白紙
半トーン下がったような、不気味なノイズの混じった蛍の光で目を覚ました。校内に残る生徒に下校を促す曲だ。
帰らないといけない。
机に突っ伏していた体を起こす。
目の前の黒板に白いチョークで書かれた文字を見てため息をつく。
『ヤッホー夏休み!!!』
クラスのおちゃらけ者の汚い字だった。
荷物を持って帰ろうとしたとき、机上に付箋が貼ってあるのに気づいた。
そこには『漫画借りパクすんなよ』と、書かれていた。
光だ。一週間前漫画の一巻目を借りたまま、忙しくて返せずにいた。まだ読んでもいない。
今日はバイトないし、読んじゃうか。
俺は付箋を鞄に入れると、教室を出た。
自宅に着くと丁度出掛ける母と入れ違うところだった。
母は44歳とは思えないほど若く、疲れが滲み出た小皺さえも愛嬌に変える美人顔だった。
「いってらっしゃい」
「うん。いってきます」
母を見送って、用意された夕飯を食べて、お風呂を済ませた。
自室に入ると学校で出された課題を開いた。
ノート一冊広げただけで埋まってしまう小さな机。その小さな机が場所を占領し、他にベッドしか置けない狭い部屋。
これが俺の部屋だった。
全体が歪んだ木造の建物である我が家はいくつかの部屋と部屋が、外と部屋が、無数の隙間と穴で繋がっている。電球が露になった電気がどこかから入ってくる風で揺れて、部屋全体が動いているかのように影が伸び縮みする。虫食いだらけの畳が肌を刺す。
切れかけの電球の下にノートを掲げて文字を読んで、課題を進めた。
「はーーー。終わった」
伸びをしてノートをしまう。
鞄の中に光から借りた漫画が見えた。
今日は疲れたから今度にしよう。
俺は窓の脇のベッドに入って目を瞑った。
また、どうってこともない一日が終わる。
目が覚めた。目覚まし時計を止めようと腕を伸ばす。
俺は起きるのが苦手なので毎晩必ず目覚まし時計をセットして寝る。
しかし伸ばした手の先には何もない。それに、いつも起きた瞬間から聞こえるはずの目覚ましのベルの音が聞こえない。
なんだかおかしい。おかしいと言えばこの感触はなんだ。
せんべいみたいな布団に寝ているはずなのにまるで干し草の上に寝転んでいるかのように背中がフカフカしている。
なんだ?なんなんだ?
なんだか頭に霧がかかったようにぼーっとする。
体を起こそうと手をついて頭を持ち上げた瞬間、猛烈な吐き気が胸からせり上がってきた。
「うっうええええええええええ」
同時に釘で刺されるような鋭い頭痛に襲われる。
なんだこれ。
脈拍に合わせて内側から圧迫するようにズギンズギンと頭が痛む。
急なことに思考が追い付かない。
とにかく助け呼ばないと。
そう思うのに激しい倦怠感で体が動かない。少しでも動こうとすると吐き気が沸き起こる。てか呼吸ができない。
気管支に煙が詰まったみたいだ。勝手に息が浅くなる。
痛い。苦しい。気持ち悪い。
俺、死ぬのか......。
「真白!?」
俺の名前......。誰。
声のした方に首を回す。
そこには見たこと無い顔があった。
だ、れ。
言葉にしたつもりだが声は出なかった。
視界がぼやけてよく見えないけど、その男の人は目を見開いて俺を凝視していた。
「僕のこと分からない?」
俺はその人のことを見たことがなかったので小さく頷いた。
その人は一瞬俯いたがすぐに別の質問をしてきた。
「自分の名前は?分かる?」
末代真白。
答えようとして、また声がでなかった。
なんで。
口を開ける。
「まっ」
おええ。
喉が開いた途端、堰を切ったように口からゲボが流れ出した。
むせた。
「ゲホッ、ゲホ。まぁし、ろ。っうぅ、まし、ろ」
なんとか言い終えたころには顔の回りは汚物の水溜まりになっていた。
つんと鼻をつく臭いがまとわりつく。
頬が冷たい。
「良かった。ごめん喋らせて。ゆっくり休んで」
どうなってんだろう。ここどこなんだろう。
気になるような、気にならないような。
この人に聞いたら全部分かる気がする。
でも俺は目を閉じた。
今は何もかもがどうでもいい。
次に目が覚めたのも多分同じ場所だ。
眼球だけ動かして部屋を見回す。
白を基調とした広い部屋だ。しかし病院ではない。
依然俺がなぜここにいて、どうなっているのか全くの謎だった。
またあの吐き気がやって来るんじゃないかと怖かったのでゆっくり体を起こした。
吐き気は起こらなかった。
身体中がまだムカムカするが、あの強烈な倦怠感や痛みや頭の霧は晴れていた。
そういえばシーツが変えられている。
改めて首を回すと、ベッドの傍らに置かれた棚の上の花瓶に花を挿している人がいた。
スーツみたいな服を着て、手には白い手袋をしている。
執事?
「あの」
あ、声も普通に出る。
呼び掛けると、その人はくるっと俺の方を向いた。
「あ!起きた!」
その人は犬歯を出して二ッと笑った。
「オレの記念すべき初仕事!早く緋宮さんに報告しないと!」
執事はポケットからスマホを取り出すと電話をかけた。
2回コールしたところで相手がでた。
「あ、緋宮さん?ご主人様が起きましたよ。はい。はーい。うっス」
執事は電話が済むとスマホをしまってまた俺を見た。
「初めまして!」
「どうも」
「ていってもオレは3日くらいずっとご主人様の寝顔見てたけど」
ご主人様って俺のことか。
「オレ伊賀臙脂です。ご主人様のお世話係りなんで、何でも言ってくださいね」
「はあ」
「緋宮さんがいる本邸からここまでは5分くらいかかりますからね。なんか間つなぎのお話でもしましょう」
そう言うと伊賀はベッド脇に置かれた椅子に座った。
「あのー。超お金持ちの緋宮家にこんな神待遇されてるご主人様って、緋宮さんのなにですか?」
「......さあ。俺緋宮さんて人知らないから」
「ええ?何ですかそれえ。まあオレも3日前に雇われたばっかなんで全然知らないけど。でもホント不思議なんですよね」
伊賀が腕を組んだ。
「オレこの近くに住んでるんですけど、急に3日前に求人募集出て、給料高いから即応募したんですよ。でその日の内に面接したんですけど。集団面接で。絶対こいつ採用だろうなーって人が一人いたんです。でも」
そこで伊賀は身を乗り出した。
よくしゃべる人だな。
「なんとオレが選ばれるじゃないですか!その人の動機、社会経験とか緋宮家を尊敬してるとかなんとか言ってたけどオレ給料高いからーだし。その人オレより円周率10桁も多く言えてたのに。そんでなんでオレなのかって考えてみたんです!んで分かりました。多分ご主人様と同い年だからです」
てことはこの人16歳か。
「その人60代のおっさんでしたからね!」
伊賀はまた犬歯が強調される目一杯歯の出た笑い方をした。
話が一区切りついたようなので質問してみた。
「あの、何で俺ここにいるの」
「そういうのは緋宮さんに聞いてください」
その時伊賀のポケットに入っていたスマホが振動した。
「あ、ほら来ますよ」
伊賀は立ち上がるとドアの傍らに立った。
すぐに足音がして、伊賀がドアを開けた。
入ってきたのは背が高く、端正な顔立ちをした男だった。
この人前に起きたときにいた人だ。
この人が緋宮さんか。
緋宮さんが入ると伊賀はドアを閉め、部屋の隅に姿勢正しく立った。
緋宮さんは立ったまま俺を見下ろした。
「どこまで覚えてる?」
「えと」
いきなり質問?聞きたいのはこっちなのに。
「君は意識を失う前何をしてた?」
しかし緋宮さんの堀の深い強い瞳に気圧された。
「えーっと、普通に、寝ました。あの、終業式の日で、明日から夏休みで。家に帰って仕事にいく母を見送って、夕飯食べて宿題やって風呂入って、普通に寝ました。それで気づいたらここにいたんですけど」
「そうか」
緋宮さんは長く息を吐くと、さっきまで伊賀が座っていた椅子に座った。
「僕は緋宮要。この家の家主の一人息子で、今は僕が管理してる。少し、驚くかもしれないけど、心して聞いて欲しい」
緋宮さんが俺の目を見据えた。
とんでもないことを言われるのだということがなんとなく分かった。
俺は頷く。
「君は夏休みの最終日に交通事故にあったんだ」
交通事故?
「君のお父さんが運転する車で、助手席にはお母さんも乗っていた。君たち家族3人はどこかに向かっている途中でトラックとぶつかった」
親父と母ちゃんと3人で出掛けた?
「そして、君の両親は亡くなった」
え......。
何言ってんだこの人。それが本当ならもう二人はいないってことで、俺は一人ってことで......。家は?学校は?金は?そうだ。
「借金。親父の借金は俺が払わなきゃいけないんですか?」
この人に聞くのはお門違いか。でも緋宮さんは頭が良さそうで、聞いたら何でも答えが返ってくる気がした。
緋宮さんは一瞬目を見開いたがすぐに口を開いた。
「その件なら大丈夫。お父さんの保険金で賄うことができたから」
保険金?初めて聞いた。親父が生命保険に入っていたなんて。しかも500万近い借金を返せるほどの額の。
どこかで読んだことのある話が頭に浮かんだ。
借金を返済するために取り立て人が債務者を保険に入れて自殺を促す、もしくは殺す、というものだ。
もしかしたらそういうのかもしれない。親父はいろんな人に恨みを買ってたし、それで殺されたのかもしれない。
「今は事故のショックで前後の記憶が混乱していると思うけど、僕は無理に思い出すことはないと思ってる。辛いことだと思うし」
そういえば夏休みの最終日に事故に遭ったってことは一ヶ月分の記憶が無いってことだ。......ちょっと待て。
「てことは今日何日ですか!?」
「9月4日」
「4日!嘘だろ......。留年確定だ」
俺は、あと一日欠席すると留年になると先生に勧告されていた。
「学校に行きたいならまた来年度入り直せばいい」
緋宮さんが柔らかい口調でいった。
「あ、でも俺これから学校なんていってる暇も金もなかった」
「それは問題ない。君は緋宮家が引き取ることにしたから。何も心配することはないよ」
「え?」
「僕は君の遠い親戚さ」
フッと微かに口角を上げる緋宮さんの笑顔は優しかった。
「手続きはもう済ませてある。君はこれからここで暮らすんだ」
緋宮さんが長くて綺麗な手を差し出した。
「これからよろしく。真白」
なんだか実感が湧かなかった。
俺は取り敢えず差し出された手を握った。
「よろしくお願いします」
緋宮さんは悲しそうに俺を見つめた。
哀れみなんて俺にはいらないのに。