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スラムドッグ  作者: 鯖缶
2/11

2、 サンドイッチ


「よお」


声をかけられてようやく気付いたが、ボリスは顔を上げなかった。声の主はしゃがみこむと、おい、とボリスの肩を揺らした。


「さっきのガキ。顔上げろ」


ボリスはゆっくりと顔を上げた。誰かはすぐに分かった。男の手を振り払うと、きっ、と思い切り睨みつけてやった。


「何してんだてめー。さっさと消えろ」


出来得る限りの凄みを出したが、男にはあまり効果がなかった。肩をすくめると、半笑いで言葉を返してきた。


「本当、口が悪ぃな。どうせろくでもないのとつるんでるんだろ。ほらよ」


男が差し出してきたものに、ボリスは子どもらしく目をぱちくりとさせた。それは、肉入りのサンドイッチだった。ソースで味付けされた肉の汁が、パンに染みている。チーズとレタスと、他にも具が落ちそうなくらいに入っていた。ボリスはサンドイッチに視線が釘付けになった。口の中いっぱいに唾があふれてくる。


「なんで……」


「いらねーのか?」


何か企んでるのではないかと一瞬疑ったボリスだったが、食欲には抗えなかった。サンドイッチをひったくるように奪うと、お世辞にも綺麗とは言えない作法で貪るように食べた。驚くべき勢いでサンドイッチが消えていくのを見て、男は「いい食べっぷりだな」と呟いた。


「お前、痩せすぎだぞ。そんな身体でよくあんな走れるな。さすがの俺も全力を出したぜ」


食べ終わったボリスは口元を拭うと、へっ、と声を上げた。身体に温かさが戻ってくるのを感じる。


「当ったり前だ。いつも走ってんだからよ」


「いつもあんなことしてんのか?」


男の言葉に、ボリスは押し黙った。少しの間が空いた後に、押し殺した声で答えた。


「だったらなんだよ。関係ねーだろ」


「いや、関係はねえけどよ」


男はおどけた様子で笑うと、頭を掻いた。睨みつけて来る鋭い視線を受け止めながら、男はボリスを指さした。


「やめといた方がいいんじゃねえかな。まだ若いんだしよ。ほらもうお前、目が荒んでるもん。ろくな大人にならねえぞ」


「じゃあ金でもくれんのかよ」


「それはやらん」


噛みつくような返答に、男はきっぱりと答えた。全くどうしたものか、という風に半ば呆れた表情を作った。そしてボリスのぼろ着や、もう何日も洗っていないだろうくしゃくしゃの髪を見て、少しだけ苦々しい表情を作った。それから軽くを息を吐き、今度は少し真剣な表情になった。


「まあだからよ、通報はしねえから代わりに言わせろ。盗みだけが生きる手段じゃない」


男はボリスの目を見て、はっきりと言った。


「せめて真っ当に生きろ。汗水垂らして働いて、それで飯を食え」


男の言葉に、ボリスは微かに表情を変えた。戸惑ったような様子で、彼の視線は地面へと落ちた。彼は拳をぐっと握りしめた。何事か小さな声で呟いたので、男は「ん?」と耳を澄ませた。しばらく俯いたままのボリスだったが、やがて息を吸うと、握りしめた拳を振り上げた。


「うるせえな!余計なお世話だ、このタラシ!ちんなし!」


「ちんなしって……」


男は自分の言ったことがまるで通じてないのを見てとり、やはり肩をすくめた。諦めたようによっと立ち上がると、おどけたように言葉を返した。


「どこでそんな言葉を覚えるんだ?口の悪い男はもてねえぞ」


はは、と笑いながら男はレストランの方に戻っていった。ボリスの拳は、まだ石のように握られたままだった。食べ物を分けてもらったというのにあんまりな態度ではあるが、ボリスはなんだか悔しくてたまらなかった。鞄を握りしめると、ずんずんと大股で歩き出した。説教なんかいらねえ。悪いことだって?それが何だってんだ、あんな奴には分かんねえんだ、何にも。


***


この辺りの町一体を拠点とする不良少年ら、それがボリスの「友達」だった。彼等は古い空き家に住み着いて、身を寄せながら暮らしている。ひったくりからリンチ、強盗までこなすこの集団は、まだ新参者のボリスを「狩人」に任命した。やり方は全部、皆から教わった。だがこの日のボリスの成果は、少年たちの要望を満たすものでは到底なかった。


「おいおいおい、ボリスちゃん。舐めてんのか?」


1番背の高い茶髪の少年、通称「リーダー」は彼の鞄を地面に放り捨てた。放り出されたカチカチのパンは地面に転がり、土ぼこりがついた。


「舐めてない。これしか盗れなかった」


ぶすっとした顔でボリスが答えると、リーダーは額に青筋を立たせた。彼はボリスよりもいくらか年上で身体が大きく、喧嘩は一番強かった。彼と並ぶと、年の割に背の低いボリスはさらに小さく見える。リーダーは今にも殴りかかってきそうな勢いだった。後ろで胡坐をかく少年たちは無表情でそれを見つめている。1人の金髪の少年が、「なあ」と声をかけた。


「リーダー。それより早く飯にしてくれよ」


円を描くように座っていた少年たちの目の前には、今日の分け前たる肉の切れ端と、スープが並んでいる。金髪の少年は待ちくたびれた、というようにスプーンで食器をカンカン、と打ち鳴らした。


リーダーは振り返る。そしてボリスを一瞥すると、ふん、と息を鳴らした。早足で指定の位置に向かう。リーダーの位置は決まっていた。大抵扉から一番離れた真ん中。ボリスも後ろからついていき、割り当てられた扉に一番近い位置に座り込んだ。少年たちはほとんど手づかみで、お粗末な肉を貪り食った。ボリスはそんな様子を暫し観察した後、意を決したように硬い肉に食らいついた。


「それで、ニッキ。次のターゲットを見つけたって」


ニッキと呼ばれた金髪の少年は、リーダーの声にばっ、と顔を上げた。


「そう、酒場通り近くに乞食がいるだろ。こんなちっちゃい」


ニッキは手振り身振りを使って、どの乞食なのかを詳細に説明した。酒場通りは羽振りの良い客もよく来る。客たちのおこぼれに与るため、乞食、とりわけ小さな子らが周辺に集まっているのだった。


「でも乞食だろ。金なんか持ってねえよ」


「いや、俺見たんだよ。あいつ、高そうな電子機器みたいなの持ってんだよ。部品って売れるだろ。盗っちまおうぜ。抵抗するなら……」


彼は懐から折り畳みナイフを取り出して見せた。少年たちの間から、歓声が上がる。それが意味する所は、一目瞭然だった。ところが一方、ボリスの視線はずっと床に向けられていた。話もどこか上の空で、ぼーっとスープを飲んでいる。


――真っ当に生きろ。


真っ当って何だ?何のために、そんなことをしなきゃならない?汗水垂らして働いて、でも母さんは死んだ。

俺にできることなんて、何がある?


そう考えたところで、不意に意識は途切れた。ボリスが気づいたときにはすでに遅く、ボリスの額にスプーンが勢いよくぶつかった。


「おい、聞いてんのか」


まだ腹いせの済んでいなかったとばかりに、リーダーが睨みを利かせてきた。ボリスは額をおさえると、リーダーと視線をかち合わせた。


「お前が失敗したから、こんな話になってんだろーが!ちゃんと聞け!」


リーダーはボリスの胸倉を掴むと、勢いよく腹にパンチを叩き込んだ。ボリスは痛みに呻いた。腹を押さえて転がり込む。リーダーはボリスを見下ろすと、もう一発足で腹を蹴った。痛みで声を上げるのを確認すると、満足したように再び席へと戻った。少年たちは、遠巻きにそれを見ている。中には「自分でなくてよかった」と言う風に安堵の息をつく者もいた。


リーダーは癇癪持ちだ。気に入らないことがあると、必ず誰かに当たる。そしてそれは、集団の中でも弱い少年に向けられることが多かった。ボリスが来る前は、ニッキが主な標的だった。1番年下で背が低いボリスは、リーダーの恰好の標的となり、こんな風に理不尽に怒られた。普段ならやり返すボリスだったが、この日はもう抵抗する元気も無かった。


その日もいつもと同じように、薄い毛布にくるまって、身を寄せ合うようにして眠った。暖房は無かったが、外で寝るよりはいくらかマシだった。しばらく寝付けなかったボリスだったが、夜が更けるにつれ、段々と意識が遠のいていった。まどろむ中で、今日の出来事を思い浮かべる。


あのサンドイッチは、とても美味しかった。あんな美味しいものを食べたのは本当に久しぶりだった。ねぐらの窓からは、月の光が微かに差し込んできている。ボリスはうっすらと目を開けた。あとどれくらい過ごせば、ここから出られるのだろうか。彼はぼんやりと考えた。ここには想像を広げてくれる本も映画も、何も無かった。スラムに住む小さな少年には、どこへ行けばいいのかなんて見当もつかなかった。


どこでもいい、どこかへ行きたい。どこか遠くへ……


うつらうつらと眠りにつくボリスは、頭の中で何度も何度も、その言葉を呪文のように唱えた。



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