59 いつか向かい合うのは。
ファクトはとにかくそわそわ動く。
散らばっていた本を踏みそうになったので、サダルが「踏むな」と防ぐと、ガードで出した手にチョップをされた。そして、それから延々とチョップだ。はっきり言ってウザい。
「……。」
「こら、ファクト!お前が悪い。本は踏むなと言っただろ。しかも全部天の書だぞ。」
そう言うと自分の指を噛んで仰向けになって、今度は壁にねこキックをしている。
ポラリスは、本を降ろしたローテーブルにお米のパンとチーズのサンドを出した。
そこにすぐ飛びついてくる子供。
「サダル君、ごめんな。これは子供の分だ。食べ終わるまでは大人しい。」
パンに弾力があって大きいので、5分は掛かるだろう。多分。
「……はぁ。」
「え?息子さんですか?とか聞いてくれないの?」
「…『息子さんですか?』」
聞かれたそうなので言っておく。どうせ息子だろう。
「そーです!!ウチとミザルの子!かわいいだろ!!」
「………。」
この父親もウザいと思うが、喜びそうなことを言えばいいのか。
「かわいいです。」
「え?なんでそんなに淡泊に言うの?それ何フェチ?」
無視して下手くそに食べる子供を見つめる。
「…3歳ですよね?」
この夫婦に子供ができた話は業界では有名なので、だいたいあの頃の話題かと記憶を探る。
「え?!知ってるの?本当は興味津々?」
「…………」
自分の記憶を整理したかっただけだ。
そして、3分もせずに食べ終えた息子は、またサダルの部屋で暴れ出すのだった。
「子供は嫌いか?」
ポラリスは今度は大人用の食事を用意しながら聞く。
ファクトと呼ばれた息子は、ポラリスがデバイスでハッピーくんとかいう動画を出すと、画面を見れるよう腹ばいで寝て大人しくなった。くいるように見ている。何も考えていなさそうな3歳児でも言葉やスクロールして見たい動画を選んでいた。
「好きでも嫌いでもありません。子供が近くにいること自体久しぶりです。」
本当にこの生物は知生体になるのかと言いたくなる、反射神経だけで単純に生きていそうなポラリスの子をしばらく眺める。
「まあそうだな。自分も妻や社員の子が妊娠するまで、患者以外で子供の存在を気にすることがなかったよ。」
温めただけだが、同じチーズのパンとレトルトのスープを出した。
「あまり食べてないだろ。食べてくれ。」
「………」
「…食べた方がいいぞ。」
「……もしかして、正道教教会で何かあったか?シリたちに、怒らせてしまったようなのでフォローよろしくと言われた。あ、シリって今日の面談した一人なんだけど。」
「………。」
「こんなこと言ってあれなんだが、悪い奴らではないんだ。身内には言うが普段は生徒に変なこと言ったりはしないよ。許してあげてくれ。」
自分も生徒なんだがと思う。
「……私も牧師だ。人間的な目では見ないし、天の代身だと思ってくれ。我々の間には天が仲介をしてくれる。言いたいことがあったら何でも聞く。報告はさせてもらうが。」
「……」
横に座り込んで、食事の祈りをささげたポラリスが先に食べる。サダルは膝立ちのまま顔を伏せてしまった。
「………」
何もないようなこの時間。
――柔和な者は幸いを得る。彼らは神の国を受け継ぐであろう――
聖典の一句が頭に響く。
意外なことに、しばらく黙っていたサダルが顔も上げずにゆっくり口を開いた。
「自分の中で憤りが拭えません…。」
「……」
「全てに対して………。」
「正直、頭の良くなかった母も、あの拾い子も重荷でした………。」
「…………」
何のことか分からないがポラリスは黙って聞く。
「唆されて勝手に内戦を犯したクソったれたユラスの奴らも…母を見殺しにしたあの男どもも…終身刑や死刑以外、ユラスで服役が終わればのうのうと生きていると思うと、ユラスもどうでもいいと思ってしまいます。」
「…………。」
「クソってよく言うのも…本当はもっといろんな言葉で罵ってやりたいんですが、ここに全部集約して吐き出すことにしています…。」
頭も口も回りそうなので、そのくらいがいいと思うが、一応言っておくポラリス。
「………今は何でも言ってくれ。」
「…ここに来てみたらハッサーレで過ごした10年がバカバカしくて…。必死にもがいて獲ろうとしたものがここには当たり前にあって…。誰もが素知らぬ顔で享受していて…。人の屍の上で生きているのに偉そうで。」
男はだいたいそうなのだが、余り根掘り葉掘り話さず、次の話に移っている。
「でも…………。総師長の言うことも分かります。全ての人のせいだとも思うんですが………誰のせいでもないことも…。」
そう言い出したらキリがない。
それを言い出したら、誰だって過去の遺産の上で生まれて生きてきたのだ。
誰だって言い訳したい。
そして誰が正しく生きてきたかなんて…誰にも分からない。
正しさは目に見えるものでも、直ぐ結論付けられるものでもない。
でも、歴史や万象は覚えている。誰も見なかったその全ての記録を。
そして真理といつか向き合うのは他人ではない。
自分自身だ。
いつか自分自身と対面するのは自分なのだ。
あなたは、あなたのしたことにおいて自分自身と向き合う時が来るのだ。
「自分を卑下する意味ではなくて…。自分がこんなにも小さくてバカだったんだって………知ったんです。」
人を蔑むクセも、押さえられない怒りも、どうでもいいと投げやることも。
サダルが他人をどうでもいいと思うように、相手から見たらサダルのそれすらどうだっていいのだ。
「…………。」
高慢、妬み、嫉妬、その全てが自身の中にあって、その全てが今の自分の中にあり、今の世界を形作っている。
この世界に謝ってほしい事がたくさんあるのに、なぜ自分が赦すのか。
少なくともこんな世界で。
でも、それは全ての人に与えられた、次への切符だから。
「………みんなね。それぞれ位置もスタートも違うんだよ。後で知らぬ間に………取り戻せるものもある。」
ポラリスが少しだけ話し出す。
「言われることに対する理解も違う。」
「この『赦す』の内にある真理は変わらないが、いくつかの『赦し』の形や捉え方が存在する。」
「…。」
「でもね、本当の深い赦しはね、自分が『唯一無二の存在として無限に、条件なく愛されていること』を知っていて、『神の愛において自分が赦されていること』の分かる人間にしかできないんだよ。
人間それ自体の中に、大きな愛はないからね。
悪いことをしたから許す、許さないよりももっと違う次元での『赦し』なんだ。これは旧約が理解できなかったことだ。聖典が全部、悪と戦い天の国家が勝利を得る物語のような話をしていると思って、自身の内面性に問いかけるものだと気が付かなかったんだ。」
「………。」
「ただ、ほとんどの人類はまだ『完全な赦し』も知らないけどね。だからほんの触りでもいい。その言葉を知っているだけでも、これから生きていく世界が変わって来るよ。」
「……」
サダルはまだ顔を上げない。
動画を見ていたファクトが、会話する2人をじっと見た後、座っているサダルの背中に回って体を預け、そこでデバイスを見だした。
音量は一番小さくしてあるが、能天気な音楽や間抜けなセリフが背中から微妙に聞こえてくる。背中に小さい子供の不思議な感触があり、懐かしい感じがする。
「ファクト。父さんは大事な話をしてるから、向こうに行きなさい。」
そういうポラリスを無視してファクトは目線だけを反対にするので、背中がもぞもぞ動く。
「………それにね、神は賛美の中だけにいるんじゃないよ。ユラス教はどちらかと言うと、威厳と栄華の神かな。規律、権威、教義…かな?」
「………。」
「でも、私たちの神は同じ全知の神だが…なんだろうな。アジア人は少し違うんだ。でも、神はそれも必要としていたのかな。
だから長い歴史では発展が遅れたアジアや東洋に、最後の神の声が流れ込んだのかな……と思うんだけど、なんと言うのかな。
野道や田畑の道すがらの小さなお地蔵さんにでも手を合わせるような心や…、貧しくても昔は家で祭壇や先祖に水やご飯を捧げていただろ。明日平和もないような絶望な場所でも、手を合わせて小さなものを守っていたんだよ。
足元や、暖を入れてどうにか寒さをしのげる、親や祖父母の温かい布団の中や………」
写真や映像の中の民俗学や地理の知識だがなんとなくは情景が分かる。でも、ポラリスが描いているようには分からないのかもしれない。
「…そういう小さなところにも溢れていて…」
「…………?」
「………」
ふと優しく笑う。
「神は人の失態を蔑み笑うと思うか?」
サダルは答えない。




