7、つばめ
そんな日が続いたある日、ボリスは共同所を出た所で立ち止まった。鞄の中に残っていた硬貨と、女の人がくれた硬貨の数を慎重に数えた。それから目についたパン屋の前に立った。香ばしい匂いが、扉の外へと漂ってくる。ボリスは扉の前で立ち、しばらく行ったり来たりを繰り返した。店でちゃんと物を買うなんて、いつぶりのことだろうか。
扉をゆっくりと開けると、カランと音が鳴った。雑多に並べられた不揃いのパンが、四角いトレイの上に並んでいる。パンを品定めしていた男は、小汚いボリスの恰好に微かに眉を顰めた。ボリスはまっすぐカウンターへ向かうと、はげ頭の店員に声をかけてパンが欲しいという旨を伝えた。
店員は黙って指定の一番安くて大きいパンを持ってきた。硬貨を渡してパンを受け取ろうとしたが、男はボリスの顔をじろじろと見ると、探るような目を向けた。
「お前の顔、どっかで見た気がするぞ」
一瞬ぎくっ、とボリスの肩が動いたのに店員が気づいたのかどうかは分からない。嘘だ、この店で何かを盗んだことなんてない。そう言い聞かせ黙って受け取ろうとするが、店員はパンを握ったままである。
「聞いたんだよな、お前みたいな風貌の悪党がうろうろしてるって」
ボリスが口を開けたのと、店員がボリスの胸倉を思い切り掴んだのは、ほぼ同時だった。
***
薄暗い倉庫に通されたボリスは、店員に投げ飛ばされて冷たい地面に転がった。
「何すんだよ!」
ボリスが叫ぶと、男は太い棍棒を手に笑みを浮かべた。
「丁度退屈してたとこなんだよ、なあ、ガキ」
棍棒といっても、おそらくパン生地を伸ばすときに使うものだろう。
「最近は警察の奴らがうろついてるけどよ、あいつらはガキの相手なんかしねえからな。俺が代わりに、お仕置きをしてやるよ」
「何言ってんだよ……」
男はバシバシと、棒で叩くような仕草を見せた。「お仕置き」という言葉にぞっと戦慄が走った。折檻部屋の鞭。孤児院での記憶が脳裏に写り、ボリスは恐怖におののいた。じりじりと近寄ってくる男から離れようと少しずつ後ずさるが、後ろにはコンクリートの壁がぴったりと張り付いている。
男が思い切り棍棒を振り上げた瞬間を見計らって、ボリスはとっさに男の左側に回り込んだ。小さい身体を活かして間をすり抜け、倉庫内を走り回った。
「おい、逃げんじゃねえよ」
男は苛立ったような声を出し、大きな足音でボリスを追いかけた。
「お前みてえな孤児は社会のお荷物なんだよ。どんだけ痛めつけたって、誰も何も言いやしねえ」
「黙れ!」
ボリスは叫んだ。狭い倉庫内は、息が詰まりそうだった。出口はどこなんだ?必死で探すが、混乱する頭では上手く探しあてられなかった。男の猛追はなお止まない。
壁伝いに手でドアノブを探すと、どうにか取ってに手がついた。開けようとするが、ドアはガタガタと鳴るばかりで、開く気配はない。どうやって開けるんだ?鍵がいるのか?
「このボケが!」
後ろから迫ってくる声に、ボリスは振り返った。頭に向かって振ってくる棍棒をとっさに鞄で受け止める。男はボリスを押しつぶさんばかりの勢いで棍棒をぎりぎりと力任せに押した。
「ゴミはどうあがいたってゴミなんだよ!どうせ盗むつもりだったんだろ?」
男が棍棒を振り上げたタイミングを見て、ボリスはするりと抜け出した。男は明らかに苛立っていた。
なんでだよ。ボリスは息を切らしながら懸命に言おうとしたが、声は言葉にならなかった。なんでそんなこと言うんだよ、俺、パン買いたかっただけなのに。
ボリスの心の叫びは、男には届かなかった。振り下ろされる棍棒はボリスの背中に命中し、小さな少年は痛みに呻いた。
そしてよろけた拍子に、懐にまだナイフを入れっぱなしにしていることに気が付いた。
「あぁ?」
男は壁に手をついたままのボリスを見て、男はようやく観念したかと首を鳴らした。男が肩を掴んだ瞬間を見て、ボリスはその手を振り払うようにナイフを思い切り振り回した。
不意をつかれた男は、ぎょっと飛びのいた。ナイフの先端から赤い血が垂れたのを見て、思わず自分の腕を見やる。両腕の肘近くにかけて、ぱっくりと傷の入った己の腕が、そこにあった。腕を下げると、そこから血が滲み、ぽたりと地面に血が垂れた。
「このガキ!ふざけんな!殺してやる!」
実際、傷は見た目ほど大したものでは無かった。傷口こそ広範囲にわたっているが、それは皮膚の表面を切り裂いたに過ぎなかった。だが、逆上した男は正常な判断力を失っていた。
男の怒号を聞きつけてか、倉庫の外からどたどたと駆けて来る音がする。
「おい、どうした!?」
外側から倉庫の扉が開けられ、年配のエプロン姿の男が顔を出してきた。男は腕を押さえて、ナイフを持ったまま立ち尽くすボリスを指さした。
「こいつにやられた。こいつ、ナイフ持ってやがる!」
扉が開いたのをボリスは見逃してはいなかった。まだ状況を把握できてない男が小さな少年の姿をはっきりと認識する前に、ボリスは男の肩を掴んで、思い切りジャンプした。倉庫の外へ飛び出すと、パンに脇目もふらず扉へ向かい、店の外へ逃げ出した。
「そのガキを捕まえろ!」
背中に飛んでくる怒号を受けながら、ボリスは走った。前も見ず、後ろも振り返らず、ただ目の前を走り続けた。
――クソッタレが。
ボリスは心の中で悪態をついた。もうダメだ。こんなことになってしまっては、真っ当に生きるなんてもうできそうにない。これ以上俺は、どこへ行けばいい?
どこまで逃げたのか、もう分からなかった。目についた路地に隠れてその場をやり過ごし、その日はそこで過ごした。足がすくんで、外を歩けなかったのだ。ボリスはずっと、1人で考えた。思考は何度も同じ所をぐるぐる回り、陽が再び落ちるころに、ボリスはようやく答えを見つけた。戻ろう。あのねぐらに。1人で野垂れ死ぬよりはずっとマシだ。ボリスは血のこびりついたナイフを見て、悲しく目を細めた。なぜウラジのように生きられるなんて思ったのだろう?あの男の、虫ケラを見るような目が忘れられなかった。俺にはやっぱりこれしか……
***
ボリスが時間をかけて、時に道に迷いながらどうにか塒へたどり着くと、見慣れた少年たちがボリスの帰還を思いの外歓迎した。
「お前、戻ってきたのか!」
最初に迎え入れたのは、ボリスに一番年の近いニッキだった。ニッキはこれ幸いとばかりにボリスの肩を抱くと、リーダーに見えないように耳打ちした。
「お前がいないもんだから、俺にとばっちりが来て大変だったんだぞ。あの計画も結局白紙になったし」
よくよく見れば、ニッキの頭には小さなこぶができていた。顔にも擦ったような痣がある。誰にやられたかは、明らかだった。パイプ椅子に腰かけたリーダーは、ボリスの帰還を決して快く歓迎してはいなかった。細くつり上がった目を、鋭く尖らせたままであった。
「おい、戻ってきたっつーのはどういう了見だ?」
ドスの利いた声に、ボリスはわずかにたじろいだ。バツが悪そうに顔を一瞬歪めたが、意を決してリーダーに向き直った。
「俺が悪かった。だからもう一回、仲間に入れてくれ」
思いの外素直な様子に、ほう、とリーダーは静かに相槌を打った。だがその表情はまだ険しかった。
「言うだけなんて、猿でもできる」
リーダーはパイプ椅子から立ち上がった。仁王立ちになると、背の低いボリスを思い切り上から見下ろした。ボリスはしばらく無言で立ち尽くした。リーダーは何かを求めていた。しばらく考えて察しのついたボリスは「分かった」と静かに言うと、おもむろに懐の折り畳みナイフを取り出して見せた。
刃先の血を、まだ拭き取っていなかった。血のついたナイフを見せると、塒の中にどよめきと、歓声の声が上がった。
「すげえ!お前、人を斬ったのか」
ニッキが飛び出しそうなくらいに目を丸くし、尊敬のまなざしをこめてボリスを見た。ボリスはただ黙ったまま、まっすぐリーダーから目を逸らさなかった。リーダーも満更では無い様子で、「ふうん」とナイフを見やった。
「やるじゃねえか。俺が見込んだだけのことはある」
リーダーはしばらく考えるような仕草を見せた。「そうだな」としばらく悩んだ様子だったが、やがて静かに首を振った。
「だけど、それだけじゃダメだ。ちゃんと成果を持ってこい」
「成果?」
「そう、だからテストをする。今から俺が言う獲物から、盗ってこい。1人でちゃんと盗ってこれたら、仲間にしてやる。そうじゃないなら」
リーダーは扉の方に目をやって、顎でしゃくった。先は言わずとも、分かっていた。
「……やるよ」
ボリスは低い声で答えた。周りがはやし立てるように声を上げた。リーダーはボリスの答えに満足したようで、にっと笑うと肩をぽん、と叩いた。
「俺こないださあ、いいカモを見つけたんだよ」
リーダーはボリスに耳打ちした。
「ごみ山の近くにさあ、乞食が住んでるだろ。俺前見たんだよ。あいつ乞食のくせに義足つけてんの。義足ってのも、けっこう高く売れるんだよな」
「……は?」
「盗ってこい、あいつの義足」
ボリスは、頭の中が一瞬白くなった。ごみ山。義足。乞食。それはどこをどう考えても、あのウラジのことに違いなかった。
「何、簡単だろ?ちょっと忍び込んで頂戴するだけ。向こうは大して動きゃしねーよ。片足無いんだから」
ねぐらの少年たちがしきりに野次をとばした。ニッキが「ほんとなのかよ」と声を上げる。リーダーが何かしら答えた。でも、それらはボリスの耳には入らなかった。ウラジから盗る?義足を?ボリスの拳は固く固く握りしめられた。そしてそれは、どこへも行き場を無くしたように、緩められた。