52 価値観の転換
その日の朝9時の話し合いは、『ナシュラ・ラオ』の今後についてであった。
SR社中核の人間だけでなく東アジア政府の人間も来て、ぜひSR社に入社してほしいとのことであった。ひとまずナシュラ・ラオの名で。
眉一つ動かさないサダル。
ポラリスとミザル、チュラを始めとする数人の博士や役員も、詳細は知らないがこの会議に参加するよう言われた。ポラリスはサダルがアジア系ハッサーレ人ではなく、ユラス人でバイラということは知っている。
「ハッサーレには、ナシュラ君はここでニューロス開発に必要な研究が出来ると言ってある。向こうも行き詰っていることは分かっているしな。」
おそらく返さないという半脅しであろう。
「ひとまず普通に入社してもらって、それから時を見計らって…公表する。」
みんな黙って聞いている。
「君がユラス国内生き残りの、『ナオス族族長直系』だということを。」
「…っ?」
さすがに目を上げるサダル。SR社で話すことなのか。この場に同席したSR社社内の人間も驚いている。
「家督は君の母が預かり、今君に受け継がれているはずだ。」
「………。」
サダルには記憶にない。毎週月曜日朝にしていた、出発の前の朝拝の事だろうか…と思う。
「君は母系なので、生きている男性親族に渡すこともできるし、そう望まれることもあるだろう。」
会議室が静まる。
「でも、カストル総師長の見解だが、この一時代。せめてユラスの内戦が終わるまでは君が現宗譜の上に立ってほしいとのことだ。」
内戦が終わる?
そんなことがあるのかと、ユラス人として馬鹿らしく思う。しかもその時勢に自分が関わる?
『宗譜』とは、東洋内陸に大きく広がる父系血族の系図だ。
広くは族譜と言い、家譜、世蝶などとも呼ばれる。現在は宗譜だけでなく、女性も入った系図が残されることが多く、遺伝子情報が付属されることが多い。
本来サダルはナオス族譜からは外れ父のジェネス家系に属するが、当時の混乱の中、誰が生き残るか分からず、一旦末娘のサーライにその役目が残されたのだ。
「なぜ私が?」
カストルの代わりに来た、エリスという男が説明する。
「…カストル総師長は………生き残った親族の中で君が唯一ユラス国内に残っていてユラスをよく知り、一番性格が悪いから…と申しております。」
「……。」
全員黙ってしまう。
ユラスを知る……というのは分かる。
性格が悪い?それ言う?と思う周囲。本人目の前である。
みんながサダルに注目した。
「……」
こんな何系か分からない男、性格がいいのかも悪いのかも分からない。ただ、この場にいるポラリスとチュラだけは思う。「うん、この人多分めっちゃ性格が悪い」。
「私が知るのは、家が貧しかった幼少期のユラスだけです。自分の今の考え方や傾向も…多分……」
少女自身の尊厳に考慮なく、体にメスを入れることを許した。
「………あまり連合国に合う人間ではありません。先日オミクロンを怒らせましたし。政治や国に関与する知識や技量もありません。ここには技術者として来たつもりですが。私がスパイ活動をするとか考えないのですか?」
言いながら、どれもこれもバカらしく思う。
しばらく誰も話さない。
無表情で下を向くサダルを、エリスも無表情で見る。
「だが、総師長は君がいいと言っている。いずれにしても、家督を譲るには君から大叔父なり親族一家に継がなければいけない。その間だけでも…族長役を担ってほしい。」
「…何を買われているのか、意味が分かりません。」
「現在ナオス家長は空席になっていますが、霊性の家督は君が持っていることに変わりはありません。もし、それを捻じ曲げれ他の人間を立てれば、直ぐに影響はなくともいずれ現実世界も何かが捻じれてきます。」
他の牧師も付けたした。人が想像する以上に、霊的な信任は大きい。
ただの我欲で離反や謀反、襲撃、下剋上を起こしてもうまくいかないのはそのためだ。革命や改革も手順がなければ必ず崩れる。
どんなことにも手順があるのだ。見えない世界でもその力は動いている。
「なんにしても自分には何の準備もありません。」
「私もよく分かりませんが、サダル氏くらいキツイ性格の方がいいとのことです。」
サダルの言葉にエリスがすぐに返す。
おっ、はっきり言うな!と思う、この中で唯一きつくないポラリスとチュラ。はっきり言ってこの会議室にいる全員性格がきつそうだ。エリスもたいがいである。
「それに…ハッサーレの工業産業を押し上げたのはあなたと聞いています。」
東アジアの男も発言する。かなり強引な方法で、まだ成人になるかならないかの学生が、一気に国の工業の仕組みを変えてしまった。技術者のする仕事ではない。
「…」
サダルは、だから何なんだという顔をしている。
他人から見ればそれなりの業績でも、今のサダルにとっては、出遅れて世界に取り残された10年でしかなかった。
「それに今のユラスには紛争が付きまといます。私は軍人でもないし、その世界も知りません。」
ただ、ハッサーレも16から21まで基礎訓練と部分的な兵役はする。サダルは国家事業の一員として、半分免除になってきた。その間も、何の出動命令もなく基礎を学んでいたくらいだ。平和だったので戦時中国家の役に立つ経験などない。
他にもいろいろ説明を受けるが、とにかく『ナオス家を復興させる』という話であった。
ユラス民族で最も大きな家系、ナオス族ナオス家に穴が開き、ユラス中が分裂しかかっている。
ユラス人の中にも数千年戦争に明け暮れたナオス家をなくせばいいと思っている者が多い。けれどナオス家も内外からのつぶしと駆け引きの中で最も最善とする歴史を選んできたのだ。一見ボロボロに見えるが、天の家系から分離したユラスの冷戦の引導を持っている。
そしてその穴をギュグニーが狙っている。ギュグニーもバカではない。戦闘ではなく、情報操作と国内分裂において占領しようとしているのだ。10年ほど前の、あの同時多発テロのように。
だが、サダルは今の足場が分からなくなってしまった。
踏む土地が変わったとたんに、変わってしまった周囲と自分の中の価値観。
たいして意味のなかったハッサーレでの技術。
ユラスでもなく、今更踏む東アジアの土地。
思えば東アジアも、母が安全に生きられる、少なくとも殺されたりはしないと聞いたから行きたかったのだ。自分一人ならどこだってよかった。
たったひとりこの土地を踏んで、それからユラスにしても、何の意味も感じられなかった。
そして非常に愚かだったとも。自分は独り身で人質も何もいなかったのだ。仲間の研究員以外は。もし自分がハッサーレの立場なら、名だけの養父母など付けずよく面倒を見させて情を持たせ、それこそその親族全てをいざという時の人質にしたであろう。
やはり、もっと早く自分から動くべきであったと。
ハッサーレに帰るべきとも思い、それもおかしな事だとも思う。ならここに?
何のために。自分はここの人間ではない。
明日どころか、今日のこの会議後も何をしたらいいのか分からなかった。
***
ニューロスの監視付きだが、本名『チコ・ミルク』が現在入っている第Ⅳルームで、サダルは椅子に座って簡易義体を眺める。
設備一つにしても、義体一つにしても材質も技術も全然違う。
部屋に置いてある自動設計自動組み立てロボが作る義体ですら、ハッサーレの最新の完成品より出来がいい。ハッサーレでは研究員が集まって必死で作ったようなものを、ここでは家においてあるプリンター感覚の機械で、アレンジしながら量産までする技術があるという事だ。
SR社の製品は本当に違うと聞いていたが、ナンシーズというモデルスタイルのアンドロイドに会ったとき、どう見てもアンドロイドなのに非常に自然なことに驚いた。少し見れば整い過ぎてアンドロイドと分かるのだが、それでもなんというのだろう、造作一つ一つに心地よさと親しみが持てるのだ。
人間に似せたロボットはいくらでも見たことがあったが、同じ空間にいればいるほど人間と見間違うほどのものは見たこともなかった。違和感や不愉快さがない。
これでも、もっと上のクラスがいるという。
しかもあの、チコという被験体はまだ話すこともなく虚ろだが、この前椅子に座ったらしい。
自分がここに入社して何になるのだ。意味がないと思う。
横の大陸のいち国家の次期族長候補というだけで、本来関係のないSR社で匿ってもらえるのか?コネ入社にも程がある。
分かったとこは、ここではただの努力型の人間なんてほぼ用無しだ。
天才が努力しているような場所である。
秀才やちょっとしたプレイシアが努力したところで補助ぐらいにしかならない。あのチュラという補佐ですら、幼稚園に上がる頃には既に関数を使いこなしていたらしい。こんなところになぜサダルが必要なのだ。どう考えても付け足しだ。ユラスでの幼少期、サダルは優秀ではあったがもっと上はいくらでもいた。
サダルはチコと呼ばれる被験体の前まで歩いていく。
「……人をバカにして楽しかったか?私への復讐か?」
あのままオミクロンが入らなければ、死ぬに任せて本当に検体にしていただろう。
「………」
この被験体は何にも反応しない。ここで会うアンドロイドたちより人形のようだ。
こんな患者に何を話し掛けても無駄なことは知っている。
「…ただ、………申し訳なかった。」
誰も、目の前の被験体以外、人間のいない空間でサダルは弱々しく言った。
「それは謝る。これから大人になるはずの君の一部を奪ってしまった…。」
「…………」
聴こえているのか、意識が起きているのかも分からない紫の目。
「ただ、私に体に関する身体的な責任は負えない。その分ここの職員によく見てもらってくれ…。」
そう言って、サダルはこの研究室を後にする。ここ以外のどこかに行きたかった。
紫の目は、やはりどこを見ているのか分からない。
ただプカプカと深海に漂うように浮いているだけだった。
***
「元気にしてたか?」
2日後にカストルが帰国し、SR社内にある正道教教会の会議室でサダルに向かい合った。
「…………。」
「嫌そうだな。」
「あなたのせいで帰る場所を失いました。
ここにいても、ハッサーレに帰っても鬱になりそうです。ユラスでは殺されそうですし…。」
サダルは本当に顔色が悪かった。いっそうの事オミクロンにならこのまま殺されてもよいと思っていた。
「それは申し訳ないことをしたな。」
「…ホントに………」
本当に気分が悪い。
「ここにいる間ずっと本を読んでいたと聞いたが?研究や何かプロジェクトに参加しなかったのか?」
「入社もしていないし、しても無意味です。」
完全にやる気を失っていた。
今までの人生で初めてした息継ぎで、空気を得られずそのまま死にそうな気分だった。ただボーとすることもできなかったので、仕方なく本を読んだ。
「サイニックに関しては?君の担当だろ。」
「ここの職員に任せます。してしまったことの責任は……治療以外の形で取って行きます…。私以外の人間の方が優秀ですし。お金を払う事くらいしかできません…。亡命したことが知られたら銀行で止められるかもしれませんが。」
ただ、思う。これまでハッサーレで消えていった、傷跡を残した被験者はどうなるのか。サダルが直接施術していないにしても、研究所所長でなくても実質責任者はサダルである『ナシュラ・ラオ』だった。人を傷付けてきた人間が、ニューロス研究に関われるのか。ひどい話だ。
サダルは疲れ切った顔で、差し出された飲み物にも手を付けず、それ以上自分からは何も話さなかった。




