カメレオンダイアリー(夏純フェス投稿ほぼそのまま版)
第二回京都文学フリマに向けて改稿中。
2018年1月中旬まで公開しています。
ご意見いただけるとありがたいです。
『八月三十一日
道路でひかれたバッタを見た。
その薄いこげ茶か灰色かわからない羽がパタパタと手招きしてたから。
私はそっちにいかない。』
夏が来れば思い出すのは苦さや息苦しさだった。夏色の綺麗な空は遠くに見えるというけれど。
伶那の知る空は高層ビルに引っかかってすぐ近くにあった。
アイキャンフライ、と叫びながらその屋上から飛び出すことを妄想するくらいには、それはそれは近く。
故に。バッタがさせてくれた決意は尊い。
思春期の不安定な気持ちがクラスに引き込んだタール状の攻撃性は、標的を伶那に据えてあわよくば死んでしまえ、と言っていたのだった。
あわよくば、というのは非常に重要で、別に死ななくてもいいということだ。
目障りだ、程度の苛立ちに相応しい嫌がらせが待っていたその場所。
伶那をそうやって疎んでいたクラスメイト達はそれぞれの進路の先でもう、そんな事があったことすら忘れているだろう。何故、伶那だったのか。知りたくもないその発端は、いつか知りたいと思う日がきても解き明かされない。
そして、もしあの時、アイキャンフライ、を実行していたら。
不要な苦しみを味わうこともなく、煙になってすんなり空に行けていた筈だ。
実際は、そうならなかったのだけれど。
真実とかいう果実はとっくに腐り落ちた。
人を信じるのは苦しい。
苦しいけど生きてる。
それは矛盾していないかい。
空へ、という気持ちに苛まれる。
あの綺麗な色の向こうは呼吸がしやすいに違いない。
そう思うと、あっちを見る自分の喉の奥が苦しくなって、目に涙が滲んだ。
伶那は咄嗟に隙なく武装した指先を見つめた。
パールホワイトが部屋の窓から入ってくる夏の太陽に、白く煌めいていた。
『七月二十五日
今日、お兄ちゃんにノートを貰った。
嫌なことも良いことも、何でも書くといいって。
書くことは心の整理になるんだそうです。
イジメられたことも、それ以外のこともいっぱい書きたい。
そう言ったら、お兄ちゃんはうんうんって頷いた。』
大阪府枚方市には、伶那の伯母の家がある。
小学校六年生の夏休み前からイジメられるようになった伶那は、中学受験をして地元を離れ、大阪の伯母の元で暮らしていた。
現在四十半ばの伯母は、所謂キャリアウーマン。
気がついたら一般的な婚期を逃していた、と本人は言っているが、高校生の伶那でも知っているような企業で部長を任せられ、長く付き合っている恋人もいる。性格は母と姉妹だと思えないくらい豪胆。小さい頃から伶那の事を大事にしてくれていた人で、大阪の学校を受験しよう、と言う話になった時にも「うちにおいで、大歓迎よ」とわざわざそれだけ伝えるために、東京まで来てくれた。
その話に飛びついた理由は伯母が優しかっただけではない。とにかく苦しかったし、逃げ出したかったのだ。
行ってきます、の小さな声が誰もいない玄関ホールに消えた。
陽光が吹き抜けの天窓から散乱している。
もうすぐ夏休みに入る。
来年の大学受験を前に、伶那の学校ではほぼ高校のカリキュラムを終えて、受験の準備に入ろうとしているところだった。夏休みの課題は毎年膨大で、暇だ、などと思ったことがない。定期試験も終わった。京都市中心部では祇園祭が始まっている。七月中頃の今日、自宅近所の香里園駅に浴衣姿の人たちが入っていくのが見えた。
そういえば、近くなのに行ったことがなかった、と思う。関西のニュースでは六月頃から祇園祭のニュースが流れ始め、七月になるとほぼ毎日祭りの情報が入ってくる。
去年のこの時期。日記用のノートを持って東京からやってきた兄は、研究で忙しいのか少し痩せて見えた。学会のついでだと言っていたけれどその合間に、時間があるなら観光していけば、と勧めれば良かっただろうか。
兄が持ってくるノートは、日記帳ではない。一般に大学ノートと言われる、どこにでも売られているものだった。伶那より八歳も年上の兄はそれがなければ妹と会話すらするキッカケがつかめないのだろう。不器用な人だけれど、兄の心配は嬉しかった。そんな兄に気付いたのは、伶那が大阪に来てから迎えた最初の夏。大学二年の兄は夏休み前に伶那にメールを送り、ノートの残量を聞いてきた。そして青春18きっぷを使って関東からやってきたのだ。ノートを伶那に渡し、お互いの近況を報告しあった後、兄はまた列車に乗って山陽本線を西へと向かっていった。その列車を見送りながら、伶那はこれが兄なりのコミュニケーションなのだと確信した。
そうやって兄の事を考えていると、少し気が楽になった。
これから会わねばならない相手は、伶那のことを気遣ってくれた人だ。
それなのにカバンに入れた借り物のスポーツタオルは、鉛の重さ。
かなり憂鬱だった。
『四月二十三日
部活の練習試合があった。
なんでか、相手の中学の子に話しかけられた。
すごくとまどった。
私はベンチに座ってただけで、向こうは試合にも出てた。
話しかけられたのは、どんな練習してるのとか、連絡先交換しようとか。
変な子。
結局、連絡先は言わなかった。
ちょっと怖かった。』
京阪電鉄香里園駅の西側。
テナントビルに入っているコーヒーチェーンの店内で、千守織江は文庫本を読んでいた。彼女が好むのは専らミステリ。今手にしているのは本格派ミステリと言われる作家のもので、日本全国の橋を舞台に殺人劇が起きることで知られている。一冊の本で殺されるのは五人以上。彼の作品をほぼ全部読んでいるから間違いない。幾ら何でも死にすぎだろうと思う一方、妙な感情移入をしなくてすむところが好きだった。気分転換には丁度いい。
甘党の織江はアイスコーヒーにクリームをたっぷり乗せたものを注文する。それにキャラメルソース、シナモン。友達と来た時なら何も考えず同じものを機械的に注文するのだけど、今日逢う相手は自分が片想いしている人。愛しの彼女が見たら顔を顰めるかも。それより彼女の好みが分からない。嫌われたくはない。そういう、こんがらがった思考の末、待ち合わせに指定した時間よりもかなり早くやってきた。飲むものはそれでも、好みのものに決まっている。
すでにグラスの中は空になっていて、氷の残骸がクリームの余韻に崩れていた。
「千守さん、こんにちは」
その声に本から顔を上げると、加地伶那が向かいの椅子の横に立っていた。相変わらず混んでるね、ここ、と言う伶那は大阪ではあまり聞きなれない標準語だった。店内をぎこちなく見回す彼女のショートボブがふわり、と揺れた。
先日会った時は、揺れもしなかった髪の毛。学校が休みの時にはこういうメイクをするんだな、と雨の中で立っていた彼女の顔を思い出す。ラメ入りの甘酸っぱそうなアイシャドウ。唇はいつものリップクリーム、ではなさそうだ。うっすらピンクに色づいている。あの日も休日で、雨で少し崩れていたけれどこんな感じだった。
伶那の通う高校は校則が厳しい、と織江は思っている。対外試合で会う時の彼女は飾りっ気がない。紺色の部活のユニフォームがずらっと目の前に並ぶと、あまり違いがわからない。 その中で同じ服を着ているはずなのに、織江には伶那が特別に映っていた。
「コーヒー、頼んでくるね」
そう言って、伶那はショートボブの髪の先を少し弄った。パールホワイトの爪に髪先がするりと触れる。織江は彼女が無意識にするこの癖が好きだった。
「うん、待ってる」
そう言うと彼女はゆっくりと踵を返した。織江は伶那の着ているネイビー単色のワンピースの背を、そっと追った。膝裏がスカート裾からチラリと見えて、波間に見え隠れする細い魚を思わせる。
同じ高校生には見えないくらい大人びている伶那。
中学生のバスケの試合で彼女に一目惚れしてからその想いが消えることなく、気付けば四年が経っていた。
『六月十七日
長居植物園でバスケ部の知り合いに会った。
こっちは部活で知ってるだけなのに、すごい勢いで話しかけられてビックリした。
傘を忘れて気まずいところも見られた。
どうしたらいいのかわからない。
まだ怖いんだ、私。』
「先にタオル返すね、ありがとう」
グリーンのフローズンドリンクを横切って。
伶那は大きめのバッグから書店のロゴが入った紙袋を出した。
「風邪ひかなかった」
「うん、大丈夫だった。ありがとう」
受け取りながら、織江はさりげなく彼女の指を観察した。
紙袋を渡した伶那の手はそのまま彼女の膝上に戻ることなく、彼女が注文したドリンクのプラスチック容器に添えられた。 抹茶の薄い緑に白い指先がとても綺麗だと思う。
伶那はストローをくわえた。
ささやかにすぼまる唇。
プラスチック容器の水面が彼女の動作を追うように下がる。
伏せ目がちになって更に目立った伶那の睫毛の長さに、見惚れそうになる。
先月中頃、植物園でお天気雨に降られたとき、見頃を迎えた紫陽花畑の隅で偶然二人は会った。今までバスケ部の対外試合以外では見ることがなかった伶那の姿に、織江の目は釘付けになった。
先に気がついたのは織江の方だった。折りたたみ傘を広げてしばらくしてからの事。お天気雨の癖に細かい雨が容赦なく降って、その中で伶那が呆然と立っていた。空気中に漂う水分と橙の光でけぶった視界。青紫の紫陽花が怜奈の胸の高さで満開になっている。彼女の服は肩のところから濡れて、濃緑のカーディガンは色が変わっていた。それが紫陽花の葉っぱの色とそっくりで見逃しそうになったほど。
伶那の横顔が雨を疎んでいる様子もなくて、しばらく声をかけるのは躊躇われた。
景色が写真のように切り取られて、それから長々と、頭の中にぷかり、と浮かんでいた。
どれくらい時間が経過したか。思ったよりも雨が降り続いた。
意を決して、織江は伶那に声をかけて傘を差しかけた。伶那は驚いた表情を見せたけれど、傘の持ち主が織江だとわかると、ありがとう、と雨に溶けそうな声で言った。
それから小さな折りたたみ傘に二人でぎゅうぎゅうに入って、植物園の門の近くまで戻ってきた。入り口近くの情報センターで雨宿りをさせてもらい、織江はカバンに入っていたスポーツタオルを伶那に押し付けるようにして渡した。
身長がさほど変わらないせいで、自分の目の高さに彼女の焦げ茶の光彩が見える。
暫し戸惑う様子を見せたあと、伶那はおずおずとそれを受け取った。プライベートでは初めて見る彼女。その指先はネイルで綺麗にコーティングされていて、一歩退いた態度と共に織江を警戒しているように見えた。
受け取ってくれたことにホッとしつつも、顔が赤くなってないか、そしてタオルの渡し方は不自然じゃないだろうか、そんな自分の振舞いばっかりが気になっていた織江は、伶那の手が小刻みに震えているのには気付かない。
雨の向こう。東の空に薄く、雌雄の虹がかかっていた。
『七月十三日
明日、千守さんに会う。
千守さんには何もされていないのに、やっぱり怖い。
傘に入れてくれて、タオルも貸してくれたのに。
あの子たちとは違うのに。』
「近くまで来てくれてありがとう」
「ううん、ええんよ。ちょうどこっちに用事があったし。そういえば、加地さんのとこって試験終わった」
「うん、昨日までだったよ」
「へえ、うちんとこと一緒なんやな」
伶那は普通を装って会話ができることに、少し安堵した。
店の中は案外騒ついていて、コーヒーを作る機械の音が時折シューっと飛び込んでくる。静かだったらもっと緊張したかもしれない。
二人とも、六月で部活は引退していた。受験に向けての本格的な準備が始まろうとしている今。もう、この間みたいなことがなければ織江とは連絡を取ることはないだろう、と伶那は思ったが。
「加地さんって、東京から引っ越してきたってホンマ」
「そうだけど、どうして知ってるの」
「小学校ん時の友達が、加地さんの学校におるから。中学受験で離れたけど、今でも仲ええんよ、うちとその子と」
小学校ん時、という言葉に伶那はビクッとする。
へえ、そうなんだ、という声はガラス板みたいになった。簡単にヒビが入って破砕する。それに気付いた風もなく織江が喋り続けてくれたことには、密かに感謝した。昔の記憶が塞きとめることができないうちに記憶から漏れてきて、全然間に合わない。曖昧に相槌を打ちながら、今は大丈夫、もうあれから五年も経ったでしょう、と自分に言い聞かせている最中だった。
「でな、加地さん。明日、日曜やんか。予定空いてへん」
「明日は特に何もないけど」
そう答えてから、伶那は自分の失言に気付いた。あっと思った時には、目の前の織江は満面の笑みだった。
友達と祇園祭に行くことになった。
そう言うと、仕事帰りの伯母は着替えもそこそこに、彼女の浴衣を出してきてくれた。生成り地に赤い麻の葉柄、帯は濃い紫の七宝で、伶那は伯母に一時間くらい着付けを仕込まれて、なんとか一人で着られるようになった。
伶那の小学校時代を知っている伯母は、着付けを教えながら嬉しそうだった。伶那の気が進まない様子を理解しつつも、変われるきっかけになるといいわね、と。
待ち合わせは香里園駅の1,2番ホーム。緑と白の準急列車の前から二両目の一番前のドアのところに立っている、とメールで連絡があった。
萱島が最寄駅だと言う織江は、思ったよりも伶那の家に近いところに住んでいた。彼女が通う学校は通天閣近くだと記憶していたので、毎日半時間ほどかけて通学しているようだ。
改札をくぐって、浴衣の裾に気を配りながら階段を下りる。慣れない下駄に、ピンで留めただけの髪型。ピンの先には大きめのくるみボタン、その飾りが二個。
姿見で何度も確認したし、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせた。帯をキツく締めたのは少しでもしゃんと立っていたかったから。
ホームにゆっくりと入ってきた列車の、連絡通りの場所に織江が立っていた。藍色地に牡丹とその影が鹿の子絞りで鮮やかに抜かれている。涼しげな柄を締める帯はくすんだ芥子色。いつもは無造作に後ろで一つに括られている髪が、今日は三つ編みでアップにまとめられてサイドにはかんざしが揺れている。
手を振られて、振り返すのは何となく気恥ずかしい。
シューっと音がして電車の扉が開く。
「加地さんも、浴衣持ってたんやね」
「うん、伯母さんが貸してくれたの」
「へー、そうなんや。ああ、空いとるし座ろ」
昨日も感じたけれど、伶那は織江と喋るのは苦痛ではなかった。違う学校だというのもあるかもしれないが織江は、何となくだけれど彼女たちとは違う気がした。
京都までの車内は、今までになく心が落ち着いていた。
祇園四条駅で降りて地上への階段を登りきる。
午後四時前。七月の西に傾きかけた太陽の眩しさに後ろを振り向くと、南座の建物がどっしりと構えていた。鴨川に架かる橋を渡ってまず目指すのは四条烏丸の交差点。
織江は慣れているのか、京都の街ををスイスイと進み目指す方向へと一直線。
京都に来るのは去年の冬に大学見学に訪れた時以来。
テレビによく映っている四条河原町の交差点は、休日ということもあってたくさんの人がいた。その中でも浴衣姿の人が多くいるのは、今日が祇園祭の宵々山だからだろう。
最初にすぐ見えるから、と言われた長刀鉾は遠くからでもパッと見つけることができた。それを暫し眺めたあと、そこから数分西へ進んだところで細い道を北へ入った。
四条界隈には以前伯母ときたことがあるが、その時は縦横に整然と並んだ道のせいで、自分がどこにいるのか全くわからなかった。くるくる回っているうちに方角すら危うくなって、その道の隙間にポンと神社が埋まっていたりするから、びっくりしたことだけが記憶に鮮明だった。
昼間の山鉾町も祭りを見る人たちで混んでいた。
下から見上げる山の提灯や飾りは物珍しく、重厚な織物が飾られていたり、カマキリが乗っていたりと、伶那はあちこちキョロキョロと見回しながら歩いた。
織江は毎年祭りに来るみたいで、地図も見ないで案内してくれた。
同年代の女の子とこんな風にプライベートでお祭りを楽しむことができるなんて、奇跡のようだった。
そのせいで、少し浮かれていたのかもしれない。
まだまだ、陽の明るさの溶けない、沈黙した提灯の群れの中。
「加地さん、ねえ加地さんって」
手を引っ張る感覚がする。右を向くと真剣な表情の織江がいた。
人混みと提灯のうねり。屋台の煙とタレ独特のにおい。少し路面は傾いて見える。コンチキチン、という祇園祭独特のお囃子の波間から織江の声がする。こんなに近くにいるのに、その声は喧騒の折り重なった上から聞こえた。
「加地さん、顔色悪いけど。大丈夫」
そう言われて初めて、伶那は自分の吐き気に行き着いた。
気にしないようにしていたけれど頭痛と目眩もある。
「あ、うん、少し気持ち悪いかも」
ぼーっとした様子で答えると、織江は眉を寄せて伶那の右手をぎゅっと握った。
「ゆっくりでいいし、こっち。長刀鉾の交差点のもうちょい東にデパートがあるんやけど、そこで休も。そこまで頑張れる」
歩行者天国が始まる時間が近づいて、祇園祭へ向かう人の流れができている。それに逆らうように二人は手を繋いで四条通りを東へと向かった。
少し前を行く織江が、一分おきくらいに伶那を振り返る。
織江の焦ったような表情をみて、自分はそんなに調子が悪そうなのだろうか、と回らない頭で考えた。下駄の鼻緒が指の間に引っかかる感覚が薄い。
織江が振り返る回数を追えなくなってどれくらい経ったか。
彼女は伶那の手を引っ張ったままで商業ビルへ入っていった。
中は冷房が効いていて涼しい、と思ったのも一瞬のことだった。
襦袢にしみていた汗が冷房に冷やされて、一気に体温を奪いにくる。
その途端、空っぽの胃から何かがせり上がって来る気配がして、伶那はたまらず左手で口元を覆った。
「どしたん、気持ち悪い」
「ん、吐きそ」
「あかんやん、トイレいこ」
そう言い切る前に、既に織江の足は化粧室へ向いていた。
織江に引っ張られながら、とにかく、ここでだけは吐かないようにしないと、と伶那は必死で胃液を抑えていた。
運良く一階の化粧室は空いていた。
個室に二人で押し入って、鍵をかけるのとほぼ同時。
トイレの芳香剤の匂いに堪え切れなくなって、伶那は遂に吐いてしまった。さっきまで覚悟はしていたものの、伯母に借りた浴衣を汚してないか。織江の前で吐いてしまったことでまた嫌われるのではないか。そういう体調以外のことで頭が埋まってパニックに陥る。吐き気の隙間に東京で見たビルの屋上がフラッシュバックする。
目の前がぐらぐらしているのに綺麗に飛べるのだろうか。茶色に近い虹の奥底から、伶那に悪意を向けた人たちのシルエットが染み出してきた。
何度もえずきながら、その合間合間に出てくるのはごめんなさい、という言葉と涙だった。
「何言っとんの。浴衣着慣れてへんかったら、こういうこともあるよ。落ち着きって」
織江はそう言いながら、伶那の背中を撫で続けた。空いた方の手で長い袖を引きずらないように両方を纏めて持つ。
「一回帯緩めるで。加地さん締めすぎちゃうの、これって。うわ、腰紐きっつ。ようこれで今まで動けてたな。逆にすごいわ」
織江は緩めた帯の中に手を入れていたが、一回締め直した方がいいだろうと彼女の帯を完全に外してやった。ここが綺麗な場所でよかった、と思う。伶那の浴衣が汚れるのも、折角のお祭りなのに彼女の思い出が嫌なイメージで終わってしまうのも悲しい。織江は帯を丁寧に巻いて、洋式トイレのタンクの向こう側、少し広くなったところに置かれた巾着の隣に並べた。そして腰紐を緩めようとして、ようやく気付く。伶那の身体がまだ小刻みに震えていることに。
「千守さん、ごめんなさい」
顔を背けたままで伶那が何度も謝る。見ている方が辛くなるほど、か細い声で繰り返すので、伶那が反射的にそうしているのだと思った。
「ええって、そんなんよりこっち向ける。腰紐緩めよ」
織江はあえて軽く流した。
ゆっくり向き直った彼女の目は潤んでいて、歯を食いしばっているようにも見える。化粧をしているはずなのに何故顔色が悪いと思ったのか、織江は自分でも分からなかったが、コーヒーショップで会った時と何か違う、と思ったのだ。
伶那はまだ苦しそうで、キツく締めすぎた薄桃色の腰巻をうまく解けずにいる。その指に手を添えて、結び目を解くのを受け継ぐ。つるりとした感触。白く塗り固められた彼女の爪に拒否されている気もしたけれど、それは無視した。
二段になっている腰巻のうち、先に胸の方を緩め、次に胃の上に巻かれているのを緩めた。
「どう、まだ吐きそ」
織江が聞くと、伶那は弱々しく首を横に振った。その仕草に一度、ホンマに、と疑いの目を向けておくことも忘れない。なぜだか彼女は酷く遠慮していて、もしかしたらまだ無理をしているのではないか、と危惧したのだ。
彼女の背中を右手で撫でながら、左手で個室のパーテーションについた操作盤のスイッチを押す。トイレの水がすっかり流れるのを確認して、織江は便座の蓋を閉めた。
「とりあえず、ここ座って。落ち着いたら浴衣直そ。時間かけてええから。あ、トイレん中やけど水飲む。嫌やったら外出てからでもええけど」
「ううん、飲む」
うちが途中まで飲んでるやつやけど、と織江はミネラルウォーターのボトルの蓋を回し取って手渡した。伶那はそれを受け取って、しばらく浅く息を繰り返す。そしてきゅっと顎を上げて一口含むと、味わうようにして水を喉の奥に送り込んだ。
座った伶那をはからずも見下ろす構図になった織江は、自分の鼓動が速くなるのを自覚していた。さっきまでは彼女の吐き気に向かい合っていて必死だったけれど、それが通り過ぎると、狭い個室の中に二人きり、という現実が自分に降りかかる。応急処置で帯をとって腰紐を緩めた彼女の胸元が少しはだけかけて、コーリンベルトがなければ今度は自分の血圧が急上昇したのではないか、と思うくらいに。冷や汗で少し濡れた襦袢も、白い胸元も。
彼女の口が、自分が飲みさしにしたボトルにくっついた事実とか、飲み終わったあと、唇をちろり、と舌が這ったことだとか。
目のやり場に困って、織江は彼女からふいと目を逸らし、ピンクの床タイルの模様を作る溝を追う。
溝は迷路にもなっていない。自分の気持ちは今は、この溝のようにぐちゃぐちゃにあちこち交差している。伶那を心配しているのは嘘ではない。だけど、彼女のことが好きで仕方ない、これはチャンスなのでは、と思うのも紛れもなく本心。
どうしたものか、と何度も瞬きを繰り返した。
「あの、千守さん」
そんな不埒なことを考えていたからか、伶那に声をかけられた時、何、と返した声はひっくり返った。
「ごめんね、嫌な思いさせて。吐く手伝いなんて。本当にごめんなさい」
「そんなん謝らんでええよ。調子悪かったら仕方ないやん」
織江は、自分の気持ちを落ち着かせようとふーっと息をついた。汗で張り付いた前髪を手の甲で後ろに撫で付ける。
伶那は申し訳なさそうに俯き加減に視線を彷徨わせた。
「それはそうなんだけど、あの、私のこと嫌になったでしょう」
「は、なんで」
意味がわからなかった。言い澱む伶那。ペットボトルを握る手がまた、小刻みに震えている。織江は、彼女が調子が悪いせいで震えていると思っていたのだが、本当は。
「なあ、言いたくなかったら言わんでええねんけど、さっきもごめんって繰り返してたやん。あと今の嫌いになるって言ったんとか。なんかあったん」
「ううん、ただ嫌じゃないかなって。折角の祇園祭も誘ってもらったのに台無しにしちゃったし」
話終わる時は、消え入りそうな声になっていた。伶那はもう、織江の方を見ていない。
この感じ、覚えがある。
織江は自分の経験からなんとなく、伶那の怯えの原因に思い当たった。けれども、もし具体的なそれに怒りを向けるとするなら、その主役は伶那で自分ではない。
それよりも、嫌われたかもしれない、嫌われるかもしれない。という想像だけで先手を打って離れられるのは織江には耐えられなかった。
「な、こっち向いて。聞いて。うち加地さんのこと、めっちゃ好きなんやで。そやなかったら今日も誘ってへん」
「本当に」
「うん、キスしたいくらい好きやで」
するりと出た言葉は我ながら最悪だ、と思ったけれど間違いなく真剣だった。
織江がそういうと、伶那はしばし織江の方を見つめ、目をしぱしぱさせた。それからふっと表情を緩める。
「さっき吐いたばっかりなのに、無理でしょう」
「そんなことないって。試してみる」
「うん」
冗談だと思われていそうだと、分かってはいた。
けれど、伶那が頷いたと同時に織江の臍の下が急に熱くなった。
涙の跡が見える。
すっとした鼻筋。
ピンクの唇。
織江は少し屈んで自分の両膝を手で掴む。
その拍子にお尻が個室の扉に当たって金具がガチャっと音を立てた。
柔らかそうな伶那の唇に自分の唇を当てると、吐いたばかりの匂いが鼻につく。
それを追いかけて首を傾けた。
より一層深く混じる。
彼女の胃液の匂いにすら劣情を煽られて、織江は膝頭に爪を立てた。
お互い目は閉じなかった。織江と伶那の瞳同士がミリ単位の距離でしばし見つめ合う。熱と熱の間にある皮膚が溶けて血液が混ざり合う錯覚がしていた。
「冗談かと思った」
唇を離したあと開口一番伶那が口にしたのはそれで、織江はやっぱりと思いつつも、肩透かしを食らった気分になった。
「いやいやいや、冗談でキスしたいとか、いわんよ」
「関西の人特有の、ボケなのかと思ったの」
「ちょっとちょっと、加地さんの中で関西人って一体どんな風になっとんの、酷いわぁ」
思わず苦笑する。その直後、一気に気まずくなった。
「なあ、嫌やった、キス」
そう聞くと、伶那はううん、と首を横に振った。
彼女の震えは止まっていた。
今度はちゃんと気づけた。
『七月十五日
初めて祇園祭の宵々山に行った。
急に誘われたけど、すごく楽しかった。
色んな鉾とか山とか見れて、人がいっぱいいて、お囃子が幻想的で。
浴衣の帯を締めすぎて途中で気持ち悪くなって、織江に迷惑かけた。
また嫌われた、と思ったけど、そうじゃなかった。
なんて書いたらいいのかわからないけど、私は織江のことを友達だと思っていて、織江は私のことが好きで。
嬉しいんだけど、なんだか難しい。』
祭りからの帰りは、わざと準急に乗った。
ほぼ一駅一駅確実に捕まえて走る列車は、どこかで座れる。そして、おしゃべりには最適だった。
黄昏の終わり。窓から鱗粉を撒き散らすように、ガタンゴトンと揺れる列車は、藍色の街をゆっくりと進んでいく。
車窓に低い瓦屋根が映っては消える。
幾つかの駅を経て、漸く、ポツポツと底に沈んだ泥をスコップで丁寧に掬うことができるようになった。
伶那は初めて同年代の女の子に、小学生の時にイジメに遭っていたことを告白していた。
今でも女の子と喋る時には身構えてしまうこと。いつも嫌われるのではないかとビクビクしていること。バスケ部に入ったのは、そういう自分を少しでも変えたかったから。でも、そう簡単に傷ついた内面は元には戻らず、学校ではうまく自分を偽ることばかりに長けていった。
「イメージは保護色なの、カメレオンみたいな」
そうやって周りに同化するようにしておけば、少なくともいじめの対象になるのは避けられるのではないか、と考えたのだった。学校では一番流行っている髪型、制服の着こなし、そして不自然ではない仕草。勉強は出来すぎても出来なさ過ぎてもいけない。体育はできた方がいいし、クラスメートやバスケ部の部員同士の話も気をつかう。校外では、女の子の読む雑誌に近いメイクや服装をした。自分がそれを好きかどうか、そんなのは関係なかった。とにかく普通でいたかった。でも、普通って何。もしそう聞かれたら、答えられないことも分かっていた。
「普通かぁ。小学生の時って目立ってたからイジメられたん」
「わからないの。なんでそうなったのか」
ふーん、と織江は目を細めた。
「ほんで、進路どうするん」
「まだ、ハッキリとは決められてなくて。大学に見学にも行ってみたけれど、私の性格をどうにかする方が先なんじゃないかって思って」
「でも、もう二年やし、夏休み明けには決めんとまずいんちゃう」
「やっぱりそうかな」
きっぱり言われると、それはそれでキツイものがある。
伶那はうな垂れた。
勉強はできなくはない。目指すものができた時のための保険だったから、やるべきことはやっていた。
でも、目指すものがある人に比べれば、弱いことも分かっているつもりだった。
それがはっきりしたのは織江の事を聞いた時。
「うちは、医者になりたいんよね。せやから今の学校にしたん」
「それって、もう小学生の時には決めてたってこと」
織江が通う中高一貫の名門校は、並大抵の努力では受からない。彼女が小学校の時から目標を持っていたのだと思うと、消極的な自分が惨めになった。
「そそ。うちのじーちゃんが医者なんよ。親は違うけど、じーちゃんみたいな先生になりたいんや。ほら、うちの学校って国公立の医学部の進学率は高いやん。それで」
「すごいね、私、その頃なんて逃げるのに必死だったな」
「それでよかったんちゃう。うちは伶那が大阪に来てくれて、めっちゃ嬉しいし。実は一目惚れなんよね」
「え、いつ」
「中一の時の練習試合。覚えてない」
「覚えてる、っていうかあの時は大阪に来たばっかりで、学校以外に友達もいなかったからすごくびっくりしたの」
日記にもしっかり書き残している。
あの時には、織江がそんなことを考えていたなんて全然気がつかなかった。
「うち、これでも伶那の事好きになって五年目なんやで。せやから、付き合お。浮気とか絶対せーへんから。そんでめっちゃ大事にする、約束する」
「えっと、友達からじゃダメかな。私、今まで女の子と付き合うこととか考えたことなくって、織江の事嫌いじゃない。ううん、むしろ好きなんだけど、そういう好きじゃないっていうか、まだ考えられなくって」
約束する、という言葉がすごく嬉しかった。人を信じることは苦しい、と思っていたけれど、目の前のこの眩しい人は信じてもいいのではないのか、と揺れる伶那の前で
「それ、遠回しに断っとるよね」
織江は不服そうに口を尖らせた。
「あーあ。ゲロした口とチューするって、究極の愛やと思うんやけどなあ。あかんか」
そう、からかうように言われて、伶那は顔が熱くなるのを感じる。
「酷い」
「本当のことやし」
ニヤッと笑いながら織江は伶那にこてん、と頭を寄せてきた。
「そんでも好きやで」
「うん、ありがとう」
列車の揺れは二人が触れ合ったところに微かな摩擦を起こして、織江が確かに隣にいることを、伶那に教えてくれていた。
すっかり暗くなった列車の外が、窓に鮮やかだった。
『八月三十一日
明日から学校。
進路はまだ決め切ってないけど、夏休みの面談では先生に、頑張りなさいって励ましてもらった。
もう、この先のことをもっと真剣に考えようと思う。』
九月に入って、また東京から兄がやってくることになった。今度は岡山に用事があるらしくその途中で寄るという。
その約束の日。
入場券を買って、新幹線のホームまで兄を迎えに行く。
十分間隔でやってくる新幹線。兄が乗っている番号の新幹線の到着まではあと七分。
いつもは兄が一方的に喋るだけだった。
でも今回は伶那にも伝えたいことがいっぱいできた。
一番は、友達ができたこと。
そして、心配しないで、と。
ノートを渡してくれた日、何としても生きろ、辛かったら逃げた者勝ちだ、と何度も伝えてくれた兄。
本当にそのとおりだったよ、と兄に会う前日、伶那は一番新しいノートを抱きしめた。
一番最初のノートは涙でヨレヨレになっていて、今でもそれを捲るのは辛い。
でも、一番新しいノートも涙で濡れたけれど、この先何度も見直したくなるだろう。
兄が勧めてくれた日記帳は既に何冊も積み重なった。それらには、いいことも辛いことも、なんてことない日のことも記されている。
これからも続いていく日々のちょっとした変化は、手放されたカメレオン。
今日、伶那の爪には何も塗られてなくて、少し呼吸がしやすくなった。