6、ボリス、飛び出す
今度は少し大きな声で言うと、リーダーは目を丸くした。
「びびってんのか?大丈夫だ、今までもやってきたろ」
そうじゃない、ボリスは心の中で言い放った。
「危険なことすんのは、いつも俺たちだ。お前は、弱い奴を殴るだけだ」
ボリスの言葉に周りは一瞬にしてシン、と静まり返った。ある者は戦々恐々と、ある者は喜々として様子を見守った。リーダーはしばらく黙っていた。ボリスが次に何か言いかけたときには、リーダーはすでにボリスの小さな頭を片手で掴んだ。放せよ、と抵抗したが、自分よりも一回り以上大きい手に、腕力で敵うはずはなかった。
頭を床に叩きつけられ、ボリスは一瞬意識が飛びそうになった。丸い器は音を立ててひっくり返り、中に入っていた芋は地面に散らばった。声は上げなかった。ボリスはぐっと口を真一文字に結ぶと、立ちふさがる少年の方を睨みつけた。リーダーはにやりと笑った。
「舐めやがって。ええ?泣いてみろよ、アバズレの母ちゃんに泣きつくみたいによ」
この塒にいる者は皆、親がいなかった。過去にいたとしても、親に良い思い出を持っている者はいなかった。所詮子どもだ、こんな冗談を言うこともよくある。他の少年たちは少なくともそうだった。ボリスを除いて。
「……なんつった?」
いつもよりも低い声で言うと、リーダーは怒らせたことを察した。面白い、とばかりに笑うと、挑発するように言葉を返した。
「だから、アバズレだよ。ヤリマンって言った方がいいか?」
「もういっぺん言ってみろ!」
ボリスは両手で思い切りリーダーを突き飛ばした。思わずバランスを崩したリーダーは、よろけて尻餅をついた。立ち上がったボリスは、怒りを込めて彼を見下ろした。頭に血が昇った彼には、もう周りの景色など見えてはいなかった。ぎょっと身を引く仲間たちも、自分に注がれる視線にも。
***
後のことはそんなにはっきりとは覚えていない。なんせ頭の中はもうぐちゃぐちゃだった。取っ組み合いの喧嘩はそのうち周りも巻き込んだ騒ぎになり、それが当の本人たちを置いてけぼりにし始めた所で、ボリスはようやくねぐらを飛び出したのだった。
もうやってらんねえ。
辺りはもう暗かった。ボリスは走った。走って走って、でもどこへ行けばいいのか見当もつかなかった。そんな時に思いつくのはやはりウラジの所で、やはり少し躊躇いの気持ちはあったが、彼は見知った道を曲がるとあのごみ山へと向かった。
夜にあそこへ来るのは初めてだった。小さな街灯の灯りを頼りに来たのはいいが、まるで怪物のように大きな黒い山は昼間とは打って変わった様相を呈していた。ボリスはウラジが寝泊まりする住居の窓の中を覗いてみた。
「ウラジ?」
呼びかけても、反応はない。とんとん、と窓を叩くが、音もない。人がいる気配はおよそ感じられなかった。ごみ山にも目を向けるが、見えるのは暗闇ばかりで、ボリスは身震いした。ボリスは住居の壁にもたれかかると、座り込んだ。
待ってたら、戻ってくるのだろうか。
なんだか心細くて、ボリスは丸めた膝に、顔をうずめた。そうして住居の主がやってくるのを、待つことにした。
朝になっても、ウラジが戻ってくる気配は無かった。結局ボリスは、外で一晩を過ごした。ゆうべはよく眠れなかったからか、頭がずきんずきんと痛んだ。どうして?心の中の問いに、答える者はいなかった。
今までこんな事は無かった。行けばいつだって迎えてくれたのに……
――この辺りの犯罪集団だよ。皆迷惑してるんだ。
ウラジは気づいたのだろうか。あの時どんな顔をしていたのだろうか。
俺と話すの、嫌になったのかな。
ボリスは胸の奥がズキズキと痛むのを感じた。そんなはずない、あいつはそんな奴じゃない。ボリスは懸命に首を振った。うずくまったまま、今か今かと待った。
だけどいつになっても、ウラジが戻ってくる気配は無かった。
***
陽がもう空の真ん中に上がりそうになった頃、ボリスはようやく重い腰を上げた。窓から中を覗く。ウラジがいつも持っているギターは、無くなっていた。そうして明るくなったごみ山に登り、もう一度だけその姿を探した。でもそこには、人影1つ見えなかった。
ボリスはようやく、ごみ山を後にした。ここにずっといても、仕方がない。理由は分からなかった。考えたくもない。あの塒に戻るなんてのは、以っての外だった。
ふらふらと町に出ると、相変わらず人の群れが蠢いていた。スリをするか?ボリスは歩きながら通行人に目をつけ、ゆっくりと歩く。通行人の中から、動きの緩慢そうな中年の女を見つけると、それを視界に捉えた。
後ろに張り付いて、しばらく歩いた。隙を窺い、金目の物がどこに入っていそうか、今まで培ってきた勘で目ぼしをつけた。手を伸ばそうとした瞬間、
「わっ」
不意に走って来た別の通行人に、それは遮られた。走って来た若い男に思い切りぶつかり、ボリスはバランスを崩して膝をついた。若い男は振り返りも謝りもせず、急いだ様子でそのまま道を駆けて行った。女の人が大きな音に気が付き、振り返った。ボリスが転んだことに気づくと、「あらあら」と呑気な声で駆け寄った。
「大丈夫?」
女はしゃがみこむと、優しく声をかけた。ボリスは気まずさでとっさに目を逸らした。その手を振り払うと、立ち上がるなりその場を逃げるように走り去っていった。そそくさと逃げていく様子を、女はただぽかんと口を開けて眺めた。
走り続けたボリスだったが、すぐに息を切らして、道の端っこで立ち尽くした。他の通行人に目をやるが、どうしても足が進まない。いつもみたいにやればいい。そう言い聞かせるが、昨日の喧嘩のせいで身体の節はずきずきと痛んだ。どの人間も自分を捕まえるのではないか、そんな光景ばかりが目に浮かぶ。
――真っ当に生きろ。
不意に、あの男に言われた言葉が浮かんできた。あの酒飲み男。あの日もらったサンドイッチの味を、ボリスは忘れてはいなかった。あの後に自分は、なんと返したのだろうか。
真っ当に?
あの日考えても、結局答えは出なかった。だってそうじゃないか、俺に他に何ができる?塒の奴らは、自分たちが正しいと信じて疑わなかった。俺は、どうすればいい?
ボリスは小さな頭で、懸命に考えた。ごみ山に住んでいた友人の顔を思い浮かべる。そうして、彼がよく顔見知りのいる店に行って、何かささやかな手伝いをする代わりに報酬をもらっていたことを思い出した。でも、この辺りはダメだ。店の奴らは、顔を知っているかもしれない。もっと遠くへ行かないと。
***
ボリスは歩いて、といっても子どもが歩ける距離などたかが知れているが、町の北へと向かった。北側は古くから人が住む土地で、狭い区画に小さい家や商店が密集している。その中で人々も貧困の中、寄り添うように暮らしている。ボリスはきょろきょろと辺りを見て、適当に目についた店の扉の前に立った。こんこん、とノックをすると、しばらくの沈黙の後、ゆっくりと軋む扉が開いた。
中から出てきたのは、大柄な中年の女だった。ひどく汚れたエプロンを着ている。横幅はボリス3人分くらいはあろうかという大きさで、白髪交じりの頭を後ろできゅっと結んでいる。女はまるで寝ていた所を叩き起こされたかのような仏頂面で、じろりとボリスを見下ろした。
まるで怪物のようだとボリスは思った。だが度胸だけは他に引けを取らないボリスは、そこで引き下がらなかった。彼は自分の経緯と、何か手伝いをさせて欲しいという旨を訥々と伝えた。口下手なボリスはこんな時、憐れみを誘うように上手に語るなんていう芸当はできなかった。やったとしてもこの怪物が耳を傾けたかは定かではないが、とにかく試みは上手くいかなかった。少しの沈黙の後、女はただ一言「失せな」と短い言葉を残し、扉を勢いよく閉めた。
いくつか家や店を渡り歩いたが、結果はどれも芳しくなかった。ある店では扉を開けるなり蹴り出されたし、ある家では険しい目つきを見てか、怯えたように扉を閉められた。
そんな結果がいくつか続いて、ボリスの顔はますます険しく、どんよりとしたものになっていた。金も食べ物も無く、どうしようも無かった。彼は半ばやけになりながら、小さな酒場の扉を強く叩いた。
出てきたのは、若い女の人だった。花柄のエプロンに、オレンジ色のナプキンを頭に巻いていた。女の人は扉を叩いたのが小さな少年だったことに目を丸くした。ボリスは前の店で言ったことと同様の内容を、早口で告げた。彼女はしゃがみこむと、ボリスの話を黙って聞いた。
話し終えると、女の人はじっ、とボリスの目を見た。そして腫れた頬に触れると、そこを撫でてくれた。
「こんなに怪我して、痛かったでしょう」
ボリスは殴られた跡がじんじんとまだ痛むのを感じた。女の人の言葉はボリスの傷に染み入るように、心に入り込んだ。少しバツの悪そうな顔で、彼は「別に」と答えた。
「顔は痛くない。一番痛いのは」
彼はシャツの左のところをぎゅっと掴んだ。心臓に一番近い所。この町へ来て塒の奴らに拾われて、色んな事を一緒にやった。時に殴られながら、それでもいつかここを出るためと思いながら耐えた。でも、心が満たされたことは一度として無かった。
「気づいたんだ。俺、別に悪いことがしたいわけじゃない」
女の人はうん、とボリスの言葉に静かに頷いた。それからしばらくの沈黙の後、女の人の唇が「残念だけど」という風に動くのを見て、ボリスは唇を強く噛んだ。またダメだった。もうやめてしまおうか?そんな風に思った時だった。
「ちょっと待ってね」
女の人はそう言い残して、店の中へと向かっていった。扉越しに、店の中の温かい空気が漏れてきた。棚の中を探っているような音が聞こえたかと思うと、女の人は戻って来た。そうして、大き目の袋にパンと水を入れたものを、ボリスに差し出した。彼が驚いたように目を丸くしていると、彼女はエプロンのポケットから少しばかりの硬貨を彼の手に握らせた。呆気にとられたボリスだったが、小さな声でお礼を言うと、女の人は微笑んでくれた。
「ここは子どもが来る場所じゃないのよ」
扉を閉める前に、女の人はボリスのぼさぼさの髪を、そっと撫でてくれた。
***
彼はその日、その出来事を何度も思い返した。しばらくは女の人がくれたもので食いつなぐことができた。だけど寝る所は無くて、ホームレス達の集まる共同所で暖を取った。大人も子どもも皆虚ろな目で、まるで通夜のようだった。ボリスの共同所の隅の方に座ると、鞄の中を探った。奥底で固い何かに当たり、それをそっと取り出すと、周りに見えないように隠した。
それはかつてごみ山で拾った銃だった。ちゃんと動くかどうかも分からなかったが、ボリスはそれをお守りのように大事に持っていた。そっと撫でるように銃身を触り、グリップを握った。両手で持って、壁に向かって銃口を向けた。
引き金に手をかけようとした所で、不意に怖くなってやめた。慌てて鞄の中にそれをしまうと、鞄ごと抱え込むように丸まって眠った。




