プロローグ
「私に触らないで!」
悲鳴のような自分の声で目を覚まし、ジェラルディーンは視線だけで周囲を確認した。
視界に映るのは見慣れた自分の寝室で、壁紙の柄もよく見えないような薄暗さから、夜明けはまだ少し遠いようだと理解した。
細く息を吐きながら額に手をやると、しっとりと濡れた感触がある。あの夢を見たあとはいつもこうだ。
悪夢とは違う。ただただジェラルディーンの後悔心の傷口を抉り、悔恨の念を強くさせるだけのものだ。
苦く思いながら起き上がり、早鐘を打つ鼓動を治めるように深呼吸した。
そうして、小さく「ごめんなさい」と呟いて胸許で手を組む。あの夢の中で、いつも悲しげな瞳をしている彼へ向けての僅かな懺悔だ。
しばらくそうしていてから、鼓動が落ち着いたことも確認し、もう一度溜め息をついた。
まだ夏の終わりとはいえ、明け方は少し肌寒い。寝汗で僅かに冷える背中を庇うように肩掛けを手繰り寄せ、ベッドから抜け出す。
寝る前に用意しておいた洗面用の水をあけ、寝起きの顔をさっと洗う。少し冷えていた水は、夢見の悪さの興奮からほんのりと火照った頬に気持ちよかった。
顔を拭きながらベッドの方へ戻り、枕元の小箪笥に目を向ける。置かれた写真立てには、左側に軍装の青年、右側におめかしした若いカップルの写真が飾られている。
「おはよう、ウィリアム」
左側の青年の優しげな目許を硝子板越しに撫でながら、ジェラルディーンは淡い微笑みを向けた。
写真の中の青年は、当たり前のことだが、昔から変わらずに優しげな瞳でこちらを見つめていて、その眼差しにジェラルディーンは胸の奥が鈍く痛むのを感じる。
今でもはっきりと思い出せる。春の陽射しを思わせるような温かみのある明るい茶色の瞳と、少し高くやわらかい声音が「ディーン」と優しく呼ぶ響きを。
苦笑して写真立てから目を逸らし、少し寝汗の滲みて冷たい寝間着を脱ぎ落す。
夜明けの空気がひんやりと肌を撫でるので、手早くキャミソールとドロワーズを身に着け、靴下とブーツも先に履いてしまうと、すっかり慣れた手つきで嫌々にコルセットを締める。身動きの取りづらくなる拷問器具のようなこの下着が昔から大嫌いだが、世の常識として女性はこれを身に着けることになっていのだから仕方がない。
このコルセットのように煩わしいことが多い世の中には心底辟易するが、自由気儘にはみ出して無為に敵意を向けられるより、ほんの僅かに己の矜持を曲げ、周囲に迎合して生きる方が多少は楽だ。齢三十間近にして、ジェラルディーンはそう考えている。
力いっぱい締め上げてから一息つき、余った紐を解けないように縛って腰に巻きつける。その上から少々流行外れの感のある細めのクリノリンを巻きつけ、ペチコートを着てから飾り気のない濃い灰色の普段着を着込んだ。
まるでおばあちゃんみたいよ、とジェラルディーンの地味な服装を批判したのは、すぐ下の妹だったか。
いいではないか。麦藁色の沈んだ金髪と、どんより曇るロンドンの空のような暗く沈んだ灰色の瞳に、この準喪服はよく似合う。あまり社交的でない性格にも合っている。
髪を解いていると、部屋の中に随分と陽が入って来ていた。その光に目を細めながら手早く編み込みを作ってまとめ、ピンできっちりと留めれば完璧だ。
毎朝こうして同じ手順で身支度を整えるのは、ある種のルーティンワークだろう。これを崩さないことで、ジェラルディーンの寝起きの頭は覚醒していく。
姿見の前に移動して、一応全身の様子を確認してみる。
「――…よし」
服に変な皺が入っていなければ、目立った汚れも破けもない。裾が少し擦れてきているので、近いうちに修繕しておこう。
さっと黒っぽいボンネットを被り、買い物籠を抱えて家を出る。向かうのはコヴェントガーデンの朝市だ。
お目当ては新鮮な卵。今日の朝食はふわふわのオムレツにしようと、寝る前から決めていたのだ。
顔馴染みの何人かとすれ違いながら挨拶を交わし、うっかり買う予定のなかったベーコンも多めに買い込んでしまったのはご愛嬌。軽い足取りで帰宅し、早速調理に取り掛かる。
昨夜のうちに仕込んでおいたパン生地を手早く成形して竈に入れ、付け合わせのジャガイモを茹でながら、買って来たばかりの卵を割って溶いていく。
パンの焼ける匂いがふんわり漂い始めた頃、キッチンの入り口で「おはようございまーす」と青年の声がする。
「おはよう、ロバート。もう少しだから待っててね」
少し眠たげな顔で頷いた青年は、食器棚の方へ行って皿を出してくれる。ついでに茶葉の入った缶も出しているので、お茶も淹れてくれるつもりなのだろう。よく気が利くその様子にジェラルディーンは笑みを浮かべた。
ジャガイモは潰して提供しようと思っていたのに、少々時間が足りなさそうだ。茹で上がったことを確認して、仕方なく、ナイフで割って皿に載せる。
「おはよぉ……ざい、まーす……」
少し気が焦りながら用意を進めていると、今度は気怠げな若い女の欠伸混じりの声だ。昨日はかなり遅かったようなので、まだ眠たいのだろう。
「……ベティ。着替えて来てって、いつも言っているでしょう?」
身体の線が見えるくらいに薄い生地の寝間着は、まるで下着のようだ。いくら肩掛けを羽織っているといっても、人前に出るには少々扇情的過ぎる。
「んふふ。いいじゃなぁい、これくらい。ねえ、ロバート?」
わざとらしくしなを作りながら、先に食卓に着いていたロバートに呼びかける。彼は僅かに頬を染め、けれど毅然とした態度で「恥じらいがないですよ」と告げた。
ベティはちょっと唇を尖らせ、つまらないと言わんばかりの表情で溜め息をついた。そして、明日からはちゃんと着替えて来る、と約束したのだった。
満足気に微笑んだジェラルディーンは、理想通りに出来たふわふわのオムレツとカリカリに焼けたベーコンを盛りつけ、ようやく焼け上がったテーブルロールを食卓に載せた。
「お待ちどう様! さあ、食べて。今日も元気に仕事に行ってらっしゃい!」
はあい、と二人は返事をし、出来立ての朝食に手を伸ばした。
家賃は年に六ポンドとかなり低価格の設定。月極めでの契約も可能。
建物は居住部分が四階層と屋根裏部屋という造りで、日当たりがまあまあの各部屋にはベッドと書き物机、小間物箪笥とクローゼットつき。リネン類は貸し出しあり。
洗濯場は半地下に共用であるので、各自ですること。家主であるジェラルディーンに頼むことも可能だが、前日申請の上で一回につき一シリング徴収される少々高額仕様だ。普段から天気があまりよくない地域ではあるので、取り込みは基本的にやってくれる。
朝食は家賃に込みとなっているが他は別料金になっていて、昼は二ペンスで簡単なサンドウィッチとお茶、夜は少々豪華に六ペンスで肉料理とスープが提供可能。但し、前日か当日朝までに申告すること。
庶民の買い出しの味方コヴェントガーデンは歩いて五分ほどなので、立地も十分。煮炊きの出来るキッチンは一階にしかなく、そこは家主であるジェラルディーンの生活スペースではあるものの、下宿人なら二十四時間利用は自由で、使用後の片付けはきっちりすることと、食器を割ったら自腹で補充することが利用条件だ。
定員を三人としている小さな下宿の現在の利用者は、新聞記者のロバート、舞台女優のベティの二人である。
それがジェラルディーンの小さな『お城』の全容だった。




