2-4 寛大なる皇帝
「……逃げようかな」
真っ先に思ったのは、今すぐにここを離れて逃げることだった。だって怖い。あれと再び対峙して生き延びられる自信はない。
いや、死ぬのは別にいいのだ。でもあれはいやだ。生暖かい肉塊に取り込まれて身体中から自分でない何かが入ってくる感覚。あれを体験したらきっとみんな私と同じ意見になるに違いないのだ。
口から、耳から、尻の穴から。ぬめぬめが入ってくる。いやだ、生暖かい。皇帝の中あったかい……。
「うわあああ……思い出しただけで気持ち悪い。うう、やだ。あれは嫌だ……。でも……でも、まだあの薬の魔法術式を解読できていないし……」
治癒魔術。神学。錬金術。魔法力学。魔法薬学。精霊術。数秘術、古代魔術……。あれは様々な分野の天才たちが作り上げた奇跡の一品。詰まっている技術の一端でも解析できれば常識がひっくり返るような革新が起きるはず。
まだ解析はできていないがものが手中にあれば、それはもうできたも同然。私には無限に等しい時間がある。今は無理でも、いつかは読み解くことができるのは必然だ。
惜しい。せっかく手に入れたのに手放すのはとても惜しい。まだ無事ならぜひとも回収したい。
そうだ。それに、責任というものがある。酔っ払って前後不覚になった私が小瓶をなくしたせいで都市が滅んだとなれば、それは完全に私の過失だ。私のせいで都市が滅んでしまってはさすがに寝覚めが悪い。
誰かのせいで誰かが死のうと国が滅びようと知ったことではないが、それが私のせいであればさすがに責任を感じる。良心が痛むというものだ。私の心は善良なのだ。
◇◇◇◇
「見つけました」
昨日の酒場に小瓶を落としていないか確かめに行き、店主から一緒に飲んでいた男の情報を聞き出した。
マックという男は、いつもこのあたりで酒を飲んでいるらしく、居場所を突き止めるのにはさほど苦労はしなかった。
「おお、昨日の嬢ちゃんか。どうした?」
酒飲みの男マックは、今日はなんだかさっぱりした顔をしている。治癒魔術ですっかり健康体になったからだろう。
「実は、その……緑の小瓶を知らないでしょうか、これくらいのガラスの……」
「ああ、あれか。『永遠の命の妙薬』!」
「!」
その単語にびくりとする。なぜそれを知っている。
「なんだよ。たいそうな話を語ってくれたじゃねえか。覚えてねえのか?」
「ええ、そうです。そんな話をしたような……」
まったく覚えていない。
酒飲みの男、マックはニヤニヤと笑いながら聞いてくる。
「嬢ちゃん、やっぱり『永遠の命』が惜しくなったのかい?」
「いえ、そういうわけでは。しかし、あれは扱いを間違えると危険なのです」
「そうだな。なにせあれを飲んだ末路は『亡者の皇帝』だ。おっかねえ」
男は芝居がかった仕草で肩をすくめた。
そこまで知っているとは。昨晩あの場で『永遠の命の妙薬』を取り出してマックに見せたのは間違いないようだ。
「はい。なので、できれば取り戻したいのです。小瓶についてなにか知りませんか?」
真剣な顔で言った。
「ほんとになんにも覚えてねえんだな。子供に飲ませ過ぎちまったか。さすがに罪悪感があるな。丸薬と一緒においていったじゃねえか」
どうも私は、『永遠の命の妙薬』見せびらかしたあと丸薬と一緒にこの男に渡したらしい。全然覚えていないが、であれば話は早い。
「ごめんなさい。そっちは渡すつもりはなかったんです。返して頂けないでしょうか」
「わはは。永遠の命の希望を与えておいておいて、取り上げにくるとはお嬢ちゃんもなかなかの悪女だな」
確かに、あれの価値を考えれば一度手に入れたものをタダで返してくれというのは都合が良すぎる。
「なんなら、買い戻しますので…」
酒に酔っていたとはいえ、自分の意志で譲渡したのだ。今は彼の所有物だ。譲ってほしいなら対価を払うべきだろう。
正当な対価。いくらだろうか。あれに値段などつけられない。国が買えるくらいの価値がある。手持ちのもので足りるだろうか。
もう他にあれほどの危険物はないが、かばんの奥底にはまだ価値のありそうなものはいくつか隠してある。彼が望むならなんでも渡そう。
私が考え込んでしまったのを見てマックは両手を上げた。
「わかったわかった。からかって悪かった。いじめるつもりはなかったんだ。誰かへの土産だったのか? しかたねえ、この酒の皇帝マック様は永遠の命に興味はねえ。返してしんぜようぞ」
なんて欲のない人だ!
人間は、銅貨を拾ってそれを落としたら「損をした」と思う生き物だ。実際は、もともと持っていなかったものなのだから損も得もしていないのに、『なぜか』そう思ってしまうのだ。
さらには、銅貨を拾って懐に入れずとも地面に落ちている銅貨を見つけた段階で、自分のものになるという可能性が発生しただけで、その金の使い道まで考えてしまう。
人間は、物事に対しての認知が根本的に狂っている。それが欲と呼ばれるものの本質だ。
いちど自分のものだと思ってしまったものを手放すのは容易なことではない。人は強欲だ。そう。最近もどこかでそんな人間に出会ったではないか。私はいつも人の欲に翻弄されるのだ。まったく嘆かわしい。私のように欲など捨てて、もっと謙虚に生きるべきだ。
俗世の凡百どもと比べて、彼はなんとできた人なのだろう。何も対価を求めずに、手に入れた途方もない価値を持つ宝を手放そうというのだ。とうぜん主張できる所有権を放棄して返してくれるというのだ。聖人か。
「丸薬はもう飲んじまったからねえぞ」
「いえ、それはいいです。あなたにあげたものですから。そういう意味では小瓶もそうなので心苦しいのですが……」
「その顔はやめろって。俺が子供をいじめてる悪人みたいじゃねえか。通報されたらどうすんだ」
マックはきょろきょろと周りを見渡す。
確かに、今の状況を傍から見ると、酒に溺れていることで有名な中年男が、年端も行かぬ少女である私を脅しているということになってしまうだろう。
小汚い中年男と、美しく麗しく可憐な少女が一緒にいるだけで、犯罪が行われていると誤解するのが世間というものである。
そんな誤解をする人間が現れたら、私は断固、彼を擁護しなければならない。「彼は稀有な人格者であり、私は彼を信頼しており、彼のためなら何でも差し出せる。彼になら(かばんを)開いて見せても良いし、その奥の秘密に触れることを許しても良い」そのように、強く主張して誤解を解かねばならない。
なにせ彼は、神秘の秘宝を手に入れたのに、自分のものとして囲い込むこともせず、すぐに手放すような人なのだ。
彼を非難する人に声高らかに言ってやろう。「私の大事なものを手に入れておいてすぐに捨てるような真似、普通の人にできることではない。この人はそういう人だ」と。
「……あの瓶はポケットに…ん、あれ? ……ねえな」
私が内心、世の理不尽に立ち向かう決意をしていると、ゴソゴソと服をあちこち弄っていたマックは、バツの悪そうな顔をして言った。
「すまん。なくした」