47 失った「存在」の音
※言葉が悪いです。お気を付けください。
ラボの一室ではナシュラが苛立ちを隠さずに椅子を蹴り倒した。
バン!と、眠るサイニックにぶつかるように椅子が床に倒れる。
「クソっ!!」
「ナシュラ、落ち着いて。」
バターブロンドの助手がナシュラを宥める。
「こいつは何の当て付けをしているんだ?!いつまでもいつまでも!!」
そんな事をしても仕方がないのは分かっているが、サイニックにどうしようもない怒りを感じていた。
時々開いて、どこを見ているのかも分からない目が無性にムカつく。
ただ分かることは、ハッサーレにはニューロス技術も高度ヒューマノイド技術もない。一旦傭兵に戻れるように施術すればいいと思っていたが、それすら難しい。
オミクロンという名が出てくるのも腹が立つ。
今更なんなのだ……という思いがどこからともなく湧き上がる。
10年と少し前、絶対に保護すると言いながらまんまとどこかの派閥に陥れられて、誰も自分を見付けてはくれなかった。この国に匿ったつもりなのか。なら一言ぐらい伝言しろと思う。
自分は保護されなかったのに、今になって元傭兵の女を返還しろとか何のつもりなのか。
それとも時代の隙間に陥れられたのは自分なのか。
正直、ここでは身の安全は保証してもらえたし、下手な国に行くよりはよっぽと快適に過ごせた。安全な寝床を貰え、大学まで行けただけでも十分であっただろう。後は自分次第。国との方向性さえズレなければここでは研究も自由だ。
でも、ユラスやオミクロンという言葉が、自分の置き所を失わせる。
「所長!大変です!!」
そこに、研究員の1人がこの国の指揮官と共に入って来て叫んだ。
「サイニックを出せ!今すぐにストレッチャーに移すんだ。」
「今?理由は?」
それは何の連絡もなく突然だった。研究室内にいた誰もが驚く。
「オミクロン軍が直接ここに来た!」
「は?」
誰もが固まる。こんなことがあるのだろうか。
戦争をしている国の軍人が、他国の国家機関に入ってくるなどと。侵略だ。
「サイニックの治療はオミクロンで預かると。」
「?!」
「執刀研究員に同行を求め、サイニックを一旦オミクロンのゼータ研究所で預かる。」
「そんな強行なぜが許されるんだ!」
そのまま捕虜扱いで返すなといった国がよく言うなとも思うが、オミクロンもオミクロンでとんでもないことをしている。ハッサーレは北との関係の方が強い。理性勢力のオミクロンがそれを知ってここまで乗り込んでくるとは。
ハッサーレの指揮官が叫ぶ。
「黙れ!執刀研究員はオルビーだろ。オルビーは?」
「ピスキウム研究所です。」
オルビーは現在国の反対側にいる。
「こんな話は聞いていません。我々は従えません。」
指揮官の話にうなずく所長にナシュラは凄む。
「ナシュラ!命令だ!」
「この状態で動かせません。」
そこに国の指導者たちと共に、明らかにオミクロン側と思える軍人や指揮官の人間数名が入ってきた。
「ナシュラ、動け。もう交渉は済んでいる。」
指揮官は所長より役に立つナシュラに指示を出す。
「オルビーに連絡は入れたのですか?」
「これは国同士の話だ。ただ従え。」
「今、右腕を再生しています。ラボ規模で動かなければ移送はできません。」
本当は中断はできるが、そう言っておく。
「大丈夫だ。預かる。これまでのカルテとデータをそのままくれ。」
オミクロン側は、髪の長い研究員らしくないサダルに一瞬注目するも不愛想に言い放つ。
「データは渡せません。当たり前です。」
「なら、カルテだけでいい。カルテは機密はないだろう。それから簡単な施術だけでも文章化しておいてくれ。」
国際条約で、カルテは一病院に非公開の権限はないと決まっている。
――ドクンっ。
それを言われた時、胸の中に押し込めた……
この少女から抜いてしまった内臓器官の音がする気がした。
こんな真っ黒な国でなら「済んだこと」で終わる全ての出来事。
それが、自由先進国家に入ったとたん……全てに名と価値が付き、
全てに意味が与えられ、明るみになる………。
もし少女が起きたら……
両腕がない。
一部体に穴が開いている。
生殖器官の一部がない。
戦場で出来た怪我の痕だと言ってしまえばそれまでだ。実際に大怪我をしてきたのだから。ここに運ばれてこなかったなら、死んでいた可能性の方が高い。生きているだけでも、この少女には……いや、愛人なり被験体なりでこの少女を欲している人間たちにとってはめっけもんであろう。
――ドクン。
でも自分の中で、何か音がする。
ドクン――
何か後ろめたい、自分の中に押し込めてきた何か――
ハッサーレに来てから、こんな騒動に合ったのは初めてであった。
研究員たちが見守る中、両国の人間が何か話し合っている。
そして、ハッサーレ側から指示が出ると、ユラス軍らしき軍服を着た女性2名とおそらく男女の医師が入って来た。
「ナシュラ……」
バターブロンドの助手が不安そうにナシュラの腕を取った。
「ナシュラ。こちらにサイニックを案内しろ。」
「………」
少し個室になっているような部分に寝かされているサイニックを示すと、軍服でサングラスを掛けている女が思わず駆け寄った。
『タイラ!』
タイラ?
口から洩れるような小声だったが、サダルにはそれが聴こえた。だが、自分も偽名を使っている。この紫の女も名前がいくつもあるのかもしれない。
他の3人もサイニックの前に来て様子を見る。両手がなくなり……実は鼻と頬も一部欠けていた少女に動揺を隠せない。最初に駆け寄った女性兵は震えながらサイニックの体を触る。プロテクターがあったとはいえ、胸も一部衝撃を受けている痕があった。女性兵は暫く何か祈っていた。
今度は男性医が体の上に手を当てている。
……
サダルには分かった。久々に見る自分以外の霊性師の施術だ。治療そのものではない。体の違和感を見ている。やはり医師は何か違和感を感じたのか生殖器の上で止まっていた。
「カルテを見せて下さい。」
ドキドキする。見ないでほしいと。
目の前にカルテが現れると、しばらくそれを見てから項垂れるように頭を抱えていた。おそらく臓器の一部を、生殖器官を失ったことがショックだったのだろう。サダルは自分の関わった施術でなければ、人間的な情のある医師だな、と思ったくらいだろうが今の担当は自分だ。
サダルの中に、ハッサーレでという空気で感じなかった罪悪感が襲う。
あの時あれこれ考えていたら、おそらくサイニックは失血死をしていた。そして国からの命令も傭兵の願いも、もう一度戦える体にしてほしいということだった。自分に非はないという、わずかな自尊心が己を支える。
ただ、現場にいたオルビーの責任にするという考えはなく、自分が責任者で状況を知って全て許可を出したという話はした。暫くそれぞれが話し合っていると、上司たちと話をしていた1人の男性のオミクロン軍人がこちらに来た。彼は軽く礼をするとサダルを通り過ぎて、サイニックの方に向かう。
一瞬、サダルはひるむ。
その目が、心が揺れそうになるような美しい緑色だったからだ。
緑の目は嫌いだ。あの子供よりは濃い、でも似たような色調の目。
サダルが振り向くと、その男はサイニックの前に行き、掴めない手の代わりに頬に優しく触れ、茶色に染められた柔らかい髪を優しく掴んだ。
そして、しばらくカルテを眺めながら自国の医師の話を聞いている。そこには行きたくなかった。




