4 質問の回答は惚気話
灰色の服以外を久し振りに着た。
ジェラルディーンは姿見の中の自分の姿を見て、ほんの少しだけ奇妙な感じを覚える。
灰色ではないといっても、灰紫という感じの色合いなので、いつもより少し赤い程度と考えればそれくらいなのだが、やはり少し変な感じだ。
「あれ。珍しい」
髪も綺麗に結い直してキッチンへお茶を淹れに行くと、丁度お湯を沸かしていたベティが微笑みかけてくる。
「ジェインが喪服以外を着てるなんて。出かけるの?」
「そう。人と会う約束があるの」
「ふうん。……あ、ジェインも飲む? ついでに淹れる」
「お願いするわ」
茶葉を増やしてくれているベティの後ろ姿を見守りながら、戸棚から焼き菓子の箱を取り出す。これは昨日、この服と共にメグの使いが持って来てくれたのものだ。
「わお。高級なお店のお菓子!」
皿に盛りつけていると、紅茶の入ったカップを持ったベティが驚嘆の声を漏らす。
「この服を貸してくれた友達が、一緒に持って来てくれたのよ」
ウィリアムと死別してからずっと暗い色の準喪服ばかり着ていたので、他の色の普段着は持っていないと思ったのだろう。メグは気を利かせて、あまり華美ではない落ち着いたデザインの服を貸してくれたのだ。
貸してくれたと言っても、添えてあったカードには『私には似合わない色だったから、よかったらもらって』と書いてあった。確かに何度か袖を通した様子はあったがほとんど新品で、あまり着ていなかったのだろうと思う。
それでも生地はとても上等なもので、ぽんと人にあげるには少々値が張るものだと思う。そういうことを平気で出来てしまうあたり、昔からの友人といっても、ジェラルディーンとメグの生活水準は随分と違っているのだ。
ベティが高級なお店と評したこの焼き菓子だって、結婚する前はよく食べていた。今では贅沢をしたい気分になったときにだけ買うものだが、以前は頻繁に買える程度の金銭感覚だったのだと思うと、変わったのは自分の方だと思い知らされる。
それでも変わらずに友人として付き合ってくれていて、慎ましくというより、かなり貧乏臭く暮らしているのを笑ったりしないでいてくれる友人達は、本当にいい人達だと思う。
待ち合わせの時間までまだ少し余裕がある。ベティと二人、お茶を飲みながらちょっとお喋りだ。
大家と下宿人という関係ではあるが、年齢が近いこともあり、ベティとはなかなか仲良くやっている。お互いに深く干渉し合わず、適度に愚痴を聞き合ったり出来て、細かい力や知恵を貸し合える仲だというのがいいのだろう。
「そういえば、ロバートは今日も仕事? 日曜はだいたいいるのに」
来週から始まる新作の公演について熱弁を振るい終わったベティは、もう一人の下宿人の姿が朝から見えないことを思い出す。
「なにか大きなネタがあるみたいよ。しばらく帰れないらしいから、部屋の換気を頼まれたわ」
留守が続く場合は、前以て言ってくれれば部屋の掃除と換気はすることにしている。但し、料金は一日一ペンス。換気だけなら無料で、帰宅後に清算可能。
友人のブレットが営む出版社は、ブレットの取り仕切る文芸部門と、共同経営者のジョンソン氏が取り仕切る新聞部門があり、その新聞部門の方にロバートは在職している。
なかなか有望な若手記者で、ジョンソン氏はかなり期待を寄せているという話だ。大きな事件や取材が重なると、現場主義のジョンソン氏の助手として大抵連れ出される。
ふうん、とベティは気のない風に返事をする。
「それだったら、しばらく朝食はなしでもいいわよ。私は紅茶があればいいし。たまにはジェインも朝はゆっくりしていたら?」
朝寝坊派のベティは、朝食がなくてもあまり気にならないらしい。作ってもらえるから無理矢理起きて食べているだけだ。三食すべて自炊のところに住んでいたら、たぶん朝食は絶対に食べなかったに違いない。
「まあ、そういうのもいいけどね」
ジェラルディーンは苦笑する。
もう十年もこういう生活をしているので、早起きするのに慣れてしまっているのだ。寝坊してもいいということになっても、たぶんいつも通りに起きてしまうと思う。習慣というものはそうして作られていくのだと、最近とても実感している。
そんな話をしていると、玄関からノックの音が響いた。
郵便配達の時間とは少しずれているが、と思いながら立ち上がって出てみると、一人の紳士の姿があった。
「ミセス・ジェラルディーン・ジェンキンスのお宅で間違いないかな?」
紳士はそう言って帽子を持ち上げ、軽く会釈する。その顔には見覚えがあった。
「はい、そうです。ご無沙汰致しております、カートランド侯爵」
友人であるメグの兄だ。
直接話したことはほとんどなく、挨拶をする程度のものが片手で数えられるほどだが、顔と名前くらいは知っている。それくらいに彼は有名人だった。その上、顔立ちはメグにそっくりなのだからすぐにわかるというものだ。
しかし、マシューの方にはあまり覚えがなかったらしく、少し意外そうな表情をして微笑んだ。
「これは失礼。ご本人でいらっしゃったとは」
「お気になさらないでください。それより、どうかなさったのですか?」
待ち合わせの時間まではまだ少しあると思うのだが、と怪訝に思うと、迎えに来たのだ、と言われた。
「今日会う相手の情報を、先に少しお話ししておこうかと思いましてね」
紹介することになったのはいいが、どのような人物なのか先に知っておいた方がいいのではないか、と思ったそうだ。
それはとても有難い申し出だ。一切なにも知らずに会うよりは、どんな人か少しでもわかっている方が話しやすいだろうと思う。
けれど、時間にはまだ余裕があると思っていたので、きちんと支度が出来ていない。
「あの、狭苦しいところではありますけれど、少しお上がりになって? 身支度がまだ終えておりませんでしたので……」
「これは失敬。予告なく訪ねるべきではなかった。不作法を許して欲しい」
「いいえ、お気になさらないでください。中へどうぞ」
立ち話もなんだから、と中に招き入れると、彼は素直に従ってくれた。
帽子を受け取って掛け、居間の方へ案内する。続き間になっているキッチン兼食堂の方で、ベティが慌てて立ち上がった気配がした。
「お掛けになっていてください。今、お茶をお持ちしますので」
「どうぞお構いなく、ミセス・ジェンキンス」
そう言われても、ただ待たせておくことなど出来るわけがない。相手は侯爵様なのでお口に合うかはわからないが、お茶の一杯でも出しておかなければ。
さっとキッチンに駆け込むと、ベティが気を利かせて来客用のセットを用意してくれていた。こういうところに気を回してくれるから、本当に助かる。
「ごめんね。茶葉はこれで」
「わお。一番上等なのじゃなぁい」
ほんの少ししか入っていないくせに、その一缶で家賃が吹っ飛ぶような高級な茶葉を出され、ベティは目を真ん円にする。それだけで、やって来た男は丁寧にもてなさなければならない存在なのだと察知した。
「私は出かける準備して来るから、お茶出しといてもらってもいい?」
「オッケー、オッケー。任せておいて。お茶だけでいい?」
「いいと思う」
素早く指示を出し、衝立の陰を通って自分の寝室兼書斎に駆け込む。
クローゼットからあまり使わない外出用のちょっと生地のいい手提げを出し、財布とハンカチと手帳を入れ、久々に黒真珠以外のブローチを襟に飾った。
服の色がいつもより明るくなり、装飾品も少し変えただけで、随分と印象が変わるものだ、と鏡を覗き込みながらジェラルディーンは思った。冴えないと思っていた自分の顔立ちが、少しだけよくなったような気もする。
(まあ、気の所為よね)
これは見慣れない色合いに変わった所為だ、と思うことにしておく。
ちょっぴり苦笑して、部屋を出た。
ベティはお茶を淹れたあと、そのまま話し相手になってくれていたらしい。マシューも彼女が庶民だからと邪険にせず、にこやかに応じてくれている。
「お待たせして申し訳ありません」
二人の様子にホッとしながら戻ると、ベティは「じゃあ、私はこれで」と答えて立ち上がった。
「楽しかったよ、ベティ。今度きみの舞台を観に行くよ」
「あら! それは光栄ですわ、侯爵様。上席を用意してお待ちしておりますね」
社交辞令だとわかっているベティはぱちんとウィンクを送り、カーテンコールよろしく大仰なお辞儀をすると、キッチンの方へ消えて行った。そのまま廊下側の出入り口から自室に戻るのだろう。
「いいカップだね。ジノリのローズブルー」
腰を下ろすと、マシューがカップを掲げて笑う。
「うちにも同じものがあるよ。青い色は妻が好きなんだ」
「そうなんですか。それはちょっと奮発して買ったものなんです」
柔らかく、少し砕けた口調に少しホッとする。
男性と二人きりになることはあまりない。あったとしても、ブレットと仕事の話をしているときか、ベティがいないときの食卓でロバートと二人になるときくらいだ。
それに実は、ジェラルディーンはマシューのことが苦手だ。
彼の纏う華やかな空気や、交友関係の派手さなど、ジェラルディーンとあまりにもかけ離れていて眩しくて、なんとなく引いてしまっているところがある。
メグとは子供の頃からの長い付き合いで、それなりに仲良くやっているつもりだが、この人とはこの先もずっと親しくなることはないだろうな、と感じている。それはきっと彼も同じで、ジェラルディーンの顔を覚えていなかったことがそのいい証拠だと思う。
だから今回の無茶な話を聞いてくれて、しかもすぐに条件に適った相手を見つけてきてくれたことが、心底意外でしょうがなかった。
少し緊張しながら、ベティが気を利かせて新しく淹れておいてくれた紅茶を手にする。
「それじゃあ、少し相手のことを話そうか」
時計を横目に見てから、本題に入られる。待ち合わせの時間があるので、そんなに悠長にはしていられないのだ。
ジェラルディーンは頷いた。
「まず、名前はギデオン・オルドリッジ。ソーギル子爵の一人息子で、年齢は三十二。背はそんなに高くないけど、あなたよりは辛うじて高いから安心して欲しい」
はあ、と曖昧に頷くが、そういう外見的なことはジェラルディーンはあまり気にしない。ウィリアムだってそんなに背が高くはなかった。
「学歴は僕と同じイートンを卒業している。ちょっと気が弱くて卑屈になるところがあるけれど、根はいい奴だと断言するよ。酔うと饒舌になるけれど、暴力的なところもないし、怒鳴ったりすることもあまりないと思う。少なくとも僕は一度も見たことがない。泣いているところはしょっちゅう見ていたけどね」
そう言って肩を竦める。
つまりは、マシューが泣かせていたのだろう、とジェラルディーンは推測した。先輩後輩という力関係からしても、その可能性が高い。
「何故この男をあなたに薦めるかというと――驚かないで欲しいのだけれど、奴もまた、あなたとまったく同じ境遇に置かれているんだ」
可哀想に、と過去のギデオンに同情していると、マシューはそう話を続けた。
「同じ境遇?」
ジェラルディーンは首を傾げて瞬く。
そう、とマシューは尤もらしく頷いた。
「随分と昔に奥方を亡くしていて、周囲から散々再婚を薦められている。そして、奴の次の誕生日――丁度次の降誕祭なんだけど、それまでに婚約者を連れて来なければ、家を追い出すと言われているらしい」
「まあ」
ジェラルディーンは素直に驚いた。
本当にまるっきり同じ状況ではないか。こんな偶然が世の中に在るものなのだろうか。
「一人息子だからね、家名の存続のことをご両親は案じておられるのだろう。これは貴族の家に生まれたからには宿命とも言えるんじゃないかな」
それはその通りだろう。ジェラルディーンは同意する。
国王から爵位を賜ることはとても名誉なことだし、それを後世に継いでいくのは、拝命した家門の正当な義務だと思う。
なにか事情があって相続出来ないならまだしも、健康体であり素行にも問題がないのならば、家督を継いで子孫を残すことを周囲から望まれて当然だろう。
それとも、なにか大きな事情があるのだろうか。
「家を追い出されたくない奴は、婚約者を見つけなければいけない。けれど、結婚自体にはかなり消極的というより、本音ではしたくないと思っている。これは本人にきちんと確認を取ったから事実だよ」
(亡くなった奥様を未だに思っているとか、決して結ばれない恋をしているとか?)
マシューの言から、ジェラルディーンはそんな予想をしてみる。
もしもそんな事情を抱えているのならば、無理矢理結婚させるのは可哀想だ。偽りの上に築かれる結婚生活など不幸以外のなにものでもないし、もしかするといずれ心を病んでしまうかも知れない。そんなものでは誰も幸せになれない。
ジェラルディーンの脳裏に、ふと、ウィリアムの顔が過る。
いつも穏やかに優しく微笑んでいた彼の、とても悲しげに歪められた表情が、十年経った今でも鮮明過ぎるほどに記憶の奥に刻み込まれている。
こんな思い出を、そのギデオンも抱えて生きてきたのだろうか。
話を聞いた限りだと、とても他人事とは思えないように感じられる。それくらいにジェラルディーンとギデオンの境遇は似ていた。
「そういうわけで、もしも意見が合うようならば、お互いに協力という形で、仮の婚約をしてはどうだろうか? お互いの欲しいものが補い合えると思うんだけれど」
そう言ってマシューは微笑む。
確かにその通りだろう。ジェラルディーンは月末の母の再来に備えて、親密にしているという態の男性の存在が欲しく、ギデオンも年末までに婚約者が必要となっている。利害は完全に一致していると思う。
実際に会って話をしてみなければわからないが、お互いに望むのならば、しばらくの間でも協力関係を結ぶのはいい案だと思う。
「あの。そちらの……オルドリッジ様は、このお話に乗り気なのでしょうか?」
ジェラルディーンはこの申し出を前向きに受け止めることにした。なにせこちらにはあと数日しか時間がないのだ。
「さあ?」
マシューは軽く肩を竦めた。
「一応、今日会うことは了承しているけれど、本音のところはどうだかわからない。なにせ奴は、僕の言うことには基本的には逆らえないからね」
自分が横暴な先輩であったという自覚は、一応持ち合わせている。それでもそれを改めるつもりはないのは、ギデオンの反応が面白いからだ。
驚いたような顔をしているジェラルディーンに、マシューはにやりと笑みを向けた。
「奴は僕が苦手なんだよ。あなたと同じように、ね」
時間がきたので、ベティに留守番を頼んで出て来たが、なんとなく気不味い。まさか苦手にしていたことに気づかれていたとは。
そんなに態度に出ていたのだろうか、と青くなれば、マシューに「あなたは僕の妻と同じような目つきで僕を見ているから」と笑われた。
気不味いジェラルディーンの心の内を汲んだのか、マシューはエスコートの為に腕を差し出してきたりはしなかった。変な沈黙が続いて空気が悪くならない程度に時折話しかけてくれるが、少し距離を取るように半歩前を行ってくれている。
こういう距離感の計り方を心得ているからこそ、彼の交際範囲は老若男女貴賤を問わずに広いのだろうと思われる。
いけ好かないと昔から感じて遠巻きにしていたが、実はとても度量の大きな人なのではなかろうか、と今更ながらに感じた。
「あの」
控えめに声をかけると、彼は微かに笑みを浮かべて振り返る。
「侯爵様は、その……どうしてご結婚されたのですか?」
彼は今のジェラルディーンと同じ年頃になるまで、数々の恋の話を聞きはしたが、結婚することはなかった。そのことを苦々しく思っていたメグに何度か愚痴られたこともあるので、よく知っている。
貴族の女性は十代の半ば頃にはもう嫁ぐのがほとんどで、二十歳を超せばだんだんと行き遅れのレッテルを貼られ始めるものだが、男性はそうということもなく、大抵が二十代ぐらいで結婚したりはするが、三十や四十になってから結婚することもざらだった。
だから、マシューが三十も間際まで結婚していなくてもそんなにおかしなことではなかったが、ふらふらと遊び歩いていた彼が、結婚を機にぱったりとそういうことをやめ、今では愛妻家で子煩悩な父親として有名なのが少し不思議だった。
ジェラルディーンは、マシューも男女の愛情というものを信じない性格なのだと思っていたのだ。
「唐突だなぁ」
マシューは軽く笑う。
「すみません。侯爵様は以前は、その……いろいろと、あったご様子だったので、なにがご結婚へと決意をさせたのかが気になりまして」
口ごもりながら言うと、マシューは声を立てて笑った。
「別にはっきり言っていいよ。結婚を嫌がって遊び回っていたくせに、いったいなにがあったんだ、って。メグもそう言ってただろう?」
それはそうなのだが、それを直接はっきり言ってしまえる程の度胸はない。曖昧に微笑むに留める。
「私は、その……なんというか、結婚というものには向かない性格なのだと、自分のことを思っています。あなたもそういう性質なのだと思っていたので、ご結婚されて、奥様とはとても仲がよいと評判なのが少し不思議だったのです」
「なるほどね……。当たらずも遠からず、かな。確かにそう思っていた時期もあったね」
マシューは大きく頷く。
やっぱり、とジェラルディーンは思った。恋多き男として名を馳せていた彼だが、少し離れた位置から眺めていたジェラルディーンだけではなく、家族というすぐ傍で見ていたメグでさえも、知っている範囲で深い関係だった女性はいないと思う。だから彼は、結婚というものを忌避しているのだと思っていた。
早くに家督を相続し、侯爵家の当主を務めてきた男なのだから、自身の結婚というものが重要であることは理解していた筈だ。それでもなかなか踏み切らなかったのは、周囲からせっつかれるのにうんざりしてしまった結果か、元々の考え方に因るものなのか。
元々の考え方に因るものならば、ジェラルディーンにも通じるところがあると思う。
それをどうやって克服して結婚にまで至り、更には愛妻家とまで呼ばれるようになったのか、参考までに聞いてみたかった。
「ロマンティストだと笑われてしまうだろうけど、運命の出会いを果たしたから――と僕は思っているよ」
マシューは少し重たい口調で、真剣に言った。
「運命……」
「そう。結婚を考えた女性は、妻と出会う前にも何人かいてね。身分のことがあったり、相手の親に難色を示されて叶わないこともあったよ。裏切られたこともあったしね。……そうなってくると、結婚なんかしなくてもいいやって思ってしまうものだろう」
違うかな、と言われ、ジェラルディーンは僅かに頷いた。嫌な経験が重なれば、自然と尻込みしてしまうものだ。
それとは少し事情が違うが、ジェラルディーンが再婚に対して後ろ向きなのも、元を辿れば苦い経験があるからだ。そのことを思い出す度に、悲しげなウィリアムの表情を思い出す。
「それでも妻と出会って、彼女と共に生きたいと思った。だから泣いて嫌がるのを追い駆け回して、最終的にうんと言わせたのさ」
「…………え?」
笑顔でなにか不穏な言葉を言ってくれたような気がする。
表情を引き攣らせて固まると、マシューは悪戯を思いついた子供のような表情で笑った。
「なかなか刺激的だろう?」
冗談なのか本当のことなのかわからない口振りだ。返答に困る。
「小説のネタに使ってもいいよ」
困惑していると、パチンと片目を瞑ってそんなことを言われた。その様子にちょっとだけムッとする。
「では、冗談なのですか?」
ひっそりと文筆業をしていることは知られていたようだが、自らの実体験を世間に公表するようなことを勧めるなんて、ジェラルディーンには理解出来ない。
プライベートなど、他人においそれと明かしたくはないものだ。自分で書く私小説ならまだしも、他人の手による創作物として、不特定多数の人に発表されるなんてまっぴらだ。
「さあ、どうだろう。信じても信じなくてもいいよ」
僅かに睨みつけると、はぐらかせて笑う。
ではやはり、冗談だったのだろうか。
それでも、結婚を嫌がって遊び歩いていた彼が、愛妻家として知られる家庭的な男になったのは事実なので、運命の出会いを果たしたというのは本当のことなのだろう。
彼の妻は、元々は妹であるメグの友人だという。それで知り合ったらしいということは、巷に流れる噂や、メグ自身の口からも聞き知っていた。
とても穏やかな様子で妻のことを口にするマシューを見ても、彼が本心から妻を愛しているのはやはり事実で、自分の結婚というものに満足しているのも事実なのだろう。
(運命の相手、か……)
そんな人に出会えれば、ジェラルディーンも結婚をしたいと思うようになるのだろうか。
残念なことに、ウィリアムはジェラルディーンにとってはその人ではなかったようだ。だからすぐに神の御許へ行ってしまったし、ジェラルディーンは彼に対して、未だに深く後悔するくらいとても酷いことをしてしまった。
謝りたかったのに、謝ることも出来ず、ウィリアムとは二度と会えなくなった。その悔恨の念に、未だに囚われている。
(オルドリッジ様は、どんな方なのだろうか)
これから向かう先で紹介されることになっているギデオンのことを思う。
もしもその人が運命の相手だったら、ジェラルディーンは彼を愛しいと思うことが出来るようになるだろうか。マシューが言うように、添い遂げたいと感じられるだろうか。
そんな幸運な偶然があるとは思わないが、同じ境遇に身を置く者同士、支え合える友人になれたら少し嬉しい。
でもきっと、伴侶として愛することは絶対に無理だ。それだけは確信している。
そのことを思うとき、脳裏には必ずウィリアムの姿が過る。いつも穏やかに見つめてくれていた春の陽射しのような表情ではなく、痛みを堪えるような、ひどく傷ついた表情でジェラルディーンを呼ぶあの姿が。
ズキン、と胸の奥に鈍い痛みが走る。
この痛みはきっと一生、背負っていかなければならないものだ。それがジェラルディーンの罪だ。
「おや、優秀だな。ちゃんと時間前だ」
待ち合わせ場所である公園の入り口に差し掛かったところで、マシューが呟く。
「ご婦人を待たせることはなかったか。感心、感心。――あれがギデオン・オルドリッジですよ、ミセス・ジェンキンス」
楽しげな口調が、落ち着かなさ気にウロウロと歩き回っている青年の姿を示す。
あれが、とジェラルディーンは小さく呟いた。
その声が聞こえたわけではないだろうが、歩き回っていた後ろ姿はハッとしたように足を止め、こちらへ振り返った。