう思って、勝手口までたどり着き、そこにあるボタンを押すと、玄さんが顔を出し、挨拶しながらほほ笑んだ。

「こんにちは、安田様、今日はどのような御用事で…」

「華さんが欠席されているものですから、どうしたものかと…」

「ご在宅です。お元気ですよ。ご案内しましょう。」

玄さんは俺を招き入れ母屋の上り口に向かう。

「安田様は立派な剣士になられますな…、楽しみです…」なんて、嬉しそうに笑う。何か知っているに違いない。

母屋の玄関に着くと

「旦那様、安田様のお坊ちゃんが見えられました」奥に向かって、しわがれているが、よく通る声で、嬉し気に、俺の来訪を告げる。

 安田様のお坊ちゃんって、俺の事?安田様って誰の事を?まさか、玄さん、母を知っているの?と変な考えが頭に浮かんだが、

間髪入れずに、上品な紳士の快活な声がして、

「こんにちは、やあ、君が安田君か、初めまして、大きいね」と、お屋敷の奥の方からして、長身の紳士がゆったりと、にこやかな笑顔で現れた。

「初めまして、安田です。」思わぬ人物の出現に圧倒され恐縮しオドオドと挨拶をすると、

「こちらこそ…、私、君のお母さんとは高校の同級生でした。君と華とが同級生というのも、何かの縁ですね。」親しげに言葉を繋いでくれる。

「はあ、そうですか。今日は、華さんが欠席されているので、どうされたかと思い…」ドギマギしている俺を、優しい眼差しで親しみ深く眺める。

綺麗にカットされた前髪の下に飛びっきり愛想のいい目が輝いている。

すらりと伸びた背筋をした爽やかな妖怪のお父さんは、家にいるというのに綺麗な薄青色の立派なスーツを着ていた。

この人がノーベル賞候補…、流石に家にいる時も凄い、と驚いていると…、

「私は今から、出かけるところだけど、ゆっくりしていって」と、右手をサッと出し、握手を求められた。

その勢に、何だか変なタイミングだと思いながら、俺は思わず右手を差し出し、握手した。手が大きい。柔らかいけど、力強さがあった。

出かけるところだから、スーツなのかと、納得するとともに、その初対面の接し方のスマートさに感心した。

これは俺の母に対面するときの妖怪の明るさと同じだ。そう思った。俺も母も二人とも気付くと小泉家の人達のペースに巻き込まれ、その流れですべて事が運ばれている…。

「華のいる離れは分かるかな?少しばかり入り組んでいるから、玄造さん、案内してあげて。」

その言葉に、玄さんはニヤリと右頬を上げて紳士から俺に目を移した。

その仕草に後押しされた俺は、反射的に、

「大丈夫です。この前、ご案内いただきましたから」と答えると、

「えっ、あの部屋に行ったの?」

「はい」

「応接室で、って聞いていたのだが…」

瞬時、目の中に戸惑いとも驚きとも判断しかねる影が走った。俺は何だか悪い事、いや、してはならない禁止事をしたように感じ、もじもじと視線を逸らせた。きっと俺が妖怪の旦那候補だとは聞いていないのだと思った。でも、そんな類の事に対し、何か感づいたみたいで、

「君は特別みたいだね。よろしく頼む。」

と、言葉を繋ぐと。今度は、何事もなかったかのように、左手で僕の右肩をポンと叩いた。

これが、年頃の娘の初対面の男友達にとる父親の態度なのだろうか?

お父さんとの会話を通じて、この家庭は賢くスマートだが、互いに距離を置いた家族であると思った。その距離は間に雇われ人の玄さんが入り込んで仲介役を務めるくらいの広い距離である。居心地は悪くはないが少し風通しが良すぎて寂しい距離のように思える、そんな気がした。

・・・・・・

長い廊下を通って、妖怪のいる離れにつき、何て挨拶したら…訪問の理由を何と切り出したら…なんて、複雑な思いで妖怪の部屋の真っ白いドアをノックした。

「誰ァレ?」中から驚いたようなそれでいて朝霞を通って来たような澄み切った声が返ってきた。

「安田です」

「どうぞ、入って」今度は女王然と落ち着いた声が響いた。

そぅっとドアを開け、開いた隙間から中の様子をのぞき込むようにして恐る恐る部屋に体を入れる。見ると、入口に背を向けた妖怪はパソコン椅子の背もたれを抱くように馬乗り座りをして、床を埋め尽くすプリントアウトされたデータを俯瞰していた。

「何か?ご用?」目はデータを見たまま、妖怪は背中越しにぶっきらぼうに言葉を吐いたので、思わず、

「君が休んでいるからどうしたのか?と、様子見に…」と本音を呟くと、

「優しい、そんなことしてくださったのは、あなたが初めて…、ありがとう、嬉しいわ。」データから目を離し、俺に振り向いた顔には前髪の覆いもなく、見たこともない笑顔がはじけていた。

妖怪の言葉、態度の自然な素直さに、強張っていた俺の緊張が解けた。

しかし、それも束の間、妖怪は直ぐに何時もの観察対象を前にした研究者の態度に戻り、

「ちょうどいい。グッドタイミング、安田君、そこに座って」と、すっくと立ちあがると、俺に正対し、拒否は許しませんと言う強引な態度動作で、壁際におかれた椅子を指さした。

驚いたことに、俺は、飼いならされた犬の様にそれに圧倒され何の疑問も感じずに言われるままに指示に従ってしまった。何の抵抗もなく椅子に自分が腰掛けている。改めて、そのことに気付き、俺は自分に呆れかえってホーッと息を吐いた。そして、口を開いた。今日来た理由、学校の状況を説明することで、妖怪のペースを乱そうと、

「小泉、君は登校拒否だって、騒いでいる奴もいる。何しているの?」

「馬鹿は何処にでもいるわ。その人は暇人ね」

「相良は、「小泉は、何かしている」と言っていたが…」

「流石、相良君。当たり!」

「何をしていた?」

「全日本選抜選手の合同練習に潜入していたの。太郎ちゃんが参加するって聞いたから、玄さんと一緒に」

ご機嫌な笑いを浮かべている。

何が嬉しいのか分からないが、髪を上げ、微笑んでいる彼女は兎に角、女神だ。妖怪じゃない。

その時、やっと気づいた。妖怪の私服の可憐さに…、

白いブラウスをきて、薄い青色のロングスカートをはいていた。上品で綺麗。ローマの休日でオードリヘップバーン扮する家出する皇女様、トラックの荷台に乗り込んで眠り込んだ。まさにそれだ。学校とは大違いだ。

椅子に座るよう命じられその通りにしている俺と反対に、妖怪は馬乗りに跨っていた椅子から離れ、敷き詰められたデータ、グラフの位置が変わらぬようバレリーナの様な抜き足で冷蔵庫に向かう。

「何か飲む、それとも、初物の梨が入ったから、それ食べる?」

「剝くのが面倒だから、コーラでいい」

「そんな、面倒じゃないよ。梨は嫌い?」

「いや、好きだ」

「じゃ、梨でいいわね」

全く俺のコーラの意見は無視して梨を選択した。自分の考えで全て行動する。俺の意見はほとんど受け入れてもらえない。でも、この頃、こんな状態も俺は心地良くなってきた。考える必要がなく楽でよい。

妖怪は、冷蔵庫から梨を出し、果物ナイフを右手に、かつら剥きをする日本料理人もびっくりの手際で、皮剥き、切割りして、緑の縁取りのある白い皿に盛り付けた。そして、最後に銀色のフォークを添えて、俺の前にあるキャスター付きのワゴンに供した。見事な手際である。梨も瑞々しく甘く旨かった。

「ところで、これは何のデータ?」

「あなたが弱い理由を明確にするための、全日本クラスの剣士のデータ。瞬発力、持久力のような基本的な運動能力から、勝負強さと言われる精神力まで、あなたが強くなるために必要と思われる各項目について、実地でビデオ取りし、それを解析しデータ化して整理していたの。一次のまとめが丁度今、終わったところ。」

「俺は弱から負ける。勝つためには、強い人と、もっと稽古するだけさ」

俺の考えを素直に言うと、

「データを無視し、そんなこと言っているから、いつまでたっても成長しない。安田君の敗戦は不思議なんてものじゃない。必然なの。」

「不思議と言えば、話の腰を折るようで申し訳ないが、さっき会った君のお父さんが不思議そうな顔をしていた」

「お父さんと話したの?」

「うん、さっき、握手をしてもらった」

「握手?何か言っていた?」

「俺がこの部屋に来たことがあると、知って少し考えこんでいたように…思う。」

「そして?」

「良く分からないけど、「君は特別らしい…」で、サッパリ何だか解からないが、「宜しくって」、肩を叩かれた。そんな事かな…」

「そんなことを…」

「年頃の娘の部屋を訪ねる同級生の男子に、握手をして、宜しく頼むと声を掛けるなんて、良く理解できない。それに俺はいったい何をよろしく頼まれたのか、さっぱりわかっていない。どうなの?」さっき感じた疑問を少し整理し、再度正直に妖怪にぶっつけた。

妖怪は、いつもの人を小馬鹿にしたような即答をせず、少し目を泳がせたかと思うと、目を細め考え込み、呟くように、

「両親は、腫物を触る様に私を扱うの。私みたいな内向的な人間が周りにいない人達だから。彼らのお仲間は、明朗快活な秀才ばかり。だから、深い意味はないの。良いお友達になってあげて…、そんなことだと思うわ…」

驚いた、やはりとも思った。お父さんの言葉態度から俺が感じた家族の距離感は外れてはいなかった。妖怪は、学校だけじゃなく親とも何だかギクシャクはともかく、埋めがたい距離があるみたいだ。

どうも、小泉家の人達は、俺の知っている秀才とか不良とかの世の中で分類されている範疇では整理できない人達だ。その中でも妖怪は特別みたいだ。俺の知る限り、妖怪が行動を共にしているのは玄さんだけだ。落ちこぼれの俺でも、少しは交流する人間はもう少しいる。相良という友人もいる。青山太郎という、尊敬する先輩もいる。それに、親とは普通に話す。母親なんて俺を虫けらのように扱う。そんな俺より、妖怪は一人ぼっちなのかもしれない。賢く美人だからこそなおさら闇が深いに違いない。

そんなことをぼんやり考えながら、妖怪と並んで、床のデータを眺めていると、塊になった各ページの左上に人名と表題が付いているのに気付いた。

青山太郎、宮崎正裕の束は分厚く積まれ、向こうの方には矢野博、馬場欣二、それより手前に、千葉仁、西川清起、足元では、高鍋、正代と、近年の全日本優勝者のデータが並べられている。奥が古く、手前が近年の年代別になっている。青山太郎のデータはダンベルで押さえつけている。

「ダンベルはデータと飛ぶのを押さえるための道具?」

「違うよ、データ配列の目印。太郎ちゃんから貰ったの。私には重過ぎて片手で持つのは大変だけど。」

「何で、太郎先輩なの?強い選手は大勢いる。ライバルは多いと思う。凝り固まりすぎじゃない?」

尊敬する青山先輩だが、太郎ちゃんと妖怪が呼ぶのを聞くと、何故だか無性に嫉妬心を覚えた。そして、それを感づかれた。

「何!イラついているの?特別な訳はないわ。太郎ちゃんは凄いから」

「人のことを言っても仕方がないだろう。俺は凄いと言われるように、技を磨く。他人を気にせず、自分を磨く。」嫉妬の発言を誤魔化そうと、俺は言葉を吐いた。

「それでは勝てない。私はすでに解明した。その考えは駄目。何度も同じことを言わせないで!」

妖怪は、眼に軽蔑の色をはっきり出して言い切った。

「じゃーどうすれば?」

「だから、私が調べているの!その対策を見つけるために…」

「何で青山先輩なの?」

「しつこいわね。じゃあ言ってあげる。剣を振る速度が速くないのに戦績が抜群なの。あなたとは正反対なの。」

白い頬に朱がさして、眼から軽蔑の色が消え代わりに怒りの炎が燃え盛かっていた。

恥ずかしい。無意識に、しつこい程、俺は青山先輩に嫉妬していた。

妖怪とは特別な関係でもないのに知らぬ間に…俺は俯いて黙り込んだ。

沈黙がいくらか続いた。

俺は我慢できずに、上目遣いに妖怪を見た。

なぜか、俺以上の奈落に落ち込んでいる妖怪がそこにいた。彼女は悪くない。申し訳ないと思った。

その時だ。俺の視線を感じたのか、妖怪は俺を見つめて、ぽつんと言った。

「私、太郎ちゃんが好きだった。でも、駄目なの、彼はあなたにはかなわない。ハッキリ見えるの。」

信じられない発言だ。どこを見ているのだろう。青山先輩を?俺を?

誰に話しているのだろう。俺に?何が何だか分からないが、罪の意識みたいなのがこの会話で生まれ、俺を包み込んだ。苦しかった。俺は思わず妖怪に背を向けて、自分の世界に逃げ込んだ。再び沈黙が部屋を支配した。どう取り繕えばよいか…、じっとしながら色々考えた。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

突然、後頭部に衝撃を感じた。竹刀を持った妖怪が笑っている。いつか見た景色だ。デジャウか?妖怪は振り向いた俺にこう言ってきた。

「安田君、クラスのことについて話そう。」

「そんなことに興味あるの?」

「ない。」

「じゃあ、なんでそんな話題?」

「私達に共通なのは、剣道と教室の二つしかない。」

「それしかないから仕方ない?」

「俺達らしくないけど、似合わないけど…」

「安田君の剣道と一緒。たまには、似合わないこともやってみたら、新しいことがわかるかも…。」

「じゃ、何か言えよ。」

「何を言えば分からない。どの視点で話題を構成していいのかもさえ…」

妖怪は珍しく言葉を選んでいる。そして、思い切ったように口を開いた。

「安田君は何で孤立しているの?」

「孤立?独りぼっちってこと?」

妖怪からは地球が爆発しても絶対に決して出ないであろう言葉「孤立」。それを聞いて、俺は困った。

「地学実習の班つくりの時、取り残されて安田一人が余りものになったじゃない。」

妖怪は、自分が孤立したり、余りものになったりしている認識が全くない口調だ。

「君もそうだろ。」

「そう思われるのも仕方ないわね。でも私は、たまには普通に級友と話したい気持ちになるわ。」

「そうすればいいよ、君は美人で秀才だから皆から歓迎されると思うよ。」

「安田君はどうなの?級友と一緒にお弁当を食べたり、話をしたりしたい?」

「いいや、苦痛さ。人の顔色を伺って話題作りするなんて。」

「同じね。私も。だから一人で居るだけ。私の話す内容、人を見下したり、いじめたり、中傷したりするものでないのに…、知らない間に悪口の様に誤解され、偉そうだ、傲慢だと私は嫌われ、皆が私を避けるようになる。いつもそう。だから近くに行かない。」

「なぜ?」

「良く分からない。でも、私といると楽しくないって言われることが今まで何度もあるの。」

「俺は君の事をそうは思わないけど…」

「だから、私、学校で、貴方とだけ付き合うの。あなた以外、正直に話せる人がいないの。」

「誰かに相談した?」

「うん。今までに何人かには…」

「なんて言われた?」

「あなたはお高いの、偉そうなのと、言われることが多かった。そんな事を言ったり、したり、していないと思うのだけれど…」

「他には?」

「太郎ちゃんには、華は何でも出来すぎるから、一緒にいる人が劣等感を持つ。君がいかに謙虚にしていても、いや、そうであればあるほど、事あるごとに、周りの人に劣等感を与えると」

「だから教室の隅で静かにしている。」

「そう。」

「それも、いい結果にならず、妖怪と呼ばれている」

「一そうのこと、皆を馬鹿にして私は優れた人間だから、あなた方とは話が合わない。くらい言ってみたら?」

「私はそんな馬鹿なことをする人間ではありません。」

「俺が小泉ならするよ。」

「今の言葉が君の弱点ね。分かった。だから剣道の勝負に負けるのです。」

俺のこの言葉を俺が吐いて、妖怪の耳に入った途端、妖怪は、目を輝かせ。しめたとばかりに、唐突に剣道の話を始めた。

「いい、安田君。君は剣道界の小泉華なの。いや、私みたいな小者じゃない。凄い怪物。」

「突然、何を言い出す」

「よく聞いて。ここが肝心。あなたは試合中にお前なぞは俺の敵じゃない。と相手を叩きのめしにいくの」

「そんなことしてない。」

「している。自分で気づいていてないだけ。いい。これ見て!」

こう言うと、振り向いて左手で部屋の隅のモニターを指さし、右手で手元のDVDのリモコンスイッチを入れた。

俺の試合風景がスパッと映し出された。続いて何試合も何試合も。

多くの試合、俺は、相手の喉元をスッと攻めてドカンと打突し、勝利を収めた。そして時々、攻め立てた所を上手くかわされて打ち込まれ、負けた。俺の敗戦パターンだ。

「何か気づいた?」

「俺の敗戦パターン。もっと打突技術を磨く必要がある。飛び込みが遅い」

「馬鹿ね、あなたが遅ければ日本で速い人なんかいないのに分かっていない。次はこれを見て…」

青山先輩の試合が映し出された。滑らかな動き、押しては引き、引いては押す漣のような立ち合いだ。そのリズムを打ち破ろうと相手が動いた瞬間、そこに出来たリズムの乱れ、隙を的確に打突して勝利を収める。力強さはないが、極めて自然で美しい。

「違いが分かる?」

「青山先輩流だね。柔らかい。」

「そんな、見方しかできないの!柔らかいことの中身を整理しなくちゃ。だからだめなの、あなたは。わかってもいないことを、あいまいな言葉で処理し、考えることなく放置している。愚人の典型ね」

何と言う、酷い物言いだ。小泉華が嫌われる理由がここにある。と指摘したかったが…

「あなたは、相手の動きや気持ちなんて何も考えてない。自分のリズムで、打ちたい時に力任せに技を出しているの。太郎ちゃんは違うの、相手の心と動きに立ち会って、相手を押し込んだり、引きだしたりする。その中で相手の心や体に隙ができたときを逃さずに、決め技を繰り出すの。分かる。あなたの剣道は、相手は誰でも押しつぶす。そんな傲慢な剣道なの。分かる?分かっていれば負けはしないわよね!」

こんな見方をしたことがなかった。確かに、俺は自分の打てる射程圏に入ったら、相手の状況をそんな考えず、自分勝手に竹刀で、足さばきで、崩しを掛けて、強引に打ち込むのが常だ。青山先輩の様に、相手を捌いていない。

「でも、俺と青山先輩は身体の大きさも、得意技も違う。持ち味の差じゃないかな?」

「まだ分からないの。持ち味なんて曖昧で抽象的でデータとしては一文の価値もない言葉を遣って…。太郎ちゃんは相手の心の隙をついているの。打突のタイミングを比較して。持ち味なんて言葉で誤魔化さずに。データ化するの。自分の動きの評価と相手の動きの評価。その両者の相互作用の評価。肉体的な視点からの物理的評価。心理的評価。そういう尺度を自分なりに作り、整理しなければ、自分のヤルベキこと、進むべき道は見えてこないわ」

俺は妖怪に教えられ、その理解のもとに、一挙動画面ごとに分析整理していった。

いくつもの場面を見比べて俺は青山先輩との違いを整理し確認した。

妖怪の言う通りだった。俺の場合は攻め込んで相手を脅し、自分が仕掛ける色んな動きで相手を攪乱し、強引に相手の構えをこじ開け、隙を作らせ、自分のここぞ!と思う頃合で体力を活かしドカンと打ち込む。相手は防御一方の場合がほとんどであることが分かった。

一方、青山先輩の場合は自ら攻めては、相手に攻めさせ、相互の攻防の中で、ふと出る相手が作った相手の隙を見逃さず、ほとんど一挙動でそこに打ち込んで仕留めていることが分かった。青山先輩の剣道には、俺のような力任せの無駄な動きがない。だから自分側の隙ができず、一本を取られない。

竹刀の剣先で話し合い、議論し、論破して打ち込む。若しくは議論に負けそうになった相手が力任せの暴力に訴えてきたら、かわして打ち込む。

凄い。俺に欠けているのは相手との話し合い、剣先での意見交換だ。

「分った。俺は自分一人で剣道をしている。相手は誰でも同じ。意見なんて聞かない。それに対し、青山先輩は気と技の交換がある」

「第一段階は終了ね。でもどんな稽古をするの?その技術を獲得するために…。私には、方策を見つける能力がないの…」

「俺もどんな稽古をすればよいのか分からない。兎に角、杉山先生に相談してみる。以前から、杉山先生からも同じような指摘を頂いていた。その時は、俺はさっぱり理解出来なかった。今、小泉のお陰で、分かりかけてきたと思う。ありがとう。」

「ところで、小泉はどうする…。俺の方針は立った。」

「とりあえず、私に劣等感を持たない人と友達になる。」

「そんな奴いるか?」

「いる。」

そう言って、スクリーンに向かっている俺の背後から肩越しに腕を回して頬をくっつけたかと思うとして俺の唇に唇を重ねてきた。頬っぺたは冷たかったが、唇は温かかった。

「いつもの竹刀よりはいいでしょう。」

唇を離し、あっけらかんと笑っている。

正体は分からない。俺のファーストキッスは奪われた。けど、幸せだった。

我に帰って深呼吸しようとして気づいた。下半身が弩緊張している。恥ずかしくて立ち上がれない無様な自分を見つけた。

後ろから面(6) 才能開花

互いに青眼に構えて、中心を取り合う。その際、強豪と言われる剣士の多くは、剣先を俺の剣先に巻き付け、払い、叩き、押しむ等、色んな手法で、俺の様子をそして気持ちを探りに来る。そしてそれに反応する俺の構えの変化、足運び等の様子から、更にはったり、脅したり、わざと隙を作って打ってこいと誘ったりの二次攻撃を仕掛けてくる。今までの俺はその誘いに乗り彼等の要求通りに料理されていた。が、これからの俺は違う。試合における交剣知愛を理解した今、俺は相手の揺さぶりを冷静に受け止め、じっと耳を澄ませて聞き入る様に相手の心を感じ取ることに徹底した。具体的には半分だけ正中線を自分に頂けるよう竹刀操作し、その状態で、相手竹刀の右鎬に触れる俺の左鎬で相手剣先の圧力の変化を感じとる様にする。

例えば、相手が打って出ようとする瞬間、剣先に圧力の変化として相手の心理、狙いが現れる。俺はそれを、感じ取り、瞬時に相手の意図を読み解き、それに基づき、相手動きを先取りし、相手が動き始めるわずかに隙のできる刹那を先制して迎え打つ。中心の取り合いをしている、つまり、竹刀の左鎬で対峙している限り、真ん中の半分は俺の領域である。俺は相打ちでは誰にも負けない。それができるように日頃の稽古を積んでいる。相手が仕掛けようと体に溜を作った瞬間、俺の竹刀を相手の竹刀の中心に押し込み、その刹那に制圧した時空に体ごと踏み込み飛び込んでゆく。そうすれば、体が大きく素早い俺は、相手を上から抑え込む優位な体勢で相手を死に体としたまま的確に打突できる。」

妖怪との青山太郎研究で気づいたことを杉山先生に話した。それを聞いた先生から、我が意を射たりと、堰を切ったように言葉が流れ出した。

発達したごつごつした顔面の筋肉の盛り上がりの中で糸の様に細い生まれつきの目をこれでもかと力んでまん丸に開きながら…。まん丸目玉の中を覗き見ると、炎がゆらゆら燃えていた。その眼力で射すくめた俺を、先生は決して逃さなかった。気迫が大きな体からあふれ出していた。それは俺を羽交い絞めにした。その状態で、熱い胸の中にある火の塊を俺にぶっつけ、俺の気付の内容をスーパーマン流に補足強化し、その根拠となる物理的説明、心理的解釈を加え、きめ細かく説明した。

この前までの、先生の指導態度は?何だっただろう、全くの別人だ。具体例として警察、実業団の先生や選手の実名を挙げ、試合中に、彼らのおかれた状況、場面を明確にして中心取りの具体例を説明する。秘中の秘であり、公にはされていない有名な先生方や選手の見習うべきところ、その逆の悪癖等々を指摘し開示した。人の観察、技の解析、全ての面において先生の整理の的確さに舌を巻いた。相手と状況を設定すれば、今、俺がその相手に打ち勝つために何が必要か!はっきりと頭の中に取り込むことができた。悩んでいたこと、決めかねていたタイミング取り、多くの問題が解決した。

俺は、先生の話を聞いて、今の今まで、試合の状況、相手の特徴を考えずに、最適の攻めの答えを求めていた自分の愚かさに気付いた。今までの俺では、答えが出ないはずだ。俺が負けるのは当然だ。それが分かった。

先生は不思議なほど、俺の問題点を理解し、分析し、対策をたて、何をすべきかを整理されていた…、微に入り、細に入り、俺の過去の戦い方をつぶさに覚えていた。そしてそれを基に、理路整然と俺の敗戦理由とこれから俺が勝つために何をなすべきかを教えてくださった。

早速、一つ一つ、部活中に部員相手に試してみた。効果は覿面であった。一通りご指導事項を実施確認し、欠点修正を終えた今、部活動において、先生以外の部員は相手にならなくなった。部内では俺の正中線をとれる部員は誰もいない。皆、俺を打とうと、打突を試みるが、その瞬間、俺は竹刀から伝わる情報を感じ取り、相手の特徴を踏まえて、尽く出鼻を打突した。

試合形式の地稽古なのにまるで相手棒立ちの基本打ち稽古。学校での稽古はそんな状態になった。一週間もすると、先生は俺の一方的な打ち込みを見かねて、実業団とは別に、更に大学、警察の稽古会に俺を連れ歩くようになった。

他の部員からは、依怙贔屓だとの苦情も出たが、先生はそれに全く耳を貸さなかった。先生の様子が変化に反応するかのように、部員の一部は前に増して、俺によそよそしくなった。その態度は先生にも同様の様に思われた…。でも、やる気を出した先生を喜ぶ部員も居たし、俺が出稽古に行くことで、俺にボコボコ打たれなくて良かったと喜ぶ部員も現れた。

・・・・・・

授業が終わり、部室で着替えていると、相良が声を掛けてきた。

「武志、やっと、目覚めたみたいだね。」

「何が?」

「剣道の本質さ。それに杉山先生を本気にさせたね。先生は今までの様に、俺たちに媚を売らなくなった、先輩たちの迎合行為も無視している。」

「でも、部員からは先生への不満の声が、そして俺への風当たりも以前より強くなってきている」

「そうだな、キャプテンや取り巻き連中はやっかんでいる。他の連中はそうでもない。いや、先生の変化を歓迎している真面目な部員も居るよ」

「彼らは、嫉妬するほど剣道に打ち込んでいるように見えない。何を思っているのか…?」

「お前の所為さ」

「俺は強くなりたいから一生懸命にやっている。それだけだ」

「周りは違うだろ。杉山先生、小泉。皆、お前に夢中になっている。そして、残りの部員は取り残されている」

「それって、俺の所為なのか?」

「彼らの感覚的視点では、すべて安田の所為だ。お前が掻き回し、彼らの生活に波風を立てている。依怙贔屓として…。」

「俺が?何で?何時もの事だけど…、俺は他人を押しのけない、出しゃばってはいない、隠れるように、隅にいる。」

「それは、小泉が教室の隅で居るのと同じだよ。二人とも普通じゃない。凄すぎる。皆、とても敵わない」

「俺が小泉と一緒?何回聞いても俺には分からない」

「いや、お前はそれ以上だろう。小泉は静かにしていれば目立たないが、お前は試合があれば結果が新聞に載り、公に出る」

「ン、俺には実績が何もない。優勝もしていないのに…」

「時間の問題さ、お前に勝てる高校生なんかいない。お前は自分の真価が分かっていない」

「高校生になってから、部の方針で地区大会にも出場していないのに、そんな事を思えるわけがない。自信なんかないさ」

「すぐに分かる。そして、その時は小泉の気持ちも分かるようになる」

そこまで行った時、上級生が入って来た。

相良は、それを察知すると、何もなかったかのように素知らぬ態度で着替えを始めた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

高校選抜予選を兼ねた県下新人戦が近づいてきた。俺は、杉山先生に連れられ多くの道場に出稽古に行き、相手との剣先の鬩ぎ合い、つまり心の交流と駆け引きの修行に没頭した。そして、自分が日に日に強くなっているのを感じた。

杉山先生との稽古の内容も変わってきた。以前は剣先であしらわれ、振り回されて、打ち据えられてばかりいた。しかし、今は、それも改善し、時には先生を引き出すことに成功し、打ち込む事もできるようになってきた。

この前までは好敵手だった相良は、既に相手にならない。学校の剣道部では、俺は一人突き抜けた存在になったのは明らかだ。だから俺は以前に増して一人ぼっち。相良を除いて、誰からも声を掛けられない。

つまり、俺は面の基本打ちをするために学校に通うようになっていた。部員は俺の人間型面打ち台のような存在だ。俺にはメリットはあるが、彼らにしてきたら俺は彼らの頭を思いっきり叩きに来る迷惑な存在だったに違いない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

目標が定まり、活動計画ができ、着実にこなすごとに、成果も上がってきた。打ち負けない自信らしきものも生まれてきた。それを自覚する。

目標以外の煩雑事は気にならなくなった。

自分の存在に悩みオドオドしていたのは昔のことだ。授業時間は完全に貴重な休養場所となっていた。稽古に疲れ、以前に増して熟睡している。

英語の気障教師に脅され、緊張に固まっているクラスメートを意識することもなくなってきた。

いま、頭の中にあるのは、「地区大会で優勝する」それだけだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

杉山先生の紹介で、県警の剣道特別練習生の宿舎でお世話になることになった。警察の宿舎に住み込みの稽古が始まった。

普通、特錬の宿舎は相部屋だが、俺は個室だ。

酒、タバコが駄目な高校生なので特別扱いだ。理由は違うが、ここでも俺は孤立している。でも、納得できる。劣っているからだ。剣道も、酒も、たばこも…。成長すれば特錬生と肩を並べられる。稽古をし、成長すればいいので、やることは明快だ。有難いことだ。 しっかりと努力すれば認められるのだから。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

特錬にお世話になって三日目、稽古の終わり道場の床の水拭きをしていると、杉山先生が訪ねてきた。

先生の訪問に気づいた特錬生達が挨拶のために玄関に整列している。ここでは、先生はVIP扱いだ。

先生は特錬生に愛想よく会釈し、そして、掃除している俺を見つけると、右手を挙げた。来いって合図だ。急いで駆け寄ると、

「安田、稽古見せてもらった。お世話いただいていることに感謝しろよ。」と、言いながら、俺の頭に右手を掛けると頭を押し下げ、俺たち二人を取り囲んでいる特錬生に向かって、頭を下げさせ、

「お世話になっています。今後ともよろしくお願いします。」の御礼の言葉を促した。

それから、俺の頭を掴んだまま、先生は誰もいない着替え室に俺を連れてゆくと、

「どうだ、ここの稽古は…、本音を言え」と、切り出した。

「少し、見えてきました」

「相手の起こりを感じ取れるか?攻め急がずに我慢できるか?」

「皆さん、強い。力も強いし、スピードもある。でも、何回か、稽古を付けていただき、個々の攻撃のパターンを理解してからは、対応できるようになってきました。」

「それは収穫だ。相良を相手にお前が苦戦した理由もわかるかね」

「完全に理解したかどうかは不安ですが、得意技を、自分勝手に打ち込んでも駄目なことが分かってきました。相手の状況を考え、相手が何をして来るかを洞察することの大切さが見えてきた気がします」

「そうか、そこのポイントが実戦で見えてきたか。じゃ、今夜、小泉を訪ねろ。面白いものが見られると思う。」

「何ですか?」

「お前のライバルと目される選手の情報さ。良く調べているし、データ整理の方法も画期的だ。驚いた。俺とは視点が違う。科学の目がある」

「何で、そんな情報があるのですか?」

「さあな、小泉家の力とでも言っておこう。小泉には俺から連絡しておく。午後八時だ。いいな」

杉山先生はそれだけ指示し、これから特錬師範の飯塚範士と打ち合わせだと言って,背を向け、出ていった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

夕食後、一日で一番リラックスし、和やかな若者会話が弾む警察寮を抜け出し、妖怪の家を訪ねた。

八時の約束に五分ほど早く、小泉御殿の大門に付くと、そこには玄さんが門扉の陰の暗がりの中で待っていてくれた。門横のくぐり戸を入るとそこには鬱蒼とした大木に囲まれた庭園があり庭園灯が輝いていた。その中を玄さんは俺の足元を確認する懐中電灯を手に、妖怪のいる茶室まで案内してくれた。何故だか、いつもとは違って、いや、母屋にいる人を気遣ってだろう、屋敷の中を通らず、庭を突き切る経路を取った。

道中の夜目に映るものは、池あり、竹藪がありと、日本庭園の要素が順に整然と綺麗にまとめあげられている。昼間なら、木漏れ日の中に苔むした石仏が顔を出しているのが見えるかもしれない。この通路はお茶室に向かうためのお茶道とでも言うようなものであることが感じ取れた。

玄さんの案内は茶室の正面玄関までだった。

「お嬢様、安田様がお見えになりました。」玄さんが離れに向かって声を掛けると、

「入って頂いて」といつもとは違うコロコロとご機嫌な妖怪の声が返って来た。

俺は、玄さんが開けてくれた木戸を一歩踏み込み、そのまま進み、突き当りのドアを開けて目を上げた。

驚いた、そこは突然のジャングルだった。何が起こった?と思う間もなく、木陰から糸引くよだれで光る牙を剝いた虎が大口を開けて飛び掛かって来た。鋭い爪の奥の肉球が俺に向かって振り降ろされ俺の肩に振り下ろされる。思わず、俺は右のこぶしを突き上げ、虎の肉球を打ち払うと、オーバヘッドキックの要領でトラの顎めがけ左足を蹴り上げた。

しかし、その右拳と左足は空を切り。俺が背中からドサリと仰向けに床に落ちた。

瞬間、明かりが点いた。眩しさの中に俺を覗き込む妖怪の白い笑顔が笑っていた。

「びっくりさせてごめんなさい。我家特製の3D映写機の迫力はどう?」

妖怪の背後を見ると100インチなんて世間サイズで表現できないドーム状液晶画面が俺に覆いかぶさるように天井と壁いっぱいに広がっていた。

妖怪は呆然としている俺を前に、白い頬をピンクに染めて、

「やはり、あなたは特別。シベリアタイガーに襲われて突きと蹴りを入れたのは武志さん、あなただけ、凄いわ、私、嬉しい」とすらりと白い腕を突き上げ小躍りしている。

その足元で、驚きで腰が抜けになった俺は、上体を起こし、騎座し、首を傾けるのが精一杯。今、何が起こっているのかを理解できず混乱の渦中にいた。そんな俺を無視して、妖怪は

「尺度誤差0.1パーセント以下、等身大で換算するとその誤差は1mm未満で映写できる画面です。小泉家オリジナルよ。」と、映像装置の性能を自慢げに説明した。

それが終わると、妖怪は足元で蹲る俺の右手を両手で取り引っ張り上げ、立ち上がらせ、部屋中央に置かれた椅子に俺を案内した。

「ここに座って」といつものように高圧的に指示をする。

今の俺は、最早、飼いならされた犬。言われるまま席に着く。

「これから、このシステムで県下有力五選手の映像を見てもらい、その後、あなたに彼等とバーチャル試合をしていただきます。いいわね。」

好いも悪いもない。何時ものことだ。妖怪ペースで勝手にどんどん進められてしまう。

俺は、黙って従ってしまう。

目の前のスクリーンには、この地区の選手なら皆知っている数名の実力者の試合風景が次から次にダイジェストで映し出された。

皆、俺の好敵手。いや、何人かとは今まで何度か試合して、ほとんどの場合、負けていた。

きっと、俺の負けた試合が映されるのだろう。そして、貴方の欠点は…と俺の欠点を箇条書き的にこれ見よがしに見せられ言い聞かされるのであろう。

参った。その為にこんな大装置を用意し、俺を呼びつけたのか…、そう思ったときだ。

「では、対戦してもらいます。」と、妖怪が面妖なことを言い出した。

「何を言っているんだ?そんなことできないよ。画面相手に…」

「できます。そこにある竹刀に似せたスティックを持って。それがリモコンになっているの。それを持って、そこ、その丸で囲んだところで画面に向かって構えて!」

言われるままに渡された眼鏡形のゴーグルを装着し、竹刀に似せたリモコンを両手に画面に向かって構えた。

その瞬間、地区優勝候補の筆頭である土山高校の高橋選手が試合場の向こうに現れ、悠然と試合場に歩を進め、俺に向かって堂々と一礼した。

俺も思わず、それに応えてリモコンを左手に持ち替え、下げ刀し、一礼。九歩の間合いから歩を進めるようにその場で足踏みをして、高橋選手に対し蹲踞した。

主審が両者の呼吸をはかり「始め」と号令を発する。

その声とともに、高橋選手は青眼に構え、俺の気迫を受け止め、そしてその構えから俺の竹刀をサッと押さえ、空気を割いて俺の水月を突き抜く勢いで攻めてきた。俺はその気迫を撃ち払うように、裏凌を使って高橋選手の繰り出す突きをかわし、面打ちを繰り出し、相手の頭上に竹刀を振り下ろしながら、電光石火、打ち抜けて、相手の背後に回り込んだ。振り向き、再び対峙する。

一足一刀の間合い、一歩踏み込めば、相手を殺傷すべく切りつけられるが、相手に一歩退かれると俺の竹刀は空を切り、その出来た隙を攻め込まれる。

そんな間合いで、息もつかさぬ勢いで、高橋選手は気迫、剣、踏み込みと一撃を加えるために、俺を攻めたててきた。物凄い圧力だ。強い、恐ろしい。次は何を仕掛けてくるのか?その時、俺は何をすべきなのか?打って出るべきか?迷う。弱気の虫が顔を出す。逃げたい。守りたい。

でも、我慢した。特錬の選手に比べたら、高橋選手はまだ子供。俺は特錬の剣が見えるようになった。自信を持て。そう自分に言い聞かせ。剣先で相手の喉元を威嚇し相手の剣を押さえ。動けば打つぞ!の姿勢で丹田に力を込め相手の心を剣先で聞いた。

「糞生意気な、二年坊が」の声が聞こえ、それと同時に、相手の剣先が俺の面に向かって振り出されてくるのが感じ取れた。瞬間、俺の体は高橋選手に向かって弾け飛び、俺の竹刀は相手面を割っていた。見回すと、審判旗三本が俺に上がり、面一本の宣告を受けた。途端に視野に霧がかかった。画像技術での試合は終わったのだろう。俺は、フーと腹から息を吐いてゴーグルを外した。

周りを見回すと妖怪が腕組みして胸を反らし、満足げに笑っていた。

「凄いね、どうなっているの?」肩で息をしながら問うと、

「高橋選手の試合を分析し、そのデータを基に3D合成したバーチャル高橋を作ったの。ほかの選手もあるし、希望の選手がいれば言って、その人のデータ取りをすれば合成できる。」

「すごいね。こんなの他にないよ。ゲームセンターの3Dの比じゃない」

「世の中にないからいいの。知られたら駄目なの。カメラも映写機もみんな小泉家オリジナルよ」

「秘せば花なり、秘せずば花ならず。世阿弥の花伝書の言葉。これは秘密よ」

「では、残りの人とも、試合して…」

続いて、バーチャル試合をさせられた。結果は全勝。皆、個性があり、対応に苦労したが、剣先で相手の心を読み、それに対応すると、何とか対応でき勝ち抜くことができた。

しかし、疲れた。床に正座し、両手を床に突き、土下座姿勢で肩で息をしている俺を見下ろしながら、妖怪は言った。

「先ずは、合格ね。欠点は解消されつつある。今度の地区大会、試合を見に行くわ」

「来るの?」

「勿論」

そう言ったかと思うと、バーチャル試合で疲れ切り、座り込んだ状態で妖怪を見上げる俺に、妖怪の白く小さな顔が、突然に近づき、透き通った目がキラリと光ったかと思うと、彼女の唇は俺の口許を覆った。

その速さは、高橋選手をはるかに凌駕していた。でも、俺の本能はそれ以上、特錬クラスの速度で起立した。

妖怪に完全支配されている。情けないが「もう逃げられない!観念しろ」の声が脳髄からする。その声に反論する事も忘れ、俺は説明できない妙な幸福感の中で、本能の暴走が収まるまでこのままでいようと…、そんな事だけを考えていた。

    (7)地区予選

地区予選が始まった。

先ずは団体戦だ。

一回戦の相手は隣町の進学校。幼少期から剣道を始めた少年剣道の経験者が多い。学校としての強さは、俺と相良を除けば、うちの学校と同じレベル。いや、少し相手校の方が上だ。でも、うちの剣道部は俺が警察寮で特訓を受けている期間、団体戦勝利の鉄則「団体戦は先行逃げ切り」をスーパーマンから徹底練習されていたそうだ。その戦略はこうだ。先ず先鋒相良が勝ち一勝をものにする。先行だ。続く次鋒、中堅、副将は徹底した守りに徹し引き分け。逃げを打って一勝優位のまま大将の俺に引き継ぐ。簡単に言えば相良以外のメンバーは、引き分けの技術を徹底的に叩き込まれたのだ。たとえ、相良が一勝できなくて全員引き分けなら、俺が勝てば良いのだ。この作戦は大当たりで、全員が作戦通りに戦い、俺たちは一回戦を突破した。

2回戦、3回戦の対戦も、同様の展開で、相良が勝利し、その虎の子を次鋒、中堅、副将と守り抜き大将戦に臨む。相手の大将は俺を倒さないと勝利はない。守ることなく積極的、強硬に攻めてくる。そこを返り討ちに倒す。俺も戦いやすい。

剣道は、逆にリードされ、相手に守りに入られると、よほどの力の差がないと一本が取れない競技だ。従って、相手に無理攻めをさせ、自ら墓穴を掘らせる状況で戦えれば実力以上に勝利の確率が上がる。これが弱小チームに必要な戦略だ。スーパーマンの作戦は的中し、俺たちはベスト4に進出した。我が校は創立以来の躍進だ。

準決勝の相手は昨年の地区優勝校である火流高校。流石に強い。相良は一本取るのが精一杯の僅差の勝利。続く次鋒のキャプテンは何とか引き分けたが、圧倒的実力差のある、中堅は二対ゼロの二本負け、副将は一本負けと連敗し、一勝二敗一引き分けと逆転された。この状況で大将の俺に回って来た。

この試合、俺が二本とって勝利すれば決勝進出だが、相手に一本でも取られたら、俺がこの勝負に勝利しても団体戦の敗戦は決定する。(二勝二敗一引き分けだが、有効打突本数が相手3本、我々1本の為、相手の勝ち)。責任重大だ。その気持ちを腹に収め、試合場に歩を進めた。

審判の「始め」の声に青眼の構えで剣先を合わせる。俺は、一本欲しいと、グッと押す。それに対し相手大将はサッと躱しフッと押し戻してくる。流石に火流の大黒柱、大将だ。隙がない。それでも俺は勝たなければならない。俺はさらに間合いを詰めに行く。でも、相手は剣先での戦いを続けながら、体をサッと遠間に逃がす。威嚇に対しては抵抗するが、本気で打ち合う気がない証拠だ。

「俺は逃げる、追っかけて来な」と相手大将の竹刀が俺をあざ笑って揺れている。

ではユックリではなく、俺が素早く間合いを詰めに行くと、相手は逃げるどころか、逆に俺の懐に飛び込んできて鍔迫り合いに持ち込んでしまう。相手大将は膠着状態を多く作ることで、時間稼ぎをして引き分けを狙っているのは明らかだ。まさに百戦錬磨の試合巧者だ。

相手は、引き分けで十分。いや、最悪でも一本負けでも団体戦勝利を計算している。こんな相手に苛ついて強引な攻めをすると飛んで火にいる夏の虫と、逆にやられる。何せ、一本でも取られたら俺たちは負けなのだ。相手は、俺をあせらせて、俺を慌てさせ、俺自ら隙を作らせ、自爆するところの一本を狙っているのだ。俺は今までの試合と逆の立場で戦っている。

そうこうするうち、試合時間四分が経過し、俺は、その状況を打破できないまま、引き分けた。失敗だ。何もできなかった。でも、今の俺の実力ではどうしようもなかった。剣道名門校のエースである大将が守りに入ったら、今の俺の技では通用しない。一本も取れない。

準決勝敗戦、でもベスト4.うちのチーム力からすると上出来だ。相良と俺、それにもう一人勝てる選手がいればと、来年の事を考えながら、退場した。

相良が「ご苦労さん」と声を掛けてきた。俺は手を上げ笑顔を返した。この成績に、みんな喜んでいるだろうと思ったのだが…。他のメンバーは試合を終えてホッとしている俺に背を向けて誰も俺に目を合わせようとせず白けていた。応援団席の他の部員も同様の態度だ。

何か不愉快なことでもあったの?もしかして俺が原因?そんな疑問にとらわれていると、キャプテンが俺の肩口に身を寄せると怒りを抑えた口調で呟いた。

「何で、手を抜く。自分だけ目立ちたいのか?」

何のこと?何を言っているのだろう?

そんな思いを胸に続いて始まる個人戦に向け、俺は次の試合場に急いだ。

・・・・・

個人戦の試合場ではマネージャ役の三年生が先回りして、俺を待ち受けていた。彼も俺に対して爆発寸前の剣幕を必死で抑え込んでいる風情で

「ここに座れ」と自分の前の床を指さした。

それに従い正座すると、彼は俺の前に座り、俺の目を見据えて言った。

「安田!何で打たない!技を出さない。四分間、何をしていた。」

「間合いが上手く取れずに、打ち込む機会を見つけることができませんでした。」

「二本取らなければ負けとなるのに、そのいい草は何だ」

「一本でも取られたら終わりです。だから、しっかりと攻めを効かせ打突する必要があったのです。残念ですが、有効打突を奪えませんでした。」

「挑戦もせずに、できなかった?お前は大将の役割を理解しているのか!」

「仰ることは十分に分っています。でも、できませんでした、打てませんでした…、それができる人がいるのならその人を大将にしてください」

「ついに本音が出たな。お前は凄いよ。分かったよ。」

こう言い捨てて、マネージャは仲間のところに消えて行った。

俺が一本も取られずに、二本勝ちを続けベスト4まで行った。なのに、最後の試合を引き分けたからと、俺を悪者にする。そんな無茶な。負けた選手は悪くないのか?

俺が一番稽古している…と思う。他の部員は、苦しい稽古をしているのは自分たちだけと思っているのだろうか?勝手すぎる。

マネージャの一方的で勝手な言い分に憮然とし、おれはいつもの孤独の淵に立っていた。

・・・・・・・・・・・・・

孤独の淵で、怒りに震え、座っていたら、突然目から火が出た。

後ろから頭部を竹刀でしこたま打ち据えられた。面を付けていないのに。

振り向くと、妖怪が笑っていた。

「怒らない、怒らない。」

「人の頭を叩いておいて、その言い草はないだろう」

「あなたの怒りの先は、私じゃなくって他の人でしょ。理不尽は世の常。マネージャのアカゲザルの言う正義はこの世の中に五万とあるわ」

「正義?何が正義だ!自分たちが弱いのが悪い!俺の所為じゃないのに、俺を悪者にする。身勝手すぎる」

「正義は彼らの心の中にあるの。自分たちは努力した。だから、その努力に見合う報酬が得られるのは当然だ。なのに、安田は引き分けた。予定の報酬が得られない。元凶は安田だ。勝てない安田は悪だ。それが彼等の正義なの。私達とは別の正義の世界が…。」

「でも、人に頼っておいて、あのセリフ…」

「何を言っても無駄。彼らは「自分たちが精一杯のことを成し遂げた。其れに応えるのが周りの人間の責任である」と、自分達の正義だけを信じているの。全体における自己の才能や役割まで含めて冷静に評価できないの。でも、そうでもしないと自分が苦しくって、自分の未来が見えなくって、これ以上生きてゆけないのよ。そう思っている人達の数の方が私達の様に考える人に比べて圧倒的に多いの。よく考えて、一番には一人しかなれないのよ…。彼等を含め、ほとんどの人が一番になれないの…。それが現実なの」

「納得できない」と俯くと、

「そんな事より、次を考えて。個人戦」と妖怪が俺を叱咤し、背中をドンと叩く。

「どう切り替えていいのか?分からない。俺は一生懸命戦って、負けてもいない。勝利に貢献している。それでも俺は悪者扱いされる」と、ぼやくと、

「引きずらない。個人戦は、団体戦みたいなことはないわ。貴方の足を引っ張る自分の正義を主張する弱虫はいないの。あなただけの世界よ。頭を切り替えて」

「でも、おれは勝たねばならないことに変わりはない」

「当り前じゃない。何言っているの。馬鹿ね!混乱していて、個人戦では勝てる条件が違うことを忘れているの?それとも、落ちこぼれ連盟の代表みたいなマネージャーに好きなことを言われ、団体戦ボケになったの?個人戦は自分さえ勝てばいいの。団体戦の様に人の負けを補う苦労はないの。単に勝てば良いの!」と言って、妖怪は胴の隙間から手を入れると俺のわき腹を思いっきりつねった。

「そりゃそうだ」痛みを感じながら、頷いた。

「分った!自分を信じ、相手の心を知り、確実に勝って。同じ剣道をしながら、剣道の本当の深みを全く理解できず、秀でた人への嫉妬に翻弄されているクズのことは忘れ、安田武志として戦って…良いわね。結果に嘘はないわ」

「おお!そうするよ」

妖怪と話をすると不思議に心が落ち着く。

苛立ちを何とか収めよう、個人戦に集中しよう。視線を床に移し、黙想に入ろうとした瞬間、照明の光を防ぐ野球帽のつばの黒い影が近づいた。

俺は、素早くキスされ、頭の中が真っ白の本能モードに放り込まれた。

こんな時も、俺の本能は妖怪によりコントロールされてしまった。お陰で、頭に張り付いていた煩悩は吹き飛んだ。

・・・・・・・・・・・

個人戦は各校三名の出場枠があり、全体で百名足らずの出場者となる。俺は戦績がないので逆シードされ、トーナメント表では第三シードの選手の隣り下に他校の選手と名前が並べて記されていた。つまり、第三コートの第一試合を勝ち抜くと、第3シードの選手と戦うことになる。

第一試合、相手は策士で有名なコーチのいる大学付属高校の三年生選手。

「始め」の声で立ち上がると、相手選手は迷うことなく右半身の構えをとって来た。右足は前へ突き出し。左足は膝を曲げ、左手は左胸の下、右手は右胸の前と、まるで竹やり部隊の兵士の格好だ。さっきの団体戦での俺の戦いを見て作戦を立ててきたのだろう。

軽率に面を打ってゆくと相手の思うつぼだ。と言って、小手を打ちに行くと、曲げた左膝を伸ばして、右面に飛んでくるのは特錬の稽古で経験している。何ともやりづらい変則派だ。俺の様に面を中心に攻める本格派タイプの対応策を的確に行っていた。

でも、以前の俺でない。自分を信じ、迷いなく正しく構え、剣先で攻め、相手の中心を上から乗り、押しつぶすように制す。相手はその攻めに対して少し剣先を開き面に対する防御姿勢を取るとともに、遠間からの打突に対して小手を打つ勢いを見せて守りに入る。相手の緊張が伝わってくる。少し強く押すと、普通以上に突き出した右手右肩に緊張が走り、ムキになって押し返してきた。俺の右小手を打突したいとの気持ちが竹刀を押し返す圧力でビンビン伝わってくる。俺は相手の押し返す力を柔らかく受け止め、そのエネルギーを左腰で吸収し蓄え、それを利用し半歩前に進み、攻めこんだ。その動きに誘われ、相手は俺が面に飛ぶと山を掛け、遮二無二、出端小手を打ち込んできた。動きがしっかり見えた。俺はすかさず相手竹刀を打ち落とし、返す竹刀で面を打った。審判の旗が三本、サッと上がった。

二本目。相手は一本取り返さねば負けてしまう、つまり追う立場になっている。正当な青眼の構えで攻めの剣道に変えてきた。これは彼の本来の構えであろう。流石、私立有名校の代表選手。その構えから多彩な技を出してくる。小手を攻めたかと思うと、面に色を見せ、隙を見せ、打ってこい!攻めて来い!と誘ってくる。その誘惑にのり、押してゆくと、すかさず、すり上げ技を出す体勢をとる。さながら技のデパートだ。

でも、焦る必要はない。一本先取している。自分に言い聞かせ、じっくりと中心を攻め、剣先を押し込み打つぞ!右足を踏み出し撃つぞ!と威圧した。俺の攻め圧力に相手はじりじりと下がった。俺は緩めずに攻め続け、相手を試合場のライン際まで追い詰め、更に攻め圧力を加え続けた。

窮鼠猫を噛む。その言葉通り、場外際まで追い詰められた相手は我慢できずに俺の面を目がけて飛び込んできた。俺はそれを大上段から切り落とし、相手の竹刀を弾き飛ばし、真正面をドカンと打ち据えた。観客席からため息が漏れた。一回戦を突破した7。

・・・・・・・・・

初戦の勝利にほっとして、観客席を眺めると、妖怪と視線が合った。妖怪は、右手の親指と人差し指でOKサインを作り、それから、その指を伸ばし、第二会場を指さした。

見ると、そこには、相良が蹲踞して、試合開始の「始め」を待っていた。

相良の一回戦が始まった。彼の剣風は相手の攻撃をのらりくらりと躱しながら、勢い込んで攻め込みすぎたときに出来る相手の隙をぴしゃりと叩く典型的なコンニャク剣道だ。

試合最初の二分間、相良はバシバシ打たれ相手に攻め続けられる。見ている我々はハラハラし通しだ。それでも、何とか相手の攻めを逃れるだけで、決して相良が持っている機動力をひた隠しに隠し、それを感じさせる攻撃はしない。この相良の術中にはまると相手は「此奴は攻撃力のないへな猪口選手」と思い込み、馬鹿にし始める。しかし、いくら攻めても、これでもかと追い詰めてもヘロヘロ躱されて一本が取れない。そうこうするうちに、自分の得意技が通用しなくなっているのに気付き、普段使わない習熟度の低い技を膠着状態打開の切り札と勘違いして出し始める。

それが相良の罠だ。技の完成度が低ければ低いほど相手に対する攻撃力はなくなるし、自らの隙が出やすくなる。相良はその隙を逃さず攻め、仕留めるのだ。

今回もそう。相手の無理な体勢から強引に出してきた面に対し、摺り上げ胴で一本先取。続く二本目は、攻め疲れして足の止まった相手に、それまで秘していた素早い小手面の連続技を繰り出し、面を奪った。二本勝だ。

・・・・・・・・・・

俺の二回戦は第三シードの強豪選手だ。185㎝、100㎏の巨漢。俺の第一試合は見られたから、俺の特徴は掴まれていた。でも、俺も有名な彼の情報は、妖怪の3Dシミュレーションの情報として熟知していた。自信をもって落ち着いて戦うだけだ。開始線に立ち、蹲踞し「始め」の号令で構えると相手選手は妖怪の3D情報と寸分違わぬ動きをした。小手を打つ前に、左手が下がる癖、面を打つ時、剣先に視点を落とし一瞬頭を下げ、次に二段階で右ステップを踏む足さばき、力任せに相手の剣先を押える間合いの取り方、すべてデータと同じだ。相手の癖は見抜けている。いや、一つ違うことを感じた。思っていたより鈍い。動きが遅いのだ。3Dで戦ったときはもう少しキビキビして体に切れが良かったように思えた。

お互いに、剣を合わせて呼吸3つ、約20秒経過、双方睨み合ったまま対峙した。俺の目は、相手の動きは完全に見切り、俺の体は相手のリズムに対応し動き出し、相手の殺気に応えて反応動作している。そう感じたとき、相手はデータ通りに、強引さ丸出しで面を攻めてきた。当然、俺はシミュレーション通り、その出鼻に小手を決めた。出小手一本。

二本目も簡単だった。取られたら取り返そうと相手は俺の竹刀を押え叩き闇雲に力任せに攻めてきた。巨漢選手は正面に立つとその圧力たるや凄いものがある。まともに100㎏の体当たりを食らうと堪らない。その反面、足を使って体の側面に付かれると、小回りが利かず、あらぬ方向に突進してしまう。彼もその欠点を持っていた。

俺は、相手の右面を攻めて、返すステップで左小手に回り込むと、俺の動きにつられ、彼の巨体はクルリクルリと回り、最後には俺に対して右向きになり、左面をがら空きにしてくれた。俺は、難なく、その左面を打突し、二回戦を突破した。

三回戦、四回戦は30秒も必要とせず、難なく勝ち上がった。相良はというと、団体戦で俺が引き分けた火流の大将に一本負けの敗退。その後は防具を外し、俺の補助についてくれた。有難い。

・・・・・・・・・

準決勝の五回戦、相手は先ほど、団体戦で引き分けた火流の大将だ。彼は団体戦で優勝し、個人戦も相良を破り、意気上がっている。

試合が始まった。この相手、やはり、間合い取りが絶妙に上手い。中肉中背なので長身の俺に比べて間合いは近い。つまり、彼が俺を打つためには、俺の打間を通過して攻め込んでくる必要がある。普通の選手は素直に攻めてくるから、俺は自分の打てる間合いに来るのを待ち構え、侵入者の小手か面の隙のある方を打てばよい。

個人戦に時間切れ引き分けはない。勝負がつくまで試合をやる。俺は、じっくり構えて安全に仕留める「飛んで火にいる夏の虫戦法」を取った。しっかり構えて、何時でも打ってきなさいと胸を張って剣先を相手に向けた。でも、奴は飛んでこない。百も承知で俺の作戦を見抜いているのだ

彼は俺の射程圏のホンの少し向こう側にいて、逆に、俺にオイデオイデと誘ってくる。俺が無理して打つと上体が前のめりに流れ、頭が下がり、体勢が崩れて、隙ができる絶妙の位置で…だ。膠着状態は嫌なので思い切って俺の打突がヒットする間合いに詰めよろうと前に出ると、俺の前進速度を利用して、ものすごい速さで俺の結界を破り懐に飛び込み入り、小手、面、胴の多彩な技を繰り出してくる。ボクシングのカウンター攻撃だ。危ない。俺は、頭を左右に振り、下段に構え籠手を隠して前進し、これまたボクシングのクリンチの様に体を相手にくっつけて、一撃を逃れた。俺の間合いから一歩入ったところ、そこは彼の打間であり、俺には近すぎる間合いなのだ。

俺を引き出し、打ち込もうとしているのは明白、相手の優れた戦術だ。

これには参った。今の対峙している間合いから四分の一足、5cm入ると俺の打間、一足20cm入ると相手の間合いとなる。この15cmの攻防だ。

動いたら負けの膠着状態、睨み合いが続き、そのまま試合時間の四分が過ぎ、ブザーが鳴った。審判のヤメの号令が掛かった。俺は、さっきの団体戦の結果は妥当性と相手の強さを再確認した。

延長戦だ。俺は構えを解き、開始線まで戻り、開始線位置を確認し、リラックスしようと首をぐるりと回し、更に首を上下に振り、目を上げて脇にした竹刀を上げて青眼に構えようと相手を見た。

その時だ、相手の後方、そのコートの縁に相良の姿が見えた。彼は右手首を左手で叩いていた。

動作の意図は瞬時に理解できた。竹刀たたきのサインだ。遠い間合いで、相手の打突部、籠手面が間合いの外にあっても、相手竹刀は間合いの中にある。竹刀なら打てる、押えられる。竹刀を叩き落とす、抑え込む等の相手竹刀の動きを殺す攻めをすることにより、相手の自由を奪い、その瞬間に有効打を決めろとの指示だ。

心は決まった。

「延長開始」

俺は、青眼の構えから、相手の竹刀を押さえ攻め立てる気を見せた。

それに対し、手練の相手は剣先を右に、左手を顔面近くに上げ、所謂、三所隠しの防御態勢をとった。思い通りだ。三所隠しはその姿勢を保つと違法な防御姿勢と判定され、反則を取られる。相手は反則対策として、眼前に上げた竹刀を臍前まで下ろし始めた。上がっていた竹刀が下方に向かって動くのだから竹刀が水平になった瞬間にその剣先は俺に最も近い位置となる。

今だ、俺はその瞬間の動きを逃さず、落ち始めてもっとも近寄ってきた剣先を押えるとともに一歩踏み込んで、相手竹刀の鍔元までも自分の剣を押し込み、動きを拘束した。相手は固まった。

瞬間相手の面が無防備に開いているのが見えた。俺は面に飛び、相手を踏みつぶす勢いで相手の背後まで打ち抜け,残心を取った。

旗三本が勢いよく上がった。

相良のお陰、有難い。

・・・・・・・・・・・

決勝の相手は浦安選手。昨年二年生ながら県大会優勝し、全国でベスト8に入った超高校級の選手だ。体は小さいが、全身筋肉の鎧で覆われているとの表現がぴったりの選手だ。お父さんが高校教師で剣道八段、おじさんが警視庁武道指導教官剣道八段という、超エリートだ。

大会前の一般予想で不動の優勝候補と言われた土山高校の高橋選手を準決勝で破っての決勝進出だ。

去年の浦安選手の優勝は、フロックだとの意見も多くあったが、それを完全に否定する快進撃でこの場にいる。

試合前、杉山先生から「お前がやらねばならないことは、自分を信じることだ。表面的な肩書、過去の戦績なんか、試合場では意味がない。自分を信じろ。道は開ける。」と、激励してくれた。先生はこの試合を予想してアドバイスされたのかも…と思う。

俺は「信じろ。信じろ。大丈夫」十回呟き、試合場に入った。

試合開始。

上手い。さっきの火流の大将と似たタイプだ。俺の間合いを取らせてくれない。それどころか、さっきの大将より間合い争いがさらに厳しくなっている。さっきと異なり試合は素早く流れ展開し、膠着はない。攻めが強くて一瞬たりとも息が抜けない。右を攻められたと思うと、左から叩かれる。素早い動きで、間断なく攻めたててくる。跳躍力も尋常でなく、火流の大将より10cmも遠くから電光石火の小手、面、更に突きと打ちこんでくる。俺の方が身長で20cm高いので、間合いは5cm遠くて俺が有利だが、その5cmのアドバンテージなんて無きがごとくである。

安浦は俺の死守する5cmの間合を苦も無く、足を遣い、上体を揺らし、竹刀を叩き押さえ、蹂躙してくる。もう数センチ入り込まれ俺の懐に攻め入られれば、安浦の勝利は間違いない。でも、逆に、この5cmの結界を上手く利用できれば、俺に勝ちが転がり込むはずだ。

並の相手だったら、少し脅かせば窮鼠のごとく、遠間から打ち込んできたり、無理やり自分の打突可能な近間に突っ込んでくるのだが、どんなに脅しても、安浦はビクともしなかった。それどころか、俺の脅しをあざ笑うかのように、俺の攻めを利用しながら下から竹刀を弾き飛ばしての小手、竹刀の上を押さえての面と、多彩な凌ぎからの攻めを繰り出してきた。一歩でも一瞬でも俺が出遅れ、下がり遅れれば、一本取られる。そんな安浦必勝の攻めだ。3Dシミュレーションでの対決はしていたが、データにはなかった技が幾つもあった。安浦選手は日々進化していた。最早、妖怪が集めたデータは古くなっていた。

距離を取って、落ち着けと自分に言い聞かせた。何とか凌げていると唇を動かし呟いた。そう思うと、安浦選手の繰り出す面の速度が思ったほど速くないことに気付いた。3Dシミュレーションの方が早かったように思われ、俺は自信を感じた。俺は相手が見えている。やっていける。そう思い始めると、素早い攻めに追い詰められた気持ちの中にも、不思議に落ち着いた部分ができた。しっかりと構えられるようになった。

四分経過。延長戦に突入した。

延長でも、間合いの取り合いに終始し、お互い、有効打が出なかった。このような派手な打ち合いのない懸待一致の攻防こそ、神経の緊張と激しい足さばきが要求される。見た目の何倍も体力を消耗する。

延長戦も三十分が過ぎた。

互いに、少しずつ肩で息をするようになってきた。疲れたと思った。その時、安浦の父が「集中」とコートサイドから声を出したのが聞こえた。呼応するように、安浦の剣先に力が加わったのを感じた。

来る。

そう思った瞬間、安浦は俺の小手に猛烈な打撃を加えてきた。

見えた。俺には、彼の剣先の軌跡がスローモーションで見えた。

自然に体が動き、俺は、その小手を鍔ではじき飛ばし摺り上げて面に乗った。俺は真っ二つに安浦の面を切り割った。俺は安浦の背後に打ちぬけて、勝利を確信し、竹刀を天突くように振りかぶり残心を取った。息を吐いて、相手に向かうため、振り返った。

見ると、安浦選手が堂々と残心を取り、周囲を見渡し、小手の有効打突をアピールしている。

安浦、何をしている?俺に面を撃たれたのに…、と思った。

でも、旗を見てびっくりした。審判の旗は三本とも安浦選手の小手に上がっていた。

呆然とした。怒り、抗議、そんな感情は全く湧いてこなかった。

俺は負けた。また、地区大会さえ優勝できない自分史を作ったしまった。そう思った。

でも、二位。県大会には行ける。次がある。そう思って、試合後の挨拶を交わし、控え席に向かおうとした。


大変な騒ぎが、その時起った。

二階の観客席から剣道場には場違いな真っ赤な座布団が二つ試合場に投げ込まれ、

「誤審、誤審」と連呼する、親父声とキンキン響く若い女性の叫び声がした。

驚いて、その声の方を見ると、観客席のど真ん中の通路で野球帽を目深にかぶった妖怪と作務衣姿の玄さんが、観衆の注意を集めるべく、手、上体をこれでもかと大きく振っていた。当然、会場の注目は彼らに集まった。

視線の集まりと同時にテロリストと化した妖怪は深々と被った帽子を天井に届けとばかりに放り投げると、その指先はおもむろに国旗掲揚されている正面の白壁をさして、ジャンヌダルクはさもありなんと思える良く透る大声で

「皆さん、見て。見てください」と叫んだ。その瞬間、妖怪の横にすっくと立った玄さんが操作する三脚に載せられたバズーカ砲のような機械から、光が飛び出し、正面の白壁を照らした。

何が起こったのかと、あっけにとられた全員が見つめるその先に、決勝戦の勝負の様子、勝負の決するシーンが鮮やかに映し出された。

安浦選手が小手一本を取ったと判定された瞬間。俺とすれば、安浦の小手を摺り上げて躱し、すかさず、面を打突した正にその時だ。

映像は白壁の上で躍動した。安浦選手の小手を狙った竹刀は俺の小手に触れる手前で俺の鍔に弾き飛ばされ安浦の左肩に向け跳ね上がり、小手打ちを弾き飛ばした俺の竹刀は次の瞬間、安浦選手の面を真っ二つに打ち据えていた。そのシーンが、超スロー再生で大写しになった。

ビデオ利用という予想外の手段、誤審を指摘するという前代未聞の暴挙ともいえる出来事だが、妖怪の勢いに会場全体が、息を止め、映像に見入り、黙り込んだ。

次の瞬間、大きなホーッとため息が、会場を覆い、皆、どうしたものかと…、会場が揺れた。

でも、そんな館内の状況とは関係なしに、

警察官と思われる紺のスーツに赤ネクタイの関係者が駆け付け、二人の身柄を羽交い絞めするように拘束し、映写機を確保。人も機械も一緒に撤収していった。

その手際の良さ、日本の警察力に、思わず俺は、感心していた。

その後、何事もなかったかのように、表彰式が開始された。

妖怪と玄さんは大丈夫だろうか?心配で、表彰式は上の空だった。

・・・・・・・・

その日の夜、妖怪と杉山先生が上機嫌で俺の家に来た。

「今日は満点。予定通り。県大会は優勝できます。唯一の心配事の誤審対策もできました。」妖怪はこう言って、夜道のガードマン役の杉山先生と意気揚々と帰って行った。

妖怪の言うことは良く分からないが、兎に角、俺のやるべきことは、県大会までしっかりと稽古するだけだ。




これからが楽しみ

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