スパイシーな相棒
大手チェーン店に比べれば明らかに狭いカレー店。
どことなくインド感の漂う店の雰囲気とそこで味わえる本格日本風カレー。本格インド風カレーではないのかと。
けれども、ありがたいことに店は常に満席状態だった。
「おい、店長」
小太りでいかにもカレーが好きそうな男がカウンター席に座り、厨房で調理をしている僕に声をかけてくる。
「どうしました?」
「こんなに繁盛してるのに、どうして従業員を雇わないんだ? 売り上げだって安定しているんだ。バイト何人か雇ったって苦しくはならんだろうに」
「従業員?」
「そうだよ、ずっと一人なんだろう?」
「いえいえ、そんなことはありませんよ。相棒が一人います」
「でも、昔の話なんだろ?」
「いえ、今も一緒です僕たちは」
これは僕と相棒が出会い、そこからカレー店を出す物語。そしてこれは今なお続く夢物語である。
今になって思えば彼女との出会いは転換期であったと言えるだろう。
当時高校生だった僕が彼女と出会ったのは大手のカレーチェーン店の店内であった。
一人客だった僕はカウンター席でカツカレーを食べていた。これはカウンター席あるあるだと僕は思っているのだが、店内が混んでいない場合、まさに今の状況を指すわけなのだが、先にゆとりがある場合は座っている相手と距離をとって座るものだと思う。
しかし、だがしかし、自由に選べる席の中でその女の子は僕と同じ高校の制服を着たその人は何故か僕のすぐ隣に、真横に、座ったのだ。着席したのだ。
何かを話すわけでもない。
ましてや僕は彼女のことを知らない。
制服を見て同じ学校の生徒だとかろうじてわかる程度の間柄である。友達でもなんでもないわけだった。
そして彼女が注文したのだろうカツカレーが彼女の元に届く。
「おっ、待ってましたー!」
と、独り言を挟み込み、ウキウキを隠し切れない様子であった。
スプーンでカレーと白米を絶妙な割合で掬い取ると、その勢いはとどまることを知らず、真っ直ぐに綺麗に丁寧に彼女の口へと運ばれていく。
「うむうむ」
満足そうにカレーを噛み締め味わっているようである。
そしてゴクリと口の中のカレーを飲み込み終えると、彼女は唐突に僕の方に身体ごと向け、こう言葉を続けた。
「私さ、ここのカレーよりも遥かに美味いカレーを作れると思うんだけど、一枚噛まない?」
先ほどまでの「おっ、待ってましたー!」と、「うむうむ」という満足げな表情は一体なんだったのかと問いたくなるような百八十度ひっくり返った返り返った手のひら返しな回答であった。
「え?」
これには思わず間の抜けた、間抜けな、腑抜けな、声が出てしまう。漏れ出てしまう。
「だから、私と一緒に美味しいカレーを作ろうよと声をかけてんだよ」
「は、はあ……」
一体全体、果たしてカレー店で今食べているカレーよりも遥かに美味しいカレーを作れると豪語している人間がどれくらいこの世界にはいるのだろうか。
「なんだ?」
途方に暮れた僕の顔を色を見て、少しだけ不機嫌そうに彼女が言う。
けれど、「なんだ?」はどう考えても僕のセリフであった。
「疑っているのか?」
そこではない。
どう考えても彼女が美味しいカレーを作れるかどうかを疑っている場面ではない。
それ以前にいきなり隣に座って「美味しいカレーが作れる」と豪語している女の子自体がおかしく怪しくカレーの良し悪しを疑う前に、彼女自身を疑っていた。
「まぁそうだな、百聞は一見にしかずとも言うしな。お前は自分で見て感じたものしか信じないってことか。ならば見せてやる。来い!」
彼女は強引に僕の腕を引っ張る。
小柄な見た目の割に意外にも力が強い。
彼女に引っ張られるまま僕はとある家の前までやってきた。
「どこ?」
「どこって私の家に決まっているだろう」
「なんで?」
「なんでってお前、それは私のカレーを食べるためだろう」
当然のことをいちいち聞くなと言ったか言わんばかりかの態度で彼女は受け答えをする。
その態度はなかなかに偉そうである。
家は驚くほど豪勢というわけでもなく、一般家庭のどこにでもありふれている一軒家で、身分が偉そうというわけではないようである。
「ほら、さっさといくぞ!」
また強引に引っ張られ僕はとうとう女の子の家に入ることになってしまった。
まさか初めての女の子の家がカレーとは思いもしなかった。
そうして彼女は家の台所に立つと気合いを入れる。
「おっしゃー! 行くぜ相棒!」
「誰が相棒だよ」
「お前以外に誰がいるんだよ」
「僕がいつ君の相棒になったんだ」
「細かいことを言うなよ。モテないぞ?」
「なっ!?」
「私たちはこれから相棒だ! そして目指すは日本一のカレー店! お前は私のアシスタントだ」
「勝手に決めるな、そもそも君は誰なんだ」
「ああ、自己紹介が遅れたな。私は音無志乃舞。見てわかると思うが同じ学校だぞ私たちは」
「な、なるほど」
一息ついてから僕も自己紹介を行う。
「僕の名前は……」
「唐威遊帆」
彼女が僕の言葉を遮るように僕の名前を言い当ててみせた。
「どうして僕の名前を?」
「知っていて当然だ。私たちは相棒なんだぞ」
「相棒、、」
その二文字だけでは明らかに説明がついていない。
「相棒ってそこまで便利な言葉じゃないぞ」
僕がそう言うと彼女は鋭い目つきで僕を射抜いた。
「………」
「まぁいい、食え」
「は、はい……いただきます……」
彼女に言われるがまま、促されるまま、僕は提供されたカレーを口に入れる。
そのカレーは彼女の言葉通りであり、言葉通り大手チェーン店のカレーを遥かに凌駕した味だった。
「美味しい!!」
「だから言ったろ? 私はあんなカレーよりも美味しいカレーが作れるんだ」
えっへんと自慢げに彼女は腕を組んだ。
腕を組んだその姿はまさに料理番組に出てくる巨匠のようであった。偉そうである。
ただ彼女だけで既に美味しいカレーは完成しており、このカレーに僕が付け入る隙はカケラもなかった。微塵もなかった。
故に、それ故に疑問が当然のように、当たり前のように、湧き上がってくる。
「どうして僕を相棒にするんだ? このカレーは君一人の力で既に完成しているじゃないか」
「まぁカレーはそうだな。だから、お前はカレー担当じゃない」
「まさかゆで卵担当!? まさか僕のゆで卵へのこだわりに気付いていたなんて……」
「そんな話知らんわ。お前がゆで卵にこだわっているかどうかなんて知ったことではない」
「え、じゃあ、なんで?」
「私には料理の腕がある。お前には私の店の頭脳担当になってもらう」
「頭脳担当……?」
「そうだ」
彼女が頷く。
「頭脳担当といいますと?」
「経営だよ経営」
「ああ、なるほど」
「料理は私、店の経営をお前。二人で最強のカレー店をオープンさせようじゃないか!」
壮大な目標に彼女は両の手をこれでもかと大きく広げ、天を仰いだ。
彼女が料理だけではどうにもならないからと現実的な理由で頭脳担当を探していることは理解できた。
しかし、だがしかし、まだわかっていないことがある。それはどうして僕なのかということである。
頭脳担当ともなればそれこそ正規の手続きを踏んで公募して身近な人間ではなく、全国津々浦々から選りすぐりの才能ある人材を相棒として迎えることが正しい判断だと思われる。
どうして僕である必要があるのだろうか。
「ひとつ聞きたいんだけれど」
「なんだ?」
「どうして僕なんだ? それこそ頭脳明晰な相棒なんてちゃんと探せば山のようにいるはずだ。なのにどうして」
「野暮なことを聞くな」
彼女はそう言って話を半ば強引に終わらせると、食べ終えた僕の皿を下げるや否や僕を家から追い出したのであった。
「どういう扱いなんだこれは……」
「私たちはまだ高校生だ。野望は叶えられるベストなタイミングが必ずある。そこまで大切に温めるのもまた、我慢して機を待つのもまた大事な采配と言えるだろう。私は調理学校に通って店を開けるように調理の免許を取る。お前は大学に入って経営学を学べ。そして卒業する時こそがその時だ。以上、解散」
こうして音無家の玄関は閉ざされたのであった。
音無家でのカレー実食会からというもの彼女から接触してくるということは全くなく相棒だという割にはとても薄い間柄に思えた。
そんな間柄であるため進路もまた経営学の方面に向かうことも躊躇われる。
躊躇うも何もそもそも僕は経営学なんてものに興味があるはずもなかった。では何に興味があるのかと問われてしまうと、口を閉ざすしかないのだが、それでも得体の知れない女の子に行けと言われたから行きますとなるほど僕はお人好しではない。
とは言ったものの、これといった進路を見出せなかった僕は----
「唐威は経営学部を受験するのか。なんだか意外だな」
担任の先生が僕の進路希望用紙を見てそう言う。
「そうですかね?」
「経営とかそういうことをする人間には見えなかったが、俺も教師としてまだまだ人を見る目がないんだな。俺は人生経験が豊富だとは言えない。大学に入ってそのまま教師になったからな。俺から言えることなんて、ましてや経営を視野に入れている人間に対してなんて余計に何を言ってあげればいいのかわからない。だからな、俺はお前にこの言葉を送ることにする」
進路希望用紙に目を落としていた先生が真っ直ぐに僕の目を見る。
「人生は常に勉強だ。学生生活よりも遥かに長い社会人生活は学ぶことだらけだ。先輩から時には後輩からだって学ぶこともある。俺がお前に人は見かけによらないと教えてもらったようにな。学びを止めるな、学びを止めれば歩みも止まる」
「わかりました、ありがとうございました」
こういった一幕もあり、僕は経営学部を受験し無事合格したのだった。
卒業式当日---
「よっ」
と、片手をあげた長らく接触していなかった音無志乃舞に再開した。
「経営学部、ちゃんと受験してくれたんだな」
「き、君のためじゃない」
「もちろんだ。経営学部は私のためじゃなくお前がお前のために行くんだ。何を当たり前なことを言っているんだ」
やはり偉そうである。
「とは言え、お前は行かないと思ってた……」
いつになく弱気な声で彼女は呟く。
「どうして?」
「私たちって別に友達ってわけでもなかったし、カレーを一回うちで食べただけの間柄だろ? だからその、裏切られるかと思った……」
「女の子の家に上がってカレーを一回食べる間柄って僕にとっては結構進展した間柄だと思うんだよね。過程がどうあれ……。経営学部は君のために行くんじゃない。当然だろ。僕“たち”のために行くんだ。君のカレーは絶対に売れる。バックアップは任せろ」
「うざっ。生意気なんだよ!」
格好よく決めたはずだったのだが、音無志乃舞の強烈な蹴りをお尻に食らう羽目になった。
「君こそ裏切るなよ」
「なんで私がお前を裏切らにゃならんのだ。裏切るとしてたらそれはお前だけだ。私は私を裏切らない」
そんなわけで、こんなわけで、あんなわけで、どんなわけで、僕と彼女は高校を卒業し、それぞれ必要なことを学ぶために別々の進路へと進んだ。
「てかおい」
「なんでしょう」
「連絡先教えろよ」
彼女は唐突に僕に連絡先を訊ねた。
「なんで?」
「なんでってお前。経過報告は大事だからだよ! 留年なんてなったら計画に遅れが出るだろうが!」
「ああ、なるほど」
「さっさと教えろ」
交換の仕方や経緯はどうあれ僕は彼女とようやく連絡先を交換した。
「お前、私の連絡先を見てニヤニヤすんなよ」
「しないっての」
「どうだかな。男は獣だからな。女の連絡先一つで一喜一憂できる単細胞だからな」
「だから、しないっての!」
「ふん!」
その後、アパートに帰って携帯電話の連絡先一覧の『音無志乃舞』という文字を見て、一人でめちゃくちゃニヤニヤした。
大学在学中、僕は一人暮らしとなり何かと自由が効くようになったわけだったが、「腕が鈍ると困る」という理由から定期的に彼女が僕の部屋にカレーを作りにやってくるようになった。
「おっしゃー! 行くぜ相棒!」
いつもはただただ乱暴で辛辣な女の子であるが、カレーを作る時の彼女だけは楽しそうで幸せそうだった。そんな彼女を見ているのがいつの間にか楽しみになっていた。
そして彼女はカレーを作る時、カレーに向き合う時、何故か「おっしゃー! 行くぜ相棒!」と僕を見るのだ。可愛い。
そのうち「おっしゃー! 行くぜ相棒!」の際に目が合うようになった。
「目を合わせてくるな!」
目が合うと彼女はそう言って怒り出した。
「なんでだよ!?」
「目が合うのはなんだかダメだ……」
「なんでだよ……」
僕たちのカレー店への道は地道に進められていた。
地道に進んでいたはずだったのだが、時が経つのはあっという間で僕も彼女も大学を卒業することになった。
これはそんなある日のことだった。
「あ、あのさ……」
彼女はいつになく照れくさそうにもじもじとした煮え切らぬ声と表情で僕に切り出した。
「どうしたの?」
「わ、私は!」
「はい」
「これからもお前と相棒でいたいと思ってる……」
余程照れ臭いのだろう語尾がゴニョゴニョと濁されていく。
しかし、だがしかし、これまでも今までも『相棒』なんていうキーワードは嫌というほど彼女は言ってきたはずで、僕は嫌というほど聞いてきたわけだった。
今更になって何が彼女を照れさせているのだろうか。
「改めて言うほどのことなのか? 僕たちは当然これからも相棒なんだろ? だって一緒に店をオープンさせるわけなんだし」
「いや、そうじゃ……なくてだな……」
「?」
「カレー作りの相棒はもう当然お前しかいない。私が今言いたいのはそうじゃなくて。人生の相棒の話でだな……」
「人生の……相棒……」
そのフレーズを聞いて、僕もまたその意味に気が付き、照れ臭くなった。
「私はその……お前と……」
「それについては僕から言わせてくれないか?」
「あ、え?」
「まさか今日になるなんて思わなかったから指輪はないけれど……」
と、僕は片膝を彼女の前でついた。
「僕と結婚してくれませんか?」
彼女は顔を真っ赤に燃え上がらせて、しばらくの沈黙の後で口を開いた。
「もちろんだよこの野郎!!!」
彼女は勢いよく飛び付くように僕に抱きついてきた。
「これからもよろしくな! 相棒!!」
彼女はとても嬉しそうにそう言った。
僕もとても嬉しかった。これからも彼女とカレーを抜きにしても一緒にいられることが。
「というわけで今日は結婚初夜カレーだ!」
「って言ってもいつものカレーだよな?」
「いつものカレーじゃない!! 私の愛情が増し増しだ………」
「お、おう……いただきます……」
それからというもの、彼女と結婚して店の場所も決め、借金をして店となる場所を買い取り、店の準備も着々と整ってきていた。
「ここが私たちのお店になる場所だ!」
「凄いな。高校生の妄想がまさか本当に」
「まだまだこれからもっとすごくなるぞ? 遅れんなよ」
「もう遅れてるかも!」
「そりゃあ、ダメだな! なら、さっさと追いついて来い! おっしゃー! 行くぜ相棒! まずは買い出しだ!!」
全てが上手くいき過ぎていた。
今はまさに人生の最高潮だと僕は余すことなく今を楽しんだ。
そしてその日が訪れた。
「遅いな……」
オープンを間近に控え、材料を調達に行った彼女が数時間の時間を経過させても帰ってくる気配がなかったのだ。
そして携帯電話の着信音が静まり返ったアパート内で鳴り響いた。
知らない電話番号が表示されている。
「はい、もしもし」
「もしもし唐威さんのお電話でしょうか?」
電話相手は落ち着いた女性の声だった。
「はい、私が唐威です。どなたですか?」
「申し訳ありません、こちら須縄総合病院です」
「は、はあ。須縄総合病院を受診した記憶がありませんので、間違い電話じゃありませんか?」
「いえ、そうではなくてですね、唐威志乃舞さんは奥様で間違いないでしょうか?」
「はい、志乃舞は私の妻ですが……」
「大変申し上げにくいのですが……」
病院の女性は言葉を詰まらせている。
「まさか志乃舞に何かあったんですか!?」
言葉を詰まらせている女性と志乃舞という名前に妙な胸騒ぎを覚えさせられた。
「唐威志乃舞さんは事故に遭われまして、それでその、打ちどころが悪く先ほど死亡が確認されました」
「し、脂肪が確認されましたって、そんな言ってやったら可哀想ですよ! やだなあ! カレーばっかり食ってる奴ですからね、脂肪もそりゃあ付くでしょう」
「旦那様、ご冗談ではありません」
「嘘だ、」
「嘘ではありません。嘘でないことを確認していただくために病院にお越しいただきたいのです」
「わ、わかりました。すぐにいきます……」
何が起きているのか起こっているのか理解の外にあった。
故に女性が何を言っているのかも正直理解が追い付いていなかったのだ。
しかし、胸騒ぎと苦しいほど高鳴る鼓動だけが強さを増していた。
タクシーに乗り込み、急いで病院へと向かった先で受付に名前を言うと驚くほど名前の通りは良かった。
看護師に連れられてやってきたのは病室ではなく、霊安室だった。
人一人が横たわっている膨らみが真っ白な純白の布越しから確認できた。
そして「ご確認ください」と促された僕は顔の部分にあたる布をめくった。
確認を終えた僕は声が出ていたのか出ていなかったのか、それすらもわからない声と共に取り乱したことだけは覚えている。
霊安室で横たわっていたその人は僕の最愛の人、音無志乃舞だったからだ。
「嘘だ、あり得ない!! 何かの間違いだ!! 志乃舞が死ぬわけ……嘘だ……!!」
彼女の顔はどんな化粧を施すよりも遥かに白くなっていたのを僕は忘れることはないだろう。
「志乃舞、、起きろよ……起きてくれよ!!!」
彼女はいつものように僕の言葉には答えてくれなかった。
彼女の死がきっかけでオープン日まで決まっていたにもかかわらず、オープンは延期されることになった。
それも当然のことで美味しいカレーを作れる料理長が永遠に不在となってしまったのだから続けようがない。
僕は路頭に迷うことになった。
彼女と暮らし始めたアパートで彼女の遺品を整理していくうちに一冊のノートを発見した。
ノートの表紙には『志乃舞直伝にして秘伝!!』と書かれている。
「なんだこれ……」
表紙をめくると、彼女がこれまで作ってきたであろうカレーのレシピが事細かに記されていた。
レシピに目を通していくと、目を走らせていくと、レシピとは関係のない文面に行き着いた。
『君がこの秘伝書を読んでいるということは私の身に何かあったということを意味している。できれば私は相棒とずっと一緒にいたいので、この秘伝書は私の秘伝のまま終わらせたい。でも、一応カレーのレシピと君への言葉をここに綴る。未来の私はどうなっている? その時、君は大丈夫なのか? 元気にやれているのか? 仮に今、道半ばであるならば迷わず店をオープンしてくれよな? オープンしなかったら私はお前を呪い殺すからな。そういえば、前にどうしてお前を選んだのかって聞いてたよな? あれはシンプルにお前の名前が唐威で辛いから直感的に選んだだけだ。別に誰でもよかった。今は誰でもいいわけじゃないぜ? 今はお前じゃなきゃダメだ。数ある応募総数の中から私に選んでもらえたことを感謝しろよ? 大丈夫だ。お前なら、私の相棒のお前ならきっと大丈夫。私の野望を私に代わってお前が叶えてくれ。約束だぞ? それに店がオープンする時は私もお前の隣にいるから』
自分が死んでもなお、彼女は最後の最後まで僕のことを気にかけてくれていた。
「先に行くなよ……。僕を置いていくなよ……」
ノートが僕の涙でみるみるうちにシワシワになっていく。
もうやめようと考えていたカレー店だったが、僕は彼女のレシピを引継ぎ、意志を継ぎ、オープンにこぎつけた。
オープン当日---
扉を開ければいよいよオープンとなる。
深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
不安と期待とが入り乱れる味わったことのない感情。
「いよいよだな、志乃舞」
「おっしゃー! 行くぜ相棒!」
もう聞くことのないはずの、でも、誰よりも何よりも一番聞きたかった彼女のそんないつも通りの明るく太陽のような声が厨房から聞こえた気がした。
僕は慌てて厨房の方に目を向ける。
もしかしたら彼女の死は全て彼女の謀で、実は生きていたのかもしれない。
しかし、そこに彼女の姿はない。
当然あるはずがないのだ。
彼女は本当に……。
そうして彼女が立っていたかもしれない、いや、彼女が死ぬその日まで彼女が立ち続けていた厨房を見て、僕はゆっくりと頷いた。
「おう、行こうぜ相棒」
fin.