一歩
緋宮さんは俺が緋宮家の養子になったと言った。これからはここが俺の家になると言った。俺は何も心配せず、ただ、生きていればいいと言った。
緋宮さんが出ていった部屋で、伊賀が手を叩いた。
「そういうことだったんですね。じゃあオレら緋宮家の新人同士っスね!」
「はあ。あのさ、同い年ならタメ口でいいんだけど」
「ダメですよ!オレは今執事なんですから。働かざる者食うべからずです!フフン」
伊賀は得意気に鼻を鳴らした。
別にタメ口でも働けると思うけど。
俺はもう一度部屋を見回してみた。
壁に大きなスクリーンが埋め込まれている。
テレビか。バイト先の居酒屋でしか見れなかったやつだ。
そういえばクーラー効いてるなこの部屋。涼しい。
棚には漫画や小説が並び、机上には俺の鞄が置かれていた。
広いなー。
すごい。これからここをタダで使えるのか。しかもクーラーつけてもテレビつけてもタダ。凄すぎる。
「ねえ俺本当に家賃とか払わなくていいんだよね」
「いいんじゃないですか?オレも住み込みだけど払ってないし」
「そりゃあんたは働いてるから」
「ご主人様って......。いや」
「なに」
「意外に喋りやすい人だと思いました」
「はあ」
「あ、そろそろお昼ですね」
伊賀が腕時計を確認した。
俺も壁掛け時計を見た。12時30分きっかりだった。
「俺持ってきます」
伊賀は足早に部屋から出ていった。
胃が少しムカムカするが空腹感はある。それに金持ちの家の食事か。楽しみだ。
暫くしてドアがノックされた。
ドアが開くと、伊賀がワゴンを引いて入ってきた。
凄い。ワゴンで運ばれてくるなんて一体どんな料理だ。
ベッドに取り付けられた机が出された。
期待に胸を膨らませて待っていると、机上に置かれたのは鍋敷きだった。その上に小さな土鍋が置かれた。
横に小鉢に入った梅干しと、すまし汁が添えられた。
伊賀が隣に立って会釈する。
「失礼します」
そう言ってミトンで土鍋の蓋を掴んで取った。
むわっと湯気が立ち込める。
「お粥......」
「はい。まだ内蔵に負担はかけられないので」
「それは?」
俺はワゴンの下段にあった中華料理を指差した。
「これはオレのです」
伊賀はまた腕時計を見た。
「オレ今から1時間のお昼休憩に入るので、何か用があったら電話で呼んでください。すぐ来ます」
花瓶の横に電話が置いてあった。ホテルみたいだ。
「受話器をとってそのまま放置すると緋宮さんに、1番を押すとオレにつながるので」
「はい」
「あとトイレはそっちのドアです。無理だとは思いますけど外出はしないでくださいね」
「はい」
あれがトイレのドア。まさか部屋一つ一つにトイレがついてるのか。
「片付けはオレが戻ったらやります」
「はい」
伊賀はワゴンを引いて部屋を出ていった。
フー。
息を吐いてベッドに寝転ぶ。
まだ残る中華の香ばしい匂いを嗅ぐ。
俺もあっちがよかったなー。
胃がからっぽなのは分かるが、満たしたいとは思わなかった。
目をつぶる。
静かだ。
寝転んで、目をつぶると全身のムカムカする不快感が増幅していくような気がした。
気持ち悪い。
「あ」
突然大きな声がして体が跳ねた。
入り口に伊賀がいた。
まだ行ってなかったのか。
伊賀はテレビを指差した。
「今日24時間漫才オールスターズやってるんです。面白いので見た方がいいっすよ」
ニッと笑うとそれだけ言って出ていった。
漫才か。折角テレビがあるのに見ないのも勿体無いな。
花瓶の横に置かれていたリモコンでテレビをつけた。
画面の中で芸人が漫才をやっていた。
これか。
俺はスプーンを持つとお粥を掬って口に入れた。
あ、美味しい。
ゃんと塩の味がするのに主張が強すぎない、口当たりの良い食感だった。
食器を片付けて戻ってきてから、伊賀はずっとテレビを見て笑っていた。
「ホント面白いタカナンドオシ」
伊賀は漫才オールスターズに釘付けになっていた。
特にタカナンドオシという凸凹2人組が出る度に同じことを言っていた。
「ほらご主人様見てください!」
「見てるよ」
「うっそだあだって笑ってないですもん。ほらほら。あ!やっぱタカナンドオシは次世代のビートル明島だなあ」
「それ言うの5回目」
「やっぱタカナンドオシは次世代のビートル明島だな。はいこれで6回目」
伊賀は俺を覗き込んで見せつけるようにニっと笑った。
なんの張り合いだよ。
番組がcmに入った。
伊賀はずっと俺の傍らに立ってテレビを見ていた。
「座れよ」
俺は椅子を指差した。
「ありがとうございます」
お礼を言ったくせに伊賀は全く動かなかった。
ずっと立ってられると見てるこっちが申し訳なくなってくるんだけどな。
cmが開けた。
「あの」
伊賀が俺を見ていた。
「なに」
「やっぱりオレ気になるから聞いちゃいます。ごめんなさい」
「うん?」
「ご主人様はなんでそんなに明るいんですか?」
「ああ」
「両親が、亡くなったのに」
「別に。どうってこともないだけだよ。ただ、俺が両親をあんまり好きじゃなかっただけ」
「そっか。お父さん、借金あったんですもんね」
あの日。俺にとっては昨日の、あの晩。
暗くなってから家に帰った。
丁度母が出ていくところだった。
「おかえり。学校はどうだった?」
「別にどうってこともないよ」
どうってこともない。うちがどビンボーで、親父のギャンブル癖のせいで借金まみれで、母ちゃんが朝から晩まで仕事してて、ご飯は毎食実家から送られてくる米と庭で採れた草だけ、どうってこともない。
「そういえばお魚どうだった?」
「魚?」
「今朝お客さんがくれたの。真白君の朝食にって焼いて置いておいたんだけど。久しぶりのお肉はどうだった?」
俺はそんなものは食べていないし、見てもいなかった。
「知らないけど」
「あら......もしかしてお父さんが食べちゃったのかしら。今朝帰ってきてたから」
「ああ。そうなんだ」
「ごめんね。お父さんも悪気があったわけじゃないの」
「いいよ」
どうってこともない。
「私仕事いかなきゃいけないから。ごはん、食べてね」
「うん」
机の上に置かれていたのは茶碗に盛られた白米のみ。文字通りのごはんだ。
どうってこともない。
「いってらっしゃい」
「うん。いってきます」
やけに胸元が空いた服を着るアラフォーの母親。あれだって俺のための格好なんだ。
本当に、どうってこともない。
こんなのが最後の記憶なんだ。
そう思ったら少し、悲しくなった。
俺が部屋から出ようとすると伊賀が立ちはだかった。
「外出禁止ですよ」
「だから、廊下は外じゃないだろ」
あれから3日。
体ももうすっかり治り、俺は退屈していた。
ずっとこの部屋でテレビを見ているのは飽きる。
しかし外を散歩しようとすると伊賀に止められるのだ。
「別にいいだろ散歩くらい」
「ダメですよ。緋宮さんに固く言われてるんですから」
「しょうがないな」
俺は花瓶の横の電話をとった。
ボタンを押さずに待つ。
「ああなんかズルい」
伊賀を無視して応答を待つ。
すぐに緋宮さんの声がした。
『どうした!?大丈夫!?』
酷く狼狽えた声だったので慌てた。
「えと、大丈夫です」
『よかった。どうしたのかな?』
「あの、この家を見て回りたいんですけど」
緋宮さんは暫く沈黙した。
『......そうだね。そろそろ大丈夫か。わかった。今までごめん。外出していいよ』
「ありがとうございます」
電話を切る。
伊賀はスマホを見ていた。
「ご主人様の外出禁止命令が解除されました」
連絡早いな。
俺はさっそくドアを開けた。
広い廊下だった。
「本邸はあっちですよ」
伊賀が左を指差した。
「オレ部屋の掃除があるので一人で行ってください。所々に執事とかメイドとかいるので部屋の場所がわからなくなったら聞いてくださいね」
「うん」
「いってらっしゃいませ」
等間隔に置かれた花瓶が廊下を華やかにしている。
何かの施設みたいだ。
自宅に対して使うのはおかしいが、早く道覚えないとな。
大きな窓からは丁寧に手入れされた庭が見える。
花壇には色とりどりの花が植えてあった。
この家の人花好きなのかな。
ドアを3つくらい過ぎたところで窓を拭いているメイドさんに会った。
リアルメイド服だ。
メイドさんは俺に気がつくと深々と頭を下げた。
「こんにちは真白様。ご回復なされたんですね」
「こんにちは」
会ったことないのに俺のことわかるんだ。
「全快しました」
「それは良かったです」
にこっと微笑んだ顔は美しかった。
「あの、手伝ってもいいですか?」
「よろしいのですか?ではこちらを」
メイドは雑巾を渡してくれた。
「そちらからお願いします」
「はい」
学校は4月からだからあと半年くらいあるんだよな。
それまで俺は毎日寝てテレビ見て散歩して過ごすんだろうか。
......それいいな。
考え事をしていると時間はあっという間に過ぎる。
いつにまにか反対側から窓を拭いていたメイドさんとぶつかった。
「お疲れ様です。とても助かりました」
「いえいえ」
メイドさんと頭を下げあっていると、突然メイドさんが姿勢を正して会釈した。
「こんにちは緋宮様」
廊下の向こうから緋宮さんが歩いてきたのだ。
緋宮さんは俺の前で止まった。
「手伝ってくれてたの?」
「はい」
「ありがとう」
緋宮さんは優しく笑った。
素敵な笑顔だ。
そんなのを見てしまったら、言い出さずにはいられなかった。
「あの、俺にできることってありますか」
「何もしなくていい」
「でも働かざる者食うべからずなんで」
「そうしたら僕はなにも食べられなくなっちゃうな。身の回りのことをすべて他人に任せてるから」
「えと、や、でも緋宮さんはこの家の人だから当然」
「真白もだよ」
いや、確かに手続き上はそうだけど。
うーんと唸っていると緋宮さんはふふふ、と笑った。
「真白がやりたいならやればいい」
「あ、ありがとうございます」
「後で真白の仕事を伊賀君経由で伝えるよ」
「はい」
緋宮さんはじっと俺を見つめた。
柔らかな、優しい瞳だった。