1、少年は走る
争いがいつ始まったのかは定かではない。連邦内部は多くの民族を抱えており、火種は常に存在していた。連邦が無理やり併合を始めたとき、それはいつ爆発してもおかしくない状態に陥った。多くの民族はそれを仕方なく受け入れた。連邦軍の力で、あるいは金の力で。だがそんな中で最も強固に体制に対する反発を示したのが、南の僻地に住むグゼル民族だった。彼らの固有の団結力は、連邦軍を大いに苦しめた。血は血を呼び寄せ、終わらない内戦が始まった。
ボリスが生まれたときから、小競り合いはすでに泥沼と化していた。彼の生まれた地区には親のない子もいれば、子を無くして嘆く親もいた。盗み、喧嘩、警察沙汰は日常茶飯事だった。人々の目は淀み、腐敗は横行していた。
そんな中でも、ボリスの生まれはまだマシな部類だった。彼には母親と、雨風をしのぐ家があった。母親はわずかな賃金のために身を削って働き、ボリスはその手伝いをして辛うじて生活をしていた。貧しい暮らしだったが、母親は優しかった。もう顔も微かにしか思い出せないが、悲しそうに笑う人だったのを、彼は覚えていた。
だがそれも、彼が10歳になるまでのことだった。母が感染症にかかって死んだときのことを、彼ははっきりとは覚えていない。いや、むしろ思い出さないようにしていると言った方が正しいのかもしれない。ボリスには立ち止まる猶予など与えられなかったのだから。
孤児となったボリスは、同地区に設置された孤児院に入れられた。施設は古い学校施設を改築したもので、そこで子どもたちはお粗末な食事と、勉強道具を与えられた。施設はあまりに多くの孤児たちを抱えており、1人1人の面倒を見るなど以っての外だった。多くの子どもたちはしょっちゅう喧嘩を起こし、その度に大人は数十回分の鞭を与えた。
当時からボリスは短気な性質だった。生意気な彼は何かと目をつけられやすかったし、彼の方も売られた喧嘩は必ず買った。孤児院でもそんな調子のボリスは、喧嘩沙汰を起こして鞭を食らうのが半ば日常となっていた。
だが、そんな日常も長くは続かなかった。孤児院が、あまりに多すぎる子どもたちの面倒を見切れないということで、元気のある子どもたちを北の施設へ送り込むことにした。北の施設、というのは大人たちの間で使われる隠語だった。だが勘のいい子どもたちは気づいていた。施設へ行ったものは、二度と返ってくることがない。本当かどうかは分からない。だがボリスも、それを知っていた。だから、鞭打ちで刑罰部屋に閉じ込められた時に、たまたま鍵のかかっていなかった窓から逃げ出したのもそう不思議なことではなかった。
彼は走った。走って走って、死にそうになりながらたどり着いたのは、大きな港町だった。不良たちのたむろするスラム。そこでボリスは、想像以上に長い時を過ごすことになるのだった。
***
その日もやはり、ボリスは走っていた。すぐさま後ろからついてくる大きな足音が聞こえる。彼は大通りから小さな路地に入り込み、道を右へ左へと曲がる。ここの地理は、よく知っていた。ボリスはちらりと後ろを振り返る。エプロン姿の男が、息を切らしながらまだついてきていた。男は、青筋を立たせながら怒鳴り声をあげた。
「この泥棒が!返しやがれ!」
ふん、と鼻を鳴らすとボリスは前を向いた。
誰が返すか、バーカ!
ボリスは塀を軽々とよじのぼると、乗り越えて地面へと着地した。狭い裏道なら、負ける気がしなかった。彼は壁に寄り添い、そっと耳を澄ました。男の声も足音も、もう聞こえない。
――撒いた。
安全と判断したボリスは、ふうと息をついた。今日の収穫を確認すべく、小さな鞄をひっくり返した。出てきたのは、パンを1つと、通行人から取った小銭入れ。ボリスはそれを見ると、先ほどよりも深いため息をついた。
「これじゃだめだ……」
彼はささっと鞄の中と懐に収穫物をしまい込むと、次なるターゲットを探すべく町へと繰り出した。町を歩くと、黒い制服の大人たちが目につく。テロリストの逮捕に来た警察だと仲間達から教えられていた。あまり目につかないように身を隠し、そっと歩いた。
町には、実に色んな人間がごったがえしている。軍人もいれば、会社員風の大人もいる。店先で働く女の人、そして路上で座り込む乞食の子どもたち。ボリスは狩人のように目を凝らし、なるべく愚鈍そうな人間を探した。そして酒場の並ぶ通りに来たとき、彼はターゲットになりそうな男を見つけた。さっと隠れ、様子を伺う。
「親父よお、あとちょっとだけ。ほーんのちょっと」
「しつっこいねえ。もう品切れだよ。帰ってくれ」
「ちょっとくらい残ってんだろ?ちょっと多めに払うから、な?」
体格のいい男が、酒場の店主であろう親父に店の前で執拗に絡んでいた。昼間だというのに、男は明らかに酔っ払っていた。赤ら顔で店主の肩に手を回し、仲の良い友人に話すような口ぶりである。店主は実に迷惑そうな顔で手を振りほどき、男の肩を叩いた。
「あんたねえ、大丈夫か?俺が言うのもなんだが、そんな酒ばっか飲むもんじゃねーぞ」
親父はしっしっと追い払う仕草をすると、酒場の中に戻り、バタンと勢いよく扉を閉めた。取り残された男はしばらく扉の前で立ち尽くしていたが、店主が戻ってこないのを確認すると、ふらふらと酒場通りを歩き出した。ボリスは獲物を狙う目で、じっとそれを観察していた。どう見てもろくな大人じゃない。年は30歳は過ぎているだろう。一見すると強面に見えるが、酒のせいなのか、へらりとだらしない笑みを浮かべている。
財布は左ポケット。
男の歩幅に合わせて、ボリスは歩き出した。つかず離れずの距離を保ち、少しずつ接近していく。丁度いい距離まで来たとき、ボリスはすっ、と息を整えた。
それから勢いよく男にぶつかりに行った。油断していたらしい男は「うぇ?」と間抜けな声を発した。ボリスは思いがけず足がもつれ、思い切り地面に手をついた。男は驚いたように「おい、大丈夫か?」と声をかけた。
ボリスは答えなかった。男の顔を見ることなく、一目散に走り出す。後ろで男の「あれ?」という声が聞こえ、「やべ」とボリスは内心舌打ちをした。
「俺の財布!」
男が叫ぶのと同時に、ボリスは角を曲がった。走るのは得意だ。この町へ来てからずっと、この足だけが頼りだった。小さな身体を活かして、ボリスは入り組んだ路を縦横無尽に駆け回った。
大分走った頃、ボリスは商店の裏に逃げ込んだ。さすがに息が上がってきて、地面にへたり込んだ。誰もいないのを確認すると、今日の収穫の黒い財布をポケットから取り出した。
やった!こんなに入ってる。
黒い財布の中には、さっきスった小銭入れとは比べものにならない金額が入っていた。彼はほくそ笑むと、大事そうに財布を鞄の中にしまい込んだ。周囲の様子をそこそこに伺うと、彼は身をかがめながら道へと出た。塒へ帰ろうと歩を進めた時だった。
「おい、ガキ」
さっきの声がやけに近くで聞こえて、ボリスの背筋は凍り付いた。ゆっくりと振り向く。さっきの酔っ払い男だった。嘘だ、まいたはずなのに。
ボリスは身の危険を感じ、脱兎のごとく地面を蹴り上げた。「おい、待て!」と男の鋭い声が聞こえる。
平時ならそう捕まらない自信はあった。だが今は体力を消耗しすぎていた。ボリスは呆気なく首根っこを掴まれ、じたばたと暴れた。
「近寄んな、この酔っ払いが!」
「あぁん?」
悪態に眉をぴくりと上げた男は、ボリスの首根っこを掴んだまま壁に叩きつけた。左半身に衝撃が走り、ボリスは痛みに声を上げた。
「酔いが醒めちまったじゃねーか。困るんだよ、財布が無いと。特に今月はやべえんだからよ」
男はしゃがみこむと、壁を背に座り込んだボリスの前に立ちはだかった。彼は内心舌打ちをした。失敗した。大人の男はやめておくべきだった。広い肩幅に、太い腕。殴られたらボリスの小さな身体などひとたまりもないであろうことは想像に難くない。だが、どうにも癪だった。
「なんだよ!いい大人が昼間から酒飲んでいいと思ってんのか、このクソッタレ」
男は図星を突かれたようで、微かにぐ、と言葉に詰まった。
「生意気言いやがって。お前みてーな奴はさっさと警察に突き出す」
ボリスは警察、の言葉にたじろいだ。あの孤児院が脳裏に浮かぶ。嫌だ、警察は。彼は胸倉を掴んでくる男の手にしがみつき、抵抗しようとした。男の手はますます強く握られ、はがれる気配は無かった。
「と、言いたいとこだが」
不意に男がぱっと手を放した。手の平を広げて見せると、にかっと笑った。
「俺はこう見えても、ガキには結構優しいんだぜ。大人しく返せば、見逃してやる」
なあ?と男は実に馴れ馴れしく話しかけてきた。ボリスは男をじっと無言で睨みつけた。ここから逃げるのはもう無理だということは、はっきりしていた。捕まるよりは、と渋々鞄の中を開け、黒い財布を出した。財布を渡すと、男は「これこれ!」と嬉しそうに声を上げた。
「いや、どうしようかと思ったぜ。これが無いと破産するとこだったぜ」
「ハサン?」
「金が無くなるってことだ。そんじゃま、元気でやれよ。クソガキ」
男は財布を取り返してご満悦な様子で、立ち上がった。そのまま口笛を吹いて、酒場のあった方の道をずっと進んでいった。ボリスはまだ尻餅をついたまま、その様子を眺めていた。男の背中が見えなくなったのを確認すると、彼はよろよろと壁に手をついて立ち上がった。
最悪だ。
こんな失態をするなんて。おまけにさっき走った時に、盗ったはずの小銭入れまで失くした。通りに目をやるが、首を振る。身体の左半身がまだひりひりと痛みを訴えている。もう今日はこれ以上走れる気がしなかった。それにさっきから、腹も空いて仕方が無かった。
ボリスは顔についた汚れを払うと、とぼとぼと町を歩き出した。陽は陰り、もう夕暮が近づいていることが分かった。暖簾を上げたレストランから、肉の焼ける音がする。香ばしいパンの匂いに、薬草の入ったスープの湯気が立ち上がっている。ボリスは憑りつかれたように、レストランの看板をじっと見つめた。料理人らしき男が看板を手に入り口へ出てくると、小さな少年の存在に気づいたようだった。汚らしいものを見る目で彼を一瞥したかと思うと、料理人は「あっちへ行け!」と罵倒してきた。ボリスは慌てて目を逸らすと、レストランを背に歩き出した。
腹減った……。
今日はねぐらから離れたところに来てしまった。走るのをやめた瞬間に、自分がどれだけ腹を空かせていたかを実感する。そういえば朝から、ほとんど何も食べていない。腹の虫はキリキリと悲鳴のような音を立てていた。立ち止まりたい。ボリス、壁に手をついた。道の端でへたりこむと、冷たい風がボリスの首筋に入り込んできた。
帰りたくない。
ボリスは小さな身体をますます小さく丸め、うずくまった。そこのレストランから、賑やかな話し声が聞こえる。それがうるさくて、ボリスは耳を塞いだ。美味しそうな食べ物の匂いも、あれは何一つ自分のものにはならないのだ。いつまでこんな生活が続く?
ボリスは胸の中にどんよりとした絶望感を感じた。もう歩く気力も無かった。目も耳も、何もかも塞いでいた彼は、後ろから近づいてくる足音に気が付いてはいなかった。