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カスミは顔を上げる。
見れば辺りの風景は変わっており、目の前に並んでいたはずの屋台の裏面―――忙しそうなたこ焼き屋も、店員が暇そうにスマホを弄っていた何かのゲームの店も、よく分からないボンベやガタガタと煩い発電機も見当たらない。
彼女は神社の入り口である鳥居の真下にいた。
「―――」
あれ、お母さん?
カスミの口はそう動いたが声は出なかった。声を出そうとすると、喉からするりと空気が抜けてしまうのだ。
屋台と境内に灯った提灯の明かりは変わらず、人々が道の端や外を行きかっている。
周囲を見るがそれらしき子供の姿は無く、誰も彼も自分より背の高い大人ばかりのように見えた。
ついさっきまでと比べると辺りはとても静かで、ざり……ざり……と、行きかう沢山の人が砂をすって歩くような音しか聞こえない。
何か変だ、と思ってすぐ、カスミは「ああ、静かすぎるんだ」と違和感の正体に気付いた。
祭りだというのに、それらしい音はどこかから聞こえる祭り囃子のみ。
人影は多いのに交わす言葉は聞こえず、笑い声など一切ない。
たまに耳が広い上げるのはぼそぼそとした低い声。ざりざりと、砂をすって歩くような足音。
辺りの人たちの顔をそっと見上げてみるとあるはずなのに顔が見えない。
「おしやぁ……おしやぁ……」
(……?!)
後ろから聞こえてきた声にカスミの身がこわばる。
鳥居の外に続く階段から女の掠れた声がした。
ざり、ざり、と石段を踏みつけて、誰かがこちらへ上がってくるのだ。
「おしやぁ……おしやぁ……」
一段、また一段と、足音と声が近づいてくる。
もともと声は出ないので叫び声が上がることは無かった。
カスミの足が、恐怖にその場に縫い付けられる。
吸い寄せられてるかのように顔が背けられず、嫌なのに、じっと鳥居の向こうを見つめてしまう。
どうしよう。きっとユミちゃんから聞いた女だ。
どうしよう、どうしよう、どうしよう―――
カスミはその場に立ちすくんだまま内心を酷く焦らせた。脚が震え、心臓がばくばくと体の中で鳴り響いていた。
真っ直ぐな石畳から、黒い頭がひょこりと覗いた。
ざりり、と地面を踏みつける音。またざりり、とその影は段を上がる。
そのたびに、その人物の額が、目元と鼻が……どんどんその姿が露わになっていく。
(―――?!)
階段の下から、遂にその人物の口元が現れた。
その口端は、顎を乱暴に下に引っ張られたかのように裂けて血が滲んでいた。
顎がぶら下がったような状態で、口を動かさずに「おしやぁ、おしやぁ」と呟く低い声。黒い着物に湿り気のある乱れた黒髪。
ざりり、ざりり、と石の段を踏みつけ上がってくるそれは、まさしく話に聞いていたあの女だった。
彼女はふらふらと階段を登りきると、ゆっくりとカスミの方へと歩いてきた。
カスミは金縛りにあった様に動けず、近づいてきた女をただ見上げる。
「おしやぁ……おしやぁ……」
裂けた口から物悲しい声が零れる。
女は鳥居の前に立つと、カスミを見下ろし、その後ろの参道や拝殿を見つめた。
「あぁぁ……おしやぁ……おしやぁ……」
カスミの背を冷や汗が伝う。
「トミコちゃん?」
少年の声が聞こえた。と同時に手を掴まれた。
カスミの口が「え」と開かれ、動けなかった体が跳ねるように後ろを振り返った。
後ろには自分と同じ位の歳の少年が目を丸くして自分の手を握っていた。
「やっぱりトミコちゃんだ。僕の事本当にまだ探してた?」
カスミは呆然と彼を見る。見た事ない顔だった。
誰だろう。もしかして彼がゲン君だろうか。じゃあトミコちゃんとは誰だろう。聞いたことがある気もするが、自分の友人にそんな子はいないな。―――と、カスミはそんな事を考えていた。
「おしやぁ……おしやぁ……」
鳥居の向こうから声が聞こえる。ざり、ざり、と歩く音も。
カスミは少年の手を握ったまま女の方を見た。
彼女はこちらに背を向け階段に足をかけていた。悲痛な声を漏らしながら、こちらを振り向きもせず下へと降りていく。
「トミコちゃん?」
少年は首を傾げる。
カスミは彼に目を向け、鳥居の外を指さした。
「何? 帰りたいの?」
彼の言葉に、違う違うとカスミは首を振った。彼はあの女を見てないのだろうか? 今いたというのに。少なくとも背中くらいは見えててもおかしくないタイミングだったのに、気づかないなどという事があるだろうか? あんな近くにいたというのに、今もあの足音が聞こえるというのに。
ここの階段はあまり高くない。
だから、女が一番下に着き、またこちらへ上がってきているのが音で分かった。
カスミは不安げに鳥居の外を見て、また近づいてきた女の気配に集中する。
そんな彼女の手を引いて、少年は拗ねるように肩をすくませた。
「トミコちゃん、『もういいかい』って言うばっかで全然見つけてくれないんだもん。だからもう殆ど諦めてた」
辺りを見回し、彼は「皆は? もうかえちゃったの?」と尋ねる。
カスミは彼の言う「皆」が分からず首を傾げた。
背後から「おしやぁ……」と言う声が聞こえ、カスミはチラリと後ろを盗み見る。
するとやはり、またあの女が階段を上ってきていた。
よそ見をするカスミに、少年は気を引くようにつないだ手をぶんぶんと揺らす。
「何だよそれ、どっち? 皆いるの? いないの?」
階段を上がってきた女は、また鳥居の前に立ち軽く眺めて口惜しそうにするとこちらに背を向ける。
ずっとそれを繰り返してるのだろう。
そうなのかもしれない。
あの女が自分達に触れてくることは無いのだ。
そう思って、やっとカスミは手をつないだ少年に向き合うことが出来だ。
「ねえ、どうしたの? 皆は? いるの、いないの?」
少年はやはり、女と向き合っていたというのに鳥居の外には目もくれなかった。
彼には見えてないのだ。よく分からないし、納得もできないが……。なら今は、声も出ないのだし伝えるのは諦めよう、とカスミは首を横に振る。
少年の問いに対し、「皆は居ない」と言う意味ではなく「皆など知らない」という意味で。
「ちぇー。僕置いて皆して帰ったわけ? 酷くね?」
少年は頭の後ろで手を組み、唇を尖らした。
どうしよう。
カスミは少年を見て、辺りを見て、ぼんやりと「どうやって帰ろう」と不安になった。
ここはさっきいた神社とは違う場所なのだ。ここを幾らさがそうと、きっとお母さんとお父さんは見つからないだろう。
何となく、先ほどからそんな思いがあった。
派手な動きをする者がいない中、堂々と辺りを見回すのは気が引けてカスミはそっと辺りを見回す。
自分達だけがこうして立ち止まっており、辺りにいる者たちは皆、動きが決まっているかのように「ざり……ざり……」と砂利を鳴らして行ったり来たりを繰り返していた。
周りの人影を見ていると、カスミは彼等の数人が自分を認め始めている事に気付いた。
砂利の上を歩いていた人影の幾つかが、鳥居の横にたどり着いた時に顔をあげ、自分をちらりと見て足を止めるのだ。
まるで怒られているような、責められているような、そんな気分に駆られてカスミはこの場を走り去りたくなる。
だが、鳥居の外に行けばあの女がおり、神社の奥に行ってもその裏には山が続くだけだ。
なにより神社の敷地の外が怖かった。
神社から出てはいけない。
そう感じるのだ。
「―――けどそっか」
不貞腐れていた少年は何に納得したのか、膨らませていた頬から空気を抜き嬉しそうに笑う。
「こっち!」
と、彼はカスミの手を引き走り出す。
少年が自分の手を掴むと同時に、カスミは周囲の視線が自分から逸れていくのを感じた。
辺りはの人影は相変わらず、「ざっざっ……」という音を上げるのみ。
鳥居から続く参道の上はカスミと少年以外誰も歩いておらず、皆道の端やその外側を歩いていた。
それを知ってか知らずか、少年はカスミの手を引き誰も歩こうとしない道の上を堂々と駆けていた。
少年は足を止め、タン、と狛犬の乗った台を叩く。
「はい、これで終わり」
彼は手を差し出した。
「お面ちょうだい。最後の人が貰うって皆で決めたでしょ?」
言われて、カスミはお面を頭から外した。
祖母へのお土産だったのだが、何となくそれはこの少年に渡すべきだと思った。
頭の中には神隠しの事や、かくれんぼのこと、ゲン君の事が浮かんではいたが、これがそのゲン君なのかはカスミにはよく分からなかった。
ただ、彼は友達とかくれんぼをしていて、そしてこのお面を欲しがっている。そして、このお面を自分は彼に渡したい。それははっきりとわかった。
お面を受け取った彼は、面を見て首を傾ぐ。
「このお面違くない?」と言い、彼はじっと受け取った面を眺め裏や表をくまなく観察した。
顔を上げたかれは嬉しそうにはにかんでいた。
「すっげー! 外国の奴? こっちの方がかっこいい!」
彼は面を被ると、狛犬によじ登って、カスミの知らない決め台詞らしき言葉を口にした。
彼はポーズをとり、満足した様にカスミを見下ろす。
「じゃあ僕帰る! ずっと待っててクタクタだよ。あとすっごい眠くなってきた。―――あ、そうだ! トミコちゃん、あれ言って!」
あれ? とカスミは少年を見返す。
「ほら、かくれんぼの。『みーつけた』って」
ああ、と思った彼女の口から、その言葉はするりと出た。
『ゲン君、みーつけた!』
言って、カスミは自分の口を両手で抑える。
出なかった声がようやく出た。だがその声は、よくは似ているも自分の物ではない様に感じた。
少年はカスミの様子には気づきもせず嬉しそうに両手を握って振り上げた。
「やったー! お面、もーらい!」
「とう!」という掛け声とともに彼は狛犬から飛び降りる。
地面に着地する彼の姿は無く、「ばいばい、トミコちゃん!」という元気な声だけが鳥居の方に遠のいていくのが聞こえた。
辺りにはいつの間にか現実味のある祭囃子と喧騒が戻ってきていた。
カスミは彼の降りた辺りを眺め、狛犬を見上げ呆然とする。
笑い声や明るい話声の向こう、後ろから父と母が自分を呼ぶ声が聞こえた。
***
「ゲン君、みーつけた……」
自然と出た自分の言葉に驚き、トミコは目を見開いた。
―――ちりんちりん、と風鈴の音が静かに鳴り響く。
縁側から打ち上げ花火を眺めていたトミコの頬を涙が流れ落ちた。打ち上がった花火が、その涙をカラフルに染め上げる。
「……もういいかい」
彼女は試すようにそう言って目を閉じ、耳を澄ました。
しかし聞こえてくるのは風鈴と花火の音と通りを歩く人の声ばかり。
「……」
彼女は口を薄く開けたまま目を開け顔を上げ、もう一度はっきりと口にする。
「もういいかい」
返ってくる声は無い。
彼と最後に遊んだ日から数十年、ずっと聞こえていたあの声が聞こえない。
室内に灯る明かりを受け、彼女の影が庭に落ちていた。彼女は老いて小さくなった自分の切り抜きを見る。
頬を触ればあの頃の張りなど見る影もない。
だがこの胸の痛みは、悔しさは、悲しみは―――すべてあの時のままだ。
共に春の原を駆け、夏の木陰で涼み、秋の山で実を摘み、冬は雪を投げ合った幼い友……。
皺だらけの乾いた頬に次から次へと涙が流れ落ちる。彼女は両手で顔を覆い声を絞り出すように泣いた。
「もう……そうかい……そうかい………………もう……もう………………」
けど本当なら、あの時ちゃんと見つけてあげたかった―――
同じ時間を過ごし、たまに会っては老いを笑い合って、互いの子らの成長を見届けて―――
「……おに、だったのに……私が、……私がみつけ、られ……なかったから……」
おいおいと泣く彼女の上、どこからか線香の香りを運んできた柔らかい風が、風鈴をちりんと優しく鳴らした。