第七章 私は何者か?
悟りコースが始まってから1年が経ち、天宮は13回目の研修会に参加している。教室にインストラクターの小森が入って来て話し始めた。
「皆さん、おはようございます。今日から2年目に入ります。そこで今日はこの1年間で皆さんが取組む課題を出します」と言うと、黒板に「私は何者か?」と書いた。「これがこれから1年間皆さんが取組む課題です。悟りとは真の自己を実際に体験することなのです。だから『私は何者か?』の答えが解った時、それは悟りが開けた時なのです。注意点はこの課題に頭で考えて答えを出しても、その答えが認められることは絶対にありません。マインドフルネスを実践する中で実際に体験したことの中から真の自己を見つけるのです。それからこの課題は自分一人で取り組んで下さい。決して他人に相談したり教えたりしないで下さい」とインストラクターの小森が説明した。
「悟りとは真の自己を実際に体験することだと今おっしゃいましたが、そうだとすると今現在自分だと思っている自分は間違いだということですか?」と天宮が質問した。
「いい質問です。その通りです。私達はこの肉体と心(自我意識)が自分だと思い込んでいます。しかしそれは本当は真の自己ではないのです。そのことは科学的にも証明されています。カリフォルニア大学サンフランシスコ校のリベット博士の実験で人が行動を起こすときに、行動しようと意識する0.35秒前に脳内には既に電気信号(運動準備電位)が発生している事が解りました。そして行動しようと意識してから0.2秒後に行動が起こります。この実験から解ることは行動しようと意識した時点では既に行動することが決まっていたという事です。つまり脳が架空の私が行動しようと意思決定したというストーリーをでっち上げているということです。そして、マインドフルネスを真剣に継続していると真の自己をはっきりと体験することができるようになります。この体験のことを覚醒体験と呼んでいます。禅でも全く同じ体験をします。禅では見性体験と呼んでいます」とインストラクターの小森は説明すると更に続けた。「では次にマインドフルネスを実践しながらどのように『私は何者か?』という問いに取り組むかについて説明します。『今ここ』で実際に体験していることをよく観てその体験の中から真の自己を見つけて下さい。ここで観ると言ったのは『ただ観る』という意味です。『ただ観る』ということは、例えば私が見ているといった普通の人達が当たり前だと思っていることも思ってはいけません。そういった常識的な判断も含めて一切の価値判断をしないで、ただ観た体験の中から見つけるのです。そして、その真の自己の探究を朝起きてから夜寝るまで途切れないようにずっと継続して下さい。このずっと継続することがとても大切ですから真剣に行って下さい。では、今から早速始めて下さい。今日の午後から個人面談室で一人づつ回答を聞かせてもらいます。それまでに真の自己を見つけて下さい。では今から45分間の呼吸を観察する瞑想を行います。呼吸を観察しながら真の自己を見つけてみて下さい」
呼吸を観察する瞑想が終わりインストラクターの小森が話し始めた。「はい、45分経ちました。瞑想を終わって下さい。真の自己を見つけることが出来た人はいますか?」
「…………」誰も答える者はいなかった。
「すぐに見つかる人は滅多にいないので安心して下さい。1年間の間に見つければよいのです」
「真の自己を見つけようと呼吸をただ観ていたのですが、やっぱりこの肉体が自分だとしか思えませんでした。見方が悪いのでしょうか?」と天宮が質問した。
「今、この肉体が自分だと言いましたが、本当にそうでしょうか? 天宮さんが呼吸瞑想中に実際に体験していたことを全て言葉にして言ってみて下さい」
「えーっと、机が見えていました。鼻から空気が入るのを感じていました。胸の膨らみを感じていました。鼻から空気が出ていくのを感じていました。心の中で1・2・3と呼吸を数えていました。背筋が真っ直ぐに伸びているとイメージしていました。おしりで椅子を感じていました。足の裏で床を感じていました」と天宮は答えた。
「今、鼻と胸と背筋とおしりと足の裏を体験していると話れくれましたが、天宮さんが自分だと言う肉体とは鼻と胸と背筋とおしりと足の裏だけのことですか?」
「そう言われれば体の他の部分は意識していませんでした」
「『今ここ』で実際に体験したことだけが事実であり、それ以外は頭で考えた妄想なのです。つまり天宮さんが自分だと思っていたイメージ通りの肉体は実際には一度も体験されたことはないのです」とインストラクターの小森が話すと、その内容に聞いていた受講生達皆が驚きざわめきが起こった。
「こういうものの見方をありのままをただ観ると言うのです。ではこれから1年間途切れることがないようにただ観るをずっと継続して下さい。ずっと継続することで必ず真の自己を見つける体験が訪れますから」
午後からは三十代くらいの女性のインストラクターが教室に入って来た。「インストラクターの小森は『私は何者か?』という課題に皆さんが正しく取組めているかを個人面談室で一人一人点検されます。そこで、午後からの瞑想の指導は私、立花が担当します。個人面談は一番前の列の右側の人から順番に左側にいき、一列目が終わったら二列目の右から左へと同様に繰り返します。個人面談の終わった人は静かに教室に戻って、前の人が戻って来たら次の人が行って下さい。それから、個人面談室で話した内容は絶対に他人には口外しないで下さい。課題の解決は自分だけで答えを見つけなければ意味がないからです。では個人面談と並行して45分間の呼吸を観察する瞑想を行います」
天宮の順番が来たので、静かに教室を出ると個人面談室の扉をノックした。
「どうぞ」と中から声がしたので天宮は扉を開けて室内に入った。
「天宮です。宜しくお願い致します」
「天宮さんは肉体が自分だとしか思えないとおっしゃっていましたが、その後はどうですか?」
「先生がイメージ通りの肉体は実際には一度も体験されたことがないという事は頭では理解できましたが、でも感じ方としてはあまり変わらないです」
「今はそれでいいのです。真剣にこの問題に取り組んでいるといずれ必ず真の自己に目覚める体験が訪れますから。それまでは例えば音を聞いたら、その音を聞いている私とは何者かを観察して下さい。本当にそんな者がいるのかどうかを決して途切れることがないように真剣に気合を入れて観察し続けて下さい。今はとにかく真の自己の探究が途切れないことだけに注意していればいいですよ」
「真の自己に目覚める体験というのはどういう体験なのですか?」
「体験ですから言葉で言い表すことは難しいのですが、一瞬で人生観が全く変わってしまう程の強烈な体験とだけ言っておきましょう」
「そんな強烈な体験がおこるのですか?」と驚いた天宮は更に質問した。
「そうです。それが悟りの体験であり、当研修センターでは覚醒体験と呼んでいます」