48 オミクロンへの道
緑の目の男はサイニックに語り掛ける。
ここで見る誰よりも優しそうな目で。
『チコ、申し訳なかった…。この任務でこんなことになるとは思わなかった…。』
もう一度頬に触れる男。耳元でささやくような声なのに、全てがサダルの中で反響する。
『取り返しのつかないことをした…。』
ここの責任者である自分が悪いとでも言いたいのか?それでもこの子は生き延びただろと言いたい。
罪悪感と…
怒りの両方がサダルの中に目覚める。
自分は取り返しのないことに何一つ謝ってもらったことはなかった。
親族はみんな死んでしまった。
ユラスは内戦ばかりでくだらないと言って平和に暮らしている者たちが、ユラスに北方国やギュグニー、北メンカルの脅威から守ってもらっているというのに。先進地域はその戦争特需で豊かに暮らしているのに、ユラスは戦争に狂っていると言う。
そいつらすら謝らない。ならユラスで死んでいった人間を返せと言いたい。
ユラスの内戦は、半分は外部勢力の引き寄せだ。アジアやアジアラインに戦争が流れないようにしてきたものなのに。
ユラスもクソだ。
古参は外部思想に傾倒する若者を責めるだけ。若者は若者で老害と言っている人間たちの作った世界でのうのうと生きながら何かを変えようともしていない。
誰も謝らず、人に責任を問う。
だれも責任を取ろうとしないこの世界。
こんな奴らのために…母の大切な人たちは死んでまで能無しだと世間に責められた。今でもネットを見ると、悪口のオンパレードだ。知らない奴らまでナオス家を責めている。戦争を食い止められず拡大させた無能どもだと。
何より、緑の目の男の言葉に、間接的に自分が責められている気がした。
困惑もする。
オミクロンの高位司令官クラスがここに来ているらしい。
なぜ?
自分はユラスのナオス国家であるダーオ首都周辺にいても、権力と武力のある者に保護してもらえなかった。
なのに、この女は?
本当は母と自分が保護される場所だったのに。
自分の時はオミクロンは幻でしかなかった。なのに、いち兵士のためにオミクロンは友好国でもないこの国に出向くのか?
そんなことは時勢もあるし今更どうしようもないという、自分の思いへのくだらなさと、燻る怒り。
香油が輝くなびく黒髪。
誰かが自分の小さな両肩を握る。
細い、こんなに細い手だっただろうか。
そして揺れる顔で、自分を見ることもなく走り出すあの人。
最後に舞った、ルバからあふれ出す美しい黒髪。
武装兵が思わず見入ってしまった茶と青のアースアイ。
転んだままでいれば燃えることもなかったのに、また駆け出す細い足。こんなに細かっただろうか?女性というだけでない。痩せてしまったのか?あの頃はそんなことは気が付かなかった。
緑の目を追いかけて炎の中に消えていった…あの人を思い出す。
母にも言いたかった。
自分の生活もできないのにもう一人子供を拾ってきて何をしたかったんだ。しかも、母は知っていたのだ。
あの緑の目はギュグニーの落とし子だと。
なぜあのまま緑の目をユラスの中心国家、ダーオに預けなかったのだ。そうすれば、自分たちはもっと身軽だったのに。
熱い。
…熱い。
――かーた!にーたあ!――
胸の奥に押し込めた子供の声が響く。
細かいことまでは覚えていない。
人に対し、ユラスに対し、世界に対し、拭えない怒りが湧く。
でも、自分は?
自分はどうなのだ。
なぜ自分はあの子を助けに行かなかったんだ?あの時自分は何をしていたのか?なぜ自分は母を止めなかったんだ?火事の中に入れば死ぬことなんて分かっていたのに。
なぜ、小さな子供にあんなことができたんだ?
なぜ、周りの大人たちは傍観したんだ?
でも、自分も傍観したではないか。
…熱い。熱い…。
その後のニュースで見た大型スーパーも思い出す。そこでも小さな子供たちが被害を受けていた。一体ユラスは…ギュグニーは何をしたかったんだ?
それももう責任転嫁だ。
ギュグニーの人間だって、今となってはなぜこんな国に生まれてしまったのか分からないだろう。好きで戦争をしている奴など上澄みと戦争が染みついてしまった人間だけだ。
今向き合うのは自分の他者への怒りではない。サイニックのことなのに。
そして誰もが同じなのだ。平和に生きていても結局不満を持って、全てを責める。
そしてまたギュグニーが生まれる。
――にーた!――
呼ばないでほしい。その名前は。
また高い値段のおもちゃ付きのお菓子を持って来る緑の子。
自分が蔑んだ目で見てもニコニコしている。
――これ、にーたの!――
本当に兄のために持って来たのか、家に帰れば結局自分の物でもあるのでそう言って絆そうとしたのかは分からない。良くも悪くもその場その場できっと都合のいいことを思っているのだろう。
2箱も何を考えているんだと言うと、「にーたの」でごまかす。いや、純粋にそう思っているのだろう。少なくともその時は。
ここまで純粋だと、それはそれで羨ましい。
たとえ他人のためを思っていようが、所詮金を払うのは自分で、生活支援まで貰っている母のか細い収入だ。そこを分かっていない。分かることもないだろう。
今、お金ならいくらでもある。
もっと喜ぶような物も買ってあげられる。
でも、抱えきれないほどのお金が出来ても…もう意味はない。
いろんなことが回って、頭の中がグルグルする。
――サダル。私たちは族長一家だからね。少し大きなものも抱えられるの――
これは何の話だ?
いつ?
大きなもの?
湯沸かし器のボン!という音も怖いのに?炒め物で飛んだ油すら怖いのに?
子供の生活一つ守れないのに?
根拠のない自信にあふれいつも気丈な母が、小さく見える。
部屋の片隅で布団を被り、本当に小さくなって泣く母。
くだらない男もいたし、気持ち悪い男もいた。母に目を向け、自分にも横に流す様な目を向ける男もいる。
でも、頼りありそうなのもいたのだ。タイヤンがそうであったように。
でも母は誰の手も取らない。
母さん。神様も父さんもきっと怒らないよ。
ユラスは永遠を誓うけれど、この世界で母だけで生きていくのは難し過ぎるから。
泣かないでほしい。
母さん。泣かないで。
タイヤンが言ったんだ。
もう、足のサイズは越えた。もう少しすれば背もすぐに母より高くなる。
死んでしまったまともに顔も知らない父や、軍人でもあった祖父や伯父たちの代わりに、自分が母を支えられる歳になるから……………
もう少し。もう少し………
もう少しだけ待ってほしい。
今度は震えるあなたの背中を、自分が抱きかかえてあげるから…………
緑の目が見える。
その目が…『チコ』と言った被験体の顔を辛そうに眺める。
「ナシュラ?…ナシュラ!!」
「っ?!」
バターブロンドの助手が心配そうに顔を細い手で覆った。
「ナシュラ?!大丈夫?汗が凄いよ………」
「…あ、ああ。」
心配そうに抱くその腕を掴み、助手を撫でて安心させる。
「…ナシュラ……」
もう1人の部下がタオルを差し出したので、受け取って顔を押さえ軽く感じる動悸も押さえる。
少し息を整えて、もう一度サイニックの方を見ると、緑の目の男が何か話しかけていた。もう、声は聴こえない。
すると、今まで全く反応しない、生きた人形のようだったサイニックの頬に涙が伝ったのが見えた。
「?!」
サダルは信じられない顔でそれを見る。
何かよく分からないショックと、なぜ今更という怒り。
今更。とにかく今更だ。全てが今更なのだ。
消化しきれないものが腹の中をうずく。
緑の男の声はもう聴こえない。
でも、サイニックの声は聴こえる。何も発しない声が。
『このまま…、このままでよかったのに…』
『ここで終わってもよかったのに、なぜ迎えに来たの?』
サダルは急に何かに耐えられなくなった。そして、一気にサイニックの方に向かう。
「おい!」
サイニックの肘下のない片腕を一気に掴んだ。
周りが驚いて制しようとするが、それに気が付いて睨み返す。
「何のつもりだ?!この女は!最初から生き残る気がなかったのか?!」
「?!」
周囲が戸惑う。
「お前、話せたのか?!!」
凄むサダルに緑の男が驚いた顔で見ているが、サダルはこのムカつく被験体に言いたかった。
「だったら戦場で潔く散るか、素直に検体でもする意思表示でもして延命拒否をすればよかったものを!!」
「ナシュラ!落ち着け!サイニックは何も反応していない。」
「………?」
部下に宥められよく見ると、サイニックには泣いた形跡はなかった。
「………」
ユラス側が変な反応をしている。
「……あの、博士。すみません。離してあげてください。」
緑の男が戸惑いながら言った。反応もなく動けない人間の腕を無理やり持ち上げる形になっている。
「……………」
サダルは静かになり、自分も戸惑いながらサイニックの腕を降ろした。
それからが怒涛の流れになる。
執刀研究員のオルビーがいないため、実質この研究所のトップであったナシュラ・ラオが、オミクロン国家のゼータ研究所場まで同行することになる。
超能力的力と言い換えて霊性の施術を行っていたため、その他の研究員には引継ぎも管理も無理であった。ハッサーレはナシュラを海外に出すのを避けたかったが、どうしようもない。
もう1人の研究員と監視役であるハッサーレの国家職員2人を連れて行くことになり、準備を急かされる。ゼータ研究所からの研究員と協力し移動準備をする中、サダルは急いで自室に戻る。
『急げ。』
誰かが言う。
この気運に乗れ。
やっと道が整った。
母の遺灰と、子供の時から使っている小型の聖典5冊。
それだけ持ってサダルは部屋を出た。
●母サーライと緑の目の子
【第三十一章 はためく翼】
●サダルの子供時代。母と緑の目の子
『ZEROミッシングリンクⅣ』66 たったひとり、この世界に
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この話から76まで。




