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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

久しぶりの女友達とお茶会したかっただけなのに~蛇屋の三代目と孤独な珊瑚・続~

作者: くろつ

 きれい、かわいい、美しい。


 つやつやのアイシングクッキーを並べ終えて、御堂寺珊瑚みどうじさんごは満足げにうなずいた。

 クッキーはきらきら光っていて、われながら完璧のしあがり。


 珊瑚さんごは壁掛けの時計を見あげる。

 約束の時間まで、あと15分。


(女友達とお茶会なんて、初めて……)


 支度はすべて整っているのにそわそわと落ちつかなくて、自分でも浮かれていると思う。思うけど、止められない。


『これ自分で作ったの? すごいねえ』


 なんて言いながら、シキはありがたみもなく、ばりばりとクッキーを食べるんだろう。


(でもそれでいい)


 だってシキだから。


「あの、お嬢様?」


 声をかけられて、珊瑚ははっとした。


「もうじきお時間ですが」

「そうね」


 にやけた顔をひきしめると、珊瑚は使用人に指示を与える。


「時間までは誰も入らないでね」

「はい」

「お茶のお代わりもわたくしがやります」

「はい」


 使用人が下がっていくと、珊瑚はまたうろうろと部屋の中を歩きまわった。


 蛇屋の3代目、真砂まさごシキに連絡したのは先週のことだ。

 上手にできたクッキーの写真を送ると、おいしそうだねと返ってきたので、ここを逃してはならじと思ってすかさずたたみかけた。


「食べにくる?」

「うんっ」


 即答で返事があってから、ややして追加でメッセージが来た。


「来週でもいい?」


 別にいいけどと珊瑚は思った。

 それなら新しいのをまた焼くし、次はもっとうまく作るし。


 ところが、シキが指定したのは、ちょうど週一回の家庭教師がある日だった。

 どうしよう、家庭教師は外せない。そこをキャンセルすると必ず父の耳に入るし、そうするとまた厄介なことになるし。


 悩んだあげく、なんとか前後の予定をやりくりして、珊瑚があけられたのは家庭教師の前の2時間だった。


 新しくついた家庭教師は教えるのがうまく、楽しそうに授業をしているだけなのだが、珊瑚に足りないものを滝のように教えてくれて、わからせてくれる。

 質問すればどんなことでも答えてくれるので、父の言うとおり、かなり優秀な人なのだろう。

 それはそれでいいのだが。


(普通はこういう時、どうするものなのかしら……)


 その『普通』が、珊瑚にはよくわからない。

 学びたいことについて父に意見を呈すのも、お菓子を焼くのも、友達をお茶に招くのも、珊瑚にとっては初めてのことだ。


「おじゃましまぁす」


 シキが部屋のドアをあけて入ってきたので、珊瑚は考え事を中断して、おや、と思った。

 前は窓から入ってきたのだが、今日はまっとうに正面玄関から来たのか、と思ったのだ。


 その理由はすぐにわかった。


 彼女は相変わらず日焼けしていて、黒髪のショートヘアは切りっぱなしのほったらかし、少年みたいなすっきりしたあごの線をあらわにしているところも、全部、前に会った時と同じだ。

 そのシキが毛足の長いロングコートを脱ぐと、12月だというのに半袖で、白Tシャツにデニム、足元は厚底のスニーカーといういで立ちである。


「ちょっとそれっ」


 シキがコートを脱いですぐに珊瑚は気がついた。


「左手どうしたのっ」

「あれー」


 シキはとぼけるような声をあげた。


「わかる?」

「わかるわよ、腫れてるじゃないのっ」


 シキの左手は肘のあたりから赤紫色に腫れあがっており、右手と比べると倍近く太さが違っている。


「心配させるかなと思って包帯とってきたんだけど、とらないほうがよかったか」

「座って!」

「はい」


 珊瑚が命令すると、シキはおとなしくアンティークの椅子におすわりをした。


「どうしたのそれ」

「あ、全然大丈夫。ちょっとしびれてるだけだから。うわーすごいね、きれいだね、これ食べていいの?」


 珊瑚がうなずくと、シキは手を伸ばしてアイシングクッキーをぱきぱきと食べた。

 動作のすべてにおいて、腫れてるほうの手を使っていないことを珊瑚は見てとる。

 なるほど、だから玄関から来たのだなと珊瑚は思った。この腕では木登りも壁登りも無理だろう。

 そんな珊瑚の内心を知ってか知らずか、シキは早くも2枚目のクッキーに手を伸ばしている。


「おいしいねえ、こんなきれいなのあたしに食べさせちゃっていいの?」

「あなたのために作ったんだから、いいの」

「わーい」

「口にあったならよかった」


 そう言って、珊瑚はちょっと笑った。

 だがこの夜、多少なりと珊瑚が笑っていられたのはこれが最後だった。


「で、説明してもらいましょうか」

「ん?」


 ん、じゃない。珊瑚はシキのことを軽くにらむ。

 その腕はなにがどうしてそうなったのかと聞いてるのだ。


「んー、やっぱり初めての蛇には噛まれてみないとさあ」

「返事になってないでしょ」

「あれー」


 またも、とぼけたような相槌をシキはうった。


「馬には乗ってみよ、蛇にはふれてみよとか言うじゃん」

「言わないわよ」


 どうやら、質問のしかたを変える必要があるようだ。

 お互いのカップにお茶をそそいでから、珊瑚は言った。


「どこで噛まれたの?」

「オーストラリア」


 は? と珊瑚は思った。オーストラリア?


「あっこれお土産!」


 手に下げていた紙袋を差し出してきたので中を見ると、丸い缶がふたつと、簡素な紙袋に入ったぬいぐるみがひとつ入っていた。


「あらルピシアの紅茶……オーストラリア限定、ユーカリフレーバーですって。……それと」


 全体に黒いぬいぐるみは、子熊のようでもある。

 だが目玉はぎょろっとしており、あいた口には白い牙がギザギザしている。

 ぬいぐるみにしては、やけに凶悪な面構えだった。


「これはいったい、なに?」


 ぬいぐるみを凝視している珊瑚に、シキは目をきらきらさせて言う。


「タスマニアデビル! かわいいよね!」

「……このぬいぐるみを選んだのはシキなのね」

「うんっ」

「じゃあこっちのお茶を選んだのは?」

夜刀やとが!」


 幼少期から心の通じている大型の蛇の名前をシキは言った。

 夜刀やとは蛇屋の女に代々寄り添ってきた蛇であり、現在はシキのパートナーでもある。


 なるほどね。珊瑚は思う。

 気遣いの細やかさにおいて、16歳女子(蛇屋)とインランドカーペットパイソン成体・オスとの間にこれほどの差があることの事実について、さて、どう考えたらよいのだろう。


「あっ伝言あるんだ、夜刀から」


 シキはデニムのポケットから、しわくちゃのメモ用紙を取り出して、棒読みで読んだ。


「久しぶりにお会いしたいのはやまやまですが、水入らずの女子会のお邪魔は致しますまい。……だって」

「お気遣いありがたく受け取りましたけど、夜刀にもお会いしたいから次はぜひ遠慮しないでねって伝えて」

「えーそんな長いの覚えきれないようー。もう一回言って、なんだって?」


 なぜ、これだけのことが覚えきれないわけあなたは。

 ──とは言わず、珊瑚はもう一度ゆっくり同じことを繰り返した。


◇◇◇


 正直に告白すると、どこで間違えたのか、珊瑚はさっぱりわからなかった。


 いつから、こんな会話の流れになったのだろう。

 どうしてオーストラリアに? って聞いたのがよくなかったのだろうか。


「若いのにやりてなんだよ、その女の子」

「そう」

「一番すごいのは、その気になれば際限なく資産を増やせると思うのに、先をよく見て儲けすぎないように調整してるとこ。ふつう人間は損切りができないけど、ビジネスの世界では逆もあってさ」

「そうなの」

「やりすぎると恨みも買うし、結局は嫉妬と敵意にさらされてエネルギー消耗するっていうのをわかってるんだよね。そういうとこ、ほんと頭いいなって」

「そう」


 オーストラリアには仕事で2カ月ほど滞在してたこと、現地の日本人の紹介でその女の子に会ったこと、その子は現在、オーストラリアのスラム街で女子学生専用のアパートを経営していることなどを、シキは楽しそうに話した。


 珊瑚はさっきから、淡々とした相槌を繰り返している。


「1階にはパンケーキのカフェを作って、そこだけは男子も入っていいことになってるの。で、カフェのバイトは全員そこに住んでる学生なんだよ」

「そうなの」

「そうやって一緒に働いてるとさ、その学生の人となりが見えるでしょ。そこを通して、向上心ある学生を彼女は選別してるんだよね」

「そう」

「今はまだ事業拡大しないけど、いずれ、アパートの敷地内にスーパーを導入して、その中で基本的な用事がすべて済むようにしたいんだって。女の子だけで夜間の買い出しはまだ危険な地域だから」

「そうなの」


 ──としか珊瑚には言えない。


 そしてシキの話を聞いているのが、さっきから妙に、息苦しい。


 オーストラリアのスラム出身であるというその若い女の子が、いかに視野が広く、実業家として優秀であるか、シキはずっと話している。


 話しながら、シキは予想通りの食べっぷりで、おいしいを連発しながらアイシングクッキーを食べ、厨房で作ってもらったチョコケーキとサンドイッチも食べ、父あてのお届け物の山から見つけ出した高級店の生カヌレをぱくついている。


 珊瑚ができることといえば、お代わりのお茶をつぎながら、冷え冷えとした相槌をうつことだけだ。


「困ったのは、滞在中ずっと銃を持ったボディガードがつくんだよね」

「スラムだから?」

「そう。まあそれはいいんだけど、こっちは仕事の合間に当然蛇も見たいわけよ。で、入れ墨ドレッドヘアのボディガードに運転してもらって郊外の蛇がいそうなところにいくわけ」

「うん」

「何日か通って、やっとお目当てのタイパンちゃんを見つけて喜んでたら、後ろでそいつがオウッとかノウッとか言って後じさって」


 タイパン。

 珊瑚はその場でそれを検索したが、その間もシキは話し続けている。


「ボディガードのくせにってつぶやいたら、日本語だったのに通じたらしくて、その場で喧嘩になって」

「ねえ、待って」


 タイパンを検索してみると、世界一の毒を持つ気の荒い蛇と出てきたので、珊瑚はスマホの画面をシキに向けた。


「まさかこれに噛まれたんじゃないでしょうね」

「あっだからさ、それはさー」

「そうなのね……」


 珊瑚が青ざめていると、シキはあわてて言い訳をはじめる。


「あたしだけなら噛まれてないんだよ。その男たちがびびってガサガサ始めるから、蛇のほうも興奮しちゃっただけで」

「噛まれたんだ、これに」

「なんかボディガードもさ、ただ逃げるのは面子メンツ的にいやだったんじゃない? 銃の先で蛇をひろって遠くに投げようとしたんだよね。でも蛇の体って全身筋肉だし、1メートルくらいなら軽く飛び上がれるからさ。素人がそういうことすると危険なわけ」

「うん」

「で、蛇のほうも怒ってるし、ヤバいなと思って、とっさにあたしが間に入って」

「止めに入ろうとして、噛まれたの」

「そうー」


 なにやらシキはにこにこしている。

 まるで、それで事情説明になるとでも思っているかのようだ。


「依頼主の女の子は話聞いてガチギレしてるし、それも仲裁しなきゃだし、そうしてるうちに手はどんどん腫れてくるしでさー」

「ねえシキ」

「なあに」

「キングコブラの50倍の神経毒って書いてあるんだけど?」


 再びスマホの検索画面を差し出しながらそう言うと、シキは言い訳シリーズ第二弾を開催した。


「まあまあそれは、全力出せばそうなるよってことでねー」

「全力とかそうじゃないとか、あるんだ」

「あるある。蛇も噛むとき加減するしね。知ってた? 毒液注入の量も、あいつら調節できるんだよ」

「へえー」

「ほんとは珊瑚さんごから連絡もらった時すぐ来たかったんだけど、依頼主の彼女は泣いて怒るし、黙って退院しようとしたらでっかいナースがすごい剣幕で怒るし、来られなかった」

「そう……」

「あげくの果てに彼女がボディガードたちを解雇しようとしたもんだから、それもまた止めて」

「へえ」

「だってもともと男のガードマンは気が進まなかったとか今さら言うんだもん。やむを得ず消去法で男のボディガードを雇ってるだけで、本当は女性のガードが欲しいんだって。なんか、あたしも軽くスカウトされたけど、蛇屋の仕事があるから無理だし」

「そうなの」


 あ、まただ。と珊瑚は思った。


 さっき、少しだけ、楽に話せていた気がしたのに、あっという間にまたこの話題に戻ってしまった。

 どうやらシキにとって、オーストラリアのスラムの彼女は強烈な印象を残す相手だったらしい。


(それはそうでしょうけど……)


 楽しみにしていた時間なのに、なんだか、ちっとも、楽しくない。


 ラズベリーレッドと銀のアラザンで飾ったクッキーが、なんだか色あせて見えて、珊瑚は紅茶をえんえん飲み続けた。

 が、だめだった。

 せっかくのダージリンレイトハーベストだというのに、味もしないし香りもしない。


 これってなにかの意地悪なのだろうか? と考えてみたが、珊瑚はすぐにそれを打ち消す。

 いや、違う。シキは意地悪ができるほど複雑な性格をしていない。


(そりゃ、シキにとってはオーストラリアは魅力的でしょうね……)


 なにせ、アメリカ、インドと並んで世界有数の蛇の産出国なのだ。シキが得意とするニシキヘビ系も多くいる。


(どうせ、冬の日本なんてシキにとってなんの魅力もない土地なんだわ……)


 心の底から、じわじわと、いやな気持ちがこみあげてくるのをとめられない。


 夜刀やとがもしここにいれば、もう少し早い時点でシキにデリカシーというものを思い出させたに違いなかったが、あいにくこの時、夜刀はいなかった。


 時に噛みつき、時にしめつけたりしてシキに教育的指導をする夜刀は不在のまま、シキは話し続ける。

 スラムの彼女がどんなにやり手で、頭がよくて、努力家であるか。

 珊瑚が次第に口数少なくなっていることには気がつかないままで。


「お嬢様」


 と、扉の外から声がかかる。


 珊瑚が時計を見上げると、家庭教師との約束の時間まで、あと2分になっていた。

 もう2時間。早い。


「もうこんな時間か。じゃああたしは行くよ」

「あ……ええ」


 別れの文句を珊瑚が口にするより早く、シキは椅子から立ち上がった。

 ごちそうさま、おいしかったよと笑顔で言って、ひらりと手を振って部屋から出ていくのを、珊瑚はぼんやり見送った。


 言いたいことがいっぱいあるのに、それが心の奥底で凝り固まって、なかなか出てこない。

 そしてシキと入れ違いに家庭教師の青年がやってきて、尋常な挨拶をする。


「お友達とお茶してたんですね。大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫です」


 自動音声のように珊瑚は答える。

 だが、使用人がテーブルの上をてきぱきと片付け、家庭教師が机の上にテキストをおく段になって、珊瑚はきゅっと膝の上で両手を握りしめた。


 急に息が苦しくなる。

 シキはもううちの玄関を出たかしら。敷地を出たかしら。


(今追いかけたら、間に合うかしら……)


 いや、だめだ。

 授業をキャンセルしたら、父にすぐ報告がいくだろう。

 そうしたら、せっかくつけてもらった家庭教師を外されるかもしれない。

 父は御堂寺家の絶対君主なのだから。


(でも……でもよ)


 これから前回のおさらいも兼ねて小テストをし、採点もすぐにして、次の一週間にむけて覚えることをざくざく学ぶ。

 いつもしていることなのに、今日はできる気がしない。


(さぼりますって……言える?)


 心臓がばくばくするのが自分でもわかる。

 だって、シキが。でも、父が。


(せっかく今頑張ってるのに……父の機嫌をそこねて水の泡になるのはいやだわ)

「大丈夫ですか?」


 小テストを前にして、両手を膝に置いたまま、じっと固まっている珊瑚に家庭教師が声をかける。


「あの……」

「はい」

「あの……わたくし」


 現状を壊すのはいやだ。

 でも、現状を壊すのが怖くてじっとしている自分がもっといやだ。


 相反する気持ちが胸の中でぶつかり合い、気持ち悪くてしかたがない。

 珊瑚は音を立てて椅子から立ち上がった。さっきシキからもらった黒いぬいぐるみを右手でわしづかむ。


「先生すみません!」

「はい」

「今日はおやすみしますわ!」


 相手の返事を聞くことなく、珊瑚は身をひるがえして部屋から出た。

 使用人が驚いた表情をしている前を突っ切って屋敷の外へ出る。


 御堂寺みどうじ家から最寄り駅に行く途中には、丘を切りひらいた公園がある。シキなら絶対、あの公園を通って帰るはずだった。


 追いかけて、追いついたらなにを言うのかわからない。

 感情の整理だって全然ついていない。


 でも、このまま別れてしまってはだめだと思った。

 今、シキを捕まえなくては、きっと、なにかがいびつなまま冷え固まってしまう。


 だから、凶悪な顔をした黒いぬいぐるみをぎゅっと手に握りしめて、珊瑚は駆けていった。


 なだらかな坂道をまっすぐに下りて、夜の公園へ。


◇◇◇


 冬の夜は、闇が濃い。


 等間隔にならぶ街灯のあかりの下を、珊瑚は走っている。

 息が白い。通り過ぎる人が振り返るのがわかる。


 クリスマスになるとカップルが夜景を見に集まってくる公園は、12月初旬の平日とあって人もいなかった。だから、のんびり歩いている後ろ姿を見つけるのはたやすかった。


「シキっ」


 あちこちはねている切りっぱなしのショートヘアが振り返る。


 驚いたように目を見開いているシキの顔を見るなり、珊瑚はぼろぼろと涙をこぼした。

 なんだかもう、なにもかも、我慢できなくなっていた。


「えっどしたっ」


 あわてたようにシキが近寄ってくる。


「うわーコートも着ないでなにやってんの。とりあえずこれ着て」

「やだっ」


 毛足の長い黒のコートをシキが脱ごうとしたので、珊瑚は反抗した。


「どしたの」


 どうしたと言われても、説明できるならこんなことには最初からなっていないわけで。今だってなにをどう言っていいかわからないわけで。


 うううー、と珊瑚が泣き声を押し殺していると、シキが心配そうに顔を覗き込んでくる。


「いじめられた?」

「違うっ」

「いやがらせされた?」

「違うっ」

「どこか痛いの? お腹?」

「違う、ばか。きらいっ」

「なにがいやなの、言ってみな」


 ばかとかきらいとかわれても、シキは少しも動じていないようだった。

 罵られ慣れているというか、修羅場慣れしているというか。

 でもその安定感のある態度が珊瑚の口をゆるませたことも事実だった。


「大事な……と、友達と半年ぶりで会えたのに、わたくしったら、ほんのちょっとのお茶の時間も自由にできなくて」

「できてたじゃん、今日」

「足りないのっ」


 八つ当たりのように語気を荒げても、シキは表情を変えない。だから珊瑚は思い切り感情をぶちまけることができた。


 半年前の自分と比べて、成長できた自覚はあること。でも、やらなければいけないことが多すぎて時間が足りないこと。焦っても仕方ないことはわかっていてもどうにもならないこと。


「やってもやっても終わらないし、新しい課題ばっかり増えるし!」

「うん」

「お父様は、そんなの当たり前みたいな顔してすましてるし!」

「うん」

「それなのに、軽々と先に進んでる人の話を聞かされて、楽しそうになんてできないし、冷静でいるのもむりっ!」


 しゃくりあげながら言う珊瑚の話を、シキはうなずきながら聞いている。


 ああもう、わたくしのばか。


 珊瑚は思っていることを全部言いながら、頭のすみでどこか冷静にそう思った。


 こんなの、ほんとに、八つ当たりだ。

 シキが悪いんじゃないし、全部自分で頑張るしかないことなんだし、まぁわかっていてもどうしようもないんだけど。


 ──あとで、落ち着いたら、シキに謝らなくちゃ。


 そんなことを思っていると、シキは唐突にこう言った。


「足りないなら、あたしの時間も使えばいいよ」

「は?」


 は? なんて、言ったのはこれが初めてだった。


「なにそれ……」

「一緒に考えようってこと」

「考えるってなにを……」

「珊瑚は今、お父さんの存在が大きな圧力になってるわけでしょ。でも生涯ついてまわる縁なら、切り離してお互い血みどろになるより、利用することを考えたほうがいい。多分そっちの方がダメージが少ない」

「言い方が、なんかひどい」

「言い方を考えてる余裕が今のあんたにあるんだっけ?」


 ないのだった。

 珊瑚は小さくしゃくりあげる。


「お父さんだろうが誰だろうが、あんたに協力したほうが相手の利益になる、そういう状況を作り出せばいいんじゃないの」

「それは……そのとおりね」


 加熱した頭が冷えていくのがわかる。

 頭の中でなにかがちかちかと反応していた。


「要はさ、あんたが従順なお人形でいるよりも、多少言うことは聞かなくても賢い娘である方が、父上にとってメリットがあるならいいわけでしょ」

「メリット……」


 珊瑚はおうむ返しに繰り返す。

 なにか今、とても大事なことを聞いている気がする。

 自然と無口になり、涙がひいていく。


「えーと、たとえばさぁ」


 下部企業の子女たちをあんたがまとめるとか。ライバル社の子女たちと対等以上に戦えるだとか。気に入らない親族の子女たちを黙らせられるだとか。

 シキは素早くいくつかあげてみせた。


 さすがは蛇屋の三代目、上流階級の内情をよく知っている。そして、頭がいい。


 この素早い頭の動かし方には、覚えがあった。

 珊瑚の今の家庭教師に、とてもよく似ているのだ。

 タイプは全然違うけれど、シキはシキなりに、彼女のいる世界でトップクラスなのだということがよくわかった。


(だとすると……わたくしがこの人の友人でい続けるためには)


 自分もそれなりのところまでのぼっていかなくては釣り合わない。


(やっぱり、わたくし、まだ足りない)


 珊瑚がそう考えて唇を引き結んでいると、目の前で手の平がひらひらと振られた。


「あのさ」

「なぁに」

「珊瑚は頑張りすぎじゃないかなあ」


 なにそれ。と思ったのが顔に出たらしい。シキは続けた。


「頑張りすぎると体こわすよ」

「だってやらないと終わらないでしょ」

「そういうとこ。人の力を借りるのも大事。珊瑚って、ひとりで頑張るタイプだから心配だな」

「なによそれ……」


 左手を蛇の毒で腫れあがらせて、そのことについて一言も愚痴を言わない人に言われたくなかった。

 珊瑚が口をとがらせると、シキは白い歯を見せて、まぁしゃーないか、と笑った。


「なんでも少しずつだね。急には無理だよ、練習しないと」

「練習ってなに」

「とりあえずあたしにいろいろ言ってみたら?」

「じゃあ言わせてもらいますけどね。なによ、新しく、若くて美人でお金持ちの友達ができて浮かれてるくせに」

「えっそりゃ浮かれるよ」


 へぇー、と珊瑚は半目になった。


「悪びれないこと……」

「だって、仕事相手なら若くて金持ってるほうがいいじゃん」

「どういう理屈なのよ」

「若い方があたしのつけこむ隙があるよね。まぁ年とっててもつけこむけど」

「あなたって、サイテー」

「知らなかった?」

「知ってた!」


 最低と口では言いながら、珊瑚は笑顔になっていた。


「それにひとつ訂正するけど、彼女は友達じゃなくて仕事相手ね」

「ふうん」

「蛇屋の仕事、覚えてる?」


 女の役に立つこと。珊瑚が言うと、シキは機嫌よくうなずいた。


 涙もひいて、多少元気が出てきたのか、珊瑚はもう少しわがままを言いたい気分になってくる。

 なにを言っても受け止めてくれる人間が目の前にいて、そうしない理由もない。


「じゃあそろそろこれ着てもらえる?」

「いやー」

「だめ、着なさい」


 だってそれ脱いだらシキ半袖じゃないのと珊瑚は眉をひそめたが、やや強引にコートを着せかけられた。

 毛足の長いコートは、あったかくてふわふわしている。

 珊瑚はそっとその中に鼻先をうずめてみた。


「風邪ひくの絶対ダメ」

「ふーん」

「ふーんじゃなくて、はいでしょ」

「はーい」


 たしなめられるのもなんだか嬉しい。わがままを言いたい理由はそこなのだった。


「わかった? わかったら、新しい約束をしようね」

「約束?」

「つらい時はちゃんと言うこと」


 シキの黒々とした瞳がまっすぐこちらを見つめている。

 さっき大泣きしたことが今さら恥ずかしくなって、珊瑚は目をそらした。


 高台の公園から見える街のあかりは、クリスマスにはまだ遠くても、恋人同士で見るのじゃなくても、美しくまたたいている。

 シキが返事を待っているので珊瑚は仕方なく口をひらいた。


「相談……してもいいの」

「いいよ。ていうか、それ、言い方変えてもう一回言い直して」

「次は、困ったらすぐ頼るから」

「うん」


 じゃあ送るよと言って、シキは当たり前みたいに珊瑚の手をとった。

 体温の高い手だった。


 誰もいない夜の公園を、手を引かれて歩きながら、珊瑚は横目で街を見下ろした。

 きらきら光る街のあかりは、朝になれば消えるけれど、少しずつ、またなにかが動き始めた夜だった。


(どんなあかりも約束も、永遠に続く魔法ではないけれど)


 つないだ手から伝わる体温は確かにあたたかい。

 珊瑚は黙って手をつないだまま、坂道をゆっくりと歩いたのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 若くて美人でお金持ちのオージーはシキにとって仕事相手で、珊瑚は友達なんですね。 すごい特別感! 超人らしさと親しみやすさと謎な部分が混在するシキの魅力、それから二人の絆を堪能しました。 …
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