聖人
午前6時。
昨日と同様伊賀が俺を起こしに来た。
「おはようございますご主人様。いい朝ですよー」
カーテンを開けられる。
「う゛っ」
瞼の上からでも今日がいい天気だとわかる光の強さだ。
唸りながら体を起こす。
仕事は嫌だが廊下を掃除するだけだ、と自分に言い聞かせる。
考えようによっては廊下の掃除が終わったら自由になれるってことだ。慣れれば朝食の時間までに終わるようになる。
頑張れ。
なんとか自分を鼓舞してベッドから出た。
窓が大きいので入ってくる光は俺の全身を照らす。
日に当たると少し目が覚める。
こんなに日が強いのに快適に過ごせるのはこの部屋に24時間クーラーがついているからだ。
この屋敷にいたら四季とか関係ないな。
「おはようございます」
伊賀が執事服を渡してくれた。
俺が執事服を着終えると、伊賀はまた目を細めて俺を見ていた。
伊賀は暫く俺を凝視した後、おもむろに口を開いた。
「オレ執事服もえかもしれません」
「......もえ?」
「萌え萌えキュン!の方じゃないですよ。メラメラの方ですよ。なんか執事服着てるご主人様見てると変な感じなんです」
「はあ」
「だからきっとジェラシーですよ!ご主人様は黙ってオレにお世話されてろ!的な?」
そう言って伊賀は首をかしげた。
「いや、俺に聞かれても」
「あ、もうこんな時間。ご主人様、今日の朝食は8時から食堂です。時間には準備して移動していてくださいね」
伊賀が腕時計を確認して言った。
「はい」
昨日蘇芳さんが頻繁に時間を確認していたのを思い出した。
俺も腕時計欲しいよな。廊下に時計ないし。
ここに来る前からの俺の私物は机上に置かれた鞄だけだ。
確かこの中にあったはず。
俺は鞄を探る。
学校に持っていっていたものだったので、中身は簡素だった。
いくつかの教科書とノートと筆箱、それらがほとんどを占めていた。
教科書類の間に漫画が一冊挟まっていた。
あ、光に借りたやつだ。
そっか返してないんだ。てことは1ヶ月以上借りていることになる。光は借りパクされたと思うだろう。
今度会ったときに謝ろう。
携帯電話も入っていた。後で光に電話するか。
俺は携帯電話を開いた。登録番号帳を開く。
しかし、そこに光の番号はなかった。
あれ、なんだこれ。
そこには、『緋宮 要』という名前の番号が1件登録されているだけだった。
何でだろう。まさか緋宮さんが俺が寝てる間にやったとか?
まあ大して大事なデータじゃないからいいけど。
でもこれじゃあ光の番号わからないな。やっぱ今度会ったときに謝ろう。
俺は手袋をして廊下に出た。
あ、廊下は暑い。
廊下掃除は午前11時に終わった。
まだ2回目だが結構コツが掴めてきた。
着替えを終わらせて一息つていると、ドアがノックされた。
伊賀は部屋にいる。ということは緋宮さんだろうか。
伊賀がドアを開けると予想通り緋宮さんが入ってきた。
おはようございます、と伊賀は頭を下げて部屋の隅に立った。
昨日もおんなじようなことあったな。
「お疲れ様」
緋宮さんは昨日と同じ椅子に座った。
伊賀はお茶を淹れに出ていった。
俺も向かいに座る。
なんで緋宮さんは俺の仕事が終わる時間ぴったりに会いに来れるんだ?暇なのか。そういえば緋宮さんって何してる人なんだろう。
風貌は社長っぽいけど。
「真白は死についてどう思ってる?」
緋宮さんが言った。
いきなりの質問に驚く。しかもなんだそれ。
「救いです」
でも、"死"に関しては、咄嗟に聞かれても答えられるだけの思いが俺にはあった。
「苦しいこととか嫌なことから唯一俺を解放してくれるものです」
毎日苦しみながら生活していた。
バイトはキツいし勉強は嫌いだし、両親はああだし。
俺にとって生は地獄だ。
「はやく俺にもこないかなー」
常に胸に湧く気持ちだった。
......そういえば最近はあんまり思わないな。
「そっか」
緋宮さんはなぜか安心したように息を吐いた。
「あの、緋宮さんっていつも何してるんですか?」
「僕は大学に通ってるよ。今は夏休みだけどね」
「大学生だったんですか!凄いなあ」
絶対頭いいところだ。とーだいだ。
「凄くなんかない。逃げただけだ」
「逃げた?」
なんだそれ。就職からってことか?
「僕にはこれが限界だけど」
緋宮さんは俺を見つめた。
「でも遠くへいってしまったら真白と話せないからね。僕はこれでよかったと思うよ」
「何から逃げたんですか?」
「いろいろ」
緋宮さんは言葉を濁した。
腑に落ちない。
「真白は行きたい大学はある?」
話題を変えられた。
そんなに気にならないから別にいけど。
「俺なんか大学行けないですよ。バカだし」
「そんなことはない。勉強に専念できる環境が整っていなかっただけだ。行きたいならお金を出すから、言って」
俺勉強嫌いだからきっといかないだろうな。
「ありがとうございます。やりたいことが見つかったら行きます」
「大学はやりたいことを見つけにいく場所でもあるから、理由なんてなくても行っていいんだよ」
「はあ。でもまだ先の話だし。じゃあ行きたくなったら言いますね」
「うん」
緋宮さんは嬉しそうに頷いた。
「緋宮さんはなんで俺にこんなに優しくしてくれるんですか」
やっぱり裏があるとしか思えない。
そうじゃなかったら緋宮さんはあまりにも聖人だ。
「真白のことが......大切だからだよ。大切な、家族」
緋宮さんは言葉を選びながら答えた。
聖人だった。