3 結婚するしかない男
「ギデオン・オルドリッジじゃないか」
一人で飲んだくれていると、そんな風に名前を呼ばれた。
今日は誰とも一緒に過ごす気になれないでいて、来店したときに声をかけてきた友人や顔見知り達も避けて一人でいるというのに、いったい誰だ、と振り返ったギデオンは、飲んでいたブランデーを思わず吹き出して噎せた。
声をかけてきた相手は、そんなギデオンの様子に顔を顰めて「大丈夫か」と、然して案じている風でもなく尋ねてくる。
「カっ、……ト、ランド先輩……っ」
口許を手の甲で拭おうとすると、さっと胸許のハンカチを引っ張り出されて渡された。
こういう場合は自分のハンカチを渡すものではないだろうか、と非常に微妙な気分になりながら、差し出された自分のハンカチを曖昧に頭を下げて受け取った。
「……お久しぶりです」
何故か同じテーブルに勝手に座ってしまった男に、ギデオンは仕方なく挨拶する。
鷹揚に頷く男はマシュー・カートランド。寄宿学校時代の先輩であり、ギデオンを寮弟に指名して散々振り回してくれた酷い男だ。
何故この男がこんな店にいるのか、と不思議で仕方がない。昔から、紹介がないと入れないような会員制の高級クラブに行っているではないか。
一応この店も、下位貴族や素封家の若者達が出入りするそれなりのクラブではあるが、侯爵位を賜る彼が来るような店ではない。
そんな不満が顔に出てしまっていたのか、マシューはギデオンをジロリと睨みつける。
「なんだ? 僕と酒を飲むと不味くなるとでも?」
「い、いいえ! そんなことはありません! ご一緒出来て光栄です、先輩」
慌てて背筋を伸ばして首を振るが、酒が不味くなるどころの話ではない。程よく回っていた酔いはすっかり醒めてしまったし、愛想のつもりで飲んだ酒はただただ苦いだけで味がわからない。
その苦いだけの色水を無理矢理流し込んでいると、マシューは呆れたように肩を竦めた。
「まあ、少し我慢しろ。人待ち中なんだが、慣れない店はどうにも退屈でね。顔見知りがいて安心したところなんだ」
「はあ……」
人見知りなんかするような性質でもないのに、いったいなにを言っているのやら。この男の性格なら、その辺を歩いている給仕係を適当に捕まえて、暇潰しの話し相手をさせるくらいは平然とやってのけるくせに。
誰かと待ち合わせなのか、とそのことには少しだけ安堵する。それならあまり長居はされずに済みそうだ。
「そういえば、お前のお父上に、誰かいい人を紹介してくれと頼まれたぞ」
ホッとしつつも苦味しか感じられない色水を飲み干すと、そんなことを言われる。不穏な言葉を聞いたが故に、舌の上で更に不味さを増した気がした。
「えっ、うちの父……ですか?」
「そう。ソーギル子爵」
「会ったんですか?」
「会ったもなにも、少し前まで社交界期だったろうが」
秋から冬を領地で過ごしていた貴族達が、春になってロンドンに集まり、親交を深める為に舞踏会や晩餐会などに興じるのだ。もちろん議会なども召集される。
その集まりのうちのひとつで招待が重なり、少し話をしたのだという。そのときに、ギデオンに嫁いでくれるような年頃のお嬢さんを紹介して欲しい、と頼まれたのだ。寄宿学校時代に親しくしていたことは知られているので、その縁で頼む、と頭を下げられたらしい。
「えぇ……。もう死にそうで寝込んでたんじゃ」
困惑気に呟くと、マシューは首を傾げる。
「なにを言ってるんだ。自分の親に対して縁起でもない。相変わらず豪快に笑っておられて、頗る元気そうだったぞ。何処か悪かったのか?」
父の大きな笑い声を思い出し、ギデオンは頭を抱える。
病床の父に呼びつけられたのは、まだシーズン中のひと月ほど前のことだ。
弱々しく手を握り返し、わたしはもう長くない、などと震える声で言っていたというのに、元気そうだったとはどういうことだ。
傍に付き添っていた母は泣いていたし、執事も沈鬱な表情で頷いていて、メイド達も暗い表情で俯きがちだったというのに、豪快に笑っていたとはいったい何事だ。
あんなに重病そうで苦しそうにしていたというのに、それが半月足らずで、晩餐会に出て豪快な笑い声を響かせ、最近ではあまり付き合いのない先輩に嫁の世話を頼むほどに快復するわけがない。
(あの、クソ親父!!)
ピンピンしているならあんな遺言など無効だ。そうに決まっている、とすっかり憤慨して、新しく注ぎ直したブランデーを一気に飲み干す。
やけくそと言わんばかりのその様子に、マシューは怪訝そうにした。
「なにかあったのか?」
「いいえ、別に!」
眉を吊り上げて半目で首を振り、もう一杯注ぎ足す。
さすがにこの乱暴な飲み方は見ていられなかったのか、ブランデーの瓶を取り上げられる。ギデオンはムッとした。
「なんですか、先輩」
「なにを苛ついているのかは知らないがな、そういう飲み方はよくない。酒にも失礼だ」
「お気遣いどうも! でも、飲まなきゃやってらんないですよ」
奪うようにして瓶を取り返す。
マシューが心底呆れたような表情になって溜め息をついているが、知るものか。彼には関係のないことなのだから。
だいたい父も父だ。なにも選りに選って、こんな悪魔のような男に頼まなくてもよかったではないか。
優しい先輩、可愛がられた後輩という親しい間柄であっただろうなんて、父の勘違いも甚だしい。
四級上のこの男はギデオンを寮弟という呼び名の世話係に指名すると、朝も昼も夜も、授業の合間の僅かな休み時間でさえ、散々扱き使って振り回してくれたのだ。
そんな男に嫁の世話まで頼んだりしたら、この先一生、ずっと付き合いが続いてしまうではないか。そんなのは絶対に困る。
卒業してようやく距離を取れるようになって、今ではたまに会ったときに挨拶をする程度の仲にまで離れられたというのに、また近づくようなことがあって堪るものか。
苛々しながら更にもう一杯注いでいると、給仕係の一人が近づいて来て、マシューに何事か耳打ちしてきた。
「……そうか、わかった。気にしなくていい、と伝えてくれ」
「かしこまりました」
頷く給仕係にチップを渡し、ついでに飲み物の追加も頼んでいる。
なにかあったのだろうか、と思いながらこちらも最後の一杯をグラスに注いでいると、くるりとこちらに向き直られた。
「待ち合わせ相手が少し遅れるようなんだ。三十分ばかり暇になったから、お前の好みでも聞いていてやろう」
「は?」
なにを言われたのかわからなくて目をぱちくりとさせると、マシューは呆れたように「女性の好みだよ」と言ってきた。どうやら父からの頼まれごとの延長らしい。
勘弁してくれ、とうんざりしていると、酒の載った盆を持った給仕係がやって来た。
「ほら、一杯奢ってやるから」
そう言ってひとつは自分の手許へ置き、ひとつはこちらの前に置いた。
置かれたグラスを見つめ、ギデオンはむっつりと黙り込む。
ギデオンはソーギル子爵エドワード・オルドリッジの一人息子だ。他に兄弟はなく、順当に行けば子爵位はギデオンが継ぐことになる。
しかし、先日父から「結婚しなければ家督は継がせない」と言われたのだ。
ギデオンはもうすぐ三十三歳になるのだが、ずっと独り身でフラフラしている。友人達が妻を娶ろうとも、年下の親戚達に子供が生まれようとも、ギデオンはのらりくらりと独身生活を謳歌しているのだ。
そんなギデオンを父が心配する気持ちもわからなくはないが、大きなお世話だと思うし、結婚しなければ家を出て行けだなんて、まったく以てあんまりな話ではないか。
独身だと言っても、正確には寡夫だ。寄宿学校を卒業して家に戻った十八の頃には、可愛らしい妻を娶っていた。
家同士が決めた結婚だったが、ギデオンはまだ幼さの残る年下の妻を好きだったし、彼女もギデオンを慕ってくれていた。ちょっとした意見の相違で少々空気が悪くなることはあっても、大きな喧嘩をしたこともなく、とても仲睦まじくやっていたと思う。
笑窪の浮く丸顔が可愛らしかったその妻が、お腹の子供と共に天に召されなければ、ギデオンも父親として立派にやっていたかも知れない。
妻と子供を亡くして以来、ギデオンは人と深く関わるのを避けるようになった。
永遠の別離というのは、友人と疎遠になるのとはわけが違う。生きてさえいれば、関わりを避けたいと思っている先輩とでさえ、こうして同じテーブルに座ることだってある。けれど、亡くなってしまったら、そんなことは二度とあり得ないのだ。
ギデオンはとても恐かった。大切だと思っていた存在が、突然そうやって失われてしまうことが。
だから、もう二度とそんな思いをしたくなくて、人と深く関わるのを避けるようになった。信頼と好意を持つほどに親密でなければ、失ってもこんなにつらくならないと思ったからだ。
一人息子であるので、跡継ぎのことを案じた親戚や知人から再婚を強く薦められたが、そんな気にもなれず、のらりくらり。
父に愚痴愚痴と言われようとも、母からの泣き落としを食らおうとも、のらりくらり。
気の合う友人達とこういう店で酒を飲んで、楽しく笑い合い、ときには小難しい話を真剣に議論したりする。
人肌恋しくなれば、娼館に出向けばいい。気さくな娼婦達が優しく癒してくれる。
そういう生活が、ギデオンの性には合っていた。なにも不満はない。
けれど、ここにきて父から言われたのが、次の誕生日までに結婚しなければ家督は継がせない、というものだった。
病床の弱り切った様子の父が涙ながらに、孫の顔を見れずに死ぬのは悲しい、と言い、母も同意して号泣していた。もちろんそれは仮病だったのだと、たった今、この苦手な先輩の口から判明したところだが。
もしも父が亡くなったあとにギデオンが家督を相続しようとも、彼が妻帯して跡継ぎを儲ける保証はない。そうなるとソーギル子爵家の先行きが不安で仕方がないので、ならば既に息子が二人いる従兄弟を養子に迎え、そちらに家督を継がせたいと言い出したのだ。
それを回避する為には、年末の誕生日までに入籍、もしくは婚約者を連れて来ることが条件だ、と言われた。
出来なければ、ギデオンを相続人から外した遺言状を作成するという。
あまりにも無茶苦茶だ。だが、あの父ならなにか正当に思える理由を作ってそれくらいやるだろうし、出来るわけがないと鼻で笑って見過ごすことはやめておいた方が賢明だろうと思う。笑っているうちに家を追い出されることになる。
適当に婚約者を作り、両親に会わせてやるのが一番いい。それで父は安心するだろうし、ギデオンの勘当も免れる。
しかし困ったことに、そういう関係になっても問題のない妙齢の女性の知り合いというのが、ギデオンにはとことん少なかった。
同年代の知り合いは結婚適齢期などとうに過ぎ、ほとんどが結婚しているし、子供もいるくらいだ。
今現在、丁度適齢期になっているような令嬢達は十歳以上も離れているので、直接の知り合いもいない。下手すると、友人達の娘がそれくらいの年齢になっていたりする。
未婚で年齢的にも釣り合いが取れて、よく知っているような女性というと、残念なことに娼婦しかいない。
身請けして愛人にすることくらいは可能だろうが、妻として家に迎え入れることは無理だと思う。そこまでしてもいいと思えるような付き合いの娼婦はいないし、世間体的にもかなりよろしくない。
ちらり、とマシューのことを見る。
彼は元々かなり交友関係の広い人で、十年ほど前に結婚するまでは、数々の浮名を流す遊び人として有名だった。
ギデオンが親しくなった女性がマシューの元交際相手だったことも、懇意になった娼婦が彼と知り合いだったことも数えきれないくらいにある。それくらいに彼の女性との交際範囲は広かった。
結婚して以降はすっかり落ち着いてしまったらしいが、そんな彼に頼めば、取り敢えずすぐに婚約ぐらいはしてくれる女性を紹介してくれるかも知れない。そう思って、父も彼に女性の紹介を打診したのだろう。
しかし問題は、この男に借りを作らねばならないということだ。
寄宿学校を卒業以降、徐々に距離を取るようにしていた。そうしてようやく、年に一度くらい偶然に出会う程度の関係にまで離れられたのだ。ここで借りを作ったりなどしたら、また学生時代に逆戻りしそうで恐い。
今でも思い出す。地獄のような奉仕活動を行っていた二年間、この男がいつもギデオンを「チビすけ」と呼んでいたことを。
確かにあの頃は小さかった。だが、マシューが卒業して以降に背は伸びたし、今では六フィート程の彼とそう変わらない筈だ。
「で、どんな女性が好みなんだ? 大人しい人? 快活な人? 僕の交際範囲でお前の好みに合う女性がいればいいんだけど」
ギデオンが黙っているので、何処か面白がるような口調で尋ねてくる。
「お父上のご希望としては、若くて明るいお嬢さんらしい。爵位の有無はこの際問わないと言われているが、お前はどうなんだい?」
「……気にしないでください」
絞り出すような声で答え、奢られた酒にちびりと口をつける。
やはり駄目だ。この男に借りを作るのはどうにも気が進まない。今までの努力がすべて無駄になる。
マシューは「そうか?」と意外そうな声で首を傾げた。
そこへ一人の男がやって来た。その姿に気づいたマシューが手を上げる。
「やあ。思ったよりも早かったな」
「お待たせして申し訳ありません、カートランド卿」
「気にするな。急に呼び出したのはこちらなのだから」
ようやく待ち合わせの人物が到着したようだ。
相変わらずちびちびと酒を舐めながらちらりと顔を上げ、その相手を見たギデオンはちょっと驚いて、思わず「あっ」と声を出す。
その声に気づいた相手も振り返った。
「ギデオン? なんでカートランド卿と相席してるんだ?」
「きみこそ。なんで先輩と待ち合わせを?」
よくこの店で一緒に酒を飲み、カード遊びをする仲間のジョセフだった。
「先輩? 知り合いなんですか?」
首を傾げるジョセフに、マシューも驚いたような表情を向ける。
「なかなかに奇妙な縁があったものだな。こいつは僕の寄宿学校時代の後輩なんだよ」
「ああ、そうなんですね。俺達はこの店で知り合って、年が同じなもんだから意気投合して、たまに一緒に飲む仲なんです」
「そうそう。それで、きみは先輩と?」
「親戚ってことになるのかな。カートランド卿の奥方が俺の再従兄妹でね」
「へえぇ! 本当に奇妙な縁だなぁ!」
今までまったくなんの関わりもないと思っていた相手が、知らないところで繋がっていたというのは不思議な感じがあるが、社交界というのは意外と狭いものなのだ、と改めて実感した。
ジョセフはそのままそこに腰を下ろした。
待ち人が到着して、マシューがようやく何処かへ行ってくれることを期待していたギデオンは内心でがっかりし、座ってしまったジョセフに対してほんのり怒りを覚えた。
「リュネットの具合はどうですか?」
通りがかった給仕係に自分の分の酒を頼んだジョセフは、気遣わしげな口調でマシューに尋ねる。
「あまりよくないね。身体はもういいらしいんだけど、かなり気鬱で……。お陰で僕は屋敷を追い出されたところさ」
苦笑して肩を竦め、大きく溜め息を零す。そうですか、とジョセフは表情を暗くして頷いた。
(追い出された? 先輩が奥さんに、自分の家から? ……ぷふふっ)
ギデオンは心の内で笑いを噛み殺す。表に出さなかったのは褒めて欲しい。
この悪魔のような男が、溺愛していると噂の奥方から追い出されて寂しく酒を飲みに来ていたのかと思うと、ザマーミロと思えてしまうのだ。仕方がない。
「それで、どういったご用件ですか? 俺に応えられる内容だといいんですけど」
運ばれて来た酒を受け取り、ジョセフは少し緊張した顔で尋ねる。
これは同席していていい内容なのだろうか、とギデオンは少し居心地が悪くなった。
ちらりとマシューを見るが、彼は気にしていないようで、軽く首を振る。
「たいしたことじゃないよ。丁度こいつもいたからそっちに話を振ってもよかったんだけど、僕とは交友範囲が重なってるから」
どうやら人を紹介して欲しいようだ、と二人は察した。
ギデオンとマシューは同じ学校を出ているので、知り合いがだいぶ被っている。卒業後に築いた人脈も、やはりなんとなく近いものがある。
対するジョセフは、二人とはまったく違う学校を出ているし、人脈はほとんど重なっていないと考えられる。その上、実家が以前ちょっとした不祥事を起こした経緯があり、ロンドンの社交界にはあまり出て来ないで領地の方にいることが多く、そちらの方に顔が広いこともある。
母親はアイルランド系で、そちらのコミュニティにも顔が利くのならば、これまたまったく違う人脈があると考えられる。広範囲に渡って人捜しをするなら最適だ。
なるほど、とジョセフは頷いた。
「それならお力になれそうです」
「助かるよ。昨日の今日で悪いね」
「いいえ。たいしたことではないので、気にしないでください」
了承し合った二人の様子を眺めながら、なにか仕事の話だろうか、とギデオンは首を傾げる。
それだったらギデオンにはあまり力になれない。これでも一応、治水関連の部署に職を得ている身だが、そんなに活躍しているわけでもなく、任された仕事を適当に熟しているだけなのだ。紹介出来るような有能な仕事仲間などはいない。
しかし、マシューの探し求めている人材は、そういうものではなかったようだ。
「今すぐ結婚出来る三十代ぐらいの男性はいないか?」
その言葉に、二人はきょとんと固まる。
なにを言われたのかがちょっとわからなくて、言葉を反芻してみた。――やっぱりよくわからない。
「……と、いいますと?」
少し考えた末に、ジョセフはもう少し詳しく聞かせてもらおうと、尋ねてみる。
「身分は特に問わない。初婚再婚も不問。実際に入籍はしなくてもいいから、取り敢えず婚約者としてご両親に会って欲しいそうだ」
なんだか何処かで聞いたような話だ、とギデオンは思った。
「妹の――メグの友人の女性なんだが」
「ああ、スタンフォードの奥方」
呟かれたジョセフの言葉に、ギデオンは何度か一緒に飲んだことのある男の姿を思い浮かべた。確かジョセフの同級生だった筈だが、その男もマシューの関係者だったのか、と思い知る。
本当にこの世界は狭い。意外と彼方此方が繋がっている。
「その女性が、随分と前にご夫君を亡くされていてな。以来ずっと独りなんだが、やはりまわりは心配なんだろう。再婚をしつこく薦められているそうだ」
なんだかものすごく何処かで聞いたことがある話だ、とギデオンは眉間に皺を寄せた。
「再婚するつもりはないらしいんだが、周囲の声が少し、いや、かなり煩わしくなったようなんだ。それで、取り敢えず婚約者でも紹介すれば収まるかと考えているらしく、誰か協力してくれる人はいないだろうかという話だ」
とても身に覚えがある話だ、と口許を引き攣らせるギデオンの隣で、ジョセフは真面目そうな表情で「なるほど」などと頷いている。
ギデオンはとても居心地が悪くなる。なんでそんなにも自分とそっくりな状況に置かれている見知らぬ女性の話を聞かねばならないのだ、と物凄くうんざりすると同時に、その女性に激しく同情し、心の中でそっとエールを送った。
(たぶん会ったこともない人だろうけど、きみも大変なんだね、先輩の妹さんの友人さん……お互い頑張ろう。健闘を祈るよ!)
自分の場合は、十二月の誕生日までまだあと三ヶ月ある。どうにか都合のつく女性でも見つけて、降誕祭から年始にかけての十二夜を一緒に過ごしてもらえれば、しばらくはなんとか保つだろう。
その間にどうにかして父に跡取りとしての確約を貰えれば、ギデオンの将来は安泰だ。爵位と領地を継いでのんびり暮らせる。
「婚約してもご破算なんてことは、よくありますしね」
「そうなんだ。だから、取り敢えず婚約者を演じてくれて、少ししたら別れてくれて構わないそうだ。でも、後々バレたときが面倒だから、既婚者はやめてもらった方がいいな」
「そのまま本当に結婚、ということは?」
「さあ、どうだろう? それは本人同士の意思に因ると思うけど、取り敢えずその女性は、今はあまり望んでいないようだ」
マシューの説明に、ジョセフは真剣に頷いている。
いい奴だなぁ、とギデオンは思った。
前から気のいい兄貴肌の男だと思っていたが、こんな無茶苦茶な相談事にも真剣に取り合っているし、どうにかして応えてやろうとしている。
(実はなにか弱味でも握られているとか?)
適った相手のことを記憶の中から探し出そうとしている様子を眺めながら、少し意地の悪い考えが頭を過る。
そうでもなければ、誰が好き好んでこの悪魔のような男の要求に応えるものか。なにか利益があるからに違いない。
「――…あっ」
誰かいい人が思い浮かんだのか、顔を上げたジョセフがパチンと指を鳴らす。
「条件にぴったりな男がいましたよ、カートランド卿」
「それは有難い」
マシューはパッと表情を明るくした。
「年齢はもうすぐ三十三歳、一応独身。趣味が娼館通いみたいなところはありますけど、愛人や隠し子はなく、変な病気も持っていない健康体。性格はちょっと卑屈なところもあるけど、暴力的じゃない。髪の色は黒、瞳は青。名前は――」
言葉を途切れさせたジョセフの手が、ギデオンに向かってにゅっと伸ばされる。
肩を掴まれ引き寄せられ、思わず「わっ」と小さく声が漏れた。
「ギデオン・アーチボルト・オルドリッジ。ソーギル子爵の一人息子」
急に名前を出されたギデオンは目を丸くし、持っていたグラスを取り落した。
「……なるほど」
マシューが双眸を細め、ギデオンを見つめながら呟く。
「な、なにが『なるほど』なんですか、先輩?」
その視線にギデオンは震え上がった。
彼がこういう顔をするときは、なにか面倒なことを企んでいるときに限る。嫌な予感しかしない。
「丁度よかったじゃないか」
肩を抱くジョセフがそんなことを言う。
「親父さんの命令で、年末までに結婚相手を見つけなければならなかったんだろう?」
「た、確かに、そうだけど……っ」
その話をここでしないでくれ、とギデオンは切実に思った。碌な目には遭わないので、そういう弱味になるようなことをマシューに聞かれたくない。
焦るギデオンに向かって、マシューはにっこりと微笑みを向けた。以前は女性達が頬を染めてキャーキャーはしゃいでいた魅力的な笑みだが、ギデオンにとっては魔王の微笑み以外のなにものでもない。
「よし、ギデオン。お前、明日――は、ちょっと急だな。明後日の日曜日、時間を空けておけ。時間は午後三時ぐらいがいいか」
震え上がるギデオンに、マシューは寄宿学校時代と同じように一方的に言いつける。
「いや、あの、先輩……」
「詳しいことは明日また連絡しよう」
抗おうとして口籠もるギデオンの先を制し、マシューは鷹揚に告げる。
「強制はしない。だが、お前にも、相手の女性にとっても、これはかなり有益なものになると思う」
それは確かにそうだと思う。
だがしかし、世の中そんなに簡単に上手くいくわけがない。
美味い話にはなにか落とし穴がある――それは、寄宿学校時代に身を持って学ばされたことだったのだが、その教訓を植えつけた相手の言葉に、ギデオンは未だに逆らうことが出来なかった。
「どうするのが自分にとって一番いいか、賢いギデオンならわかるよな?」
だから、こう言われてしまえば、答える言葉はひとつしか持ち合わせていない。
「……仰せのままに」
最後のギデオンの台詞が『マイロード』じゃなくて『サー』なのは、学生時代に使ってた言い回しだからです。ニュアンス的には「承知致しました」じゃなくて「了解っす先輩」という感じ。…と、ちょっと補足。