1 迷惑な来客との攻防
下宿人達を送り出したあとは、まずは家の中の掃除だ。
部屋の中は各自でやることになっているが、階段や廊下などの共用スペースはジェラルディーンがやっている。
掃除といっても、お屋敷のメイド達のように『しっかりと隅々まで磨き上げる』というものほどではない。高いところにはたきをかけて窓桟や手すりを拭き、床をさっと掃いてモップ掛けする程度だ。
「手慣れたものよね」
モップが通った濡れ跡の見える廊下を眺めてぽつり。
なんだかんだでもう十年近く、掃除も料理も自分の手でやっている。初めは隅から隅まできっちり磨き上げようとしていたが、それでは時間ばかりかかってよくないし、疲れるし、毎日するのも億劫に感じてしまうし、適当に手を抜く方法も覚えた。
着替えすらもメイドの手を借りてやっていた子供の頃の自分に、今の自分の姿を見せてやりたい。なにも出来ずにメイドと家庭教師の言いなりになっていたお前は、今はなんでも自分一人の力で熟せてしまうのだぞ、と胸を張って。
上階の共用スペースの掃除を終えたので、今度は自分の部屋と食堂だ。
戸棚の上などにはたき掛けは昨日したので、今日はいいことにする。毎日やるのは面倒なので、二、三日置きでいいことにしているのだ。
台所から保管しておいた茶殻を持って来て居間の絨緞の上に撒き、ざっと箒で掃き出す。嘘か本当か知らないが、こうすると匂い消しになるらしい。
そのまま食堂とキッチンの方へ掃きながら移動して行って、ゴミをまとめて塵取りに回収し、今度はモップ掛けに移る。調理や食事のときに油やスープが飛んだりしていて、他の部屋に比べれば床が汚れやすいので、ここは隅々まで念入りにやっておく。
黒くて平べったくてすばしっこいあの虫とか、鼠が棲みついたら非常に困るから、物凄く念入りにやっておく。そういえば、そろそろ鼠取りの罠も新しいものを仕掛け直しておかなければ。
ここまでで所要時間は約一時間。なかなか慣れたものだ。
自分の手際に満足気に頷き、薬缶を火にかける。掃除用具を片付けて来たらちょっとお茶にしよう。
お茶請けはベティがくれたお菓子にしよう、と戸棚の中身に思いを馳せながら汚れた水を庭に撒いていると、表の方から声が聞こえた。
「ジェイン、いるんでしょ? ジェイーン?」
玄関のノッカーをバンバンと打ち鳴らしながらジェラルディーンのことを呼んでいるのは、どうやら実家の母だ。
うわっ、と思わず小さな声が零れて、眉間に皺が寄る。
会いたくない。物凄く会いたくない。このまま帰ってくれないだろうか。
折り合いはあまりよくないけれど、母のことが嫌いなわけではない。けれど、こうして連絡も寄越さずにやって来たということは、ジェラルディーンの聞きたくない話を聞かせに来たに決まっている。連絡をしなかったということは、逃げられたくはなかったということだろうから。
「――…あ、お母様! 裏にいたわよ!」
このまま居留守を使ってやり過ごそうかと考えていると、その母を呼ぶ声がすぐ傍で響いた。柵越しにこちらを覗いていたのは一番下の妹のアリスンだ。
「いるんじゃないの、ジェイン」
アリスンの声に呼ばれ、玄関から裏に回って来た母は、ジェラルディーンの姿を見止めて呆れ声を零す。
「……ごめんなさい。裏にいたから聞こえなかったのよ」
無理矢理に笑顔を向け、取り敢えずその場を取り繕うが、心の中でははしたなくも盛大な舌打ちを漏らしていた。
「そう。玄関の鍵は開いている? 上がらせてもらうわよ」
否やは受け付けるつもりはないらしい。そして残念なことに、今日は下宿人達を見送ったあとに集金の少年が来たので、うっかり鍵をかけるのを忘れている。
(……ジーザス)
思わず心中で祈りの言葉が零れたが、母と妹を招き入れるしかないようだ。
「突然で、なにもお構いは出来ないけれど、どうぞ入って」
さり気ない嫌味で玄関の方を指し示し、自分は勝手口から中へ戻る。
なにやらぶつぶつ言っているのが微かに聞こえたが、構うものか。事前に連絡も寄越さずに来たのだから、追い返さないだけ有難いと思って欲しい。
溜め息を零しつつ台所に入り、丁度よく湯気を立て始めている薬缶をじとりと睨む。なんて都合よく火にかけたりしていたのだろう、と少し前の自分を恨めしく思った。
「相変わらず狭苦しいわね」
仕方なく来客用の茶器などを用意していると、居間の方から母のそんな声が聞こえる。
次はカーテンの柄に文句をつけるかな、と予想をしながらポットにお湯を注いでいると、案の定「もう少し明るい柄にしたら?」などという声が聞こえてくる。大きなお世話だ。
「いいじゃない。気に入ってるのよ、そのリコリス柄」
これは本当のことだ。リコリスの柄が気に入って、去年新しく買ったのだから。
「そういえば、ジェインお姉様は昔からリコリスがお好きだったわね」
ムッとした表情を向ける母の代わりに、アリスンは思い出したように頷く。
実家の庭にあった夏水仙は、淡いピンク色が可愛い花だった。可愛いけれど実は花も葉も根も有毒なので、勝手に触ってはいけない、と庭師に言われていたのだ。
この家の庭にも植えてあるのだが、今は時期が終わってしまっていて咲いていない。
「お茶だけ?」
カップを差し出すと、無遠慮な末っ子はそう言って小首を傾げる。
「ごめんなさいね、アリスン。ちゃんと連絡をもらっていれば、あなたの好きなショートブレッドくらい焼いておいたのだけど」
本当は、昨日ベティがお土産にくれた焼き菓子がある。看板女優の後援者の人が劇団員全員に気前よく差し入れてくれたものらしいのだが、ベティはあまり好きな味ではないらしいので、こちらに回って来た。
気にせず食べてしまってくれ、と言われてもらったのだが、嫌味のつもりでここには出さなかった。午後のお茶のときにでも一人で美味しく頂くことにする。
ジェラルディーンの言わんとしている意味を汲み取った母は、眉間に深々と皺を寄せ、不機嫌そうにカップを口に運んだ。アリスンも少し気不味そうな表情になり、黙ってお茶を啜る。
いい気味だ、とちょっとだけ意地悪く思いながら、ジェラルディーンもお茶を飲み、二人の顔を見渡した。
「それで? 本日のご用向きはなんでしょうか? 連絡もなくいらっしゃるくらいなのですから、余程急ぎのお話なんですよね?」
ここでもまた嫌味をチクリと口にすると、母の不機嫌そうな表情は更にその度合いを増す。蟀谷がぴくぴくと小さく痙攣していた。
いくら実の親子といえども、今は離れて別々に暮らしているのだから、家を訪ねるのならば事前に連絡を入れるべきなのだ。それを怠って家に乗り込んで来た失礼さを許してあげるほどには、ジェラルディーンの心は母を歓迎してはいない。
歓迎する気持ちがあまりなくとも、もちろん母が嫌いなわけではない。
ここはジェラルディーンが大切にしている小さな『お城』なのだ。それを侮辱する人間は、例え実母であろうとも受け入れがたいだけのこと。
そんなジェラルディーンの気持ちを、恐らく母は理解してくれていない。だから、こうしてちょっとした気持ちのすれ違いが起こっていて、最近は関係が少々険悪だ。
チクチクと零される嫌味から、自分の訪問が娘にまったく歓迎されていないことを感じている母は、小さく咳払いをしてカップを置いた。
「一応、なんとなくは予想出来ているのでしょう?」
ぐっと顎を逸らして睥睨するように言われるのへ、ジェラルディーンは澄ました顔で「ええ、まあ」と素っ気なく頷いた。
そんな二人の様子を、甘やかされて可愛がられてきた年の離れた末っ子は、落ち着かなさ気な表情でハラハラと見守っている。
「では、はっきりと言うわね。いい加減に再婚しなさい、ジェイン」
母から出てきたのは、やはり想定していた通りの言葉だ。
ジェラルディーンは静かに双眸を眇め、母の表情を見守った。
「あなたがなにを頑なになっているのかは知りませんけれどね、もう十年ですよ? 再婚しても罰は当たらないし、あちらのお家に気を遣うこともないでしょう。とっくにご縁は切れているのですからね」
娘がなにも答えない様子に少々苛立ちを見せてから、少々早口で話を続ける。自分の考えが世間一般的に見ても正しく、ジェラルディーンの態度が異常であるのだということを主張した。
母の言う通りだと思う。新しい相手と結ばれても、もう誰からも文句は言われないだろう。
ジェラルディーンは十年ほど前に二つ上の幼馴染みと結婚し、半年経たずに未亡人となった過去がある。夫婦として暮らしたのはとても短く、結婚式を挙げた夜だけだ。
夫だったウィリアムの葬儀を終えてしばらく経つと、妊娠している様子もないし、と婚家から追い出され、一度は実家に戻った身だった。
いや、正確には戻っていない。婚家を出されたあと、しばらく知人の許へ身を寄せ、状態もよく売りに出ていたこの家を買ったのだ。
手持ちの資金では少々心許なかったので借りることになったが、保証人には友人達が快くなってくれたし、カンパもしてくれた。新生活へのご祝儀だ、と言って。
それからずっとここに住み、少し改装して下宿として貸し出すようになって今に至る。
収入は下宿人達からの家賃と、伝手で書いている雑誌のコラムやその他いろいろの原稿料がある。贅沢をしなければ十分に食べていける額なので、それでまったく問題はなかった。
けれど、母にとっては違う。
ジェラルディーンはこれでも一応貴族の娘だ。小さな領地を持つ程度の男爵の家柄だが、高貴な身分であるのは変わりない。
そんな家柄の淑女が、こんな騒々しい場所で庶民向けの下宿屋などを切り盛りして、いい年をして結婚もせずにのんびりと暮らしているのが気に入らないのだ。
貴族の娘は、大抵は二十歳になる前くらいまでに結婚が決まる。どんなに家が困窮して没落しかかっていようが、多少不美人であろうが、なにかしらのメリットのある家と縁づき、会ったこともない男の許へ嫁いで家庭を築く。
そんなの身売りと同じではないか、とジェラルディーンは思う。
けれど、女として生まれたからには、そうして家の為に結婚を決める――いや、決められてしまうものなのだ。
そうした中で、幼い頃から顔見知りだった優しいウィリアムに求婚され、両家からも祝福されて十九歳で嫁いだジェラルディーンは、かなり幸福ではあった。
あの優しいウィリアムが軍人で、結婚式の翌日に慌ただしく出征したクリミア戦争で亡くなってしまわなければ、ジェラルディーンは今も彼の妻としていられたことだろう。
一度は結婚し、今でも頑なに『ミセス・ジェンキンス』を名乗っているジェラルディーンだが、年齢はまだ二十九。来月には三十になるが、一応まだギリギリ二十代で、若い淑女と呼ばれても差し支えない。
そんな若い淑女が独り身で、あまり風紀がよいとは言えない場所の傍に住み、しかも雑役メイドすらも雇わずに自ら下宿の切り盛りをしている姿は、かなり世間体が悪い――というのが母の考えだ。
女は男の扶養下に入り、子供をたくさん産んで育て、よき妻よき母でいることが望ましく好ましい。それが世間一般の価値観であることくらいは、ジェラルディーンだってわかっている。伊達に女性向けの雑誌でお悩み相談コラムなど担当していない。
わかっているからこそ、妙な反発心も沸いている。
「私は心配なのよ、ジェイン。口煩くてうんざりしているかも知れないけれど、これが親心であることくらい、あなただってわかるでしょう?」
あまり口をつけないまま冷めていく紅茶を眺めていると、精一杯に憐れな様子を取り繕い、悲しげな溜め息をつきながら母が言った。
「初婚でもないし、三十も過ぎれば貰い手はどんどん少なくなってくるだろうし、子供も産みにくくなるものなのよ。年齢が上がれば上がるほど顕著だわ」
出産云々に関しては母の実体験だ。末っ子のアリスンが生まれる前に二度ほど流産していることも、なんとか無事に生まれた弟がその日の夜には亡くなったことも、ジェラルディーン達は知っている。その度に家族みんなが悲しみに暮れ、だからこそ、無事に生まれて来た年の離れた末っ子をみんなで可愛がった。
「それなのにあなたは子供がいないどころか、頼りになる伴侶もいなくて、この先いったいどうするつもりなの? いつまでも一人でやっていけるなんてことないんですからね」
わざとらしく涙ぐみながら一息に捲くし立てる。
そんなことは何度も言われずともわかっている。だからこそ、自力で生きられるように生活環境を整えたのではないか。
なにが不満だというのだろうか。ジェラルディーンはこの小さな『お城』の主として立派に務めているし、収入もそれなりに安定していて貯金も多少はあるし、不自由も不幸も特には感じずに過ごしていけている。
不幸を感じることがあるとすれば、こうして時折やって来ては部屋の様子に文句をつけ、口を開けば再婚しろとばかり言う母の存在だろう。
もちろんあまり歓迎したくないと思ってしまうのは、母だけではない。常に母の味方であるすぐ下の妹とか、二十代の半ばになっても未だに母にべったりな弟とか、母の言葉を同じように伝書鳩してくれる弟妹達にもうんざりだ。
気を許して我が家に招き入れられる家族は、ロンドンで官僚勤めをしている兄と、同じくロンドンの素封家に嫁いだ姉くらいだ。
黙っているジェラルディーンの様子に痺れを切らしたのか、憐れ顔を作るのをやめ、母はわざとらしく大きな溜め息を苛立たしげに零した。
「ポートマン夫人がね、あなたにどうかって、縁談を持って来てくれているの」
実家の近所に住んでいる母の茶飲み友達の一人だ。世話焼きの好きな心優しい人といえば聞こえはいいが、とにかくお節介が過ぎる面倒なご婦人だったと記憶している。
そんな人が持ち込んだ縁談など碌なものではない、と思うのだが、母的にはかなりいいご縁であると思っているようだ。さっきまでの不機嫌顔を引っ込め、にこにこと笑みを浮かべ始める。
「爵位は持っていないお家だけど、何人も小作人を抱える大地主さんよ。あちらも随分前に奥様を亡くされていてね、今は息子さん二人との男所帯三人暮らしなんですって」
お気の毒よね、などと言いながら、喋り続けていて喉が渇いたのか、すっかり冷めた紅茶を飲んで顔を顰める。
ふうん、と適当に相槌を打って聞き流していると、横からツイツイとアリスンが肘のあたりを引っ張って来た。
「なに?」
母が縁談相手という大地主さんの話を続けているので、顔だけはそちらに向けつつ、アリスンの方へ耳を向ける。
「お姉様……このお話はやめた方がいいわよぉ」
なんだかとても悲しげな声で耳許に囁き、瞳を潤ませている。
「モードさんっていうんだけど、もう六十に近いお爺ちゃんなのよ。上の息子さんなんてイーデンお兄様と同じ年なんだから」
その告白に、ジェラルディーンは思わず顔を顰めた。イーデンは官僚をしている長兄で、今年三十三になる。
母の方を気にしつつ、更に「娘さんはもうお嫁に行って、子供が三人もいるらしいの」とも耳打ちしてくる。
つまりこの縁談を受けた場合、ジェラルディーンは義理の子供どころか、孫まで持つ身になってしまうというわけだ。
「まあ……とても素敵なご縁ね」
感情のこもらない平板な声で漏らすが、母はパッと顔を明るくした。
「でしょう? 年は少し上になってしまうけれど、あちらも二度目だし、こちらが再婚でも気にしないって仰ってくれているし、とてもいい方なのよ。あなたの好きな林檎もたくさん育てていて……」
「お母様」
嬉しげに回る口を、ぴしゃりと止めさせる。
「お断りしておいてください」
はっきりと告げると、母の顔は途端に機嫌が悪くなる。がっかりしたとかそういう類ではなく、憤怒といった方向だ。
「なにが気に入らないというの」
低く零された声音は、明らかに怒りに震えている。握り締めた拳も膝の上でぶるぶるとしていた。
アリスンがひゃっと身を縮め、母の視界から消え去ろうとそっと引いていく。賢明な判断だ。兄姉達の様子を見て育った末っ子はこういうときに要領がいい。
「いいご縁じゃないの。爵位はなくともとても裕福な大地主なのよ。生活に苦労するようなことはまずないだろうし、メイドも料理人も雇っていらしたし、あなたが家事をしなくていいんだから」
どうやらその相手に母は直接会って来ているらしい。その上で気に入って、こんなにも熱心に薦めてきているようだ。
ジェラルディーンは静かに母の目を睨み返す。
「まあ、こちらとて再婚ですから、贅沢は申し上げませんけれど。息子さんがお兄様と同じ年ということは、お父様と同じくらいの年齢の方ということですよね。そんな方に嫁げとは、私は妻としてではなく、その方の老後の面倒を見る為に売られていく、という判断でよろしいでしょうか?」
「まあ!」
母の顔に朱が差し、悍ましいものでも見るかのように顰められる。だが、その先に罵倒の言葉はまだない。
この隙に押し切ってしまおう、とジェラルディーンは更に口を開いた。
「だってそうとしか考えられないじゃないですか。そりゃ一度は嫁いだ身ですからね、初婚の男性は嫌がるでしょうけれど、年齢的に言ったら息子さんのどちらかとってことになるものではないかしら? それなのに父親ほどの年齢の寡夫とだなんて、いくら再婚でもあんまりじゃないですか。手広くやっている裕福な大地主さんならお金に苦労することもなくて、確かにいいご縁かも知れませんけれど、要は老後の世話人が欲しかっただけですよね。息子の嫁よりも自分の嫁の方がいろいろ頼みやすいでしょうし、そういう程度の理由で若い女が後妻に欲しかったんじゃないですか? ポートマン夫人も酷いわ。それならそうだと初めからはっきり仰ればいいのに、いい縁談なのよだなんて詐欺みたい」
立て板に水の如く滔々と一気に捲くし立てると、口を挟めずにいた母は口をパクパクとさせ、なにかを言おうとしているのだが、上手くいかないようだ。
母は基本的に自分の感情と理想と世間体でものを言う人なのだが、ジェラルディーンはそれを正論と事実で殴って行くので、感情的になりやすいが頭が悪いわけではない母が口で勝てることはほぼない。
一気にいってしまえば反論の言葉が浮かばずに静止し、しばらく後にこう叫ぶのだ。
「ジェ、ジェイン! あなたという子は!」
(あらまあ。いつも通りね)
顔を真っ赤にして立ち上がった母の姿をしらっとした目つきで見つめながら、すっかりと冷めきった紅茶の残りを飲み干す。
二人のやり取りにアリスンは怯えて身を竦め、椅子の上で小さくなっている。可哀想に。
アリスンはジェラルディーンと十二歳も年が離れているので、実家にいた頃のことをあまり覚えていないのだろう。まさか思春期の頃から母とは折り合いが悪く、こうしてすぐに口論になっていたことも知るわけがない。
何故、よりによって今日は母にくっついて来たのだろうか。来なければよかったのに。
「ジェイーン」
お互いに睨み合い、緊迫に身動きも取らずにいると、玄関の方から声が聞こえた。
「ねえ、ジェイン。ミセス・ジェンキンスぅ~」
ベティの声だ。
溜め息と共に立ち上がり、母には一瞥もくれずに玄関ホールに顔を出す。
「ああ、いた。よかった」
「どうしたの? 忘れ物?」
「ちょっと違うんだけど。……ねえ、毛布一枚借りていってもいい?」
「洗って戻してくれるならいいわよ」
「やるやる! ありがとう!」
喜んで手を打ったベティは抱き着いて来て、頬にチュチュッと素早くキスの連打をした。
そのまま予備毛布のしまってあるリネン室の方へ駆けこもうとして、通りすがりに横目で居間を覗いてしまい、そこに二人の客人の姿があることに気がついて驚いた。
「やだ、来客中だった? ごめんなさい」
慌てて二人に会釈して、気不味そうにジェラルディーンを振り返る。
「いいのよ、気にしないで。母と妹だし、もう帰るところだし」
そう言ってちらりと視線を送ると、即座に母が立ち上がった。
「帰るわよ、アリスン」
「あ、はい!」
さっさと歩き出した母のあとを追い、アリスンも慌てて立ち上がる。
大股に突き進んで来た母はジェラルディーンの目の前で一度足を止め、じろりと睨みつけてきた。
「月末にもう一度来ますからね。それまでに私が納得出来る意見をまとめてみせなさい。でなければ、お話は進めさせてもらいますからね」
居丈高な口調でそう言い放つと、あとはもう振り返ることもせず、まっすぐに家の外へと出て行った。
「お邪魔しました」
アリスンも一応の礼を告げ、ベティにも会釈して、母のあとを追って駆けて行く。
ドアが閉まって二人の声が遠ざかって行くと、ベティが「ふわぁ」と気の抜けた声を出した。
「なんだかおっかない人だったわねぇ」
母の迫力に気圧されて緊張していたのだろう。
恐る恐る零された言葉に、そうね、と頷き返し、大きく溜め息を吐き出した。
「いいタイミングで戻って来てくれたわね、ありがとう」
話を切り上げるきっかけを探していたのだ。さっさと追い出したかったし、でもこれ以上変に角は立てたくなかったので、本当にいいタイミングだった。
「え、そう? ならよかった」
邪魔をして申し訳なかったと思っていたベティは、その言葉にホッとする。
「それで? なんで毛布がいるの?」
共にリネン室に向かいながら、尋ねてみる。
「あー、昨日一日雨が酷かったじゃない。結構横殴りの。大道具の子の部屋の窓ガラスが割られてたみたいでさ、ベッドが水浸しだったらしいのよ」
「あらまあ。それはお気の毒に」
「でしょ。それで昨日はパブで夜明かししたらしいんだけど、そんなにお金ないらしいし」
「何日かならうちに置いてあげてもいいわよ? 今は一部屋空いてるし」
「あ、大丈夫大丈夫。劇場の屋根裏貸してくれるって支配人が言ってくれたんだけど、毛布がなくてさ」
ベティが所属する劇団がほぼ常駐している小さな劇場は、とても感じのいい支配人が取り仕切っているところだ。何度かベティの招待で観に行って、挨拶したことがある。
寝場所が確保出来たなら安心だな、と同情しつつ、棚から貸出し用に買い置いてある毛布を二枚取り出した。
「その人が嫌でなければ、あげちゃってもいいわよ」
「いいの?」
「困っているときはお互い様じゃない。それに、これでも私は貴族の娘ですからね。貧しい人に救いの手を差し伸べるのは貴族の義務です」
胸を張って宣言すると、ベティは笑って毛布を抱え、礼を言って稽古場へ戻って行った。