82 誰が誰を?
※ 残酷な描写や辛い描写があります。
ずっとその名を呼ぶ。
…ボーティス。
ボーティス。
あなたが私の愛する人で良かった。
レグルスはそう思う。
本当はその人の事はまだ良く知らないのだけれど、きっとこの先も、ずっとずっと今のままの人なのだろうと。2週間ぶりに会って、レグルスは夫の温かい胸に落ち着く。
ボーティスはベッドサイドに座ると、荷物からたくさんのプロテインバーを取り出した。
「…?」
「食べろ。日に日に肉が落ちてるだろ?」
ユラスの情勢が難しくなって、近隣国家に影響を与えていた。
「いいか。これは他人にあげるな。他の奴は他の奴で支給がある。今1本食べろ。何本でもいい。明日の朝もだ。」
「…………。」
しょうがなく封を開けてモゴモゴと食べ、ボーティスは近くに飲み水を置いた。
「心配しないで。私、結構丈夫なんだよ。こう見えてもバレー部だったし。」
ボーディスは妻の額を優しくなでる。
「このチョコはトレミーに。いつもレグルスがお世話になっているからな。」
大き目のキャンディーのような3つの丸いチョコが入った包を渡す。
「うん、ありがとう。喜ぶよ。」
「これはレグルス。」
1つを包みから出して手に渡す。
「今食べろ。」
「………。」
「どうせ誰かにあげるだろ。俺の前で食べろ。」
「もう…。」
モグモグと先にプロテインバーを食べる。ボーディスには、ゆっくり食べるレグルスの姿が本来の姿なのか、ここに来てから体が弱ってしまったからなのかは分からない。
「………。」
「レグルス……」
「……。」
何か決意を込めた夫を不安気に眺める。
「ここを出るか?」
「…。」
「ここを……?」
無言で目を見開く。
「義兄さんたちは知っているの?」
リーダー格の男たちだ。
「いや、これから交渉する。」
握られた手をふりほどいてレグルスは言った。
「ダメだよ…。私はここを離れられない………。」
看護師でもあり、この中で最も優秀な数学の講師であるレグルスを彼らが手放すとは思えなかった。
「………。」
「………それに…。約束をしたから、ここにみんなと一緒に居るって……。」
みんな…、子供や女性たちの事だろう。
「少し………少し先立って出るだけだ。この外で出来ることもある。」
「でも、姉さんたちはここに残る覚悟でしょ?」
「……ああ、そうだ。」
ここで始めたことを放棄して行けるわけがない。少なくとも今自分が抱えた人間を全て見送るまでは。
「なら私も出ていけない!」
「しっ!声は小さく…。」
「………。」
信じられないと言う顔でレグルスは見ていた。
「……それに姉さんたちは…。自分の親や仲間の夫や子供を殺した人たちと結婚をしたの…。」
「…っ」
みんなマスクやプロテクターをしていたので、彼らが実行犯かは分からない。でも全体の指揮をしていたことは確かだ。
「姉さんたちは、全てを覚悟したから……!」
実はカラともう一人が妊娠をしていたのだが、ここでの環境は想像以上に体や精神に負担を強いていたのだろう。二人とも流産している。
この体調ですぐに妊娠は不安だと伝えたところ、避妊はさせてもらっているようだ。でも、またいつ次の子供が出来てもおかしくない。それすらここでは特別なことだ。妻の意思や体など考えもしない者がギュグニーには多い。
「姉さんたちと……覚悟を一緒にしたい…。
妊娠後も流産の後も働いていたから………もしかしたら体も弱っているかもしれない…。私は知らずに、私も任せっきりだったから……。」
カラはレグルスに何も知らせていなかった。その事がレグルスにはショックだったのだ。養生が出来なかった身で、また妊娠をしたらと不安になる。そんな仲間たちを置いていけない。
「彼らだって自分の子はほしい。もう無理はさせないだろう。」
あの男が完全にカラに惚れこんでいるのは誰が見ても明らかだった。
「だったら、何かの時にここの働き手が必要でしょ?」
「分かった……レグルス。あくまでも一つの案だ。不安にならなくてもいい。」
動揺しているレグルスを軽く抱きしめる。
ユラスが不安定になり、周りの情勢が焦りを見せていたり、活気付いたりしている。
ボーティスはどう説明するべきか悩んだ。今、あまりにいろんなことを言っても受け止めきれないだろう。このコミュニティーでも抱えていることが多すぎる。
女たちが率直に意見が言えない中で、全ての人間を抱え込むことはできない。次はどの子を外に出すのか。あまりにたくさんの娘がカラたちの元で働きたいと言っても、ここでの力バランスに影響を与える。
バランスを取らなければならないことが多すぎた。
でも、何がより重視すべき重石になるのかは、天秤に乗せてみないと分からないのだ。
いつもいつでも、薄い氷の上を歩くように誰もが緊張していた。
***
「うううぅぅ…」
薄暗い部屋で、壁に頭を付けてずっとすすり泣く声がする。もう、ずっとずっと。
「カラ………」
「ぅぅぅ…」
「ごめん。すまない…。」
男の手はどこにも着地できない。消え入りそうなカラの白い肌が、触ったら壊れてしまうガラス細工のようで、地面に落ちたら解けてしまう雪の結晶のようで…、触れることできず彷徨っている。
「ぅう…」
今日はカラの両親、カーマイン夫妻の結婚記念日だった。
「ううぅ…っ。」
あの日、誰が誰を殺したのかは正確には分からないことが多い。だがカラは姉であるカーマイン家の長女を殺した男は知っている。雰囲気で分かった。その男すら、最初に自分やレグルスを求めてきた。その場で血が湧いたが、あの時はどうにか胸を収めた。男はどこかでいつしか戦死してしまったらしい。
でも、あの襲撃の場にいて今も生きている者は多い。
誰かが誰かを殺している。
でもカラはそのことには触れない。自分の胸に封印した。なぜなら一緒にここに来た同僚の中には、息子を殺された者もいた。娘だけが助かったのだ。
それでも、たとえどうあれ指揮をしたのは夫も含む、今いるこの男たちだ。そして、時々あふれてくる、どこにも吐き出せないこの思い。自分が許しても、誰かは許せるのか。
それでも生きるために、うまく立ち振る舞ってほしいとシーキス牧師に言われた。
カラたちがここに来た頃、全てを総括しているリーダーのバイシーアがカラを欲しいと言った。既に妻も妾もいる男だ。しかし、シーキス牧師はどうにかうまく説得して、未婚の男にあてがう事ができた。初めは総リーダーが今の妻とは別れると言い放ったが、それではこのコミュニティーの均衡が崩れてしまう。
今一番重要なのは、女性同士のバランスだ。
信頼を失ってはいけないとバイシーアに言い聴かせた。
実際、このコミュニティーのリーダーたちは元々同志で横並びの仲であった。
シーキス牧師は苦肉の策ではあったが、オキオル共和国のジライフ大使館の職員たちの女性をその襲撃者たちに継がせた。彼ら数名は地頭がよかったからだ。取り返しのつかないことはしたが、これまで会った中では話の通じない部類の人間ではない。直接の質問と霊性を見て、同時ここにいる家族に直接手を掛けてない者を選んではいる。
「………許してくれ。知らなかったんだ…。」
夫が焦るように続ける。
何が知らなかったんだと言いたいが、もう言葉は出なかった。
カラは誰もが恐れる女性だったが、今、その背中はとても小さく見えた。
夫である男は恐る恐る、やっとその背中に触れる。
それでもただ泣いているカラ。
男は何度も様子を見ながら…少しずつカラを後ろから包む。
「ううぅ……」
力なく崩れる、男よりはずっと細い首と鎖骨。
「許してほしい……。世界にこんな場所や、こんな気持ちがあるなんて…知らなかったんだ。」
外交官夫妻を、その殺害を知らなかったわけではない。
でも夫は、カラたちの作るような世界を知らなかったのだ。
「…ぅ…」
「お願いだ…。いなくならないでくれ。ずっと一緒に居てくれ……」
しばらく泣いたカラの横に、男はサバイバルナイフを投げる。
「カラ。刺してくれ。」
「………」
「刺してくれ。…気が済むまで…。」
「………」
ナイフを見て死相のまま、一瞬止まるカラ。
涙や鼻水でむくんだ顔を近くにあったシーツでふき取ると、すごい勢いで鞘から外してある刃の光るナイフを握った。
「うわあっ!!」
そう言ってナイフを投げつけると、不器用にそれは夫の横の壁に当たった。ぶつけようとしたのか、外したのかは分からない。
「カラ…。本当に刺していいんだ…。カラなら……」
「…ぅぅ…」
男は静かにカラを抱き寄せて、二人でずっと泣いた。
カラにはそんな事はできなかった。
たとえ犯罪者であっても、今は無抵抗だ。
無抵抗な人を刺すなら自分を刺すことを選んだであろう。
その後3日ほど、カラは体調不良で寝込んでいた。
***
もう一人。亜麻のブロンドをなびかせる女は時々眠れぬ夜を過ごしていた。
ジライフの看護師であり衛生士であったロワース。
決意はしたけれど、時々揺れるこの心。
娘の一人は助けることができたが、息子は……。
なぜ生かしてくれなかったのか。
横のベッドで眠る娘を見る度に、似ているもう一人の面影を探す。オキオル共和国は中立だったのに。
なぜ?
その実行犯に近い男たちが幸せに暮らしている。自分の欲しかった女性を手にして。
いや、実質実行犯であろう。
「お母さん、大丈夫?」
「?!」
「大丈夫?」
「……。」
「リオの事を思い出してたの?苦しそうに唸ってたよ?」
リオはこの子の兄だ。
もう一人、母も父も亡くした子はその向こう側で眠っている。
ここには15人ほどいて時々すすり泣く子がいたが、呻いているのが母ロワースだと知って、少女はショックを受けていた。
ロワースは震える。
「………」
無意識で呻いていた。
「お母さん……。」
「………。」
涙を流す娘の手をギュッと握り自分も泣いた。
***
このコミュニティーに最大の試練が訪れたのは、男たちのリーダーが留守になっていた時だった。
いや、既にその男たちの何人かは死んでいた。
ギュグニーの国境沿いで大規模な奇襲にあったのだ。
高性能、低価格の新しいニューロスが導入され、これまでと勢力図が変わろうとしていた。




