106 失われた、神の青写真
どんなにもがいても、前時代までの観念では人間は賢くはなれない。
神の青写真は、パンドラの箱の奥深くに沈んだ何かのように………
この世界から消えてしまった。
今の世界の人々が見ている世界は、全て現象の上澄みである。
理念は違うし個々の自由はあるのに、結局は前時代社会主義も独裁主義国家も資本主義の極みも、みな同じになってしまった。不安定なミラミッドを作って、下を押しつぶして危うく保っているだけだ。
全てがバベルの塔だ。
「いくら自由主義でも、労働の価値を生活ができないほどに下げる権威もおかしいってことですよね。」
「一時的には賢いと言えるのかもしれないがな。最終的に周りに回って全然賢くはない。
それほど物やサービスには価値があると思った方がいい。
同時にこの世界は本来は誰かの個人所有物でもないのに、それを高値にして独占状態にしていくのもおかしい。皆に、一律配られるべきものだ。少なくとも宗教論はな。」
先生は疲れたように言う。少なくとも………これまで人類は小さな理論を抜け出られなかったのだろう。
「ま、人間が賢かったらだが。聖典の流れでは、それを本来、指導者、経済人、宗教人、政治家が担わなければいけなかったけれど、資本主義を越えられなかったんだな。誰もが惰性に流されてしまう。」
「なるほど。」
「ふーん。分からん。」
「先、いろんな主義がいっぱい出てきたもんな。自分も分からん。」
「聞く前に、図解見ろよ。整理して書いてあるだろ?」
「へー。でも、なんでこの地図のここの自由な国が、全体主義国家何ですか?超自由国家じゃないんですか?この前ベガスに来てたけど、ナンパもするし買い物しまくるし、チョー自由人だったんですけど。」
リーブラが、西洋の先進国が全体主義国家だと言われて、ハテナになっている。この話に入る前に、いくつかの国を羅列してどんな主義があるか説明していたのだ。
「……お前、話を戻すな。」
「分からないところなんて、なんとなく覚えておけばいいんだよ。」
それでも先生は答えてくれる。
「新時代は、同じ民主主義や同じ社会主義でも少し概念が違うものもいくつも表れているからね。
社会主義も方向さえ間違えなければ悪いものでもない。むしろ天の形だ。
逆に民主主義は、人民みんなに主権が与えられているという事なので、一見素晴らしいが、立てた指導者や人民がどうしようもなかったら……どうしようもないよな。」
それはどうしようもないだろうと自覚する大房民だが、賢過ぎる人が不義を犯すよりは害はなさそうだと自分たちを評する。
「あとね、自由主義も自由の意味をはき違えたまま極まると、自由のない不自由主義になるんだよ。それも全体主義化の一つの要因だ。
自由の元が自分の主張か、他者を思うところから発生しているかで、最終的に築く国の姿は全く違う。時に自分の自由は他人を押し込めるからな。
まあ、なんとなく全体を覚えておけばいいよ。後で現代の主義をするからその時に流れが分かれば。」
最後にテキトウなことを言う。
資産や物質の独占の限界から始まったのが、プラス資産という概念であり、それ以外一定の生活は保証されるという、企業や行政などが負担する連合国家の保障だ。多少のひずみはできるが、昔よりかなり受益人口は増えている。
「ベガスはその実験都市でもあり、半社会主義、半競争主義社会を目指している。」
社会機能のために一定の労働をすることで生活が補えるのだ。
「ただこれには、どの層に対しても相互理解がいるし、お互いが利をもたらす存在にならないといけない。そして、私たちも自分たちを向上させようとし、変わっていく必要がある。生活水準もお互い下げるべきものもあれば、上げるべきものがある。
意見や反論も言っていい。ただ、結果を待って分かることもあると心得ておく必要がある。」
「………。」
「今まで前時代の秀才や天才たちも、これを理想とすることはできても具体化するにはまだ弱すぎた。それをできる場所から現実化していくシステムの実験体でもあるんだ。ベガスは。」
「神の青写真を見ることのできる目は、神とその心を知ることで養っていけるよ。」
先生は最後にそう締めた。
「なるほど。それで、ほぼタダで飯が食えて、寝床がもらえるのか。」
今更驚いている、第2弾Bチームのバギス。
「え?知らなかったの?」
「…最初に聞いただろ………。」
さすがの大房民もそれくらい理解できる。なにせ主義も何も契約の時に、普通に行政の住民課に説明されている。寝ていたのか。
「そんなもの、忘れるに決まっている……。」
バギスは全て忘れていた。細かい仕事は、自治活動のボランティアだと思っていた。ボランティアではなく義務と対価である。
「あほかよ。学校の交通安全誘導員でも謝礼が出るのにそんなわけないだろ。」
「いや………ベガスは貧乏だから…こんなに人を抱えて大変じゃないかってね……。」
「バギス……。」
ベガス発展を心配するバギスに感動するラムダ。
「いや、アホだろ。」
有名大ではないが国立大卒のウヌクは、何も感動しない。
実際は就業や通学も含め人口が増えているので、今ベガスは一気に人口より多くの収入が見込める地になりつつある。外部企業がたくさん入ってきたので、アジアで最も成長が見込まれる地域とされていた。今度は拡大した土地や住民の管理と、どう息長くそれを維持し、新しい展開を迎えていけるかだ。
そして、ベガスの持っているエネルギーを他地域に振り分けていくことこそ目的だ。
これまでの理論で言えば、ベガスも内にこもって、人もエネルギーも内に留めれば、いつか淀んでいくのだから。
清流は流してこそ森や山を、丘を潤すのだ。
「10回ぐらい聞かないと、前の事忘れるよな?」
「もともと聞いてないから忘れるも何もないだろう。」
「聞いても聞いても脳内変換されて、あれ?そうだったっけな?ってなるし。」
「いや、ならんだろ。」
「だから図解見ろよ。」
バカなん?と思うが、まあ、バカなのだろう。
追っかけと趣味を極める事だけには脳が働くファイが、我が下町ズに呆れていた。
なにせ、今回渡された資料は、『図解!社会の仕組み』という、まるで子供図鑑。文より絵と図の方が多い資料。
なのに、企業の実務経験者、国立大卒の頭のいい連中の持ち物の中に、やたら字の細かい社会科の教科書が入っているのを知っている。彼らは会社経営などではなく、社会システムに切り込みを入れていく仕事がしたかったのだ。なのに大房に合わせてもらって申し訳ない。
ちなみに子供図解のような資料は、アーツ大房の定番資料になっているので、遂には『大房図解』と皮肉られていた。でも、この資料も河漢教育などで役に立ってしまったのだが。
ファイは、いつまで経っても毎回入門の自分たちと、頭のいい人たちと授業分けてくれませんか?と思うのだが、先生は楽しそうに講義しているし、もう聞かなくていいライブラやミューティアも真面目に聞いている。授業の仕方の勉強もしているのだろうが、どの人も本当に性格がいいのである。
「何この人たち。恐ろしい。」
と毎度思うのであった。
***
チコのマンションで響とチコは顔を突き合わせる。
「………。」
「すまなかったと思っている。」
響に対して頭を下げるチコ。
「チコの責任じゃないよ。」
チコににっこり笑う響。チコとシェダルに戸籍上の兄弟関係はない。
「暴行自体はあったのだし……。」
シェダルの暴行は結局、警察でなく国と軍で処理をし、響との間では示談状態だ。
シェダルは眠っている間に受けた治療でほとんど後遺症はないが、問題はシェダルそのものだ。一度、緩慢な快楽、強烈な刺激を知ると、治療と言ってもまた溺れる場合がなくもない。
「………でも、このままシェダルの未来を閉ざしたくない。」
響はチコにはっきり言う。
「やっと、ここまで来たのに…。ベージンやギュグニーが関わっている証拠は?」
「証拠はあってもすぐに動けない。下手をすると、彼らが開き直ってシェダルの存在を学会などに上げる可能性がある。」
シェダルはまだ一部の人間にしか知られていない。準備なくそんなことをされたらチコレベルのニューロス体が、ギュグニーの使いであったシェダルが、無造作に人に知られてしまう。
「チコ…………」
チコは申し訳なくて、響の首元を見ていられなかった。




