末代様初仕事
緋宮家で目覚めて4日目。
今日から俺は働く。
「ご主人様ー朝ですよー!」
しかし俺は一向にベッドから出られないでいた。
この数日間寝たいときに寝、起きたいときに起きていたのですっかり自分の意思で起き上がることが出来なくなっていた。
しかも執事の朝は早い。
まだ6時だというのに皆起きている。
伊賀が俺から布団を剥ぎ取ろうとする。
「あと5分」
「そんなこと言ってたら緋宮さんが来る時間になっちゃいますよ」
俺は飛び起きた。
「緋宮さん来んの?何で?」
「ご主人様の仕事ぶりを監視しに来るんじゃないですか?」
「起きる」
「おはようございます。ご主人様」
伊賀は部屋を出ると、すぐに別の執事を連れて戻ってきた。
やってきた執事は眼鏡をしていて真面目そうな若い男だった。
「初めまして松代様。私は緋宮家の執事長を務めさせていただいております。蘇芳誠と申します」
そう言って腰をカクッと折った。
伊賀と並ぶと余計に堅く見えるな。
「よろしくお願いします」
「蘇芳さんがご主人様にお仕事を教えてくれます!」
伊賀が蘇芳さんを指差した。
「伊賀が教えてくれるんじゃないの?」
「オレは執事になってまだ1週間なのでダメらしいです。蘇芳さんは緋宮さんじきじき指名です」
「へえ」
蘇芳さんはまたカクッと腰を折った。
「それであの、俺は何をすればいいんですか?」
「まずは着替えましょう」
蘇芳さんはツカツカと歩いていってクローゼットを開けた。
ずっと伊賀が服を出してくれていたので気づかなかったが、クローゼットの端には執事服がかけられていた。
蘇芳さんはそれを取ると俺に渡した。
俺も執事服着るのか。
「お着替えください」
「ありがとうございます」
「私は外に出ておりますので、準備が出来ましたらお声がけください」
「はい」
蘇芳さんが出ていった。
執事服に袖を通す。
ビックリするぐらいサイズがピッタリだった。
「どう?」
伊賀に声をかけると、伊賀は俺を凝視しながら腕を組んで何やら考え込んでいた。
「伊賀?どう?」
もう一度声をかけると伊賀は弾かれたように拍手した。
パチパチパチ。
「すげえかっこいい......です」
「よかった。じゃなくて着方合ってる?」
「バッチリっスよ!似合ってるっていうか、しっくりくるっていうか。......なんか不思議な感じだなあ」
俺も自分でしっくりきているのは感じていた。
もっと硬いかと思ったが意外に動きやすい。
「仕事があるのでご主人様の仕事姿見れないんですよね。残念!オレも蘇芳さんに指南されたんですけど、厳しいですよ。ファイトです!」
俺は伊賀に見送られて部屋を出た。
部屋を出ると、蘇芳さんは床掃除をしていた。
「お待たせしました」
「そうだ。いつまで待たせる」
「え、とすみません」
なんかさっきまでと雰囲気違う。
タメ口になってるし。キツい。
こころなしか眼鏡が細くなってる気がする。
「着替えは1分以内で済ませろ」
「はい」
「制服の皺を伸ばせ。ゴミを取れ。そこまでが着替えだ」
「はい」
「わざわざ言うまでもないが言っておく。執事服を着た瞬間からお前は執事だ。ただの無能な新人執事見習いだ。私はこの家の執事長として、お前を甘やかす気は無い」
「は、はい」
うわ。ホントに厳しい。
「一番に覚えることは緋宮様へのご挨拶だ」
「はい」
蘇芳さんは直角に腰を曲げた。
「おはようございます。こんにちは。こんばんは。復唱!」
「あっはい。おはようございます。こんにちは。こんばんは」
「もっとハキハキと、落ち着いた声で!」
「はいっ!おはようございます。こんにちは。こんばんは」
「及第点。次は床掃除だ」
「はい」
蘇芳さんは道具を持って廊下の端に移動した。
長い廊下を指差す。
「末代様の仕事はこの廊下を綺麗にすることだ」
突き出された箒を受けとる。
蘇芳さんが時計を確認した。
「最初に箒で一度終わりまで掃き、ごみをとります。次にモップで水拭きをします。最後に雑巾で乾拭きをします」
「はい」
あれ、敬語になった。
不思議に思ったが目付きの鋭さは変わらないので黙って床を掃き始める。
「それでは効率が悪いですよ」
そう言うと、蘇芳さんはそっと後ろに立って俺の腰に手をあて、優しく姿勢を修正した。
「箒はここを持つと負担が少ないです」
蘇芳さんの手は次に俺の手を移動させる。
なんだ急に。
「屈むと一週間ほどで腰や膝が痛くなります。なるべく立ったままの姿勢で掃くようにしてください」
「はい」
こんなに長い柄の箒を使ったことがなかったので先っぽを壁にぶつけまくった。
恐る恐る蘇芳さんを見ると、怒るどころかフッと口角を上げた。
「はじめは違和感があるかもしれませんがすぐに慣れますよ」
「蘇芳さんはどのくらいで出来るようになったんですか?」
「私は3日で慣れました」
「へえ」
蘇芳さんがもう一度時計を確認した。
さっきからやけに時間気にするな。
「疲れたでしょう。少し休みますか?」
「え?いや、大丈夫です」
まだ掃除を初めて10分も経っていない。
廊下の1/8も掃き終えてないのにいきなりなんだ。
そう思ったとき、蘇芳さんがすっと姿勢を正して廊下の向こう、本邸の方に体を向けた。
ああ、そういうことか。
緋宮さんが来たのだ。
「おはようございます」
蘇芳さんが力のこもった声で言ったあと俺を見た。
俺も急いで続く。
「おはようございますっ」
「おはよう」
緋宮さんは柔らかく笑った。
「服、よく似合ってる」
「ありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくていいよ」
「はい」
俺たちが話している間、蘇芳さんは視界に入らない位置に無言で立っていた。
「まだ体調が回復したばかりだから無理しないように」
「大丈夫ですよ。もうどこも痛くないし」
緋宮さんが静かに、俺の胸に手をあてた。
「心は?」
ドクンッ。
一回、心臓が飛び出しそうなほど脈打った。
俺は緋宮さんの腕を掴んで離した。
「寧ろ元気有り余ってますね」
なんだ今の。凄く嫌な感じだった。
緋宮さんに触れられた瞬間、心臓を鷲掴みにされたような気分の悪さを感じた。
身体中の血がどろどろになって血管を押し広げながら暴れまわっている。
全身が危険信号を発している。目を逸らせ。それから逃げろ!
「それなら良かった。なにかあったらいつでも僕に相談して。僕の部屋は本邸の一階の東端にあるから」
「この前探検したときに見ました」
「探検か。言ってくれれば良かったのに。僕が案内したかった」
「緋宮さんの案内だったら伊賀みたいに五月蝿くなかったですね。残念」
「仲良くやっているようで良かった。今日は真白が初めて働いた日だから夕食はステーキにしよう」
「ステーキ!?ありがとうございます」
緋宮さんは面食らったように固まった。
ステーキごときで大きな声を出すなんて恥ずかしいか。
それでも俺にとっては何年も食べられなかったものだし、多分俺の想像なんてはるかに越えて美味しい。楽しみだ。
緋宮さんは慈愛に満ちた瞳を細めた。
「今日から真白も食堂でご飯を一緒に食べよう」
「やった。やっと離乳食卒業ですね」
「明日も明後日も、一緒に食べてくれる?」
「勿論です」
「良かった。そろそろ僕はいくよ。頑張って」
「はい」
緋宮さんは立ち去る前に蘇芳さんに何か耳打ちしていった。
「承知いたしております。問題ありません」
蘇芳さんの返事を聞いて安心したように本邸に戻っていった。
正午前に廊下の掃除が終わった。
蘇芳さんに報告するために2階に向かった。
蘇芳さんは薄暗い角部屋の掃除をしていた。
熱中していて俺に気づかなかったのでドアをノックした。
蘇芳さんは道具を置いた。
「終わりました」
「最後に道具の整備をして片付けたら終わっていい」
「はい」
「明日からは準備から片付けまで一人だ。塵ひとつでも落ちていたら許さないからな」
「はい。あの、今日はありがとうございました」
蘇芳さんは顔を背けた。
「私は末代様のことが嫌いだ」
そうだろうな、と思った。
「こんなことになるならお前はあのまま死んでいれば良かったんだ。この家の、全ての者がお前の存在を歓迎していると思うなよ」
蘇芳さんはキッと俺を睨んだ。
「緋宮様も含めてな」
肩を押された。
後ろによろめいて部屋から出たところで、蘇芳さんはドアを閉めた。
ベッドに倒れこむ。
久しぶりの固形物の食事が胃に重い。
あーもうやりたくない。蘇芳さんは怖いし体は痛いし。
凄く疲れたな。
カーテンレールに執事服がかかっている。
たった半日の床掃除だったのに。
......いや、それだけじゃない。
あのとき、蘇芳さんに緋宮さんが俺を歓迎してない、って言われたとき、俺は咄嗟にこう思った。思ってしまった。
そんなことない、と。
なんだそれ。なに自惚れてんだ恥ずかしい。
よく考えたら俺なんかを引き取る意味ってなんだ。利点てなんだ。
そういえば親父の保険金がどうのこうのって俺が目覚めた日に言ってたな。
もしかしてその保険金を狙って?あり得る。
そしたらあの無駄に優しいのも後ろめたさから来てると納得できる。うん。きっとそうに違いない。
だったらなんか責任感じて働く必要ないじゃん。
やめたい。
コンコン。
ドアがノックされた。
伊賀か。
「はい」
「失礼するよ」
「緋宮さん」
「仕事お疲れ様。凄く綺麗になってた」
「いや。蘇芳さんの方が凄いし時間も倍ぐらいかかりました」
「でも助かったことは確かだ。真白のお陰で蘇芳は普段手が回らない所を掃除できたから」
「そーですか」
突然部屋にやってきた緋宮さんは俺が座っていた椅子の対面側に座った。
「あの、なんですか?」
「用事がないと来てはいけないかい?」
「いや、そんなことはないですけど」
「真白に会いに来たんだよ」
「はあ」
こんなとこ来てもテレビ見るくらいしかする事ないけど。
「そうだ。ついでに」
緋宮さんはジャケットの内ポケットから封筒を取り出した。
「何ですか?」
「お小遣い」
俺は受け取りかけていた手を引っ込めた。
「それじゃあ俺が働いてる意味がなくなっちゃうじゃないですか」
「まあ貰って」
緋宮さんは無理矢理封筒を押し付けた。
中を覗く。
「いち、にい、さん、し......10万」
さすが金持ち。
俺の一ヶ月のバイト代を軽々と越えてくる......。
「僕はそれより一桁多いけどね」
「え......」
呆気にとられている俺に手を振って、緋宮さんは部屋を出ていった。