5 初めまして、駄目紳士
今にも泣き出しそうで不安気な表情で振り返った青年は、とても三十路に入っている男性だとは思えなかった。
「先輩……っ」
「ちゃんと来ていたか、ギデオン」
「当たり前じゃないですか」
答える声音は毅然というものとは程遠い。弱々しい響きで、何処か情けない感じがする。
なるほど、とジェラルディーンは思った。
マシューは彼の性格のことを「気が弱くてちょっと卑屈」と評していたが、確かにそんな雰囲気だと思う。ひょろりと細い少年のような体格と相俟って、実年齢よりも随分と幼く見える。
そんな裁定を下されているとは露知らず、ギデオンはジェラルディーンの方を気にしながら、マシューに紹介を求めた。
「ミセス・ジェンキンス。こちらがギデオン・オルドリッジ」
名前を言われたギデオンは帽子を脱ぎ、さっと背筋を伸ばした。
「こちらはミセス・ジェラルディーン・ジェンキンスだ」
同じく紹介を受けたジェラルディーンは、そっと微笑んで「初めまして」と手を差し出した。その手をギデオンもさっと握り返す。
そこは普通、手を取ってキスをするべきところだろう、とジェラルディーンもマシューも思ったが、ギデオンは気がついていない。明らかに緊張した表情で手を引っ込めた。
まあいいか、とマシューは小さく溜め息をつく。
「僕は席を外しているから、二人で少し歩いて来るといい」
そこで待っている、と少し離れたところにあるベンチを指差すと、ギデオンが「えっ」と心底驚いたように声を上げる。その態度にマシューも驚く。
「ベンチで座って語らうより、散策しながらの方が気が楽だろう。お互いに初対面だし」
「でも、先輩……」
「いいから行って来い。気不味くなってもここまでちゃんとお連れしろ。そうしたら、帰り道は僕が責任を持って送るから」
「…………」
物言いたげに見つめるギデオンは、シッシッと手で追い払われる。
小さく溜め息をつき、観念したようにジェラルディーンを振り返った。
「じゃあ、あの……行きましょうか。……あっちの方、とか……?」
進行方向の提案としてそっと指差されるので、ジェラルディーンは頷いた。
(なんだか、叱られた子犬みたい)
一緒に歩き始めてから、ちょっぴり俯き加減の横顔をちらりと気にする。頭上にぺたりと寝てしまった耳が見えるようだ。
ギデオンはジェラルディーンより五歳ほど年上の筈なのに、弟の小さい頃をなんとなく思い出してしまう。勝気で快活で生意気なくせに、母から悪戯を叱られたあとは、いつもこんな感じの顔をしてしょげていた。
そんな考えは失礼だろうな、と思っていると、彼はチラリと後ろを気にして振り返り、何事かを確認してホッとしたように息をつくと、さっと背筋を伸ばした。
「はぁーあ、っと」
溜め息ともなんとも言えない声を出し、ギデオンは小さく伸びをする。
急になんだろう、と思って驚いていると、くるりとこちらへ振り返った。
「あんたさ、いったいなに?」
ぞんざいな口振りに、思わず「は?」と怪訝な声が漏れる。
「だーかーらー。あんたなんで俺に近づいたの? 先輩まで使って。なにが狙い?」
「別に近づいてないし、狙ってもないですけど」
突然なにを言い出すのだ。ジェラルディーンの頭の中は疑問符でいっぱいになる。
ふん、とギデオンは尊大な態度で鼻を鳴らした。
「未亡人だって言ってたっけ。なに? うちの財産狙い?」
「…………はあぁぁッ??」
思わず剣呑な声が漏れた。
「なんか貧乏臭そうだし、あんまりお金なさそうだしね。養ってくれる男が欲しかったんだ?」
ジェラルディーンの頭は真っ白になる。そのあと、腹の奥の方でなにかがグラグラと煮立つような感覚が沸き上がった。
いったいこの人はなにを言っているのだろう。ジェラルディーンはそんなことはひと言も言っていないし、考えたこともなかった。それなのに突然こんなことを言い出して、蔑むような目つきで品定めするように見て来る――いったいなんなのだ。失礼にも程がある。
ふふん、とギデオンは小馬鹿にするように笑った。
「男に頼ってしか生きられないなんて、浅ましい女だね」
その瞬間、ジェラルディーンの中でなにかがプツンと切れた。
顔はやめておきな、狙うなら胴体だ――幼い頃、生意気な弟と取っ組み合いの喧嘩をしていたとき、兄がそんな助言をくれたことを思い出す。
(わかっているわ、イーデン兄様)
こんな骨っぽい頬を殴ったら、平手打ちだろうが拳骨だろうが、確かにこちらの手が痛そうだ。
ジェラルディーンは通行人から見られても気づかれないように素早く身体をずらし、相手に警戒する隙を与えることなく、無防備な腹部へと拳を叩き込んだ。
やや下めから上に向かって軽い捻りを加えた打撃は、なかなかに強烈だったようだ。ドスッと鈍く重い音と、ギデオンの「オゥっ」と小さく呻く声が漏れたが、周囲で散策を楽しんでいる誰かが足を止めるようなことはなかった。
ギデオンも男としての意地があったのか、その場に頽れることはなく踏み止まり、震える手を腹部にあてる。一、二歩よろめいたが、些末なことだ。
「あらあら。どうかなさいまして? オルドリッジ様」
ジェラルディーンはわざとらしく心配そうな顔をして肩を掴んだ。その指先にゴリッと力を入れれば、ギデオンが明らかに怯えた表情になる。
今度はジェラルディーンが鼻で笑う番だ。
「なにを勘違いなさっていらっしゃるのか存じ上げませんけれど、私は別に、オルドリッジ様の妻の座を望んでいるわけではありませんのよ。カートランド侯爵から説明は受けられていませんの?」
「…………」
「お返事くらいなさったらどうなんです? このお耳は飾りかしら?」
「きっ、聞いてたけど! 信じられるわけないじゃないか。そんな都合のいい偶然があるなんて……っ」
さっと手を伸ばすと、耳朶を引っ張り上げられると警戒したギデオンが、小声ながら悲鳴のような声で情けなく答える。
「まあ、そう思うわよね」
ちゃんと受け答えになったので、ジェラルディーンは耳に向かって伸ばした手を引っ込め、掴んでいた肩も離してやった。
「……そうしたら、うちの財産狙いで近づいて来たとか、そう思うのが普通だろ?」
ソーギル子爵家の資産状況はまったく知らないが、こんなことを言うくらいなのだから、なかなかに裕福な家なのだろう。ジェラルディーンの実家とは違うようだ。
「ふうん……そう。でも私は別に、そんなつもりは一切ないから。これは本当」
信じなくてもいいけれど、と言うと、ギデオンはまだ訝しんでいるような表情を向けてくる。まあいい。
「取り敢えず、もう少し歩きましょう。こんなところで立ち止まっていると変だわ」
このまますぐに戻ってもマシューに怪しまれるし、こんな面倒な話を仲介してくれたのに失礼だ。
ギデオンもそのことには同意らしく、渋々了承した。
散策コースを並んで歩き出すが、ギデオンは殴られた腹を摩っている。
「馬鹿力が……」
「あらあら。男性に頼らなければ生きられないようなか弱い女に殴られた程度で、そんなにも痛むんですか? ちょっと軟弱すぎやしませんかしら?」
嫌味を言われてすぐに黙り込むギデオンの様子を見て、ジェラルディーンはなんだかマシューの気持ちがわかったような気がする。
先輩後輩などという上下は関係なく、この男は物凄く虐め甲斐があるのだ。揶揄うと予想通りの反応を示してくれるので、楽しくなってしまうのだろう。
(でも、伴侶としてはないわね。こんな弱々しい夫、絶対に嫌だわ)
性格が優しいというのとは多分違う。マシューが言う通りに気弱で卑屈になりやすいから、妙な虚勢を張っているのだろう。
若干の呆れを含みつつ、軽く咳払いをする。
「それで、仲介頂いたお話なんですけれど」
「ああ。どうせ嘘なんだろ?」
溜め息混じりに言われるので、思わず肩を竦めた。
「残念ながら本当のことなんです」
「……嘘だ」
「いいえ、本当に」
残念そうに首を振ると、ギデオンは目を真ん円にした。サファイアのような濃い色が鮮やかだ。
「本当に? 本当にきみも、周囲から再婚を勧められてうんざりしてて、痺れを切らした親から期限を決められて、期日までに婚約者を紹介しろって言われてるの?」
「ええ、まったくその通り。ついでに言うなら、私の期日は今月末なのよ」
表情ひとつ変えずに答えると、ギデオンは「ひえっ」と小さく悲鳴を零し、口許に手を当てた。泳いだ視線が、あと十日もないじゃないか、と言わんばかりだ。
自分の状況よりもかなり深刻だと思ったのだろう。先程までの嘲りを含んだような表情ではなく、心底憐れんでいる表情でこちらを見つめてきた。
「その……なんて言っていいかわからないけど、とても大変だね。お互いに」
(本当にね)
改めて言われることで母の再来予告を実感し、苛立たしげな溜め息が漏れた。
家に来て、毎回飽きずに部屋の様子に同じ文句を言い、ねちねちとされるだけでも頭が痛いのに、これで再婚相手候補に会わせられないとなると、いったいどうなることやら。
ポートマン夫人の紹介だという初老の男との縁談話を思い出し、頭痛がする。あの話を進められてしまうなんてまっぴらだ。
「そんなわけで、大急ぎで婚約者を演じてくれる人を捜す必要があったのよ。だからメグに――カートランド侯爵の妹さんなんだけど、彼女の薦めで、広い人脈をお持ちの侯爵にご協力頂いたってわけ」
面倒だと言わんばかりの口調で告げられる言葉へ、ギデオンは大きく頷いた。
一昨日、酒の席で聞かされた話とまったく一緒だ。嘘ではなかったのだ。
あのとき心の中でひっそりとエールを送った相手が目の前にいるのだと理解したギデオンは、姿勢を正して頭を下げた。
「先程は失礼な態度を取って申し訳なかった。変に警戒していたとはいえ、一人の男として、淑女に対するものではなかった。許して欲しい」
ジェラルディーンはきょとんと目を瞠る。
(随分と素直な人ね……?)
自分の非をすぐに認めて頭を下げられる人は、なかなかいないと思う。先程までの不愉快な態度とのギャップにちょっとだけ驚いた。
「いいわよ。なにか行き違いがあって、私のことを試そうとしただけでしょう? こっちの事情をわかってくれたのならいいわ」
謝罪を受けたのだから、こちらも誠意を持って許すべきだ。ジェラルディーンは笑顔を浮かべ、頭を上げるように言った。
「まあ、そういうわけでね。似たような境遇にいる者同士、利害は一致しているのだから、協力してはどうかって提案を受けたのよ」
同じだ、とギデオンも頷いた。
「話をまとめると、きみは今月末までに婚約者――結婚を前提にしている恋人が必要で、俺も婚約者として両親に挨拶して、せめて十二夜を一緒に過ごしてくれる女性が必要、というわけだね」
「そういうことのようね」
「カートランド先輩の提案としては、その婚約者役をお互いにすればいいのではないか、ってこと」
ギデオンにはジェラルディーンの婚約者として月末の母の来訪時に同席してもらい、ジェラルディーンには年末年始の十二夜をギデオンの家族と過ごしてもらえれば、しばらくは身の安泰が保証されることになる筈だ、という話だ。
そうね、とジェラルディーンは強く頷く。ギデオンも頷き返した。
現在、お互いに特定の恋人がいなければ、結婚を前提にした付き合いの人などいる筈もない。伴侶と死別して以降は独身を貫き、ギデオンは娼館通いなどをしている経緯はあるものの、男としては嗜みと認められる範囲だし、それを除けばとても綺麗な身の上だ。
お互いに再婚同士という状況で、子爵の息子と男爵の娘で、身分と家格のつり合いも取れている。どちらの親も、再婚相手は余程身分違いだったり素行が悪くなければ誰でもいいようだし、これなら親戚の内でも大きな反対には遭わないだろう。
利害は完全に一致している。それに対する意思も、今の頷き合いで繋がったような気がする。
そのことをはっきりと確かめ合うように、二人は黙って見つめ合った。
「……俺、きみの顔はそんなに嫌いじゃない」
確認するように告げると、ジェラルディーンは僅かに苦笑した。
「私もあなたのお顔、嫌いだとは思わないわ」
「声もまあまあ好きだし、喋り方もいいと思う」
「ありがとう。私もあなたの声は好きだと思うわ」
「暴力は振るわないでいてくれると嬉しい」
「あなたが失礼なことを言わなければ、大人しく控えめな態度でいてあげる」
そう言って笑うと、ギデオンも笑った。ちょっと守ってあげたくなるような、可愛らしい笑顔だった。
「……名前、もう一度教えてもらってもいい?」
「ジェラルディーンよ。ジェインと呼んでくれていいわ」
「わかったよ、ジェイン。俺はギデオン」
知っているわよ、という言葉は、差し出された手を前に飲み込んだ。
「お互いの利害の為に、協定を結ぼう。その誓いの握手だ」
少し不安そうな目つきでそう言われるので、ジェラルディーンはにやりと口許を歪めた。
「もちろんよ。よろしくね、ギデオン」
しっかりと手を握り返すと、ホッとしたように頷かれた。
そんな協力同盟がひっそりと締結した翌日の月曜日、ジェラルディーンは宣言通りにブレットの訪問を受けていた。
「なにかいい構想は浮かんだ?」
編集作業から印刷、配本と怒涛の出版作業を終え、昨日一日じっくり休んだブレットは元気そうだ。キラキラと期待に輝く瞳でジェラルディーンを見つめる。
対するジェラルディーンは、昨日のこともあり、少々疲労感の漂う顔で首を振った。
「えぇー……」
ブレットが心底残念そうな声を出し、肩を落とした。
「だって数ヶ月に渡る長期連載で、しかも恋愛要素を入れるんでしょう? どっちも私の苦手なジャンルなんだから、そんなにすぐ簡単に思い浮かぶわけないじゃない」
「そりゃそうだろうけど、そこをなんとかするのが作家でしょう! その胸の中に在る想像と創造の翼を広げてさ!」
拳を握って熱弁を振られるので、少々うんざりと顔を顰める。
「私の翼はそんなに逞しく軽やかじゃないのよ。飛び立つ為には準備運動としっかりとした助走が必要なの。そうでなければすぐに墜落よ」
ジェラルディーンの紡ぐ物語は、自分が実際に体験した出来事や、人から聞いた話などを下敷きにして、そこから少し想像を膨らませて味つけするように出来上がっている。まったく見たことも聞いたこともないものを描写するのは、かなり苦手だった。
誰かが既に紡いだ物語の情景を想像しながら読むことは好きだし、そういうときの自分の想像力はとても豊かだとは思うのだが、それを文章にすることは極端に苦手なのだ。自分で読んでもまったく面白いとは思えないし、想像も掻き立てられない。
ボゥ氏の連載している騎士道物語風の連載は、本当に面白い。魔女の嫉妬心から獣に姿を変えられてしまった姫君を救う為、彼女を慕う騎士が魔女からの難題に挑んで解決していく物語だ。
それが今年中に終わってしまうということで、その次の連載を担うこととなったようなのだが、あの傑作に続けるようなものを書ける気がしない。あんなにドキドキとハラハラがいっぱいで、姫君と騎士のなかなか結ばれることのないもどかしい恋に悶えるような、そんな作品を読んできた読者に、楽しんでもらえるような物語を書かなければならないのはかなりのプレッシャーだ。
ただでさえ今は母のことがあって気分が滅入っているのに、苦手な題材を扱った新作の準備などまでに気が回らない。
ジェラルディーンはもう一度大きく溜め息をつく。
「ディーン。あんまり眉間に皺を寄せて溜め息ばっかりついていると、幸せが逃げていくって言うよ」
そんな様子にブレットが心配そうに言う。
そうね、と頷きながら、また溜め息が漏れた。もう癖になっているような気がする。
「取り敢えずさ、参考になるかと思って、巷で人気のある物語をいくつかピックアップして来たよ。読んでみて」
テーブルの上に重ねられた本に、うん、と力なく頷き返す。
そんなジェラルディーンの様子を、ブレットは心配そうに覗き込む。
なんだかんだと長い付き合いであるので、彼女の置かれている状況も、性格も、それなりに把握しているつもりだ。その上で力になったり、なってもらったり、お互いに支え合っているのだが、結局は他人であるので、家族の問題にまでは踏み入ることが出来ない。
ジェラルディーンが苛立ったり沈み込んだりするのは、大抵が母親が絡んだときのことだ。今回のことは確実にそれだし、近々またやって来るとわかっているので、苛立ちよりも気鬱が勝っているのだろう。
物語の世界に埋没すれば少しは気が晴れるかと思っての参考本なのだが、この様子では読む気にもなれないのかも知れない。
こればっかりはどうにもならないのだよな、と思いながら、ちらりと寝室の方へと目を向ける。そこに飾られている筈の友人の遺影を思い浮かべ、少々責めたい気分になった。
彼があんなに早く亡くなることがなければ、ジェラルディーンがこうして気鬱になることもなかったのではないだろうか。
ずっと想っていて、出征することが決まりかけたことで求婚する勇気を得たなんて、大人しいウィリアムらしいといえばそうなのだが、もし万が一、自分が戦死してしまった場合のことは考えていなかったのだろうか。お陰でジェラルディーンは結婚式からたった三ヶ月で未亡人になってしまったではないか。
物憂げに差し入れの本を眺めているジェラルディーンの様子に気を揉んでいると、玄関からノックの音が聞こえてくる。
ブレットはさっと立ち上がって後ろの出窓に歩み寄り、レースのカーテンの隙間から玄関の方を覗いた。
「ディーン、男の人だ」
辺りを見回し、もう一度ノックしている紳士の姿を確認し、報告する。
「来客の予定はあなた以外にないけど」
ジェラルディーンは首を傾げて立ち上がり、仕方なく玄関に向かった。
控えめに響く三度目のノックを聞いてからドアを開けると、そこにはギデオンの姿があった。
「ギデオン?」
「――…あ、よかった。家を間違えたかと思った」
ジェラルディーンの顔を見て、ホッとしたような顔になる。
「どうしたの?」
「いや、えっと……来週、お母さんにご挨拶するって」
「そうね」
「だから、ちょっと家の様子を見させてもらおうかと思って」
「なんで?」
ジェラルディーンは素直に首を傾げた。
婚約者の振りをする偽装契約は、月末のジェラルディーンの母と挨拶するところから始めることにした。そうして、十二夜でソーギル子爵領に行くまでに、泊まりがけでも怪しまれないように設定を詳しく打ち合わせしよう、ということにしていたのだ。
そんな様子にギデオンはふにゃりと眉尻を下げる。
「だって、俺達は結婚を前提にしているって設定なんだろう? そうしたら、お互いの家に何度か行き来があってもおかしくないと思うんだ。なにも知らない方が怪しまれるんじゃないかと思ったんだけど……」
「ああ、なるほど。そういうことね」
なにも知らない男が婚約者を名乗っていると偽者ではないかと怪しまれそうだが、事情を知っている方が母も騙されやすそうだ。そこまでは考えが至っていなかった。
「確かにあなたの言う通りだわ。そんなことまで考えつかなかった」
すっかり感心しながら、取り敢えず家の中に入ってもらう。ギデオンも素直に従った。
「丁度いいから紹介する」
受け取った帽子をさっとハンガーにかけ、居間の方へ招き入れる。
先にいたブレットは驚いて立ち上がり、先客が――しかも男性がいるとは思っていなかったギデオンは更に驚いた。
「こちら、私の昔からの友人で、ブレット・メリーさん。出版社を経営しているの」
「え? あ、ど、どうも……」
「どうも……」
しどろもどろに頭を下げるブレットに、ギデオンも困惑気に会釈した。
「こちらサー・ギデオン・オルドリッジ。しばらくの間、私の婚約者ってことになったから」
「こ、婚約者っ!?」
ブレットは素っ頓狂な声を上げ、目を真ん円にして二人の顔を見回した。
「なんでそんな話になってるのさ?」
わけがわからないよ、とブレットは頭を掻き毟った。混乱を表すように目がくるくるとしているのが面白いが、これは彼が得過ぎた情報を整理しようとしているときの癖のようなものなので、放っておくことにする。
座って、とギデオンに椅子を勧め、カップをもう一組持って来てお茶を淹れた。
「私がよく会う男の人といえば、このブレットと下宿人のロバート。あとは月二回、ブレットの会社に行ってるから、そのときに会う社員の人達ね。他は魚屋さんとか郵便配達人とかそういったところ」
うん、とギデオンは頷く。
「下宿人っていうのは、ロバートって人だけ?」
「いいえ。あとはベティって女優さんがいるの。今はその二人よ」
「メイドは?」
「雇ってもいいんだけど、私一人で手が足りてるから」
「料理も掃除もきみがやってるの?」
「そうよ。そんなに難しいことでもないし、下宿人の部屋は自分達でやることになっているから、たいして大変でもないの」
大きく頷くと、ギデオンが僅かに考え込むような表情になった。
困惑はするだろうな、とその心中を思った。なにせ一応は男爵令嬢で、貴族の一員である。そんな女が下宿屋を切り盛りするだけでなく、炊事からなにまで全部自分の手でやっているとなると、変わり者とかそういう程度の話ではないだろう。
チャーチル家の娘が飯炊き女なんて、と嘆いたのは母だったか。
そう叫んで卒倒したのは、ここに暮らし始めて半年ほどが過ぎ、生活のリズムも掴めるようになってきた頃のことだ。
あれ以来ずっと、生活に困ることもなく、歴代の下宿人達と大きなトラブルを抱えることもなく上手くやってきたのだから、いい加減この暮らし方を認めてくれてもいいのではないか、と思う。
「……うーん。わかった」
考え込んでいたギデオンが呟く。なにがわかったのだろうか。
小首を傾げて見つめると、彼はこちらを向いて笑いかける。
「きみはとても自立した女性だったんだね。男の庇護が欲しい筈もなかったか」
その言に、おや、とジェラルディーンは双眸を瞠る。
どうやら昨日の侮辱の言葉を改めて撤回しようとしてくれているようだ。
(変わった人)
ちょっと呆れたように肩の力を抜く半面、ジェラルディーンの生き方を頭ごなしに否定したり馬鹿にしたりせずに認めてくれたことが、なんだか少し嬉しかった。
そんなギデオンの様子を見ていたブレットも、なにやら肩の力を抜いたようだ。少しホッとしたような表情になり、ジェラルディーンの方を見遣る。
「あのぅ、オルドリッジさん」
窺うようにブレットが声をかけると、ギデオンは笑顔で振り返った。
「ギデオンでいいよ。ジェインの友達なら、俺とも友達ってことにしといた方がいいと思うし」
はあ、とブレットは戸惑いを浮かべて頷く。貴族の割には庶民に対して気さくだな、と思っているのだろう。
「俺とジェインは、利害の一致で婚約者を演じることになったんだ。えーっと……」
昨日も名前を聞き返していたし、名前を覚えるのが苦手なのだろうか、と思いながら「ブレット」と横から助け舟を出してやる。
「そう、ブレット。きみも協力してくれないかな?」
「協力」
「なにか訊かれたときに口裏合わせたりとか、そんな感じに」
どうだろうか、と言われ、ブレットは快く頷いた。
昨日会ったときは、なんだか情けない男だと思っていたが、なかなかどうして意外にも気が回るし、考えが柔軟だ。
これはかなりいい物件だったのではなかろうか、とジェラルディーンは思った。